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世の中 極楽になれば 人は極楽にいると言う・・・
このような論理から わたしたちは卒業せねばならないのではないか? 自己チューでなくなるなら 極楽になると言う。 ああーあと思って 嘆くならば ますます嘆かわしくなる。 それではと あわれに思い あわれもうとすると いや これは あわれむに値しない代物ぢゃわいとなる。 取ってつけたような虫のよいきれいな理念の主張から わたしたちは卒業しなければならないはずだ。 だとすれば どうすれば よいでしょう?
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こんばんは >地上の楽園 エデンの園のお話のようですね そこでは 人間は自然と共存して生きていたのでしょう 迂闊にもアダムは 知恵の樹の実を食べたために死を畏れるようになってしまった 自然とは 生き物の日々の営みのことだと思います 現代の人間は 過剰に防衛しています コンクリートの部屋に自らを閉じ込め 妄想の産物(生きるのに必ずしも要らない物)を友として 他人を畏れる 人間が一番の天敵になっている なんと 愚かな行為でしょう 本来の生き物の営みは 自然と共存することですので 環境に適応した人間は 自然に順応するようにできています 私は人間が生活しやすい環境は 生き物にとっても良い環境だと考えています 人間は 過去に何度も滅びようとした時に 古代都市を放棄してきました 現代の人間の文明の象徴である都市も いずれ放棄する時がくるのではないかと思います そして 生き残った少数の人達が環境を変えることで 新しい文明が生まれる また放棄する の繰り返し まづは 光の源である太陽エネルギーを手に入れることができるかどうかでしょうね 現代の人間は 地球の生き物の最終進化形態なのでしょうか? 未来に於いて人間は 自然環境を制御するのでしょうか? それらが 生命の樹のことであり 人間が地上の楽園を得る方法だと思います とは書いてみましたが 今を自己中に生きればいいのかもしれませんね 自分の信念だけが楽園とも云えますし(笑) 真実の愛は 自己愛のような気がします 世界で一番の嫌われ者が自分だとしたら その自分を愛せるのは自分以外にはいないと思います
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- NemurinekoNya
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ひょっとして、 《自己チュー・極楽》教の教祖さまは、物理と哲学の融合を試みているp氏でございましょうか? 浅学非才の私などは、p氏の回答を見るたびに、頭がクラクラし、強い眩暈すら覚えてしまいます。 p氏の文章には、私の思考力を麻痺させる、ネコにだけ効く、何か特別な麻薬成分でも含まれているのでしょうか?
お礼
いえ。特定の方のことについては 何とも申し上げられません。あしからずご了承ください。 極楽は極楽である。という自同律なるオシエであるかと思います。 これについて問うています。 ご回答をありがとうございます。こんばんはでした。
「お礼」、感謝いたします。 >>もしやはりべらぼー人間になって上から目線で言うとすれば >>No.10のてふ_てふさんは 一皮むけちゃった。 たしかに豚理論を凌駕してゐます。私のやうな迷ひがない。 今回を最終回答とします。そもそも、回答番号12で、豚らしくない重い話にするから、質問者さんの罠にはまるわけです。 簡単な例で、職場での清掃活動について書きます。 掃除をする規則だから。 上司の指示だから。 周囲のみんなのためだから。 奉仕の精神をやしなふために。 などといふ理由で行はれることが多いやうです。でも、そんなものが必要なのでせうか。 あそこが、きたないな。 掃除をしたら、きれいになつて、気持ちがいい。 さういふ心に動かされておこなふものではないのでせうか。せつかく掃除をしたのに、だれも気付いてくれない、などといふ不平をしばしば聞きます。私は、自己チューの自己満足がいちばんいいとおもひます。 豚理論は、少し極端に書きましたが、このサイトで熱くなつたとき、たまには豚になつてみるのも悪くないかもしれません。
お礼
ですから わたしも簡潔に述べますが――おっと こんばんは。ご回答をありがとうございます―― ★ せつかく掃除をしたのに、だれも気付いてくれない、などといふ不平をしばしば聞きます。私は、自己チューの自己満足がいちばんいいとおもひます。 ☆ というときこの《自己チュー》を誰よりも口を極めて非難するのは 《社会生命の博愛》論者なのではないですか? そういう問題です。 お・か・し・い! と思いますよ。 それだけのことなのですが この問いは。 まだ 豚理論の出番以前で話がこんがらがっています。
