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真の宗教と真の科学
真の宗教は科学に頼らないし、真の科学は宗教に振り回されない。 宗教の正しさを科学によって裏付けようとする宗教は真の宗教ではなく邪教である。 宗教に依存する科学は真の科学ではなくエセ科学である。 宗教と科学はそれぞれ次元の異なる別々の世界だからである。 宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである?
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真の宗教は正しさを問われることはない。宗教は世の道、人の道の精神的な面を説くものであり、その教えに共感できない物に対して強制する性質のものではないのだから、証明を必要としない。 真の科学は物理法則以外の何ものにも左右されず、普遍のものである。科学はある系に対して実際に観測される事象の因果関係を証明するものであり、科学的手段を用いていない説明は単なる仮説として扱われるだけである。 従って、真の宗教と真の科学にはその性質において重なり合う部分はなく、人の「欲」だけが両者を繋ぐ鍵となりうる。
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- kurinal
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こんにちは。 そのように並べられてみますと、 科学(の自由)というものにも「限界」があるのかなと。 「後戻り出来るスピードで、ゆっくり「発展」しましょう」 というのを、聞いた事があります。 「理性」というのが、「ある特定の宗教(的価値観)に照らして、どうよ?」という こととすると、 科学のほうは「合理性」ということに基づくものと考えます。 (例)「理性的には、太陽が地球を回るが、合理的には地球が太陽を回っている」 結果、「理性」のほうが折れる。 「融合」というより、・・・そんなことの繰り返しではないのですか。
- gouzig
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No.20gouzigです。 質問の最後に「宗教と科学は融合するものではなく分離し独自の道を歩むべきである?」のことば。 それぞれ独自の道でよいのです。 宗教を邪教などと誹謗する必要はないのです。 utayomi_2011さん、徐々に言葉使いが荒くなっているのは、まだ幼い証拠。 もっと人生経験を積み重ね、多様な価値観を享受するようにならないといけませんよ。 独りで考えているだけでは、多くの賛同は得られません。
どちらに付くつもりもありませんが、回答No.18に対する質問者のお礼の内容に不満があります。 証明しろと言われて抽象論を持ち出して、自明だと言い切るのはいかがなものでしょうか。 そういう時は普通具体化しませんかね。 回答No.16に対するお礼もおかしい。 何を確証に断言してるんですか。 偏見染みた憶測で勝手なこと言ってもネット以外じゃ誰も相手にしてくれませんよ。 それとも具体的に説明できないんですか。
- gouzig
- ベストアンサー率25% (536/2078)
No.18gouzigです。 その証明をしてください。 →「それは簡単である。 この世界に宗教は雨後のタケノコの如く数多くあれど、その殆どは邪教だからである。 そもそもこれらの宗教は自らの教えを信じてはいないのである。 だから科学に接近し、科学が作り上げた成果物を利用し、科学のお墨付きを得ようとするのである。 そこにはもとより信仰など無いのである」 utayomi_2011さん、それは証明になっていませんよ。 ご自分の文章をよく読んでみてください。 ご自分で勝手に邪教と言っているだけで、客観的な証明になっていませんね。
お礼
えーと、質問に書いてあることは正しいと考えるのであればどのように正しいのかは自分で分かっているんではないのかい。 で、どのように正しい?
- 0fool0
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>一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である。 そして科学に依存し科学のお墨付きを得ようとする宗教は決まって邪教である。 科学が宗教に依存することは無いなずである。 言葉に棘を感じますが、同感です。 科学は「実証」が出来なければ意味が無いですからね。 また「実証」に便乗するだけの思想は、詐欺商法の典型と同じですから。 でもそんな瑣末な事より、其処まで「形に拘る理由」を自分の中に見出す事の方が楽しいかもしれませんよ。
- gouzig
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No.15gouzigです。 「誤解のないように一つ補足しておきます」 一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である」 →何故、宗教が科学に依存しようとしているといえるのですか? その証明をしてください。 私は宗教が科学に依存しようとしているとは思いませんし、宗教に科学的証明が必要だとはまったく考えていません。
お礼
