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本居宣長はなぜ天皇制を肯定しているのでしょうか
最近私は本居宣長に興味をもつようになりました。彼の著書についていくつか読むにつれて、ある疑問が生じるようになりました。 彼はなぜ天皇制を肯定し、国家を賛美するナショナリズムに傾倒するようになったのでしょうか。「もののあはれ」を肯定する繊細な思想家と、ナショナリズムを賛美する国家主義者ではあまりにも違いすぎます。 「もののあはれ」の思想と天皇制肯定の主張はどのようにつながっているのでしょうか。もしくは全く別の論理から導き出されているのでしょうか。 国学関係にお詳しい方がいらっしゃれば教えていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
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こんにちは。 単なる感想です。 宣長は明らかに すめらみことの統治する国ということと もののあはれの心をつなげています。前者ゆえに後者があるとさえ言いきっていると思います。 ですから 国家主義とは同じではないでしょうが――それでもすでに秀吉が 朝鮮半島やらに侵略の手を伸ばした歴史があるのですから―― おおむねやはりつながっていると考えるべきでしょうね。 なぜ宣長は国の次元と個人の心の次元とを一緒くたにして捉えることしかできなかったのか? まぁこの二階建てになった社会構造が 国の家とまで言うようにあまりにも見事に――なぜなら 一階の庶民らは 和をとうとぶ極めておとなしい人びとであったから―― 出来あがっていたというほどに見るより仕方ないのではないでしょうか? 感想でした。 * 古事記をよく読めば アマテラス帝国の話によりは 明らかにスサノヲ市民あるいは常民らの堂々とした日常生活のありさまのほうに 重きが置かれているということは分かるはずなのですが これを分割して捉えることを嫌ったのでしょうか? つまりスサノヲないしオホクニヌシらは 明らかに姉のアマテラス側にくにゆづりをしているからでしょうね。ゆづったのですから おめおめとちょっとやそっとで返せとは言えないし 言わないでしょうね われら日本人は。 第十代崇神ミマキイリヒコは アマテラス公民の職にありますが むしろスサノヲ市民側の市長であり人間です。応神ホムダワケ(ないしその母の神功オキナガタラシヒメ)の頃から 一部のスサノヲ市民の中からのアマアガリ症候群とじっさいの行動が始まります。 それまでは社会は 市長というそれとしてのアマテラス職はすでにありましたが 平屋建てでした。 二階建てになっていたとしても 平屋建ての頃のかむながらの道が基礎であり土台であるのだから だいじょうぶだと見ていたのでしょうか。
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- kurasada
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そもそも「ネーション」とか「ナショナリズム」なる「文化」は本居宣長が生きていた時代(1730-1801)の日本にはまだ西洋から伝わっていないと思います。 (ヨーロッパでもナショナリズムというイデオロギー、運動が顕著になるのは1789年のフランス革命があって19世紀以後のことです)
- kadowaki
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>彼はなぜ天皇制を肯定し、国家を賛美するナショナリズムに傾倒するようになったのでしょうか。 う~ん、宣長のいかなるテクストに「天皇制を肯定し、国家を賛美するナショナリズムに傾倒する」という記述があるのでしょうか? と言うか、そもそも質問者さんの脳裏にある「天皇制」とか、「国家を賛美するナショナリズム」とかといった観念と同じような、あるいは類似の観念が宣長の脳裏にあったとお考えでしょうか? >「もののあはれ」を肯定する繊細な思想家と、ナショナリズムを賛美する国家主義者ではあまりにも違いすぎます。 宣長のライフワーク『古事記伝』をお読みになればお分かりのはずですが、彼は『日本書紀』と『古事記』を比較し、後者の方をこそ古代の人々のあるがままの生活をよりリアルに記録しているがゆえに、『古事記』こそ本当の意味での歴史書であると説いています。 こういう発想をする人がはたして「国家主義者」になれると思われますか? そもそも、天皇という存在は、中国から流入した大帝国の政治体制を模した政治的(漢字文化的)な長という側面と漢字伝来以前の呪術的(音声文化的)な長という側面との両面性を兼備したまま現代に至っていると言えるのではないでしょうか。 