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《押しつけはいけない》は押しつけではないか?
どうでしょう? 自分の意見を他人に押しつけてはいけないという意見を表明することは 押しつけではないですか?
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ラッセルとか出てくると、発言したくなっちゃうんですよね(^^;)。 ラッセルのパラドックスの数学的証明自体は、至極簡単です。#7さんの言った手順の通りです。ただちょっと普通の証明にはない違和感があり、高尚な哲学問題と見られがちだが(←本当にそうなのかも知れないが)、技術屋として言わせてもらうと、ここでも意味論と構文論が衝突してるだけだ。そんな事例は現実世界にはごまんとある。 自分も、押しつけになるかならないかは、実際には文脈(メタ理論)によると思います。ラッセルのクラス理論も実際には、数学として明文化されないメタ理論の発想が先にあり、いわば押しつけになるケースとならないケースを、論理学の理論構成として区別した訳です。ただし区別出来ただけで、その区別が現実の文脈とどう関わるのかなどは考慮の埒外だし、逆にどう関連付ければ良いのかを、本気で研究した人もいない。きっとみんな、クラス理論を読んだ(聞いた)瞬間に、現実とは、ほとんど関わりないと思ったからでしょう。 この前も言ったように自分は、このような抽象理論を現実の文脈と強引に関連付ける事については、すごく懐疑的だ。じっさいラッセルのクラス理論は、カントルの素朴集合論の矛盾を解決するためのものだった。そして誰もが唸るほどには妥当に、解決はできなかった。 大きなお世話でもう一言いえば、今回はもう少し質問の意図を説明しても良かったんじゃないですか?。じっさい自分は、この質問の意図がわかっておりません(^^;)。
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私も最終です、おぢぢさま。 >>あのときの質問者がだれであるか、考へてみてください。 >>(内緒です。)ただそれだけの意味です。 さうとしか言ひやうがありません。
お礼
信用ならぬ。としか言いようがありません。 ぷらぽたさん あなたのご努力は多としますが やはり無理があります。どこかでほころびが出ます。おそらくこの見方は 間違っていないでしょう。 ご回答をありがとうございます。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろんぬさんごめんなさい。 投稿先を間違えました。
お礼
承知しました。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ねこさん、どうもです。このスレおもしろかったです。 「ツレうつ」は映画版を観ました、宮﨑あおいちゃんのやつ。 美しく描写されすぎていて、おいらはあまり好きぢゃないです。 ドクロちゃんに向かって 「おいらはもっとマシな愛し方ができるぞ」というのが 間違いかもしれない。そうなのか?本当にそうなのか? それから一番ひどい虐待は無関心だと思う。 無視ならまだ「そういうコミュニケーション」っていえるけど。 スパイス持ってきました。 これぐらいならいいのかなあ。 こういうことしちゃいけないって思ってるぶん こういうの見ると余計スカッとするのかもしれない。 黒いワンピがベッカム夫人です、かわいいです。 https://www.youtube.com/watch?v=gJLIiF15wjQ ほぢゃ、どうもお邪魔しました。
お礼
投稿先のマチガイだそうです。 ドクロちゃんのおあそびは 押しつけにはならないかなぁ。相手が承諾している?
