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穢(けが)れとは何か

《穢(けが)れ》について質問いたします。  1 穢れとは何か?  2 死は穢れなのか? であるならば、その理由は?  3 死穢(しえ)は禊(みそ)ぎ、水によって流せるのか? 流せるとすれば、その理由は?  4 なぜ、神社で神を拝む前に禊ぎをしなければならないのか?  5 穢れは伝染するのか?  6 こうした《穢れ》観の背景にあるものは何か、その理論的根拠は? 質問項目はすこし多いのですけれども、 《穢れ》がどのようなものであるのかを私が理解するためにどうしても欠かすことのできない項目なので、あえてそのまま列挙いたしました。 私の身勝手な希望としましては、6項目すべてに答えていただきたいのですけれども、 1項目でも構いません。 よろしくお願いします。

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回答No.53

こんばんは ねむ猫さん 「柳緑花紅」日本人には心地の良いことばです(笑い)

NemurinekoNya
質問者

お礼

柳緑花紅(りゅうりょくかこう)という和菓子もあるようです。 http://www.kaho-fukuoka.co.jp/saijiki/2003-03/ryuuryok.html 美しくて食べるのがもったいない!!(笑い) この言葉のもとになったのは  蘇東坡 『柳緑花紅真面目』 という漢詩。 ネットで現代語訳を見つけましたので http://kokoro-kotoba.seesaa.net/article/22779519.html いい詩ですね。 回答、ありがとうございました。

NemurinekoNya
質問者

補足

お寄せいただいた回答は、どれも様々な論点からこの問題に鋭く切り込んだもので、また同時に非常に示唆に富んだものばかりでしたので、 わたしにはその軽重をつけることができません。 ですから、 今回はベストアンサーをつけずにこの質問を閉じることにします。 そして、 わたしの拙い質問に回答をお寄せいただいた回答者の皆さんに、ここに深い感謝の念を表します。 皆さん、ありがとうございました。 今回も非常に勉強になりました。

その他の回答 (52)

回答No.52

 これは 侮辱だと受け取りました。

回答No.51

 こんばんは。  ☆☆ (回答No.48) ~~~~~~~~~~~~~~~  ところが:   すくわれるとか何とか そんなことはどうでもよい。  というのが 親鸞です。これが 神ながらの道だ。と大拙は言おうとしているようです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 論点です。密教や道教にありますか? です。  自然法爾≒無為自然 だとしても これは 論点にはなりません。  天地の初めが 混沌であろうがどうであろうが 論点にはしていません。

