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世の中 極楽になれば 人は極楽にいると言う・・・

 このような論理から わたしたちは卒業せねばならないのではないか?  自己チューでなくなるなら 極楽になると言う。  ああーあと思って 嘆くならば ますます嘆かわしくなる。  それではと あわれに思い あわれもうとすると  いや これは あわれむに値しない代物ぢゃわいとなる。  取ってつけたような虫のよいきれいな理念の主張から わたしたちは卒業しなければならないはずだ。  だとすれば どうすれば よいでしょう?

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  • Tefu_Tefu
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回答No.10

こんばんは >地上の楽園 エデンの園のお話のようですね そこでは 人間は自然と共存して生きていたのでしょう 迂闊にもアダムは 知恵の樹の実を食べたために死を畏れるようになってしまった 自然とは 生き物の日々の営みのことだと思います 現代の人間は 過剰に防衛しています コンクリートの部屋に自らを閉じ込め 妄想の産物(生きるのに必ずしも要らない物)を友として 他人を畏れる 人間が一番の天敵になっている なんと 愚かな行為でしょう 本来の生き物の営みは 自然と共存することですので 環境に適応した人間は 自然に順応するようにできています 私は人間が生活しやすい環境は 生き物にとっても良い環境だと考えています 人間は 過去に何度も滅びようとした時に 古代都市を放棄してきました 現代の人間の文明の象徴である都市も いずれ放棄する時がくるのではないかと思います そして 生き残った少数の人達が環境を変えることで 新しい文明が生まれる また放棄する の繰り返し まづは 光の源である太陽エネルギーを手に入れることができるかどうかでしょうね 現代の人間は 地球の生き物の最終進化形態なのでしょうか? 未来に於いて人間は 自然環境を制御するのでしょうか? それらが 生命の樹のことであり 人間が地上の楽園を得る方法だと思います とは書いてみましたが 今を自己中に生きればいいのかもしれませんね 自分の信念だけが楽園とも云えますし(笑) 真実の愛は 自己愛のような気がします  世界で一番の嫌われ者が自分だとしたら その自分を愛せるのは自分以外にはいないと思います

