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大阪夏の陣冬の陣 に至るまでの流れを教えてください
大阪夏の陣冬の陣 に至るまでの流れを教えてください!だいたい夏の陣冬の陣って なんなんですか(´・_・`)?心の優しい方 簡単に教えてください
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- あずき なな(@azuki-7)
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1598年 豊臣秀吉が死ぬ 秀吉は天下一の実力者徳川家康に秀頼と豊臣家を託して亡くなる しかし家康にとっては天下取りの千載一遇のチャンス到来 そこで関ヶ原の戦いを起こし豊臣に勝利 しかし豊臣は滅びたわけではなく 65万石の大名家として存続 家康は天下人となりましたから当然豊臣家に「自分たちに従いなさい」と言いますが豊臣家の淀ばあさんがそれを拒否 当然 天下に従わないなら滅ぼしますよって事で家康は大阪に出陣 あくまで服従拒否の豊臣家は徹底抗戦を決意して 真田幸村、長宗我部盛親など関ヶ原で浪人となった武士を集めて戦う事を決意 これが大阪冬の陣です しかし冬の陣はにらみ合いを続けるだけで しびれを切らした家康が大阪城天守閣に大砲を打ち込み びびった淀さんが家康と和睦して終結 条件として浪人の解雇と大阪城の堀を埋めることだが 豊臣はひそかに浪人を増やし 堀の埋め立てをめぐって家康と対立 埋めた堀を掘り返す行為が戦闘準備だと家康が難癖を付けて 再び戦争が勃発 これが大阪夏の陣です
- technatama
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関ヶ原の合戦のことを、天下分け目の一戦だと呼び、この時点で家康が天下を取ったように一般的には理解されていることが多いと思いますが、そうではありません。 関ヶ原の合戦は、公式な家康の立場としては、あくまで豊臣政権(秀頼)の大老として謀反人を誅伐する戦でした。 しかし内実は、徳川政権の樹立を目指し、邪魔者を挑発して一挙に潰すための戦と言えます。 戦後の論功行賞にしても、実質は家康が決定してはいても、秀頼の権威の下でなされたわけです。 いずれは自分が覇者として天下に号令を出すべく、虎視眈々と狙っていた家康ですから、ゆくゆくは豊臣家を滅ぼそうと思っています。 一挙にはできないので、まず3年後に征夷大将軍の宣旨を受けます。 更に2年後には、子どもの秀忠に将軍職を譲ることで、徳川家が将軍職を世襲するという実績を作りました。 そのような実績を積み重ねておいて、徐々に豊臣家を追いつめていき、秀頼が再建を進めていた方広寺の大仏殿の梵鐘に刻んであった「国家安康」「君臣豊楽」の銘を、家康を分断し、豊臣を君として楽しむという意味だと難癖をつけるのです。 これを受けて大坂方は戦争へと傾いていきます。 そして慶長19(1614)年11月半ばから始まったのが「大坂冬の陣」です。冬期の戦だったからこう言います。 大坂城は難攻不落の名城でしたので、決着は付かず一旦は和睦交渉が成立。 その和睦条件として櫓の破却や堀を埋めることなどがありました。 豊臣方が担当することになっていた二の丸の堀さえ、徳川方が強行して埋めてしまったため、不満を持った豊臣方が再度の戦争準備に入ったのです。 すると、家康・秀忠は大坂攻めを指令し出陣しました。 4月末から、夏の陣の戦闘開始。大坂城は炎上し、秀頼と母親の淀殿が自害してこの戦は終了。 季節は夏であったため、「大坂夏の陣」と呼ばれます。