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精神の充足というより 存在の自覚的確立ではないか
《精神の充足》というとき たしかに あのときの試練を乗り越えたその充足の度合いのほうが大きかったというように 比べることが出来るかも知れない。ゆえにそれは 量であるという見方が出されうる。 けれども それでは 単なる程度問題であると言われても仕方がない。 問題は 存在の自覚的確立にあるのではないか? 《わたしがわたしである》ことである。 《わたしがわたしであるわたしが わたしすること》である。 わたしは あやまちうる人間であって あやまつなら わたしに立ち帰ること である。 わたしが 一なら わが人生の実存は: 1 = 1 であり あやまつとき ( -1 ) x ( -1 )= 1 としてのように われに還る。かくしてこの自己還帰を繰り返しつつ ( 1 = 1 ) x 1 x 1 x ・・・ x 1= 1^n = 1 という姿を採るのが わたしの存在の動態である。のではないか。 さらに ここからは 根拠のない理論です。文学的な表現で表わすのみの主題(命題)です。 けっきょくわが存在の実存過程は その内なる領域においてユラギとして成っているらしい外なるこの身と心との存在 この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態になること ここに人生のおもしろさ・たのしさがあるのではないか? 人びとのよろこびとともに この世のいやというほどの悲惨な出来事をも このわが存在の内におさめている姿 おさめつつ一緒に――克服して――生きていく姿。これではないか?
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気を持ち直して 原始仏教がインチキ そこまでいわなくても虚構、フィクション、 マーヤーだったとして かといって、 水野弘元、宇井伯壽、この二人は曹洞宗だったかな? すると曹洞宗もいまいち信用できないし。 なんかこう、 ニヒリズムというやつですかね。 なにか無いのかなあ。 新しい世界観というか。
根本的な問題だけど もうたんに私を批判したいだけの人ばかりだから ネットに書き込まないのが一番か。 私が何を言っても、その反対を書きたい人だけ。 仏教徒が私を攻撃してきたから、こうなったのに。
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ぢゃあ どうぞ。 ご回答をありがとうございます。
この形而上学否定の仏陀の立場は、恰もカントが彼以前の哲学説としての唯物論や唯心論などをば、経験の彼方にある問題であるから、解決不能の形而上学であるとして、これを排斥したのに似ている。 カントが更に我々の経験の外にある物自体をも、その存在は想像したとしても、これに対する言明や研究を避けたのもそのためである。 『原始仏教』 水野弘元 著 サーラ叢書 100ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが仏教外の宗教や哲学では理論ための理論が多く、形而上学的な議論が横行していた。 釈尊はそれらを無記(avyākṛta,avyākata)とし、記述し解決することのできないものであるから取り扱うことを禁ぜられた。それは実践にまったく役立たないからでもあった。外教の形而上学的実体は具体性をもった永遠不滅の存在とされるものであって、仏教によれば具体的な不生不滅の存在は考えられない。 われわれの周囲にある具体的な存在はすべて生滅変化する有為法であるからである。 これはカントが本体の存在を認識不能として問題にしなかったのと同じい。 『仏教要語の基礎知識 新版』 水野弘元 春秋社 147ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ これはついで。朝日新聞の記事。 竹田青嗣さんと読む「純粋理性批判」(下) http://book.asahi.com/column/koten/TKY201107060238.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 本探すの面倒だったし、ネットでソースを確認できるほうがいいと思ったのに 本のほうの出典を書けみたいな。 水野弘元ですよ。同じい。とか書いてるでしょ。 最初読んだときは驚いた。仏教学者がそういってしまうのかと思って。 マガダ語の時もそうだったけど 水野弘元は問題ある人なのかな? 信頼してたのに。
お礼