「お礼」拝見しました。 >>端的に言ってわたしの文章のことを言っているようです。 いいえ。あのときの質問者がだれであるか、考へてみてください。(内緒です。)ただそれだけの意味です。 回答番号13の表現は不適切でしたので、訂正します。これなら、どうやつても押し付けにはなりません。 みづからが他人に押し付けをしない。 その押し付けないことが、結果的に、押し付けに成功したのと同等、もしくは、それ以上の成果をあげる。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ >>端的に言ってわたしの文章のことを言っているようです。 いいえ。あのときの質問者がだれであるか、考へてみてください。(内緒です。)ただそれだけの意味です。 ★★ (回答No.1 plapota) ~~~~~~~~~~ 【Q:教義の優れた偉人なのに自分史に稚拙な脚色がある理由】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8656267.html ・・・ 世間は広いもので、だれかれかまはず、ヤマシサを追及し、ウソだと弾劾し、オシエを説く、そんな人がゐます。私はさういふ人のことも好きです。でも、増殖してはいけないとおもひます。 ・・・ 投稿日時 - 2014-06-28 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これだけのウソを真昼間につけるというのなら こちらは 無理が通れば道理が引っ込むで 降ります。
- majimemaru
- ベストアンサー率25% (32/128)
全くその通りです。 「自分の意見を、他人に押しつけてはいけない」と、言う意見を他人に押し付けています。 中には、「いいえ、脅迫や罵声で押し付けてはいけないという意味で、理論的に説得するには問題ない」と言う人がいますが、それは「日本語が間違いっている」だけです。 「自分の意見を、他人に押しつけてはいけない」という言葉を、「脅迫や罵声によって、強制性がある意見の押しつけをやってはいけない」と言い換えるべきです。
お礼
★ 「自分の意見を、他人に押しつけてはいけない」という言葉を、「脅迫や罵声によって、強制性がある意見の押しつけをやってはいけない」と言い換えるべきです。 ☆ 《罵声》はまだ かわいいかも知れませんが そういうことですね。おっしゃるとおりの問題だと思います。 こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ということで お礼も終えた感じになるのですが この問題は けっこうあるんですよ。 ・ 自己主張するなという自己主張 ・ それは自己顕示欲の発現だという自己顕示欲 ・ 利他志向になれという利己的な主張 ・ 自己チューはダメという自己中心的な主張 ・ 意見の表明はダメという意見表明 哲学カテとして しっかりとよりよい対話の場に成ることをのぞみます。――これって おしつけ?
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
唯の言葉遊びをしたいのならば、この話はエンドレスですね。 正確には「間違った答を押し付けてはいけない」では? ただ、答が判っている人間でなければ、そもそも話が繋がりませんが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 これまでのやり取りを ★ 唯の言葉遊びをしたいのならば、この話はエンドレスですね。 ☆ と受け留めたのですか。 それとも 短い趣旨説明欄をそのように受け取ったということでしょうか。 ここまでみなさんとやり取りをして来ているからには 質問者もすでにずばり正解に近いかたち〔と思うところ〕で返答してまいります。 ★ 正確には「間違った答を押し付けてはいけない」では? ☆ これも 筋がちがう。と考えます。 1. 表現ないし言論は 原則として自由である。 2. 前提条件はない。ただし プライワシなどの後提条件(付帯条件)はあるでしょう。 3. ということは 表現としての意見表明は そこにいかなる要請や要望が含まれていても その表明内容じたいからは 相手への押しつけという事態は いっさい起きない。 4. なぜなら 言葉が交わされたに過ぎないところを どうして相手の意志の軽視といった押しつけにつながるであろう。 5. ですから 問題が起きたとしても それは 人の自由意志を踏みにじるような内容を持つヤジなどでしかない。 6. ★ 間違った答を押し付けてはいけない ☆ というような意見表明も それとして 自由である。 