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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ人は おのが《固有の時》を大事にしない)

なぜ人は固有の時を大事にしない

このQ&Aのポイント
  • 人間存在は一人ひとりのわたしに到来する固有の時が重要である。
  • 固有の時は存在と自己を確認し、自己の位置づけを得る時である。
  • 自己到来とは世間との和解し、自己との和解を意味する状態であり、悔いのない行動をすることができる。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kaitara1
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回答No.2

kaitara1ですが、熟睡しているときでも、その人は固有の時を「体験」しているのでは。永眠という言葉もあります。漱石は則天去私と言っていますが、則天というのはあなたの言われる固有の時なのかなとも思います。そして去私とはすなわち自分の死のことでは。入眠が怖いことがあります。眠りは死の予行演習ではないかと思います。明日を期待しないと眠れないように来世を期待できない死は恐ろしい。しかしあなたの言う固有の時が来世かもしれない。

bragelonne
質問者

お礼

 うむ。むつかしいですね。  あらためまして こんばんは。ご回答をありがとございます。  ★ 漱石は則天去私と言っていますが、則天というのはあなたの言われる固有の時なのかなとも思います。そして去私とはすなわち自分の死のことでは。  ☆ ここについては わたしなりの考えがありますので それにもとづき反応します。  ★ 則天というのはあなたの言われる固有の時なのかなとも思います。  ☆ (あ) ええ。そしてわたしの感触で 違いを取り出すとすれば:  《則天》は――そして《去私》も――どちらかと言えば 人間の・自分の努力もが入っているかに思われます。《倫理》の要素も入っているように感じられます。    (い) 《固有のとき》は あくまで向こうのほうからやって来ます。倫理をすら超えていると思います。  ★ 去私とはすなわち自分の死のことでは。  ☆(う) 必ずしもそれだけに限る必要もないのではないか。  (え) 実際には 《無私の精神》というように言った場合にも 究極の努力目標であって現実にそこに到ることが出来たという実例はないのかも知れません。ですから それと同じように 《去私》も 究極のときとしての死の時点のときのことかも分かりません。  (お) と見た上で でももし《固有のとき》が向こうからやって来たとすれば それをこちらは受け容れればよいわけですから その《とき》のおとづれは 現実であろうと思います。  (か) ただ その《とき》はけっきょく生身のからだでいるかぎり つねに過程であり動態であるのだとも思われます。  (き) これらをまとめて考えるに たぶん:  ★ しかしあなたの言う固有の時が来世かもしれない。  ☆ というように《あの世問題》を持ち出して来なくてもよいのではないか。とは考えます。  ★ 熟睡 / 入眠 / 眠り / 永眠  ☆ むつかしいですね。  (く) わたしに分かっていることは 病気や事故で死ぬのではなく寿命ではないかとは思います。  ★ 熟睡しているときでも、その人は固有の時を「体験」しているのでは。  ☆(け) もし元気のみなもとが 睡眠であるとすれば それは固有の時と重なっている。かも分からないですね。単純に見て そのように感じられます。  お考えを述べてくださってありがとうございます。

その他の回答 (4)

noname#208307
noname#208307
回答No.5

どうせブロックされているだろうなと思いながら書いて カントの用語を間違っていただけで、 延々とあちこちから嫌みを言われ続ける私のこのむなしさ。 とはいえ直線や円環以外にも別の幾何学によって 認識があらかじめ規定されるとすれば、とても面白い。

回答No.4

今回の話は了解できる。 文章も格調があり美しい。 だからと言ってだ、 俺様をペットにしてくださいと懇願するM嬢をいかように飼いならす事が出来た? 相変わらず散々じゃないか。

bragelonne
質問者

お礼

 《ペット》というのは 人間ぢゃないよ。動物。  お褒めの言葉をありがとう。  ご回答をありがとうございます。

noname#208196
noname#208196
回答No.3

ブロックされているのでテスト投稿。 認識のアプリオリな形式 時間と空間 時空の形式が直線から、円環へと変われば 認識が変化して、世界が変わるのだろうか。 キリスト教と仏教の悲観主義者は 悲観の末、善悪の彼岸に到達し、そこから 生命肯定のオプティミストになるのだろうか。 永遠回帰の思想がキリスト教や仏教を究めた末のひっくりかえった思想 というのが面白いと思ったのですが。 やはり永遠回帰と永遠の現在は表裏一体? ただ、自己超克とか自己止揚とか以前調べて疑問に思ったというか違和感があったのは 円環の時間という静止した時間と、弁証法の変化する直線の時間は異なると思うのです。 悲観主義者が生命を肯定するようになるなら、その反対に永遠回帰から 悲観主義者に戻ることがあるのでしょうか。 力への意志というのはそれでしょうか。 永遠回帰と力への意志は両立するのか別の思想なのか。 このあたりがまだよくわからない。

  • kaitara1
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回答No.1

その時とは自分の死のことでは。

bragelonne
質問者

お礼

 かいたら1さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  その《死》とは タトエですか?  その《死》とたとえられたときには 《固有のとき》を見ることが出来るだろうと。  そのタトエの内容は さらに具体的にイメージできますか どうですか?  あるいは 実際の死のこととして言っていて 要するにそういう《とき》は人間には見ることができない。というご見解ですか?  後者なら あらためて回答内容はこうなりましょうか。  つまり 一般には《死に際して わが固有のときに会える》と言えるのかも知れない。  けれども生きているあいだには無理である。  まれに生きていてその《とき》に出会う人がいるかも知れない。  だが 稀れである。  ――といったご回答になるのでしょうね。  問題は じつはまだ終わりません。  では――と大いにさらに問いたいと思うのは―― まだ経験していない《死》のときには いま問い求める《おのおのにとっての固有のとき》が見られるかも知れないと あなたに思わせたもの これは何でしょう?   という問いです。  漠然としたかっこうで《自己が自己に到来し わたしは自由にわたしである時》がありうる。  という記憶があるのでしょうか?  それゆえ――そのあこがれのようなもののハタラキとして―― いつかはその《とき》にお目にかかれると想像したということでしょうか?  だとしたら そのような想像のハタラキやそれを起こす記憶の内の何らかの像 これは いったい何でしょう? どうお考えになりますか。  長く細かくなりましたが よかったら お考えをお聞かせください。

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