NemurinekoNya
質問者

お礼

☆すくわれるとか何とか そんなことはどうでもよい。 ◇道教はともかく、 老荘思想、特に『荘子』には、 超越者による救済という考えすらありません。 ~~~~~  子祀(しし)、子輿(しよ)、子犂(しり)、子来(しらい)の四人が話し合った。「無を頭、生が背骨、死が尻である人間、死と生、存と亡が一体であると悟った人間はいるだろうか、いれば喜んで友だちになりたいのだが」誰が言うとなく出たことばだが、皆は顔を合わせて笑い意気投合し、親友となった。  そのご、子輿が病気になった。見舞いに訪れた子祀に子輿が「造物者は偉大なものだな。見ろよ、俺の体をこのようにひん曲げてしまったよ」。  見ればひどい姿だ。背中は折れ曲がり、五臓は上に上がり、顎はへそよりも低く、肩は頭より高く、髪のもとどりは天を指している。「これは陰陽の気が乱れたんだ」そういう子輿はいかにも静かで動揺がない。  井戸端に出て水に姿を映し「なんとまあ、ひどくひん曲げたことだ」とつぶやく。「君もさすがにこれは嫌だろう」と子祀が言うと「嫌だろうって、とんでもない。この左腕が鶏のようになるなら、私は明け時を告げる係りにしてもらおう。右腕が弓のようになったら、ふくろうでも撃って焼鳥にしようではないか。尻が車輪のようになり、心が馬にでもなったら、それで馬車を仕立てよう。そうすれば馬車を雇う必要がなくなる。  生まれるべき時が来たら生まれ、死ぬべき時が来たら死ぬ。この定めに順応して従っておれば、喜怒哀楽の情も入り込む余地がない。これが古人の言った県解(けんかい・束縛を離れる)の境地だよ。人間がとかく自分を解放できないのは、生への執着で束縛されているからだ。外界の事物が自然の道理に勝てないのは昔からのことで、俺が嫌がることではないだろう」  程なく今度は子来が病気で危篤になった。苦しげにあえぎ、今にも死にそうな子来を囲んで妻子がなき悲しんでいるところへ子犂がやってきた。子犂は「静かに、離れなさい。死ぬ人を驚かせてはならない」といって妻子を遠ざけ、病床の子来に話しかけた。  「たいしたものだな、造物者は。今度は一体君をなににしようというのだろう。ねずみの肝か、虫の足か」。すると瀕死の子来が答えた「親の命令であれば、人は東西南北どこへでも行くじゃないか、ましてや天の命令はそれ以上のものだ。天が私を死なせようとしているのに、私がそれに従わないのはいけない。人間として五体を受けて生まれ、生を負うて苦しみ、老いを迎えて安らぎ、死を待って憩いにつく、これが人間の一生であるからには、生を善しとして認めるのと同じく、死をも善しとして認めなければならない。  たとえば鋳物師が銅を溶かして剣を作っているとき、銅があがいて「俺はどうしても鏌鋣の剣(ばくやのけん・伝説の名剣)に成りたい」とわめいてごらん、鋳物師はきっと「けしからぬ金属だ」と思うに違いない。  同じく人が「生まれ変わるにしても人間以外にはなりたくない」といえば、造物者は「けしからん人間だ」と腹を立てるに違いない。天地は大きな炉、造物者は鋳物師なのだ。どんな形に鋳なおされようと結構じゃないか」。子来はそのまま整然として眠り、大往生を遂げた。 http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/rousi_syaka/17_10daisousi2html.html ~~~~~~

回答No.50

 こんにちは。  ◇ (No.48お礼欄) ~~~~~~~~~~~  親鸞のこうした考え方の源流、根底にあるのは、老荘ですよ。  そして、  神道が道教(老荘)を母胎の一つとして生まれたことに帰着します。  老荘を日本的霊性とは呼べないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この認識がただしいとしましょう。  言いかえると 次のような認識のことです。:  ▽ (中国仏教が老荘思想の文脈での漢訳仏典の誤読の歴史とするならば)  http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/51809073.html  中国仏教らしい中国仏教が成立した天台智顗大師による天台宗の開宗から、華厳宗、浄土宗、禅宗を含めて、まったく仏教らしくない自称「仏教」の浄土真宗まで、東アジアの漢字文化圏の「仏教」は、すべて、本質は老荘思想で、それらはすべて「淮南子」の可能な解釈の試みである  親鸞聖人の思想と実践は、単に、東アジア特有の「淮南子」の一つの解釈の試みにすぎないとすれば、親鸞聖人の思想と実践にも、東洋思想の一翼を担う資格が当然に与えられる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしそうだとしますと この老荘思想を展開した(応用した?)のは 親鸞しかいなかった。となります。日本でほかにおらず 中国でも出なかった。  それでいいですよ。  玉にきずは 《淮南子》の思想内容を例示し得ていないところです。  コロンブスの卵です。いえ 本心は  タオイズムがなんのそのです。推論がとぼしいので 議論につかれました。これが 正直な心です。

NemurinekoNya
質問者

お礼

中国語原典でよければ『淮南子』は、 http://ctext.org/huainanzi/zh で読むことができます。 それで 俶真訓の  天地未剖,陰陽未判 が日本書紀の  古天地未剖、陰陽不分、 と同じだと。 陰陽ですから、中国の気の思想の影響を強く受けている。 日本書紀の創世神話は『淮南子』のパクリだと(ポリポリ)。 ですが、日本書紀の最初の話での注目は  狀如葦牙。便化爲神。號國常立尊。 ですね。 アシカビの神と思しき神がクニノトコタチのミコトで、原初の神となっている。

回答No.49

 ◇ ~~~~~~~~~~~~  この歌は  「大君は神だから、  雷の上の雲(宮中のたとえ)にいるんだなぁ~」  という天皇と御所をヨイショする歌だと思いますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ヨーニソ・マナシカ-ラで行きましょう。