回答番号5,6,11のヘタレ豚野郎です。 愛を叫ぶのは立派なことです。しかし、愛をまつとうすることは、どうなのでせうか。 愛の行き着く先は、ふたとほりです。 殉教者と偽善者です。 質問者さんも、聖書に詳しいので、おわかりでせう。すべての人に愛をそそいで、力尽き殉教した人たちがゐます。宗教に関係なく、愛のために死ぬ人はゐます。かうした人たちは、ほんとうに尊敬すべきです。 しかし、たいていの人にはそれができません。愛を叫んでゐるのに、人のことを悪く言つてゐるではないか、と、究極の状態にゆくまでもなく、日常生活のレベルで偽善になつてしまひます。人間とはそんなものです。見方によつては、すべての人間が偽善者です。みんな偽善者でいいのではありませんか。殉教者を出すよりは。
お礼
ええっとですね――おっと まづはご回答をありがとうございます。―― やはりあれですね ブディズムの観念哲学が世にも不思議なモヤモヤ・ワールドへと人びとを誘い込むのと同じように・ただしその《悪影響》の中身は違ったかたちで こんどは クリスチア二ティなるシュウキョウのもたらす弊害がありそれは その夢の国に裏切られた場合には怨念にまで達する憎悪となってあらわれる。のではないかと推察いたします。 あるいはまた それでも 博覧強記の回答者さんには聖書のよさもじゅうぶん分かりきっているというところですが 二項対立をそのまま議論の筋立てに用いられているのは これもちょっといただけないようにも感じます。 聖と俗 善と悪などの双対を突き抜けて行きたい。 ★ 殉教者と偽善者 ☆ どうか 善悪の彼岸を先のほうに捉えてみたいと思います。 ★ 見方によつては、すべての人間が偽善者です。みんな偽善者でいいのではありませんか。殉教者を出すよりは。 ☆ ここまで言うのでしたら いっそのこと《無縁慈悲》というヤツを検討してみてはどうでしょう。 決して成案となっているものではありませんが 考えてみるにあたいすると思います。 【Q:無縁社会ってんなら 無縁慈悲の出番ぢゃん。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7853407.html たぶん ぷらぽたさんは 愛が外に満ち溢れんばかりにあつい心がお有りなゆえに いまは――失礼をじゅうじゅう承知しながら 平気で言いますが―― 模索をしておられる。つまり ブタ哲学は 五合目くらいではないでしょうか。 あるいはすでにいただきに到っているのに わざと地を這いずりまわるのがお好きだとか。 クリスマス・ツリーの飾りは けっこうぎゃくにシガラミにもなりますし昔からのシガラミに寄り頼んでこそカザリを得たという場合すらあるようですから 〔カザリは〕いっさい要らない。モミの木だけでよい。と割り切ってまいりたい。 でもこのモミの木は 自然本性としてやはり愛ですよ。信仰・希望・愛。(かたちのないものが希望である。かたちのあるものは 希望とは言わない)。
「お礼」ありがたうございました。 >>愛するとは その人の持ち前のチカラを思う存分発揮する >>ことができるように 邪魔にならないように少しでも>>お手伝いすることです。 >>自分と同じように――自分より一秒だけ先に――相手のことを思いやることです。 おつしやるとほりです。これこそ真理です。すべて人は愛を抱くべきです。そして他者に尽くすべきなのです。自己チューの豚のためにすべてを捧げるのです。
お礼
ぷらぽたさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 もうこの質問はおしまいかなと思っていたら つづきます。 もしやはりべらぼー人間になって上から目線で言うとすれば No.10のてふ_てふさんは 一皮むけちゃった。 それにくらべ――という比較言語学をさらにハレンチにもこころみますが―― ぷらぽたさんは いわゆるクリスチアニズムの亡霊と毒牙とにまだまだヤラレていらっしゃいますようです。 だから 少数の人びとにしか見出されていなかった世にも華麗なる豚の世界に身の避けどころを見つけそこから 自己表現を繰り出しておられる。 直前のNo.10とその前のNo.9のねこさんとのやり取りでの 特にはわたしのお礼欄をぜひご覧になってください。 直後のNo.12では大論文が投稿されているようですから そこで合わせてご返答を申し上げます。
- NemurinekoNya