>→何故、宗教が科学に依存しようとしているといえるのですか? その証明をしてください。 それは簡単である。 この世界に宗教は雨後のタケノコの如く数多くあれど、その殆どは邪教だからである。 そもそもこれらの宗教は自らの教えを信じてはいないのである。 だから科学に接近し、科学が作り上げた成果物を利用し、科学のお墨付きを得ようとするのである。 そこにはもとより信仰など無いのである。
- suzumenokox
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真の科学と真の宗教はそれぞれの本質を見失わずにそれぞれなりに先へ進んでいけば、矛盾することなく融合することが可能になるのではないかと思います。
お礼
少しコメントします。 真の科学と真の宗教はそれぞれの本質を見失わずにそれぞれなりに先へ進んでいけば良いのである。 2つが融合することが目的ではありません。 またその結果2つが融合しようがしまいが互いに関知しないことである。
- tumaritou1
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宗教の意味を貴方は誤解していると思います。或は科学の意味もです。科学も宗教も同じに『人間の幸福の増進を目指す学問』と言う意味においては同列と思うからです。 今の精神医学を見た時、医学は科学であると表現する事は出来ると思います。ですが行き詰まっています、その理由は『心の癒し、或は人間の魂の救い』、簡単に表現するなら『心の苦しさ』を和らげる効果を求めるものが『精神科医や心療内科の仕事や責務』と思いますが、そう云った指導的な役割をする医学者が『国家権力の元において医療に従事出来る構造を形成しています。』 その頂点に立っている指導的な役割を担う人達が『精神科医』と表現出来ると思います。今現代の世界中でその精神科医が処方した『薬』によって、交通事故以上の死者が高止まりに推移しているようです。 その原因は簡単に憶測出来ます、人間の心が何故苦しくなるのか?或は如何したら心の苦しさが解消出来るのか?と言った基本的な原理でさえ解明出来ていないからと思います。その端的な例が『精神科医の自殺率の高さ』です。人の心の苦しさを和らげる仕事を専門にしている人達の集団の自殺率が、他の医師達の自殺率よりも高い事で証明されています。 早い話が『自分の心のケアーさえ出来ない集団が』本当に心が苦しい人達の治療に従事している事が原因と言う意味です、元を正すなら、原因がわからないのに、治療が先行している事です。 如何したら心が苦しくなくなるのかを、知らないで治療に入っているからと思います。逆な言い方をするなら『何故心が苦しくなるのか?』の研究が不足しているからと思います。 人間は何故苦しまなければならないのか?の研究がなおざりになっている事が『全ての原因を作っていると思います。この研究が進まない限り『精神科医達の自殺率など減らす事が出来ない事は明白』と思いますし、そう云ったノウハウを持たない医師が『他人を救う事など出来る筈など無い』と思う事は、誰の目からみても明白と思います。 此処に宗教の力が必要になると思うからです、仏教の原点は釈迦の『一切皆苦』だと思います、一切皆苦の世界観は『意識地獄』を指すと思うからです。意識地獄はノイローゼの世界観と思います。 同じ時代に、同じ世界を見ながら生きていながら、片や意識地獄に苦しみ、片や平穏無事に暮らす事が出来ている、この違いを読み解く事が『始めの一歩に成ると思います。』 意識地獄がノイローゼと書いていますが、ノイローゼには沢山の症状群が在ります、始めにノイローゼの定義を書いて置きます。 ノイローゼとは『自分が、現実には存在しない悩みや、苦しみや、幻想』に取り付かれてしまって、恰も現実の世界で、その『悩みや、苦しみや、幻想』に現実に対応している場合と思います。 現実には存在していない『悩みや、苦しみや、幻想』の中にどっぷりと漬かっているという錯覚がノイローゼと言う意味と思います。 抜け出す事が出来ないでいる、と言う思い込みの世界が『一切皆苦』の世界観ですので、他の道が全て閉ざされてしまったと錯覚をする世界観です。 今の医学では、こう云った世界から『人間を救い出す手段は”薬”が主流になっているようです。』そうして麻薬で救われる人がいないように、処方する人も処方される方も、救われた感じがする事は『刹那的であって、根治や完治』など無い事を知りながら、一つの対症療法でしかないと思いながら、薬に頼っているようです。 そうして精神薬の副作用には『自殺をする可能性は書かれています。』 科学的に悩みや苦しみの構造は『二つの心の関係性です。』つまり、心の矛盾が関係しています。人間の心が一人の人間の脳内に二つ存在している科学的なデータです。 脳の機能分化に関する化学的なデータです。ウイキペデアからです。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 更にこの記事を補強するために、或る脳科学者が『自分自身の内面から』脳の機能分化の体験を脳卒中の為に『体験せざるを得なくなった』貴重な体験談を語っている動画を載せてみます。 もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この二つのデータから想像出来る事は、二つ在る心のうち『どちらに重心を置いて生きるのか?』だと思います。 メンタル面が弱いと言う場合では、左脳の意識『自我意識が出てしまって』右脳の機能の働きを減殺している事です。 逆にメンタル面が強いと言う場合では、『自我』と言う意識は忘れ去られていて、右脳の人格がその人を支配している事です。 