ご回答をありがとうございます。 今回の情報にかんしては すべて 《非知・非経験の場・神》のことを知らないと申し上げねばなりません。 ▲ 唯心論と唯物論 ☆ この場合の《心と物》は 経験的なそれらではありません。 《非経験の場》としてのそれらです。 まづ物と心とは 経験事象としては 質料(ヒュレー / マター)と形相(エイドス / フォーム)です。 家は 建材という質料と その設計図のようなかたちである形相とから出来ている。そこでは 一体となっている。 ここから 観念として(形而上学において) 形相のない質料――第一質料――と 質料のない形相――第一形相――とをみちびきます。 この第一質料が 《物質》です。第一形相は 世界精神といった呼び名を与えられています。イデアと言ってもよいかも知れません。 そこで 世界は すべからく物質によって出来ており すべては 物質の自己運動として成っている。というのが 唯物論です。 早い話が 《非経験の場》つまり神を 物質だと呼んだというだけのことです。なぜなら 唯物論というときの物質は 形相がない。形相がないのなら 人間は いかにしても表象も思考も出来ないからです。 唯心論は ふつうの神学における神を 質料(モノ)といっさいつながらない形相だと説明しているに過ぎません。《精神》と呼んでも 生身の人間の身と心とが一体となったときの《心・精神》のことではない。身やモノとはいっさいつながらない精神つまりイデアあるいはつまり 物自体 のことです。 つまり 唯物論において第一起源とされている物質も 物自体と同じ想定によるものです。 つまりは 唯心論と唯物論とは まったくひとしい神論です。有神論と無神論とのことだと言ってよいはずです。 《非経験の場》は 非経験と想定しているからには 精神や観念としての形而上学とは何ら関係ありません。 ▲ ・・・記述し解決することのできないものであるから取り扱うことを禁ぜられた。 ☆ これは いわゆる不可知のことです。《非知》なる非経験の場のことを けっきょく知らなかった。 ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~ 非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神) _______________________ ↓ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▲ われわれの周囲にある具体的な存在はすべて生滅変化する有為法であるからである。 ☆ 無為法ないし法身は 《不生不滅》というよりも 《消滅変化するか否かが人間には分からない場》のことです。 ▲ これはカントが本体の存在を認識不能として問題にしなかったのと同じい。 ☆ 《認識不能》というのは 不能と知ったかぎりで 《不可知》という経験事象のことです。ですから 《物自体》とは別です。
以前に、 「人間ではない存在としてのキリストは可能か」 だったかという質問をしたことがあったのですが、 それと問題意識は共通していると思うけれど、 人間といっても、生物としての人間としてではなくて 観念的な人間です。 人間というものに、理性とか、凄いとかそういう 特別だという意識がある時代の産物。 ゴータマ・ブッダは生物的にヒトである。 ホモ・サピエンスである。 という話がしたいのではなくて 人間としてのゴータマ・ブッダ これに凄く違和感があるんですよ。 そんなに近代の人間を信じられるか? 私は信じられない。 だから人間、人間という中村元の思想に違和感がある。 なぜ、そこまで中村元はゴータマ・ブッダを人間にしたかったのか? という疑問すらでてくる。
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ご回答をありがとうございます。 ★ 人間といっても、生物としての人間としてではなくて / 観念的な人間です。 ☆ えっ? ホモ・サピエンスとしてのヒトと神 そのほかに 《観念としての人間》があるのですか? ――知らんなぁ。 人間イエスと神キリストのほかに あるんですか? ――とんと知りません。 ★ だから人間、人間という中村元の思想に違和感がある。 ☆ 初めて聞きました。知りませんでした。どういうことでしょう。
辟支仏 声聞 菩薩 ついでに 法華一乗 で、未だに争っているのに、 どの派閥に肩入れするのか、というのは、ばかばかしい気がしてきた。 それから 原始仏教とはなんだったのだろう? 壮大な虚構だったのだろうか? 近代になって作られた物語の気がする。 人間ゴータマ・ブッダとはなんだったのか。 なぜそこまでブッダは人間でなければならなかったのか。 それから 中村元の評価は、実際のところどうなんだろう? 私はだんだん中村元の思想に違和感を持つようになっているけれど それはともかく。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 中村元の評価は、実際のところどうなんだろう? ☆ よきたたき台として扱うのがよいと考えます。 ★ ブディズム ☆ というふうに一般的にあつかいますが 部分的にこれはよいという理論ないし思想をそれとして活用すればよい。と考えています。 ★ 人間ゴータマ・ブッダとはなんだったのか。 ☆ 《無梵無我一如》なる無神論を抱いたというひとつの線が取り出せると考えますが それにしても けっきょく何らかの神学的雰囲気を醸し出したというところでしょう。 その雰囲気から ブッダターの遍在(悉有仏性)なる神学がみちびかれて来たというのは かろうじての功績でしょうか。 どうでしょう。