7. 《押しつけてはいけない》と表現したとしても 自由である。 8. さらに意見表明の内容が ★ 間違った答え ☆ をふくむものであったとしても その表現じたいから 意志の踏みにじりなる押しつけにはなることはない。 9. 《おしつけられた》側は その答えの内容は間違っていますよと答え返してやればよいことだ。 10. その答えの当否が 分からなかった場合には しばらくのあいだ ウソを教えられたという不運が付く。 11. けれども それは 答えのマチガイであって 意見の押しつけではない。 12. ただしい答えの場合にも 押しつけではない。信頼関係のうちに やり取りがあるということだ。
>>自分の意見を他人に押しつけてはいけないという >>意見を表明することは 押しつけではないですか? ・・・証明終わり! みづからが他人に押し付けをしない。 その押し付けないことが、結果的に(さう、あくまでも結果として)押し付けになる。 それが、「職場での最強チームワーク」についての私の見解です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ですから 相手の意志を無きものにして 表明する意見の内容とは関係ないところで(ということは 権限関係によるといったことですが) 要求や提示内容を飲ませること。これは 押しつけです。 けれども そのことがあるにもかかわらず 表現の自由は 有効であり とうとばねばなりません。 つまり 意見表明は いかなる内容のものであっても 自由であり 誰もがこの自由をまもらねばいけません。 このように《・・・しなければいけません》という意見表明も それ自体として言論の自由のもとに守られているだけではなく その情況として相手との関係において支配・被支配などのチカラ関係がないならば 何の問題もありません。 質問の表向きの趣旨は 《意見をひとに押し付けてはいけません》という意見表明は 押しつけではないか? です。 ホンネは どの意見表明も すべて表現の自由のもとにある。問題は 意見内容じたいにはなく 意見内容の外で 権力や金銭などのチカラ関係が介入する場合である。と言っています。 ★ それが、「職場での最強チームワーク」についての私の見解です。 ☆ という場合には 権限関係が 意見内容じたいとはまったく関係しないところで 作用しがちだからという前提条件があるはずです。 この条件をはづしたところ――たとえばこの匿名による質疑応答の場――では 意見内容じたいのみが問題であると言ってよいからには 表現の自由がまるごと有効です。 ★ みづからが他人に押し付けをしない。 / その押し付けないことが、結果的に(さう、あくまでも結果として)押し付けになる。 ☆ もしこの短い文章で言わんとするところをくみ取ろうとするならば: まづ 一般にはすでに触れたように 《押しつけを ことさらにはしていないときにも 結果として押しつけに成る》というのは 権限関係による或る種の圧力がかかったということでしょう。つまり 意見表明の中身とは関係ありません。 ただし もっと細かく見ておこうと思えば: どうも ぷらぽたさんが問題にしている意見表明というのは いくらか稀な内容のものである場合を言っているようです。 すなわち 端的に言ってわたしの文章のことを言っているようです。 それが よほど公共の言論としての体裁を持ち 中身もよほど妥当なことを言っている。ほとんど誰もが納得する内容であり しかもその内容をじっさいに実行することがすでに半ば自明のことのように説得力がある。 こういう場合は たとえ殊更押しつけの表現がなくても 結果として相手にその実行をあたかも《おしつけ》ようとしている。と受け取られる。――こう言っているのでしょう。 あなたも みなさんも 早くそのような内容のある文章が書けるようになってください。これが こたえです。 むかしの人は 恥ぢとして――あるいは いいことを聞いたと――受け取ったところを いまの人は 押しつけとして受け取るということのようです。
補足
井上ひさしの議論は 検索で少しさがしましたが その中身としては見当たらずあきらめました。 ラッセルの階型理論について ヰキぺを読んでも分かりませんでした。肝心のところを解説していないようにも感じました。
- kurinal
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B様、こんばんは。 初歩の初歩の初歩で解決されそうな、お疲れ様です。 >>>「自分の意見を他人に押しつけてはいけないという意見を表明することは 押しつけではないですか? 」」」 ・・・証明終わり!