人間の魂の救いと言う意味は『心の矛盾の解消』を意味しています。動画にある通りです。 右脳の機能は『赤ん坊が何も学ぶ事が無かったとしても』全てを知っている事実があります。 聖書の言葉『失楽園』は、右脳と左脳が別々に機能を始める事を書いています。思春期頃に脳内の人格が二つになって別行動を模索し始めると言う意味です。 見ている自分、に対して見られている自分と言う風にです。この二つの意識の争いを『心の矛盾』として感じていると言う意味です。 その結果、恥ずかしい、劣等感と優越感、悩みや疑問、等数え上げたらきり際限が無いほどの感情が沸き上がり始めています。 その疑問の最たるものが『自分は何者か?』と言う疑問です。或は不安や恐怖心です。 心を病む、神経症になる、難治性の心身症になる、と言う意味は『自分自身を働かせている、『自分自身の識られざる神』二疑いを持つと言う意味になります。 赤ん坊でさえ持っている『心の秘密』を疑う時、心を病むと表現したり。 赤ん坊でさえ持っている『身体の自在性』を疑う時神経症になったり、 赤ん坊でさえ持っている『身体の生命維持機能』に疑いを抱く時、難治性の心身症になっています。 全ては赤ん坊でさえ既に知っている機能の使い方を、疑う事が発端になっています。
お礼
>『心の苦しさ』を和らげる効果を求めるものが『精神科医や心療内科の仕事や責務』と思いますが、・・・ 一つはっきり言っておきます。 精神科医が心の病を治すことは絶対に出来ません。 精神科医が処方するどのような薬も心の病を治すことは絶対に出来ません。 また宗教が人の心の病を治すことも出来ません。 唯一心の病を治すことが出来るものが有るとするならそれは本人の「思想と哲学」以外ありません。
- gouzig
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gouzigです。 質問に書いてあることはその通りですが、お礼コメントの「全て邪教」はいただけませんね。 それらの宗教は科学で証明しているわけではありません。 つまり科学と混同してはいません。 もしかして、utayomi_2011さんは科学信奉者? 或いはある宗教の信者かな?
お礼
>「全て邪教」はいただけませんね。 誤解のないように一つ補足しておきます。 一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である。 そのような宗教は自らの教えを信じることが出来ないので科学に依存し、科学のお墨付きを得ようとするのである。 だから科学に接近したがる宗教は決まって邪教であり要注意であると申しております。
utayomi_2011さん、はじめまして。わたしも日頃から疑問に感じてをりますので、返答いたします。 >>真の宗教は科学に頼らないし、 >>真の科学は宗教に振り回されない。 おつしやるとほりです。 >>宗教の正しさを科学によって裏付けようとする >>宗教は真の宗教ではなく邪教である。 そのとほりです。 でも日本ではあまり議論されることがないので、このサイトで提起なさつても具体性が乏しくなります。 いちばん有名なのは聖書の真実性を証明しようとする「創造科学」でせう。ノアの洪水の証拠を見出さうと躍起になつたり、恐竜と人間が同時代に生きてゐたことを示す化石を探したり、生命の起源に関する科学的根拠の不確かさを神による天地創造の信頼性にむすびつけようとしたり、不毛な議論が果てしなくつづきます。 イスラム教の場合でも、豚肉を食べることが禁止される理由として、数多くの「科学的」根拠を示す人たちがゐます。私はやはらかくておいしいから、好きですけれど。 もちろん、宗教とは、そんなことをするものではありません。 >>宗教に依存する科学は真の科学ではなくエセ科学である。 たしかに「依存」するのは、「エセ科学」です。特に有名な人は、よくもわるくも、アイザック・ニュートンでせうか。 >>宗教と科学は融合するものではなく、 >>分離し独自の道を歩むべきである? そのとほりです。 しかし、すべては人間活動の一部であり、完全に切り離すことはできません。宗教的な事柄が発想のヒントとなつて、新たな科学的発見につながるかもしれません。天才科学者とみなされるか、マッドサイエンティストと呼ばれるかは、紙一重です。 科学では解決できてゐないものに、解答をあたへる、 宗教では満たされないものを、説明する、 それが哲学の役割であり、私がここで、utayomi_2011さんをはじめとする、みなさんに教へていただきたい事柄です。 なほ、私をふくめ哲学カテゴリで宗教を論じてゐますが、それはこのサイトのシステムでそのやうに指定されてゐるからであつて、私はきちんと「宗教カテゴリ」をつくるべきだとおもひます。
お礼
>真の宗教は正しさを問われることはない。宗教は世の道、人の道の精神的な面を説くものであり、その教えに共感できない物に対して強制する性質のものではないのだから、証明を必要としない。 完全に正しい!!! >真の科学は物理法則以外の何ものにも左右されず、普遍のものである。科学はある系に対して実際に観測される事象の因果関係を証明するものであり、科学的手段を用いていない説明は単なる仮説として扱われるだけである。 完全に正しい!!! >従って、真の宗教と真の科学にはその性質において重なり合う部分はなく、人の「欲」だけが両者を繋ぐ鍵となりうる。 完全に正しい!!! つまり宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきであると結論できますね。