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精神の充足量の最大化とはいったいどういう精神か
ひとの一生における精神の充足量の総和を最大化するということを目的とするのは いったいどういう精神であり どんな神経をしていたら そう考えるようになるのか? ただの功利主義のたわごとであると質問者には思われるのですが 果たしてどのようにみなさんはお考えでしょうか? 《お金と出世》をこよなく愛していながら ついぞその境遇にめぐまれず そのやぶれし夢をB面のぼやき節にしただけだと見るのですが 自由なご批判をお寄せください。
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それはブータン帰りのあの人の言ってることだろ。 ある意味正しい。 要は人間満足することが大事ってことだよ。 アホでもカスでもなんでも構わん。 要は満足することが大事って、そーゆー発想です。 人間賢くなると悩むから満足することはできません。 アホになれば悩むことは無いからカンタンに満足できます。 まあ、カンタンにゆーとそーゆーことです。 分かったか。
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- kohichiro
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批判というより感想ということで。 めずらしくぶラジュロンさんが感情を昂らせておられますが、如何されたのでしょうか。 >ひとの一生における精神の充足量の総和を最大化するということを目的とする 私自身は、常識的なことかなと思ったりしているのですが。 要は心満ちれば腹ふくるる心地す ということではないか、と思ったりするのですが、たしかに多くのひとはお金と出世、権力を得ることに汲々するのが特徴といえばそうなのですが、では何のために権力を欲するのか?と考えれば、それはそのひとによるのではありますまいか。 性欲がつよいひとは美女を得るために金と権力を使うでしょうし、自分の思想を社会に広めたい人は政治家になったり宗教家になったりします。それらは成功による利権をそういった方向へ自己を広げることで精神を充足させようかということであり、功利主義者もその一部ではあるでしょうが、全てではないだろうと思います。 ひょっとしてそれを行った人はそういうことを飛び越えて、心の充足を「はじめで終わりの目標」にする、そういうことではないのでしょうか。 >《お金と出世》をこよなく愛していながら ついぞその境遇にめぐまれず そのやぶれし夢をB面のぼやき節にしただけだと見るのですが そういう見方もあるのかもしれませんが、考えすぎじゃありませんかということで。
お礼
こういちろうさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ めずらしくぶラジュロンさんが感情を昂らせておられますが、如何されたのでしょうか。 ☆ うん。まあ。つまり そう(めづらしく)でもないんです。 つまりすでにわたしは瞬間湯沸かし器とも言われています。すぐ怒ります。 ただですね ただ 怒りをおぼえたほうが 論理はさえることがあるんです。 まぁ 脱線はそれくらいにしまして。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >ひとの一生における精神の充足量の総和を最大化するということを目的とする 私自身は、常識的なことかなと思ったりしているのですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。そうなんですか。 ううーん。それについての疑問: 1. ほんとうに量として心の満足を測れるのだろうか? 2. ほんとうに前もって《目的》としていますか? 結果として充足感を味わうのではないのですか? 3. 初めから目的として掲げていて なおかつ量として満足度が測れるとするならば それは やはり《お金や出世》といったかたちあるものになるのではないか? 4. そういう場合には 言いかえると ほかの人びともともにその達成度や充足感が同じ基準で測ることが出来るようなことだと思うのですが だとしたら それはいわゆる他律的な考えでありそれにもとづく行動なのではないか? ともうたがわれます。 5. よいわるいは別としても そういう性質の努力のあり方になるのではないか? つまり この精神の充足量の最大化を説くひとは 自律をも説いていて 他律などという行き方は 自己チューとともに蛇蝎のごとく嫌っていることだと了解されているのですから。 ★ それらは成功による利権をそういった方向へ自己を広げることで精神を充足させようかということであり、功利主義者もその一部ではあるでしょうが、全てではないだろうと思います。 ☆ あぁ。そういう場合というのは 精神の充足量の最大化という行き方が 言わば二段構えになっているのでしょうか。広い意味での仕事が 一段ロケットで成し遂げて さらにもう一段のロケット発射もありうる。ということのようなのですね。 というふうにうかがっても やはりその仕事をやり遂げることが 第一に来て そのあと結果として充足感を得る。といったあり方をじつはおっしゃっている。というように思えて来るんですけれどねぇ。 ★ ひょっとしてそれを行った人はそういうことを飛び越えて、心の充足を「はじめで終わりの目標」にする、そういうことではないのでしょうか。 ☆ ん? あぁ すでに初めにおいて さとっている。ということですか。 ううーん。ですから それならなお一層 充足感は 目的とするというよりは 結果として得るものだと言っているみたいな。・・・ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《お金と出世》をこよなく愛していながら ついぞその境遇にめぐまれず そのやぶれし夢をB面のぼやき節にしただけだと見るのですが そういう見方もあるのかもしれませんが、考えすぎじゃありませんかということで。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう場合は 考え過ぎが好きです。いろんな見方をしておくと おもしろいと思います。
- titelist1
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>功利主義のこと。 私は団塊世代ですので競争は激しかったです。競争に勝たねば出世できないと思っていました。そのような自分は利己主義者だと思っています。お金が有ると他人は言うことを聞いてくれますが、妻子は言うことを聞いてくれません。友達になりたい人も逆に離れてゆくことがあります。人の痛みが分らないことが原因で、妻に叱られるのです。 >この世は自分を見に来たところ この世に出てきた自分がどこまでやれるかを見てみたいと言う意味です。 >人は成りたいと思うところまでは成ることができます。 つまり結果論ではないのかとの指摘ですね。否定はしませんが、成りたいと思わねば成れないことは明らかです。成りたい思えば誰でも成れるとは限らないとも思います。ただ人によって成れる目標を決めるものです。一流の料理人に成れると思う人もいます。妻は私の能力について父親からもらった能力だから父親に感謝しなさいと言います。 >死にそうになった経験が今となっては精神の充足に役立っていると思っています。 10才で死んでいたのと、まだ健康で生きているとの差は歴然としています。生きているだけでも満足なのです。その意味では質ですが、量があればなおさら精神の充足になっています。充足の言葉のように量がないと満たされないと思っています。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >功利主義のこと。 私は団塊世代ですので競争は激しかったです。競争に勝たねば出世できないと思っていました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 社会が社会であった。と言えるほど環境や情況から行動を余儀なくされる部分はあったと考えられる。というところでしょうか。 わたしは 降りましたけれど。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ >この世は自分を見に来たところ この世に出てきた自分がどこまでやれるかを見てみたいと言う意味です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ。ちょっとひねってみれば――《自分で自分を見に来た》といったかたちで―― 分かりそうでしたね。 なるほど。それは 精神の質的な充足にかかわるように思われます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >人は成りたいと思うところまでは成ることができます。 つまり結果論ではないのかとの指摘ですね。否定はしませんが、成りたいと思わねば成れないことは明らかです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ はあぁ。そういうものですか。 ★ 成りたい思えば誰でも成れるとは限らないとも思います。 ☆ そうでしょうねぇ。 という意味は 成りたいと思わなかった場合にも 成れた・成ったという事例もあるのではないか。とは思っています。 ★ 生きているだけでも満足なのです。その意味では質ですが、量があればなおさら精神の充足になっています。充足の言葉のように量がないと満たされないと思っています。 ☆ なるほど。かたちあるもので はっきりする。といったところでしょうか。ただ思いの中だけではないのだというほうが すこやかなのでしょうか。 ただし だからと言って そのかたちがすべてだというわけでもないのではないか。かたちをとおして 質の問題として満ち足りると感じる。――いやぁ ちがうかな。 ありがとうございました。
- titelist1
