仏教の生死観は、肉体の消失をどう解釈するのか
挨拶がめんどくさい。
仮面ライダーもプリキュアも抜きだ。
釈迦の言った、「私は涅槃に行く」これはすなわち精神の永遠の安住の地に私は行くと言ったという意味で、それを語った釈迦は生前からその精神の永遠の安住を実感していた。
そして、そうはいかない君達は心安らぐまで何度でも死を体験する。
これは闇の仏陀たる私自身の心境を釈迦の故事とかさねた私の見解だ。
さて、そこいらに転がる君たちブタの生死観に、人間として死ねば死後は仏陀に転生する。
すなわち死ねば仏だ。
これが日本の仏教の風土だよね。
これは、人間が死ねば神に昇華すると言う神道の風土と変わりない。
口伝で釈迦の言葉を伝承したインドの風土では、釈迦は涅槃という安息を見たが、継承した弟子たちはヒンズー教の原点を精神の拠り所としているため、人間が死ねば、やがて人間として転生すると考えていた。
すなわち、死ねば仏になると言う過程が無く、
死ねば死にっぱなしで、再び肉体を得ることで転生する。
東南アジアなどの伝承もこのパターンだよね。
闇の仏陀の私は、肉体の生滅に関わりなく永遠の命を自覚している。
涅槃だ。
君達は私のブタで、仏教の源流よりも死ねば仏として、死としての転生が有り新たな命となると考えている。
これ自体が、死は儀式で肉体は滅びても心は生き続けると言う日本の風土だ。
仏教文化花盛りだが、これはすでに仏教ではなく、神道における人間としての生の考察だ。
死ねば神を自覚すると言う信仰の源流は永遠の命の自覚にある。
すなわち君達の信仰心の源流は神道で、現在もてはやされる西洋哲学と同じ意味の文化を、昔々仏教として輸入したにすぎないのだ。
ところで私にとって、アマテラスさんと言えば「俺様にとって都合のいい女」ただそれだけに過ぎない。
さて今回の考察で、君たち猥褻物陳列の専門家にお聞きしたいのは、日本の仏教における生死観はヒンズー教と同根のアジアの生死観の中でも特異な日本の独自性を発揮しているのではないか?
まあそんなところです。
ユニーク極まりない生死観の猥褻物サンプル調査になる回答も歓迎です。
死ねばどうなると言うより。
あなたはどんなふうに死にたいですか?
死後に神に昇華する。「死は肉体のみで生命は永遠」
死んだら仏になる。「死ねば死者として死者の国に住む」
肉体が消滅すれば、やがて新しい肉体を手に入れる。「死ねば終わり、実のところ転生も科学技術次第だ」
ご要望通りの死に様に合わせて、親切で官能的なアニキなツンデレをブチかましましょう。
V字開脚という敗北の証が、君達の死の儀式です。
お礼
ご回答ありがとうございました。 生き埋めにする理由がちゃんとあったんですね! 何故苦しい方法を取るのだろうと不思議でしたが、長年の謎が解けました。