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現在、物理カテで超~出来の悪い生徒(質問者)をひとり抱えており、 哲学カテにまで手が回りません。 ───気まぐれで、しばらく物理カテに回答を寄せていたら、いつしかこの様な腐れ縁になってしまった。大学の課題だとは思うのですが、見捨てるワケにもいかず・・・─── 物理どころか、 数学の基礎から説明を始めなければならないので、 昨日、今日と地獄のような思いをおります。 ───理系の大学生だとは思うのですが、よく大学に合格できたものだ!!─── 昨日など、質問中にある数式の意味が分からず、 この式の解読に2時間もかかってしまった(笑い)。 ほんの少し、ホンのちょっぴりの、回答者に対する《思いやり》があれば、 無用な混乱を招くことがなくてすむのに、それを怠る。 まったく、まったく、困ったチャンです。 最近、 情けやホトケゴコロは、自身に災いをもたらすんじゃないか、 と思っています。 ですから、 この世は、絶対に極楽になんかになりません(笑い)。 少なくとも、わたしが彼から解放されない間に、この世が極楽になることなどあり得ません。 極楽を主張する人は、わたしの代わりにこの質問者さんの質問に対して回答をし、私をこの苦痛から解き放つべきです。 その方は、私のような自己チュー野郎ではなく、他人の苦痛を自身の苦痛のごとくに感じられる人なのでしょうから。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 最近、 情けやホトケゴコロは、自身に災いをもたらすんじゃないか、 と思っています。 ですから、 この世は、絶対に極楽になんかになりません(笑い)。 少なくとも、わたしが彼から解放されない間に、この世が極楽になることなどあり得ません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 分かりました。これは 真理にしたがってあるく道のりで誰もが遭遇するそれぞれ真実の事態だと思います。 ひとつには わが心の古傷を癒すために――つまりこれは わが心の言うなれば善の損傷なのですから きちんと直す必要があります――出会う事件であるかと。 ひとつには 内容が重なるはずですが 要するに批判を・つまりむしろ自己批判を しっかりとやっていなかったそのツケがまだ回って来ている。 批判は むしろわが心の中にその対象となる良からぬ思いやまちがった思考を徹底的に反駁して批判し終わったらこのゴミをむしろ内的に棄てる。この作業が まだ終わっていなかったのかと捉えられます。 それでもシガラミや足の引っ張り(つまり 引っ張られ)が絡まって来るなら それは 少々偉そうに見るとすれば それは 思考形式の問題でほろぶべき人がこちらの精神の前に現われたのだと見ればいいんぢゃないかと考えます。 ほんとのところをぶっちゃけるなら そういう場合は(つまり面と向かっているのであれば) ほろびなさい と言ってやるのが 本筋だと思うところです。――これは 内緒です。 それは 今回のように: ああーあと思って 嘆くならば ますます嘆かわしくなる。 それではと あわれに思い あわれもうとすると いや これは あわれむに値しない代物ぢゃわいとなる。 ような場合に相当するのかと思います。 そうとう踏み込んだ発言をしました。大胆きわまりなく。 ◇ その方は、私のような自己チュー野郎ではなく、他人の苦痛を自身の苦痛のごとくに感じられる人なのでしょうから。 ☆ 社会生命が 他我の愛であり 博愛であるそうです。・・・
- NemurinekoNya
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「この世が極楽にならば、・・・」 というのは、ユートピア思想だと思うんですよ。 ~~~~~~~ ユートピア 現実には存在しない,理想的な世界をいい,理想郷,無可有郷(むかうのさと)などと訳される。ギリシア語を手がかりとして〈どこにもないou場所topos〉と〈良いeu場所topos〉とを結びつけたT.モアの造語。ユートピアの観念は,人間の自然な感情として普遍的にいだかれうるものであるが,同時に特定の内実をもった思想的表明,もしくは運動をもうみだす。 http://kotobank.jp/word/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2 ~~~~~~~ 絵に描いた餅です。 絵に描いた餅を食べられると思っている。 ユートピア、《無可有郷》、あり得ない郷か。 この訳語はいいな(ニコニコ)。
お礼
ご回答をありがとうございます。 決してピンと来なくても わるいわけではありません。 分からないように 一般論として設問しています。 いま あ_ほなさんが《自然の姿》と題して質問しています。 自然の姿だと 世の中は 極楽ではないどころか 弱肉強食で残酷なところである。――こうなると思います。 しかも 世界について階層現象をさかのぼって本質にまで行きつくなら その認識を深めつつ自己中の状態から脱して博愛のすがたを皆が見せることができるようになる。そういうありがたいお経 ぢゃなかった 世界理論を打ち建てているという場合があるかも知れません。 そういった感じです。どうかなぁ。
- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆○ 世の中 極楽になれば 人は極楽にいると言う自同律の論理が 流行っていませんか? ○ 世の中みんなが 自己チューでなくなるなら 極楽になると言う論理のことです。 ◇ですから、 それでは、女性も、ネコもインコもいなくなってしまう。 つまらない社会だ、 です。 そうした画一化された社会は、住みやすいのかもしれませんが、面白味はないでしょう。 いろいろな価値感、考え方があって、多様だから、世界はおもしろいのだと思います。 また、人間が自己チューでなくなるとは考えられません。 人間が生物であるかぎり人間は自己チューな存在であり、 同時に、自己チューは人間という存在、その生存とに深く結びついています。 ですから、 自己チューを止めるということは、人間が人間であることをやめるということです。 人間は自己チューでいいんです。 ただ、だからと言って、 自身のみが自己チューを許される特権的な存在である、と考えてはいけない。 みんな、我が身が一番かわいいんですから。 そして、ここに話し合い、交渉の余地が生まれます。 まっ、そういうことで。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ 自己チューを止めるということは、人間が人間であることをやめるということです。 ☆ まぁ そうでしょうね。 しかもそれを批判し そうでなくなれば 社会はよくなるというご主張の方が約一名おられるようなのです。 そこで その論理は おかしいと言ったあと さらにその論理からの卒業をうながすようなよい方法はないか? こういう問いを立てました。 わかりづらかったと思います。質問が挙がったことだけでもよしとしようかと思っています。
こんばんは。業務連絡です。 >>対話をすすめて行くしか 愛するすべがないように思います。 しばらく、やめませう。昨日、大量削除になりましたが、お手数をかけたのに、サポート担当さんから、昨日も今日も、温かいメールをいただきました。趣旨や意図はそれなりに理解してくださつてゐます。「削除・編集することについては心苦しい部分も多々あります」とまで、書いてくださいました。ただし、現状では、一律にルールを適用さぜるを得ないといふことです。 それにこの状態がつづくと、ますますルールの適用が厳格になるかもしれず、得策ともおもへません。サポート担当さんのお立場を悪くするやうなことをこれ以上つづけるのは、控へるつもりです。 急いては事をしそんじる。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まだ 経験が浅いですな。 この質問は 基本的に一般論として出来ています。まづだいじょうぶでしょう。 つまり ☆☆ どうすればよいでしょう? ★ しばらく、やめませう。・・・現状では、一律にルールを適用さぜるを得ないといふことです。 ☆ つまり 特定の人に対する批評は 規約違反です。 哲学は そのような特定の人物評もやりますが この質問はあくまで 論理の是非いかんを問うています。非なら どう対処すればよいか。これです。 ねこさんをみてごらんなさい。特定の案件であるとはお気づきになっていない。でしょう? ただし あまりいい方法は 出て来ないかも知れません。この質問を挙げたことじたいで満足してもよいと思っています。
自己チューの豚が1匹ゐます。何でも好き勝手して、迷惑千万です。なんとかしてください。 豚は、自己満足してゐるので、人をうらまなくてすみます。ただ餌をもらつて感謝するだけです。 他人のために何かをしてやつたんだ、と思ふと、裏切られたときに反動がきます。だから、豚は、他人に尽くしたいとは考へません。 世界平和など、もつてのほかです。みづからが理想とする平和を乱すやからを排除してしまふからです。究極の平和が、国家戦争であり、宗教戦争です。 博愛も求めません。愛に反するおこなひをした者たちを憎むからです。愛は憎悪の始まりです。 正義など不要です。みづからが悪と考へる者たちを攻撃するからです。最終的に正義と悪が逆転します。 人から怨まれても、豚は人を怨みません。怨む側の人は豚のせいでストレスがたまる一方ですが、豚は楽しいだけです。 自己満足でめだちたがりの豚は、迷惑です。しかし、その豚の中には確実に平和があります。簡単に実現できる小さな平和です。