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前の質問で馬が人参を沢山食べることと精神の充足は同じだと回答しました。人参と言う栄養はお金です。出世をしないとお金も貯まりません。さらに、お金を沢山持つとお金が全てではないことが実感できます。 精神の充足にはどのような精神であれば良いのかを私の経験談で回答します。子供の時に池に落ちて意識不明で助けられました。苦しいことがあるとそれを思い出したものです。今でもその夢を見ます。この世は自分を見に来たところと思い努力をしてきました。 人は成りたいと思うところまでは成ることができます。幸運にも大企業の役員になり、出身大学で客員教授として教鞭も取りました。天下り先の別企業でもまた役員をしました。退職金を2回も貰いました。 人生をぼやいたことはありません。妻に幸せな人だと言われます。子供の頃からお金の苦労をしたことがありません。そのために人の傷みが分らないことがあります。妻によく叱られます。親の死をきっかけに仏教に関心をもっています。死にそうになった経験が今となっては精神の充足に役立っていると思っています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ・・・さらに、お金を沢山持つとお金が全てではないことが実感できます。 ☆ ということは 功利主義を必ずしも採らないということになりますね。 むしろ 違うのだという結論になるのではないですか? しかも それだけではなく それはお金持ちになったあとで《実感》できたから そういう結論を得たというよりも じっさいには普通にそういうことは 事前にも分かっていたのではないでしょうか? ここで だから功利主義はダメだとかそんな思想はやめてしまえとかいったことを言うのではありません。 しっかりとした認識をまづは得ておきたい。そういう問題です。 ★ ・・・この世は自分を見に来たところと思い努力をしてきました。 ☆ これは 《自分を》ではなく《自分が》でしょうか? ちょっと意味が取れません。 ★ 人は成りたいと思うところまでは成ることができます。幸運にも大企業の役員になり、出身大学で客員教授として教鞭も取りました。天下り先の別企業でもまた役員をしました。退職金を2回も貰いました。 ☆ こういう事例を出されるのでしたら 問題は はっきりしています。 すなわち そういった《お金と出世》によって得られる《精神の充足量を・その一生における総和を最大化する》ことが 目的となるのか? です。 目的とした場合には 功利主義であるとなるのではないか? そういう認識の当否について尋ねています。 それとも そういった達成感や充足感は あくまで結果として得られたものであって 目の前のニンジンとしてチカラを注いで来たのではないであろうという認識の問題です。 ――つまりは確かにそういった地位や身分がかたちがあるものとして目の前の目標としてあったことはそのとおりだけれど その目標の達成による精神の充足量を最大化するためにチカラを注いで来たわけではない。と言えるか? です。 あと 試みにですが 尋ねてみます。: ★ ・・・死にそうになった経験が今となっては精神の充足に役立っていると思っています。 ☆ その充足は 量ですか? 質ですか? 量もあると思われますが その比重は どの程度でしょう?
- roureiJinn
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「一生における精神の充足量の総和を最大化することを目的とする」と述べるヒトが100人いて、100人とも同じ考えや心情、状況にあるとは思えません。 質問者さんが遭遇したヒト(?)について関心をお持ちならば、そのヒトの状況や他の言動を調べてはいかがでしょうか。 webで検索したところ、三件ほど似たメッセージがありました。 http://ameblo.jp/taichap-1129/ この方は、認識のあり方・認識性の発達促進を重要と考えているようです。『人の「生き方」には、認識性の発達(より深い認識的な目標の達成による充実感)や社会生命性の発達(社会的行動=助け合いによる喜びor社会的価値(お金や出世)の取得による喜び)といった、二次的な要因があり、人生を通算した“喜びの最大化”には、工夫が必要になります(短絡的な快楽主義には帰結しない)』 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1127419566 このpsytexさんは、意志の達成=充足の追及、意味・時間・空間/社会をまとめた視点を重視してます。 http://okwave.jp/qa/q8214866.html このpsytexさんは、ゲーム関連?の質問?で『私=幸せな世界であり、他人=私と真逆の世界にいる』のだろうかとの問いに対して、『あなたの生存は、世界中の人々の順調な営為によって成り立っている。どのような略奪も、どのような一人勝ちも、その持続性の欠如において、あなた自身の幸福の最大化に反する』と述べて、もたれ合い支え合い・空間面/時間面でも連続している社会が個人を活かしているという認識を示しています。 功利主義といえば功利主義的といえる解説をpsytexさんはしているように見えますが、他人に何かを説き勧めるときに功利的な話の展開をするのは非常にポピュラーな方法であり、個人への最終利得を一切説かないべき論はむしろ希であり、個人の最終利得は損なわれるがという説き方をしたのではせっかくの勧告・忠言も受け入れられなくなると思います。 「一生における精神の充足量の総和を最大化することを目的とする」と述べるヒトが100人いて、それは『《お金と出世》をこよなく愛していながらついぞその境遇にめぐまれず、そのやぶれし夢をB面のぼやき節にした』というケースは、おそらく10人にもならないだろうと思います。 芸術、スポーツ、研究などに人生の大半をつぎ込み、その期間は結構元気で充実しているように見えるヒトは多いです。