回答No.48

 ◇ (No.44補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  《己身弥陀》とか《己心弥陀》とか何たらかんたら言っておりまして、  「この世界こそが密厳浄土だ」みたいなことを言っていたんじゃないかな。   覚鑁の文章で有名なのは『密厳院発露懺悔文』ですかね。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   行住坐臥(ぎょうじゅうざが)知ると知らざると犯す所の是の如くの無量の罪 今三宝に對して皆発露(ほつろ)し奉る   慈悲哀愍(じひあいみん)して消除せしめ賜え   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《入我我入》ですよね。このとき たとえば:  ▲ (アウグスティヌス:慈悲の問題) ~~~~~~~~   かの全能者は    最初の人(アダムとエワ)からであれ    その後に加えられたわたしたちの意志からであれ    わたしたちに起こっている悪を   その満ちあふれる恩恵によって   滅ぼしている。   (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳    cf. エペソ書2:1-10))  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という議論をも聞くことが出来ます。問題はいま こういうふうにふつうは《罪・悪の消滅》をめぐって慈悲がうたわれます。ところが:   すくわれるとか何とか そんなことはどうでもよい。  というのが 親鸞です。これが 神ながらの道だ。と大拙は言おうとしているようです。  仏教を縁として現われた日本的霊性の自己表現であるというわけです。仏教による影響から自由な立ち場なのです。  神仏習合 ちゃんちゃらおかしい。という意味です。どっちを《本》とするかその両方向の本地垂迹説も 及びではありません。  イリ歴史知性の真骨頂です。  《けがれ》についてなら とうぜん屁の河童です。  ですから 神ながらの道にあって ケガレは ハレのことか それともケなる生活日常に立ち戻るための或る種のハレ としてのたとえば休みを取りなさいと語っている病いなる状態か。これらを意味するのみであるはずです。

NemurinekoNya
質問者

お礼

親鸞のこうした考え方の源流、根底にあるのは、老荘ですよ。 http://crf.flib.u-fukui.ac.jp/dspace/bitstream/10461/3962/1/KJ00000198126.pdf http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/51809073.html http://ameblo.jp/sonosuji/entry-11473895103.html そして、 神道が道教(老荘)を母胎の一つとして生まれたことに帰着します。 老荘を日本的霊性とは呼べないでしょう。

回答No.47

   おほきみは神にしませば    あまくものいかづちのうへに    いほ(盧)らせるかも      (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番)  国家が 二階建ての構造としていよいよいわゆる中央集権制として国家たらんとして成ろうとするときに 詠まれたものです。その後 《現人神》といった思想も出ました。  さてこのうたは 何と言っているか?    人麻呂にしてみれば 世の中の空気は 神が人となって現われているのだということになってしまっている と見たようです。けれども そうだとしてもまづ問題になるのは そう(神)でない人である市民スサノヲらも この神となって現われているアマテラス(その子孫)とは じつは・じつに じつの姉と弟であるわけです。従って 人麻呂の心としては    なるほど神であれば いかづち山の上に住まいを持っておられる。   そうかな。そうかもね。  とうたっているだけです。その後の国文学などの定説においても これを大君讃歌と言い慣わしていますが どうしてどうして。ただ現実に立脚して 現実を見ている。それを認識している。のみです。  世の中のクウキにしたがって表現するところに おのれの批判精神をも織り込んだ。  《神ながらの道》 これは間違った使用に対して批判を自動的に発動する言い回しとして 使ってもかまわないのです。

NemurinekoNya
質問者

お礼

☆いほ(盧)らせるかも ◇この「かも」は、《詠嘆・感動》をあらわす終助詞の「かも」だと思います。 この歌は 「大君は神だから、 雷の上の雲(宮中のたとえ)にいるんだなぁ~」 という天皇と御所をヨイショする歌だと思いますよ。

