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親鸞は出家を早まったのでは?

「明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」 とは、親鸞が9歳で出家する時に詠んだ有名な句で、 わたしもこれを知った時に非常に感動したのですが、 親鸞の一族の背景を調べてゆくうちに どうもこの出家は早まってしまったのでは?と 疑問を感じるようになりました。 親鸞は源氏と結びつきの強い日野氏に生まれて 平家が天下を取ったので、親が子の出世をあきらめて 1181年に出家しますが、1185年には壇ノ浦で平家が滅亡して 源氏の世になって、あと4~5年くらい辛抱してれば 別に出家しないでもよかったのではないでしょうか? となると、冒頭の句も、「嵐が吹いたのは、自分じゃなくて敵方で、 ちょっと出家を早まっちゃったね~」という感想になってきます。。

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

「平家が天下を取ったので,親が子の出世をあきらめて1181年に出家しますが」とされておられますが、親すなわち有範自身出家したとか親鸞4歳のときに死んだとかされていませんか。 日野一族云々で名家の系譜と言われすが、祖父の代に日野一族から除籍されているのではありませんか。 しかも日野家というのは当時は左程の官位でもなく権力も持ち合わせていなかったのではありませんか。 母親も義家の娘の吉光女とされていますが親鸞が出家する前の年に死んだと言われていませんか。 ご質問の中の親とはだれを指されておられますか。 親鸞の生涯は不明な点が多々あります。 親鸞が自分のことなど語らなかったせいもあります。 1181年の段階でなぜ四年後に伊勢平氏が壇ノ浦で滅亡すると予測できたとお考えですか。 出家する直前の1180年には頼朝は伊豆で挙兵に失敗して安房へ逃れています。 一説によれば親父の失脚出家の原因はこの頼朝敗走のトバッチリだともされています。 「あと4~5年くらい辛抱してれば」とありますが手勢も持たない素性も定かでない若造がどうやって頼朝の目に留まるとお考えですか。 親鸞に戦をするだけの技量があったとお考えですか。 義経も鞍馬寺で稚児として育てられています。 親鸞にその気と才能があれば、いつでも叡山の僧兵を引連れて参戦していたでしょう。 この間に頼朝は従兄の義仲、実弟の義経と相次いで肉親を制裁しています。 従兄の義仲を抹殺するのを実弟の義経にやらせています その義経でさえも、平家追討の一大功労者であるにも関わらず平泉で自害に追い込んでいます。 血筋といっても女系です。この程度の繋がりで、源氏の血筋だとかなんとか言って頼朝の前へノコノコでて行って命の保証があったとお考えですか。 血筋争い家督争いというのは簡単なものではありません。 洋の東西を問わず、権力闘争で真っ先に消されるのは同族肉親です。 本人がどうのこうのではなく、反対勢力が担ぎ上げるのを阻止するためです。 義経を抹殺したのも後白河法皇が手なずけようとしたからです。 姻戚関係で出世などというのは戦の無い平和な時代の宮廷でのお話です。 武家の権力闘争は武力闘争です。常に文字どおり命懸けです。 蛇足 親鸞は得度も叡山での扱いもエリート扱いです。 後に宗教家として大成するような人間に修羅の世界は全く興味がなかったのではありませんでしょうか。 権力を手にして栄耀栄華を手に入れることだけが人生の最高の生き方だと考える人間だけではありません。 世の中にはそれよりも他のことに価値観を持っている人は幾らでもいます。 釈迦も、王位も家族も投げ出して人生の矛盾を解こうとしました。

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