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大阪の陣で

豊臣方は何をどうしても勝ち目はなかったのでしょうか?

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noname#204885
noname#204885
回答No.6

徳川方にとっても決して楽な戦いではなかったと思います。 秀忠が総大将だったら、真田・後藤の軍勢に急襲されてぼこぼこにやられたあと、あっさり後方の伊達政宗に裏切られて全滅していたでしょう。六十三歳の老骨に鞭打って、具足も満足に着用できなくなっていた家康が睨みを利かせていたからこそ幕府軍も何とか統制を取れていたのが実情です。 一方の豊臣方は家康の首さえ取ればよかったのです。残った秀忠と秀頼の器量勝負になれば、秀頼の方に諸将がなびく可能性の方が高かったのではないでしょうか。当時の秀頼は一大名に過ぎなかったと言う説もありますが、あの状況で大坂方が五万人の浪人を集結させることができたのは、威信でも資金力でもまだまだ徳川に対抗できるだけの力があったことの証拠です。 従って、徳川方の勝利が確定したのは、真田信繁の最後の突撃をかわして家康が逃げ延び、豊臣方が総崩れとなった慶長二十年五月七日の午後三時過ぎではないかと考えます。すなわち大阪城落城の一時間前。ここでようやく決着がついた。 それにしても、家康は本当にいつの時も戦いを仕掛ける時期の見極めが見事だった。夏の陣の時には、家康の寿命はあと1年に迫っていたのです。豊臣との決戦のタイミングがこれより早くても遅くても危なかった。真に「天の時」を知る名将でした。その意味では、徳川が勝ったのは天命で、豊臣方にやはり勝ち目はなかったのでしょう。

naoki4865
質問者

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回答No.8

あったと思いますよ 現に真田幸村らの奮戦で勝てる一歩手前まで行ったわけだし ただ幸村の作戦は完璧だったが 毛利勝永が先走ったため 家康を挟み撃ちできなくなり勝機を逸しました それに最近の説では 家康は大阪の陣で戦死しているという話もあります もちろん事実だとしても今の徳川は認めないでしょうけど

naoki4865
質問者

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ありがとうございます。

回答No.7

篭城したら負けるのは当然でしょう。

naoki4865
質問者

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ありがとうございます。

  • nene-k
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回答No.5

江戸時代の紀州藩に仕えた軍学者宇佐美定祐が書いた『大坂御陣覚書』では、慶長二十年4月29日の樫井の戦いで豊臣方の足並みがそろわず、本来なら勝っていたかも知れない樫井の戦いに負けた事が、豊臣滅亡につながったとされています。 この戦いが決するまでは、熊野水軍を含む紀州一帯が豊臣方でしたが、この南部の戦いの敗北で紀州と分断され、指揮命令系統がズタズタになり、それまで豊臣一色だった地元住民が豊臣離れを起こし、徳川方が大坂城を射程圏内にできるほどの距離まで攻め込める結果となり、大坂方は籠城するしかなくなってしまったのだと思います。

naoki4865
質問者

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ありがとうございます。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.4

今なら豊臣に勝ち目が無いことが分っていたので、徳川家康が難癖をつけて大阪の陣を仕掛けたのです。家康は二条城で秀頼に接見させた時に彼の凛々しさに恐れたと伝えられています。自分が死んだ後に豊臣秀頼が成長すると、徳川家が臣下にされると思ったのです。

naoki4865
質問者

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ありがとうございます。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.3

勝ち目があったのは関ヶ原までです。 大阪の陣は豊臣の完全な殲滅(若しくは屈服)が目標でしたし、また其れが可能になってからの開戦ですから不可能です。 とは言え、真田幸村の様な武将を有効に使い切って、桶狭間を再現する可能性はゼロではありませんが。 しかし此の話は流動的な戦場に於いての絶対的な不文律を見出そうとするもので、そもそも不毛な会話になってしまいます。 かの謙信でも負け戦の経験はあります。

naoki4865
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • Key_A
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回答No.2

無意味でろくに報償も無かった朝鮮出兵に辟易し、ヨーロッパ勢の 脅威を実感している諸大名が欲しているのは、統一国家に他ならない。 したがって、指導力も無く秀吉時代を懐かしむしか能の無い者を 誰が護ろうと、そして主君に仰ごうとするだろうか。負けるべくして 負けた、そうとしか言えない。

naoki4865
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.1

>豊臣方は何をどうしても勝ち目はなかったのでしょうか? 所詮は戦などしたことのない、 女性や文官に牛耳られた豊臣方ですから、 負けるべくして負けました。 まともにやってれば、 もう少しやりようもあったでしょう。

naoki4865
質問者

お礼

ありがとうございます。

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