お礼
その証明は 第一段階ですけれどね。 K さま お早うございます。ご回答をありがとうございます。 オモテ向きの問いですけれどね。 つまり けっきょく自己表現という言葉のやり取りにかんするかぎり どんな自己の意見表明があったにせよ その意見が 押しつけになることはあり得ない。 すべては 表現の自由 言論の自由にもとづかねばならない。 これです。 押しつけは 意見表明とは別のところで――権限関係による強制などとして―― 起きるに過ぎないと。
- NemurinekoNya
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これは、 「押し付け」とは何か? という問題に還元されるのではないかという気がします。 それで、ググってみますと、 ~~~~~~~~~ 2 無理にやらせる。また、無理に受け入れさせようとする。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/31036/m0u/ ~~~~~~~~~ このあたりが出発点になるのであろう。 自由や自由意志の観点から、この行為は否定される。 このことに反対する人は少ないのだと思います。 で、 「自分の意見を他人に押しつけてはいけないという意見を表明すること」自体は、 他者に自身の考えを強制するものでも、そのように行動するように強制することでもない。 ただ、言っただけ、主張しただけ。 したがって、 「押し付け」ではない。 また、この主張は正しいと思い、そのように他者が行動したとしても、それは自由意志に基づく判断に基づいているのであって、「押し付け」ではない。 このことについて議論を戦わせることもです。 しかし、 この主張の背後に何らかの強制力があり、その有形・無形の強制力をもって、無理やりそのように行動するように強いるのであれば、 これは「押し付け」ですよね。 これは、ほとんど暴力と変わらない、ともいえるのでしょう。 その背後にあるのが、たとえ、世間であろうと、神(の教え)であろうとも。 そんなところに落ち着くのではないでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~ これは、 「押し付け」とは何か? という問題に還元されるのではないかという気がします。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。そうだと考えます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ しかし、 この主張の背後に何らかの強制力があり、その有形・無形の強制力をもって、無理やりそのように行動するように強いるのであれば、 これは「押し付け」ですよね。 これは、ほとんど暴力と変わらない、ともいえるのでしょう。 その背後にあるのが、たとえ、世間であろうと、神(の教え)であろうとも。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから No.7のところで 言いました。 自己表現の中には 押しつけはない。押しつけがましいところがあっても 言語表現にかんしては 相手の意志をないがしろにするチカラはない。 そうではなく 言語表現以外のところで 押しつけは繰り広げられる。 権限関係による強制や 利害関係による釣り上げや あるいは弱いところを突く脅しによって 押しつけが実現するのだと。 ええ。 暴力ですね。 ◇ その背後にあるのが、たとえ、世間であろうと、神(の教え)であろうとも。 ☆ これは シュウキョウ組織の中での権限関係による押しつけのことですね。 そうではなく(シュウキョウではなく) 信仰については 言語表現と同じように 押しつけはあり得ません。 シュウキョウないしオシエについては それを受け容れよという社会物理的な力による強制が あり得ます。 あと もう一点の趣旨は 表現の自由あるいは言論の自由にかんするものです。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ で、 「自分の意見を他人に押しつけてはいけないという意見を表明すること」自体は、 他者に自身の考えを強制するものでも、そのように行動するように強制することでもない。 ただ、言っただけ、主張しただけ。 したがって、 「押し付け」ではない。 また、この主張は正しいと思い、そのように他者が行動したとしても、それは自由意志に基づく判断に基づいているのであって、「押し付け」ではない。 このことについて議論を戦わせることもです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《押しつけてはいけない》が 押しつけにはならないというのは 先ほどから議論していたとおり 言語表現にかんするかぎり強制はあり得ないことからです。 したがって 何らかの意見表明が押しつけだと もし見なされたとするならその場合というのは そのように見なしたという意見の表明 これも 同じく押しつけになる。――こういう論陣を張っています。 言いかえると: もし押しつけはいけませんよという意見表明が 強制なる押しつけにはならないとすれば 《押しつけはいけませんよ》と言われたところの先行した意見表明も 押しつけにはならない。だから 押しつけはいけませんよという意見表明は けっきょく意味をなさない。 ここまでのことを言いたいがための質問でした。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