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさんは お久しぶりになりますね。お早うございます。ご回答をありがとうございます。  さて いつわりのない反応をつづってまいりますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  迂闊にもアダムは 知恵の樹の実を食べたために死を畏れるようになってしまった  自然とは 生き物の日々の営みのことだと思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。微妙に違う場合というのは 徹底的に自分に合うように自己表現をこころみたいと思うものです。  (あ) 《自然》とは 思考の領域を超えた次元で言う場合を別とすれば いわゆる自然史過程でしょう。  (い) ということは 環界の自然は そのまま自己運動をすすめているでしょうが 人間と社会のこととしては 狭義に《何もしない自然〔にしたがう行動〕》と《人為・作為を意志行為としておこなう行動》とがある。  (う) 後者の《人為の過程》は 言わずと知れた社会の相互関係かつそれらの織り成す構造となっている。  (え) 究極的な《何もしない自然――無為自然?――》と照らし合わせるなら この一般的な社会としての自然史過程では 一人ひとりの意志行為とそしてしかもその意志のハカラヒのようには必ずしも成らないというところが 特徴である。  (お) ★ 生き物の日々の営み  ☆ は このように成り立っていると思います。  (か) ★ 死を畏れるようになってしまった  ☆ ビミョーです。  (か-1) おそらく人は 誰もが老いておとろえて来ると たおれる・そして眠りに就くといったふうには知っていた。つまり 死を死ぬとはまだはっきりとは知らなかった。もう二度と起き上がって来ないのだとは知りたくなかった。  (か-2) 動物のむくろは 知っていた。しかも人間の場合も同じように その身殻には蛆虫がたかっていてもう――少なくとも からだとしては――どうすることも出来ないと分かっていた。  (か-3) 年ごとに生き返る木々も 中には根こそぎにされ朽ち果ててしまうものもある。こうしておそらく死は知っていた。  (か-4) だから エワもアダムも わが心のおもむくところに背向いて思いを持ちことをおこなった。要するに ウソをつくことです。このことで――つまり言いかえると われわれ人間はそれぞれの意志行為として 自由に思考し行動しているが この自由には わが意志わが心にさからう自由もあると知ったことで―― 《自然史過程》の全体を生きることそのことに畏れをいだき 死を死として知った。  (か-5) けれども 死をつまりわが存在はかぎりある生を生きるものだと知ったところ それがかえって人の心性を高め 意志自由についてよく考えるようになった。自然史過程なる世界の内に入った。  (き) ひとに起こったこのようなたましいの軌跡について 善と悪とを知る木から採って食べたと表現したのだと考えられます。  (く) ちなみに エデンの園を去ったにんげんは その園での心性よりもさらにすぐれた――脛に傷を持ちつつもより一層ふかくひとの自然本性に根差しこの持ち前のチカラをよく発揮するようなさらにすぐれた――境地にみちびかれるものと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  現代の人間は 過剰に防衛しています  コンクリートの部屋に自らを閉じ込め 妄想の産物(生きるのに必ずしも要らない物)を友として 他人を畏れる  人間が一番の天敵になっている なんと 愚かな行為でしょう  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。てふ_てふさん 韃靼海峡をわたりましたね。  あたまがよいと言っても 小さな四角いサッシの窓から世界を眺めてああぢゃこうぢゃと言っているだけではないかと。  ★ 現代の人間は 地球の生き物の最終進化形態なのでしょうか?  ☆ どうもじんるいもその前史を終えるような段階に来たのかも知れません。《互いの自由な話し合いでことをはこぶ》という共生の方式が成就しつつあるというのは 歴史のひとつの果てに来たのかも分かりません。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とは書いてみましたが 今を自己中に生きればいいのかもしれませんね  自分の信念だけが楽園とも云えますし(笑)  真実の愛は 自己愛のような気がします   世界で一番の嫌われ者が自分だとしたら その自分を愛せるのは自分以外にはいないと思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うまいこと 書きますねぇ。

その他の回答 (13)

回答No.3

ぶらじゅろんぬさん、ご返事ありがとう。 > ☆ これは 極楽を理想とか目的とかにしてはいないと思います。 :うん?そうかなあ。 そらに絵を描くみたいな理想論が今日も聞こえるけど? こうしたら(分業)→こうなる(博愛)→しあわせ(充足)? あ、ちょっと書き過ぎかしら。 >その内のひとつのコートで 片方のプレーヤーが   その《わめき続けている人》であるわけです。 :あらそれは困りましたね、まぢめにプレイしてくれないと ゲームが成立しませんからこれほどムカつくことはない。 おいらなら毎回毎回ゲームが成立しない人とは もうゲームをしません、以下余白にして他の人とあそびます。 だって人のためにムカついて差し上げる義務はない。 _________________ あと、「自己チュー」について(前も話したことあるかな)。 自己チューというのは、 世界中のみなさまに誓って大切にします、 オレの意志とか自由とか権利とか責任とか義務とか行動を。 オレぢゃないヤツのも同様に大切にします、 ということです。 別にいけないことではありません。当たり前です。  

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  そらに絵を描くみたいな理想論が今日も聞こえるけど?  こうしたら(分業)→こうなる(博愛)→しあわせ(充足)?  あ、ちょっと書き過ぎかしら。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あっ。そちらの話だったんですか。  質問の中でわたしのほうが 極楽を理想として設定しているのではないかと訊かれたと思いました。  あちらの話としてなら何しろ 自己は宇宙だそうですから。認識の深まりにおいて その宇宙状態は 極楽なんでしょうね。  書きすぎたかな。    ★ おいらなら毎回毎回ゲームが成立しない人とは / もうゲームをしません、  ☆ 相手も 実際のところ ゲームはしていないのでしょう。ゲームする気もないのでしょう。  ボールだけは こちらのコートに打ち込んで来ます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   あと、「自己チュー」について(前も話したことあるかな)。  自己チューというのは、  世界中のみなさまに誓って大切にします、  オレの意志とか自由とか権利とか責任とか義務とか行動を。  オレぢゃないヤツのも同様に大切にします、  ということです。  別にいけないことではありません。当たり前です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 確かに。  おまえの意志やかれの自由やかのじょの権利・義務を中心にして 行動されたらたまったものではありません。  まづは 自分。決まってますよね。  まぁ こういうスレッドを用意したというところまではちゃんと用意した。という自己満足でもいいとして。・・・  ご協力をありがとうございます。