回答No.46

 こんばんは。  それでは わたしからも《かむながらのみち》についてです。  《みち》をつけるのは おそらく変な感じなのでしょうね。でも 知性についてそのレベルで 《ひとのみち》と言うとすれば 霊性と言いますか信仰と言いますか あるいはつまり たましひのレベルでは 《かむながらのみち》になるのでしょうね。  どういういきさつで出来たかを一たん振り払って そういったかたちで中立の意味において用いる。ことは出来ると考えます。いま現在からの造語としてでもです。  ▲ (万葉 一・38) やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして ・・・(以下略) (幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌)  ▲ (一・39) 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも (幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌)反歌  ☆ これらは すめらみこと(天皇)としては出ておらず 《おほきみ》ですが たしかにそういう社会の情況に成るには いったん国家の成立といった事件があったことを前提としなければなりませんから この《神ながら》を安易に何にでも用いるのは いちおう注意が必要であるかと考えます。  けれども 次のように用いるときには 中立のかたちに(つまり 政治的な歴史の経緯から中立に)捉えてもよいのではないでしょうか?  ▲ (十三・3253) ~~~~~~~~~~  葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国  しかれども 言挙げぞ我がする   言幸く ま幸くませと   障みなく 幸くいまさば   荒礒波 ありても見むと   百重波 千重波しきに   言挙げす 我れは   (柿本朝臣人麻呂歌集歌曰)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神のまにまに言挙げせぬ国柄だけれど 友よ 達者で! と言うのだと。  ▲ (十七・4004) 立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ (敬和立山賦一首并二絶)  あとは 人の道という言い回しにならって 神ながらの道と規定する。とすれば 問題ないと考えます。   オニ・ソワ・キ・マリ・パンス。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 「神ながら」が使われている人麻呂のこの歌はまずいんじゃないですか。 この「神ながら」の意味は、「神を本質としている」、もしくは「神として」の意味です。 神道などでいわれる「かむながら(の道)」と意味が違います。 また、まさしく人麻呂の活躍した時期に「天皇の神格化」が行われたのであって、それが反映されたものと考えられます。 穿った見方をするならば、中国の皇帝は「天の子」であるので、これにならって、あるいはその対抗意識から「日の御子」なる言葉が生まれた可能性があります。 さらに、秀吉などはみずからの出自の卑しさを隠すために「日輪の子」とすら言い放ち、自身の神格化を図ろうとしました。 そもそも、天皇が(現人)神であるならば、「神として(神ながら)」振る舞う必要がない。「神さぶ(神らしくなる)」必要すらありません。 この歌では駄目だと考えますが、如何がでしょう。

回答No.45

くたびれたので、外野からの観戦のままでいますが、「神ながら」に関して、もしかして興味がおありかと思われる資料を見つけたので、お送りしておきます。 津田左右吉 「日本歴史の研究に於ける科学的態度」  これに似たことは、孝徳紀の詔勅に見える「惟神我子応治故寄」の「惟神」の語を「神ながら」と訓み、それによって「神ながらの道」というものが建国のはじめから我が国にあったというように説かれていることである。「惟神」は一つの語ではなく、「惟」は意義のない発語であり、「神」は「我が子しらさむとことよさしき」の語の主格となっているものであるのを、いつのころからか、こういう誤った訓みかたがせられている。もっとも「惟神」の二字は「神ながら」の語にあてられたのではないが「神ながら」という語は上代に用いられていて、天皇についていう場合には、それはこの政治的君主が現神(あきつかみ)といわれていることを示すものであった。しかし「神ながらの道」ということは、どの古典にも見えていない。「神ながら」はもともと道とすべきことではないから、これは実は意義をなさぬ語である。かかる語がエド時代の末期から世に現われたので、それは多分アツタネによってはじめていい出されたものらしい。(このことについては『上代日本の社会及び思想』と『日本の神道に於ける支那思想の要素』とに詳しく考えておいた。)もともと上代人の思想になかったことであるから、その意義として説かれることは一定せず、アツタネ及びその後の神道者・国学者によって思い思いの解釈が恣に加えられて来たが、近年に至って、この語が著しく神秘化せられると共に、世界に類のない日本特有の道であり、日本人はその道を世界に実現させねばならぬ、というようにさえいわれていたらしい。神秘化せられたのは、意義のない語を深い意義のあるもののごとく宣伝しようとするために、その意義が明かに説き得られないからでもあったろう。そこにこういうことを主張した宣伝者の態度が見える。