一番、手っ取り早いのは、 「自分の意見を他人に押しつけないようにしませんか」と相手にお願いすることでしょうか。 このようにすれば、 これを守る守らないは、個々人の自由意志に基づく判断であり、強制にはなっていない。 論理の話に持っていこうかとも少し考えましたが、 「押し付ける」というのは、さすがに論理にならない(真偽の外縁がさだまらない)。 極めて主観的なもので、 これを押し付けに思わない人もいるでしょうし、 「押し付けだ」と感じる人もいますので。 「You must not」ではなく、「Wouldn't you」と婉曲表現を使う。 You must not force your idea on the others. これは、禁則ですからね~。強制そのもの。これを見ると、誰もでカチンときてしまう。 Wouldn't you force your idea on the others? これは「お誘い」ですから、イヤなら、断れる(笑い)。 ものは言いようです。 メタがどうしたこしたは、ddtddtddtさんが少し触れられているので、書きません。 あまり面白そうな話になりそうもないので。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 一番、手っ取り早いのは、 「自分の意見を他人に押しつけないようにしませんか」と相手にお願いすることでしょうか。 このようにすれば、 これを守る守らないは、個々人の自由意志に基づく判断であり、強制にはなっていない。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしなら こう答えます。 ・ 《押しつける》とは どういう意味ですか? ・ たとえば どういう意見表明の内容のことですか? ・ あるいは どういう表明の仕方のことですか? つまり 考えるに およそ自己表現にかんしては――プライワシなどをめぐる待ったなしでつつしむことを守るべきことがらを別とすれば―― まったく自由なのだと考えます。 言語表現にかんするかぎり 《おしつけ》という行為は・つまり相手の意志の自由をないがしろにする行為は ないと考えます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ You must not force your idea on the others. これは、禁則ですからね~。強制そのもの。これを見ると、誰もでカチンときてしまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いや。お言葉を返しますが そんなことはありません。 ・ いったい何を言っているのか? ・ 《強制》って言うけれど いったいぜんたい あなたは ひとからその思想を示されて それを受け容れ従わなければならないというような義務や負い目でもあると思っているのですか? ちゃんちゃらおかしいではありませんか。ひとりの人間が どうしても相手の思想を鵜呑みにしなければならない事態に遭うなんてあり得ないではないですか。――と問い返すでしょうね。 ◇ メタがどうしたこしたは、ddtddtddtさんが少し触れられているので、書きません。 / あまり面白そうな話になりそうもないので。 ☆ そうなんですか。じっさい具体的な論証の中身は分からないのですが。・・・
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お礼
おっと でーでーてーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ラッセル理論としては: ★ ~~~~~~~~~~~~~ ラッセルのクラス理論も実際には、数学として明文化されないメタ理論の発想が先にあり、いわば押しつけになるケースとならないケースを、論理学の理論構成として区別した訳です。 ただし区別出来ただけで、その区別が現実の文脈とどう関わるのかなどは考慮の埒外だし、逆にどう関連付ければ良いのかを、本気で研究した人もいない。きっとみんな、クラス理論を読んだ(聞いた)瞬間に、現実とは、ほとんど関わりないと思ったからでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですか。 でーでーてーさんご自身の回答としては: ★ 自分も、押しつけになるかならないかは、実際には文脈(メタ理論)によると思います。 ★ 技術屋として言わせてもらうと、ここでも意味論と構文論が衝突してるだけだ。そんな事例は現実世界にはごまんとある。 いや 何だかご不満がおありのようですね。 ★ この前も言ったように自分は、このような抽象理論を現実の文脈と強引に関連付ける事については、すごく懐疑的だ。じっさいラッセルのクラス理論は、カントルの素朴集合論の矛盾を解決するためのものだった。そして誰もが唸るほどには妥当に、解決はできなかった。 ★ 大きなお世話でもう一言いえば、今回はもう少し質問の意図を説明しても良かったんじゃないですか?。じっさい自分は、この質問の意図がわかっておりません(^^;)。 ☆ ラッセルへの不満なのか。質問者への叱責なのか。 質問者のコンタンは すでに触れています。 ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~ どこに《その意見の示す内容を 採用して欲しい》と思わない意見表明者がいましょう。 採用を求めるのは おしつけですよ。 けれども むろん じつは質問の趣旨は その段階にはとどまっていません。意見表明は まったく自由である。ということを 煮詰めた議論としては 言おうとしています。 ☆☆ (No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ だ・か・ら 表現の自由という黙契に落ち着くのです。言いかえると どれだけ批判をおこなっても 自由だという意味です。 ことばだけの問題であるなら たとえ《おしつけ》に成ってもかまいません。むしろ気をつけなければならない問題は プライワシの問題などです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あとは 権限関係を笠に着て相手に自分の意向を飲ませる。これが 《おしつけ》であると言っています。言語表現の外で コトは繰り広げられているという意味です。 だから やはり表現の自由に話は 落ち着く。ということを言って 問うています。どうですか?
補足
★ ここでも意味論と構文論が衝突してるだけだ。そんな事例は現実世界にはごまんとある。 ☆ これは 言い得て妙であると 見直しました。(気がつかなかっただけぢゃないか このぶらじゅろんぬ野郎!)。