その場合、結果、成果も気になっていることは間違いないですが、100人中90人以上は最高成績は出せないことも明らかで、最高成績や名声を上げるのは1割もいません。ですが、その芸術、スポーツ、研究などに集中出来、邁進したことに大いに精神的充足感、自己効力感を持っていたのは100人中99人にはなるでしょう。自己に満足しないヒトでも、充足感、自己効力感は感じるものです。事業家や通常のサラリーマンでも、事情は似ています。人生にそれなりに満足しているのは、自分の金と自分の地位肩書きそのものというよりは、自己効力感、邁進したことそのものにあることが多いと私は思います。 「ぼやき」は、「ぼやく」が名詞化して使われている言葉で、ぼやく行為(ぶつぶつ言う・ぐつぐつ言う・不平をならす)、ぶつぶつと独り言のように言う、愚痴、小言のようなものを指します。 「一生における精神の充足量の総和を最大化する」という発言は、ぼやきにはあまり向きな言葉ではないです。 破れし夢を繰り返し述べるという行為はあるでしょうが、この場合、悔恨と自負をまぜこぜにした表現が多く、多くの場合、過去の出来事の回想的話題の中ででて来ます。「一生における精神の充足量の総和を最大化する」という発言は、今後に向けた志向性を強調しているようなので、 破れし夢を繰り返し述べるという行為にはあまり適さないと思います。
お礼
そうですね。 まづは ご回答をありがとうございます。 先に まったく説得されませんでしたとはっきりとお伝えしたほうがよいでしょうね。 ★ ・・・個人の最終利得は損なわれるがという説き方をしたのではせっかくの勧告・忠言も受け入れられなくなると思います。 ☆ ということは《利得》の問題すなわち《功利主義》だということを物語ります。それ以外の解釈はむつかしいと思われます。 (つまり そういう考え方をするなという意味ではなく その内容は 功利主義として捉えられるという議論です)。 ★ 「一生における精神の充足量の総和を最大化することを目的とする」と述べるヒトが100人いて、それは『《お金と出世》をこよなく愛していながらついぞその境遇にめぐまれず、そのやぶれし夢をB面のぼやき節にした』というケースは、おそらく10人にもならないだろうと思います。 ☆ かまいません。《ひとりいた》という事実だけで この質問は成り立ちます。そういう問題だと考えています。 ★ ですが、その芸術、スポーツ、研究などに集中出来、邁進したことに大いに精神的充足感、自己効力感を持っていたのは100人中99人にはなるでしょう。 ☆ この質問で功利主義をわざわざ持ち出したことの意味は こういった・おそらくふつうに一般に受け容れられるようなご議論について さらに綿密に分析したいというねらいからです。 すなわち 《精神的充足感 自己効力感を持った》というのは ふつうに《わたしがわたしである》わたしが日から日へ一つひとつの課題に取り組みこれを成し遂げてゆく(または 出来るところまでやり遂げる)ことから来る結果である。ということ。これを言いたいためです。 そうでなければ ただの功利主義であり むしろその努力を怠ったかあるいは結果が出なかったかの場合のぼやき節への変身である。これを問うています。 なぜなら その《精神の充足量の人生における総和の最大化》を目的にするなら そうなるという理由です。結果としての内容が 初めに目的として掲げられた《エサ・釣り・人参》となっているからです。 ★ 人生にそれなりに満足しているのは、自分の金と自分の地位肩書きそのものというよりは、自己効力感、邁進したことそのものにあることが多いと私は思います。 ☆ おおむねおっしゃるとおりだと思います。ところが ここで批判しているのは 重ねて述べますが その結果としての内容を《充足量》と捉えしかもその量の最大化を目的としているという部分です。 ★ 「一生における精神の充足量の総和を最大化する」という発言は、ぼやきにはあまり向きな言葉ではないです。 ☆ 表向きはそうですよ。ただし では何で変な目的論が出て来るのか? と問えば 裏ではそのぼやきが出て来ている。こう解釈しないなら理解しえないでしょう。生まれつきの功利主義者というのは まづいないでしょう。 ★ 「一生における精神の充足量の総和を最大化する」という発言は、今後に向けた志向性を強調しているようなので、 / 破れし夢を繰り返し述べるという行為にはあまり適さないと思います。 ☆ それはおそらく 自分で発言しておきながら 自分自身がその功利主義者であるということをまだ知らないでいるからでしょう。気づいていないのです。 自己チューで他律によって生きる人間をなじり続けていますが じつはご本人がそうであるということ。それに気づかない。かまたはすでに気づいているのだけれど それをみとめたくないので ほかの人間を批判の対象としてそのなじり行為を延々としゃべり続けるという状態。これだと推し測られますが いかがでしょうか。
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お礼
相変わらず要らぬ脳みそがいっぱいのようですね。 ご回答をありがとうございます。 いいですか。 《精神の充足量の最大化を目的としている》場合にも そうしていない場合にも 何ごとかに満足することはあるのです。 質問は 前者について問うています。 分かりましたか?