NemurinekoNya
質問者

お礼

No.46の回答に書いたお礼で、 奇しくも、 Tastenkastenさんを応援するような形になってしまいました(ポリポリ)。 回答、ありがとうございました。

回答No.44

 こんばんは。  わたしのこれまでの神と信仰についての説明が あやまった解釈を生むことがあるというように感じました。  非思考の庭に《非知》なる神を受け容れるというとき もともとそこに《神の霊(ルーアハ)≒アートマン≒ブッダター》が宿るということを想定しているとも言って来ました。  マチガイではないはずですが これだけでは あやまちへと導くことがありうると気づきました。  まづ 次のように述べられた内容は 基本的に言って 見解を同じくするところです。それを確認したあとに 問題点をあつかいます。:  ◇ (No.41お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   ☆☆ 仏教をきっかけとして イリ知性としての神道が みづからを現わしたと言っているようです。   ◇《入我我入》というわけで、密教はまさしくイリ知性でございます。   密教の行者にとって、自身の身体は、神仏のヨリシロです。   そして何より、   親鸞は、高野山とともに密教が盛んであった叡山で仏教を学んだという事実を忘れている。  ▼ (kotobank :入我我入) ~~~~~~~~~   http://kotobank.jp/word/%E5%85%A5%E6%88%91%E6%88%91%E5%85%A5  大辞林 第三版の解説  【にゅうががにゅう】  〘仏〙 密教の観法で,如来の身・口・意の三つのはたらきが自分の中にはいりこむと同時に,自分の身・口・意のはたらきが如来の中にはいり込み,両者が一体となること。また,そのように観ずること。三平等観。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おおよそ《自性清浄心》を内容とする梵我一如のかたちとして 信仰の普遍的な類型であると言って来たところです。  ところが 親鸞の場合には  そういった《かたち》に落ち着くと見てもいるのですが それと同時にさらにとうとばれてしかるべき独自性があります。  ▼ (鈴木大拙:親鸞の独自性〔前掲文章・第三段落〕) ~~~~  どの点がそうかというに 親鸞は罪業からの解脱を説かぬ すなわち因果の繋縛からの自由を説かぬ。  それはこの存在――現世的・相関的・業苦的存在をそのままにして 弥陀の絶対的本願力のはたらきにいっさいをまかせるというのである。そうしてここに弥陀なる絶対者と親鸞一人との関係を体認するのである。  絶対者の大悲は 善悪是非を超越するのであるから こっちからの小さき思量 小さき善悪の行為などでは それに到達すべくもないのである。  ただこの身の所有と考えられるあらゆるものを 捨てようとも 留保しようとも思わず 自然法爾にして大悲の光被を受けるのである。  これが日本的霊性の上における神ながらの自覚にほかならぬのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいはつまり:  ▲ (歎異抄) 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。  ☆ このあと 自分は法然のおおせに従うということと それが如来の本願に拠って支えられているゆえ 空しくはなかろうと言っていますが 《総じてもって存知せざるなり》と言い切っています。こう言い切って生きる信仰の中身です。  つまり ブッダターが宿るとか自性清浄心なのだとか そんな《うつくしいこと 耳に聞こえのよいこと》は自分は知らないと言ってあゆむ信仰動態なのです。  これが 言ってみれば――インド・中国そして日本のどの・誰の説にもなかったところの 言ってみれば――《日本的霊性》がやっと初めて 自己表現を取ったものではないか? と大拙は言いたいのだと思います。  ミマキイリヒコおよびオホタタネコの《ネコ‐ヒコ》連関なる《イリ歴史知性》が 三百年ごろ それ以前の三世紀における卑弥呼や台与の鬼道ないしヨリ原始心性を卒業するようにしてともかく顔を表わしたそのあとやっと初めて こんどは自己表現を取ったのだと。千年弱の年月が経っていました。  《世界‐内‐存在》が姿を現わしたとも言えましょうし 《実存》の思想が完成したとも言えましょう。  アートマンをその自然本性の内にやどすといった《本質》(または本質論)に 《実存》は先立つのだと言っているはずです。その本質論がマチガイだというわけではないとしてもです。  《密教》が これをよく表現しえたでしょうか? いろんな説や派があるでしょうから 知らないものがあるかも知れませんが。  この点 よろしくどうぞ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