これが、あの豚ページに書かれてゐた「屁理屈」としての「満足した豚理論」であり、またの名を悪の「ショッカー戦闘員理論」です。豚は、悪を認識してゐるので、何を言はれても、罪悪感がありません。傷つけられることが、ないので、敵を愛することができます。つねに自分だけ平和です。そして、満足したまま、幸福に死んでゆきます。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ だから、豚は、他人に尽くしたいとは考へません。 ☆ にゅうとらるさんのところで書きましたが 要するに隣のテニスコートで 同じ言葉を繰り返し叫びながら ボールをむしろこちらのコートに打ち込んでくるのです。 隣のコートにボールを打ち込むことだけはおこなうプレーヤーがいるわけです。ボールを返してやっても 返事のひとつもありません。 こちらは《他人に尽くす》どころか 迷惑がかかっているという問題です。よ。 横槍ならぬ横ボールは きょうも明日も まだまだ続くのではないでしょうか。そういう問題です。分かって! ★ 愛は憎悪の始まりです。 ☆ それは 愛情のことです。《愛》は それ自体は中立で 正と負の両様の向きを帯びるヱクトルです。愛情と憎悪とのいづれかとして現われるヱクトルで それは 二角関係を成しています。(男女の場合には ツイ(対)関係と言います)。 要するに 愛は 意志行為です。プラスのもマイナスのもあります。 あるいは言い方を変えるなら 愛は 好きでも愛しますし 嫌いでも愛します。 愛するとは その人の持ち前のチカラを思う存分発揮することができるように 邪魔にならないように少しでもお手伝いすることです。自分と同じように――自分より一秒だけ先に――相手のことを思いやることです。 けっきょく世話焼きのことですから 何もしないことが むしろプラスの愛だと判断する場合もあるはずです。 ★ 正義など不要です。 ☆ 義無きを以って義とします。 ★ 傷つけられることが、ないので、敵を愛することができます。 ☆ 愛するって言ってるぢゃん? 敵なんか 愛せますか? われに還るように心の窓が明けるように何とか 信頼関係を築き 世界とそしておのれ自身と和解することが出来るようにと 対話をすすめて行くしか 愛するすべがないように思います。 何だか 《理想論》の対偶命題? なのかなぁ。
- NemurinekoNya
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極楽には、女性がいません。 猫もいません、インコもいません。 男しかいない、そんな殺伐とした世界は、まっぴらゴメンです。 大体ですね~、 幸せのみが存在する極楽なんて所にいたら、人間は堕落します。絶対に堕落します。 誰が何といおうと、堕落するんです。 暑くもなければ、寒くもない。善人ばかりで、他人の悪口は絶対に言わない。飢えることもなければ、病にかかることもない。常に心地よい風が吹き、いい香りが漂っている。五感のすべてが満足させられる。 こんな世界で人間が成長できるはずがない。駄目になるに決まっている。 こんな世界に逝くくらいならば、 ハラハラ・ドキドキのアトラクションの連続で、片時も心休まる時のない地獄の方がマシです。 地獄の方が楽しいに決まっている。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ 極楽には、女性がいません。 ☆ ええっ? そうなんですか。 ぢゃあ あの話は イスラームだけですか。 あぁ。女も 成仏すると 男に成るという話でしたか。 ◇ 幸せのみが存在する極楽なんて所・・・こんな世界で人間が成長できるはずがない。駄目になるに決まっている。 ☆ 半分冗談ですが 極楽浄土にいるのであれば もう《成長する》必要はないのでは? 《駄目になる》気遣いはないところだから 極楽なのでは? ◇ ~~~~~~~~~~~~~ こんな世界に逝くくらいならば、 ハラハラ・ドキドキのアトラクションの連続で、片時も心休まる時のない地獄の方がマシです。 地獄の方が楽しいに決まっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええっとですね。趣旨説明がまづいということは じゅうじゅう承知しています。分からないだろうなと思っていました。でもこれ以上具体的には書きづらかった。 でも にゅうとらるさんは 分かってくださった。じゅうぶん話がつうじています。 何の話か? ○ 世の中 極楽になれば 人は極楽にいると言う自同律の論理が 流行っていませんか? ○ 世の中みんなが 自己チューでなくなるなら 極楽になると言う論理のことです。 これが 横行していませんか? 横行していたら この論理からは一時も早く卒業したいものです。――という質問です。例の《博愛》論です。分かりにくいですか?