たとえば、『うひ山ぶみ』では、「漢意儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし」と説いていますが、これは取りも直さず、天皇の呪術的(音声文化的)側面、つまり『古事記』的側面を重んじているということでして、そういう宣長が「そもそも此道は、天照大御神の道にして、天皇の天下をしろしめす道」と言ったところで、決して現代の政治的コンテクストにおける「天皇制」とか、「国家を賛美するナショナリズム」とかを想定していたわけではないのです。 >「もののあはれ」の思想と天皇制肯定の主張はどのようにつながっているのでしょうか。 「もののあはれ」論にしても、『日本書紀』よりも『古事記』をより高く評価するのと同じ発想から出ているわけでして、宣長はそもそも政治的、道徳的、概念的な発想を退け、善くも悪くも人間の天然自然のあり方を重んじようとしただけにすぎません。 それが最終的には「かむながらの道」に通じると考えていたのではないでしょうか。 ということで、宣長の頭の中には、現代的な意味合いでの「天皇制肯定」という考えなど、微塵もなかったと思われます。
- phj
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本居宣長の時代では、「国」といえば統治者が居てなおかつ中国皇帝に冊封してもらって、「国」を安定するしかありませんでした。それが東アジアの現実でしたし、琉球も朝鮮もベトナムもそのようにして国の安定を保っていたわけです。 ところが日本だけは大陸からちょっと離れた島国であることいいことに、(中国皇帝から見れば)昔から勝手なことをして「国」の対面を保ってきていたわけです。 本居宣長から見ても、日本が独自の道を歩みはじめたと認識できたのは大和朝廷の成立ごろだと認識したのではないでしょうか。要するに東アジアで 中国皇帝に(当時は隋)「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」などという文章を送りつけた国は日本以外無いわけです。(あったとしても滅ぼされていますね。陸続きですから) この国書から本居宣長の生存した時代まで、千年以上「日本」という国は存在し続け、天皇家もずっと続いていたわけです。この間、中国でさえ隋・唐・十国・宋・明・清と変わりその王朝の民族が違う(つまり文化も違う)という現実を考えれば、日本の文化の独自性・連続性と天皇(つまり日本国)の連続性に思い入れが入るのは当たり前だと思います。 「もののあはれ」など本居宣長が大切にした思想自体が平安時代までに出来た思想・概念ですから、当然それに対する当時の朝廷の体制や対応(古事記などを後世に残したこと)に尊敬の念を持つのはごく当然の感情だと思います。
- cyototu
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何も矛盾してはおりません。彼は日本人の心に魅了され、それを何処までも押し進めようとした方です。その心を探るには、先ず、徹底して外国からの異質の物の見方を本来の日本人の物の見方と分別して行かなければならない。以下は、彼の『玉勝間』の一節です: がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意(カラゴコロ)をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古ヘの意はしりがたく、古ヘのこゝろをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける、そもそも道は、もと學問をして知ることにはあらず、生れながらの眞心(マゴコロ)なるぞ、道には有ける、眞心(マゴコロ)とは、よくもあしくも、うまれつきたるまゝの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、眞心をばうしなひはてたれば、今は學問せざれば、道をえしらざるにこそあれ、 したがって、彼は日本人の心の中から、儒教と仏教の影響を排除した物の見方をトコトン追求して行きました。その凝縮が「もののあはれ」です。彼のこの態度は、例えば彼の思想的後継者の一人、平田篤胤にも受け継がれ、例えば、篤胤の『霊能真柱』を読むと、漢字を徹底的に訓読みして、漢意(カラゴコロ)の排除を実戦しております。この日本至上主義が神国日本を讃え、天皇制を讃えるのは至って自然なことです。 本居宣長も平田篤胤も、漢字の音読みどころか「ナショナリズム」などの外国かぶれ詞(トツクニカブレコトバ)を聞いたら、激怒(ハゲシクイカリ)すると思います。篤胤なら、「日本のナショナリズム」を、さしずめ、ヤマトノクニホマレゴコロと読むかもしれません。