仏教でいう「如理作意(yoniso manasikara)」を、 親鸞は「弥陀仏の御誓ひ」と言っているにすぎないと考えます。

NemurinekoNya
質問者

補足

密教ですと、覚鑁(興教大師)がおりますかね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81 ウィキペディアの最後に  宮坂宥勝は「鎌倉仏教全てを包摂した」としている。 と書いておりますが、たぶん、そうなんでしょう。 一般の知名度は低いですが、すごい大物ですよ、覚鑁は。 鎌倉仏教の祖師たちの文章とは異なり、真言の学僧の書く文章は超難解で───思うに空海以来の伝統ではなかろうか───、専門家じゃないと、そこに何が書いてあるか、分からない(ポリポリ)。 《己身弥陀》とか《己心弥陀》とか何たらかんたら言っておりまして、 「この世界こそが密厳浄土だ」みたいなことを言っていたんじゃないかな。 覚鑁の文章で有名なのは『密厳院発露懺悔文』ですかね。 ~~~~~~ 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)知ると知らざると犯す所の是の如くの無量の罪 今三宝に對して皆発露(ほつろ)し奉る 慈悲哀愍(じひあいみん)して消除せしめ賜え http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E5%8E%B3%E9%99%A2%E7%99%BA%E9%9C%B2%E6%87%BA%E6%82%94%E6%96%87 ~~~~~~

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.43

こんばんは ねむ猫さん 古代人の自然崇拝、万物に精霊が宿るという考えは、自然の周期的な復活、再生によってもたらせられたようです。 太陽や月の運動が潮の満ち引きに関わり、女性の月経、妊娠、出産と繋がり、女性を神秘的な対象として捉えたのでしょう。 日本には四季があります、秋の収穫による恵みは喜びであり、春の芽生えは生きる喜びであります。 しかし、実りなき冬は死の恐怖に脅かされ、古代人は蓄えた食料が底をつかないようにして、じっと耐えて春の訪れを待ったのだと思います。 古代人は、共同体で自然への畏れ、感謝、喜びを祭りとしました。 冬のじっとしている状態は、太陽の日差しが少なくなることです。月の運動は女性の月経、妊娠、出産に関係します。 天の岩戸でアマテラスが隠れたお話に繋がります。 稗田阿礼と太朝臣安萬侶は古代の部族の祭りを神話として「古事記」に書いた。 天皇が神となったことで、大嘗祭、鎮魂祭(タマシズメ、タマフリ)の儀式が行われるようになった。 穢れとは何か? 穢れ(けがれ)とは、時間・空間・物体・身体・行為などが、理想ではない状態・性質になっていることを表す神道の宗教概念である。 自然の周期的な復活、再生と照らし合わせて考えると、(冬に太陽が隠れるけれど春は訪れる、住んでいる場所を綺麗に保つ、食料を確保する、病気にならないようにする、共同体を健全に保つ) 時間・空間・物体・身体・行為などが、理想ではない状態・性質を大祓詞やアマテラスの子孫の天皇が大嘗祭、鎮魂祭を行うことで復活、再生することです。 死穢とは? 魂が体内から離れている状態では? ちんこんさい【鎮魂祭】 〈たましずめのまつり〉〈たまふりのまつり〉ともいう。身体から遊離する魂(たましい)を体内に鎮める神事。身体から遊離した魂を体内に鎮めるのを〈たましずめ〉,体内で静止した魂を振りおこして活動させようとする作用を〈たまふり〉という。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんはです。 ☆太陽や月の運動が潮の満ち引きに関わり、女性の月経、妊娠、出産と繋がり、女性を神秘的な対象として捉えたのでしょう。 ◇月を女神と考えるところは多いですよね。 シュメルのナンナ、インドのソーマ、ギリシアのセレネーなどなど。 日本では、月の神様はツクヨミですけれど、これは『月を読む(ヒト)』の意味で、ツクヨミを月の神様と考えてはいけないのでしょうね、きっと。 ☆しかし、実りなき冬は死の恐怖に脅かされ、古代人は蓄えた食料が底をつかないようにして、じっと耐えて春の訪れを待ったのだと思います。 ◇ハロウィーンやクリスマス(冬至のお祭り)と同じ関係があるのかもしれませんね。 ハロウィーンといえばカボチャのお化け・ジャックランタンですけれど、 日本では冬至にカボチャを食べますね♪ ☆穢れとは何か? 穢れ(けがれ)とは、時間・空間・物体・身体・行為などが、理想ではない状態・性質になっていることを表す神道の宗教概念である。 ◇なるほど、なるほど。 回答、ありがとうございました。

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