中村向こうでは『カントと仏陀』という本がよく出るのです。それはなぜか。カントは「二律背反に陥るような形而上学的な問題を論じてはいけない。これは人間の認識能力の外にある」と言っています。同じことが初期の仏典にも出てきます。人間が論じてもしかたがないものが幾つかある。例えば、世界は有限であるか、無限であるかという問い。これは今日でも分からない。 宇宙が時間的にいつまで続くか。精神と身体は同一か別か。これも分からない。修行を完成した人の魂が死後も存在するかどうかについては、仏陀は全く答えませんでした。これらのことは、論議しても共通の認識に達することがない。それより人間はいかに正しく生きるべきかを明らかにする方が、仏陀の道だと説いた。これはカントの立場に近い。 飯塚恐ろしいほど似ています。特にカントの「無上命法」。これは仏陀の言う戒律の思想と同じですね。 中村同じ範疇――カテゴリーに属します。 http://dr.takeshi-iizuka.jp/message/v199011-04.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 瀬戸内寂聴 むつかしいカントの言葉をわかり易く親しみ易く訳してある。 カントの考えと釈迦の考えが余りにも同じなのでびっくり。 戦争絶対反対。命礼讃の思想こそ永遠である http://www.shueisha-cr.co.jp/CGI/book/detail.cgi/0007/ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ネットで出典を探すとなかなか見つからないけれど、 仏教の勉強をしていると ゴータマ・ブッダとカントは同じことを言っている という意見が結構出てくるのです。 これはなんでなんだろうとおもっていたのですが、 たしかに似ているような気もする。 仏教を近代化するにあたって ゴータマ・ブッダをカントにあてはめているのではないかな。 もしくは本当に同じことを考えたのか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ カントは「二律背反に陥るような形而上学的な問題を論じてはいけない。これは人間の認識能力の外にある」と言っています。 ☆ 不合理ないし非合理についても 哲学は それとして扱うのではないでしょうか。 ★ 人間が論じてもしかたがないものが幾つかある。例えば、世界は有限であるか、無限であるかという問い。これは今日でも分からない。 ☆ 非知については 想定によって扱います。無限は 二で割っても三で割っても 商は無限だという想定です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 飯塚:恐ろしいほど似ています。特にカントの「無上命法」。これは仏陀の言う戒律の思想と同じですね。 中村:同じ範疇――カテゴリーに属します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは もういまのわたしには分からなくなっています。すみません。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 仏教の勉強をしていると ゴータマ・ブッダとカントは同じことを言っている という意見が結構出てくるのです。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。カントは すっかり忘れています。済みません。
般若を理性の問題と考えると 般若波羅蜜多は理性の無駄? アンチノミーの話ではないか? いわば純粋「般若」批判が必要ではないか? この場合、悟性は識にあたるの? 疑問だらけ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 般若を理性の問題と考えると ☆ ではないと わたしは考えます。感性をもふくむでしょうし いわゆる境地であって 人格の全体・存在の全体にかかわると見るべきではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 般若波羅蜜多は理性の無駄? アンチノミーの話ではないか? ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ちょっと筋道が分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ いわば純粋「般若」批判が必要ではないか? この場合、悟性は識にあたるの? 疑問だらけ。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 次のご回答にて考えます。