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お礼
てふ_てふさんは お久しぶりになりますね。お早うございます。ご回答をありがとうございます。 さて いつわりのない反応をつづってまいりますよ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 迂闊にもアダムは 知恵の樹の実を食べたために死を畏れるようになってしまった 自然とは 生き物の日々の営みのことだと思います ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。微妙に違う場合というのは 徹底的に自分に合うように自己表現をこころみたいと思うものです。 (あ) 《自然》とは 思考の領域を超えた次元で言う場合を別とすれば いわゆる自然史過程でしょう。 (い) ということは 環界の自然は そのまま自己運動をすすめているでしょうが 人間と社会のこととしては 狭義に《何もしない自然〔にしたがう行動〕》と《人為・作為を意志行為としておこなう行動》とがある。 (う) 後者の《人為の過程》は 言わずと知れた社会の相互関係かつそれらの織り成す構造となっている。 (え) 究極的な《何もしない自然――無為自然?――》と照らし合わせるなら この一般的な社会としての自然史過程では 一人ひとりの意志行為とそしてしかもその意志のハカラヒのようには必ずしも成らないというところが 特徴である。 (お) ★ 生き物の日々の営み ☆ は このように成り立っていると思います。 (か) ★ 死を畏れるようになってしまった ☆ ビミョーです。 (か-1) おそらく人は 誰もが老いておとろえて来ると たおれる・そして眠りに就くといったふうには知っていた。つまり 死を死ぬとはまだはっきりとは知らなかった。もう二度と起き上がって来ないのだとは知りたくなかった。 (か-2) 動物のむくろは 知っていた。しかも人間の場合も同じように その身殻には蛆虫がたかっていてもう――少なくとも からだとしては――どうすることも出来ないと分かっていた。 (か-3) 年ごとに生き返る木々も 中には根こそぎにされ朽ち果ててしまうものもある。こうしておそらく死は知っていた。 (か-4) だから エワもアダムも わが心のおもむくところに背向いて思いを持ちことをおこなった。要するに ウソをつくことです。このことで――つまり言いかえると われわれ人間はそれぞれの意志行為として 自由に思考し行動しているが この自由には わが意志わが心にさからう自由もあると知ったことで―― 《自然史過程》の全体を生きることそのことに畏れをいだき 死を死として知った。 (か-5) けれども 死をつまりわが存在はかぎりある生を生きるものだと知ったところ それがかえって人の心性を高め 意志自由についてよく考えるようになった。自然史過程なる世界の内に入った。 (き) ひとに起こったこのようなたましいの軌跡について 善と悪とを知る木から採って食べたと表現したのだと考えられます。 (く) ちなみに エデンの園を去ったにんげんは その園での心性よりもさらにすぐれた――脛に傷を持ちつつもより一層ふかくひとの自然本性に根差しこの持ち前のチカラをよく発揮するようなさらにすぐれた――境地にみちびかれるものと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 現代の人間は 過剰に防衛しています コンクリートの部屋に自らを閉じ込め 妄想の産物(生きるのに必ずしも要らない物)を友として 他人を畏れる 人間が一番の天敵になっている なんと 愚かな行為でしょう ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。てふ_てふさん 韃靼海峡をわたりましたね。 あたまがよいと言っても 小さな四角いサッシの窓から世界を眺めてああぢゃこうぢゃと言っているだけではないかと。 ★ 現代の人間は 地球の生き物の最終進化形態なのでしょうか? ☆ どうもじんるいもその前史を終えるような段階に来たのかも知れません。《互いの自由な話し合いでことをはこぶ》という共生の方式が成就しつつあるというのは 歴史のひとつの果てに来たのかも分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とは書いてみましたが 今を自己中に生きればいいのかもしれませんね 自分の信念だけが楽園とも云えますし(笑) 真実の愛は 自己愛のような気がします 世界で一番の嫌われ者が自分だとしたら その自分を愛せるのは自分以外にはいないと思います ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ うまいこと 書きますねぇ。