回答No.2

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。おひさしぶりです。 極楽ぢゃないと→生きていかれない、に違いない、 とわめく弱虫や臆病者や夢想家(おいらのことかもしれません) がいるだけだと思ってやってください。 極楽というオモチャはあってもいいけれど、目的ではなく、 何よりも「生きている」が先。

bragelonne
質問者

お礼

 にゅうとらるさん こんにちは。例によって午後は見舞いに行っていました。ご回答をありがとうございます。  回答がつくかなぁとあやぶんでいました。でも ひとつの質問として挙げておいたほうがよいと 踏ん張りました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  極楽ぢゃないと→生きていかれない、に違いない、  とわめく弱虫や臆病者や夢想家(おいらのことかもしれません)  がいるだけだと思ってやってください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問題は それで済むかだと思います。済みますか?  いくつかのテニスコートがあって その内のひとつのコートで 片方のプレーヤーが その《わめき続けている人》であるわけです。  こちらは となりのコートでプレーしているからと言って 放っておけますか? 黙って横目でちらっちらっと見ているだけですか?  それでよければ よいと思います。  そのわめきは じつは きょうも明日も 同じように繰り返されます。・・・  ★ 極楽というオモチャはあってもいいけれど、目的ではなく、 / 何よりも「生きている」が先。  ☆ これは 極楽を理想とか目的とかにしてはいないと思います。話のたとえです。よ。

回答No.1

誰もが自己中なんですよ。 自分の思うとおりにならないから悩み、苦しむ。 自分のおもうとおりになってほしくないから悩み、苦しむ。 万物は流転し、変化し続けている。 一瞬たりとも遅滞も減速も無く、草木も、水流も、大人も子供も、山も海も、人工的な物ですら、原子や素粒子の単位で見れば、目にも止まらない速度で変化している。 自分自身ですらも一ヶ月すれば体内の細胞は全て入れ替わっている。 ただ、脳細胞が起こす記憶という錯覚の中で、自分はあると勘違いしてもがいているのだ。 こんなことは学校でも教えてくれない。

bragelonne
質問者

お礼

 ふくぞう2013さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 誰もが自己中なんですよ。  ☆ そうですよ。そう言っています。つまり  ☆☆(趣旨説明欄) 自己チューでなくなるなら 極楽になると言う。  ☆ その発言も 自己中からのものです。  人間が・殊に個別のわたしなる存在が 人間なる自分自身を物差しとして世界を見る。むろん出来るだけ普遍的な認識を得ようとします。けれども 最終的には いかに誰もが認める内容であったとしても それは 自己中心的な判断によるものです。  《自己チューでなくなるなら 極楽になる》という判断は 自己中にもとづくものです。  また それでよいはずです。人びとは互いにおのれの見解を自由に発表して よりよい考えや政策を共有しようとして行けばよいはずです。  言いかえると 《自己中でなくなると 世の中は極楽になる》とか《自己中でなくなれ》とかと言うのは おかしい。意味がない。――こういう問いです。  ★ 自分の思うとおりにならないから悩み、苦しむ。  ☆ これが ふつうです。  ★ 自分のおもうとおりになってほしくないから悩み、苦しむ。  ☆ ん? そういう場合もあるのですか?    ☆☆  だとすれば どうすれば よいでしょう?  ☆ となりましょうか。

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