仏教に詳しい人がそこらへんをどう考えているのか 知りたいところです。 私が今思いついたのは、 無いから、説明も想像もできない。 何しろ、無いから。 だからといって、無いわけではなくて だからこそ、ある。 かといって、あるのかといえば、無い。 というわけでもない。 こんなところでしょうか。 こんなのでいいのか? なんかおかしいですよね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ご自分で究めるか 究めたひとに尋ねるか。 ここに行き着きました。 あるいは 質問を挙げることも考えられますが。・・・
用語があやふやですが思いついたので。 反対の一致の思想をあてはめれば 完全な涅槃に入ったからこそ 久遠仏である ということになりませんか? 完全な無=完全な有。 でもこれ理論上はそうなるけれど それでいいのか? という話になるような。 そもそも「反対の一致」に無理があると批判されるかもしれないけれど、 神秘主義にはよくある考えですから。 困ったな。 一応、個人的に大乗仏教も説明がついてしまった。 でも問題があるような気がする。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~ 完全な涅槃に入ったからこそ 久遠仏である ということになりませんか? 完全な無=完全な有。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから ★ 涅槃 / 久遠仏 ☆ は何ぞや? につねにもどります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ でもこれ理論上はそうなるけれど それでいいのか? という話になるような。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 理論以前だと 思えてなりません。 ○ 【Q:コインキデンチア・オッポシトールム】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7336089.html ★ 反対物の一致 ☆ は けっきょく《神》の視点であると考えられます。 そう言ったときに・そう言えたあとに そのことは 人間から見て・人間にとっていったいどういう現実であるのか? をあらためて問わなければ 話は終わらないのではないでしょうか?
病気を苦に自殺したヴァッカリ比丘をゴータマ・ブッダは容認した。 ヴァッカリ比丘はきちんと涅槃に入った。 という話はさておき 無住処涅槃の考えをゴータマ・ブッダにあてはめると ゴータマ・ブッダは涅槃から戻ってくることになって 早い話が、生き返る、復活する可能性がありますから これは問題がある思想ではないでしょうか? ゴータマ・ブッダが涅槃から戻ってくるなんて そんなのあり? ゴータマ・ブッダの復活なんて話が出てこないなら 仏教徒ですら、涅槃から戻ってくるなんて考えていないような。 それに 無は有る、とか、有るは無い。 みたいな、いわば反対の一致の思想からすれば 涅槃に入ったからこそ、この世を肯定する なんてのはあたりまえの話になると思うけれど。 仏教に詳しい人に質問したいな。 ゴータマ・ブッダは涅槃から戻ってくるの?、と。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・涅槃から戻ってくることになって 早い話が、生き返る、復活する可能性がありますから これは問題がある思想ではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは どうですかね。 さとりを得たと宣言してからは その内容を人びとに伝えるかどうかの選択をするだけのことなのではないですか? ★ 生き返る、復活する可能性がありますから ☆ というのは まだ飲み込めていないのですが。 ★ ゴータマ・ブッダが涅槃から戻ってくるなんて / そんなのあり? ☆ 思うに そうぢゃなくて その涅槃への成道のあと――その状態がどうにかなるということではなく―― 転法輪に到るかどうかだけの話ではないのですか? 仮りに戻らないとしても そこで得た涅槃なる状態が消えるというわけではないはずです。 さもなければ・ここで疑問になるというのは 《涅槃》が単純に《死》だと捉えたことから来ているのでしょう。 戻る可能性があるというのなら その《涅槃=死》は もう呼吸をしなくなったというふつうの死ではないというだけのことでしょう。 陰の声:というよりも そういうああでもないこうではあるかといったあたまの中のカオスを死ぬまで演じつづけなさいというオシエなのではないでしょうか。そうすれば あなたも彼岸に到れますよと言っているのではありませんか? ペテンだって言ってるぢゃないですか。
お礼
意味がとれません。 ご投稿をありがとうございました。