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真の宗教と真の科学
真の宗教は科学に頼らないし、真の科学は宗教に振り回されない。 宗教の正しさを科学によって裏付けようとする宗教は真の宗教ではなく邪教である。 宗教に依存する科学は真の科学ではなくエセ科学である。 宗教と科学はそれぞれ次元の異なる別々の世界だからである。 宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである?
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真の宗教は正しさを問われることはない。宗教は世の道、人の道の精神的な面を説くものであり、その教えに共感できない物に対して強制する性質のものではないのだから、証明を必要としない。 真の科学は物理法則以外の何ものにも左右されず、普遍のものである。科学はある系に対して実際に観測される事象の因果関係を証明するものであり、科学的手段を用いていない説明は単なる仮説として扱われるだけである。 従って、真の宗教と真の科学にはその性質において重なり合う部分はなく、人の「欲」だけが両者を繋ぐ鍵となりうる。
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- NemurinekoNya
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ここでいう科学とは自然科学のことだと思うのですが、 宗教と自然科学は、取り扱う対象が異なります。 自然科学で取り扱う対象は、再現性のある形而下的な現象のみ。 超自然の領域や神さま領域の話は、自然科学の対象ではない。 ですから、そもそも、自然科学に神さまの出番はないんですよ。 神さまという超自然的存在を仮定した瞬間、それは、もう科学ではない!! それは、《似非科学》です!! ☆宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである? ◇でしょうね。 取り扱う対象が違うので。 そして、それ故に宗教と科学は共存できる、と思いますよ。
お礼
>☆宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである? >◇でしょうね。 一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である。 そのような宗教は自らの教えを信じることが出来ないので科学に依存し、科学のお墨付きを得ようとするのである。 だから科学の接近したがる宗教は決まって邪教であり、要注意である。 一方、科学が宗教に依存することはあまり無いなずである。
- yuniko99
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宗教は人々を幸せにすればいいのです。 その為に世界観を語り 人生観を語る。 一方科学は形而下の物質やエネルギーの性質を明らかにすればいいのです。 宗教が科学にいちゃもんをつけたり 科学で宗教を潰す必要はないのです。 ただ科学によって生まれた武器が人々を苦しめ殺した時は宗教や哲学はそれが良くないことを知らしめなければならないし 宗教が間違った認識で人々を苦しめ 時に人々を殺した時は科学によって宗教の間違いを正さなければならない。 ただ 人々を苦しめ、殺す前に第三者がそれをやった方がいい。 ひょとすればそれは市民活動や教育や政治や哲学の役割かも知れない。 哲学よ 確りしてくれ。
お礼
>ひょとすればそれは市民活動や教育や政治や哲学の役割かも知れない。 >哲学よ 確りしてくれ。 同感である。 はっきり言って現代社会が今最も必要とするものは優れた思想であり、哲学なのである。 残念ながら今の世の中には哲学がないのである。 実は長年に渡り哲学の進歩発展を阻害してきたものがある。 それがキリスト教神学と呼ばれる宗教である。 今でも生き残っていてしつこく哲学の進歩発展を妨害し続けているのである。 この哲学カテにもいてしつこく聖書やキリスト教神学にまとわり付く愚か者が見受けられる。 哲学が宗教から脱皮できない限り哲学は真の哲学には成り得ないのである。
- Mokuzo100nenn
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似非の宗教と似非の科学を排除すれば、そこには真の宗教と真の科学が残るだけ。 でも、儲かるのは似非の宗教と、似非の科学だからなぁ。
お礼
>でも、儲かるのは似非の宗教と、似非の科学だからなぁ。 で、例によって肉食妻帯坊主が登場するわけである。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
All religions, arts and sciences are branches of the same tree. すべての宗教とアートとサイエンスは、同じ一本の木の枝である。 Science without religion is lame, religion without science is blind. 宗教なき科学は跛行者であり、科学なき宗教は盲目者である。 Body and soul are not two different things, but only two different ways of perceiving the same things. Similarly, physics and psychology are only different attempts to link our experiences together by way of systematic thought. 体と心は別のものではない。同じものを二つの違った方法で見ているにすぎない。 同様に、物理学と心理学は私たちの経験を一緒につなぐ系統立った思考による違った試みにすぎない。 If people are good only because they fear punishment, and hope for reward, then we are a lot indeed. もしも人々が罰を怖れ報酬を求めるというただその意味でだけ良い人間であろうとするのなら、私たちは本当に哀れな集団である。 Few are those who see with their own eyes and feel with their own hearts. 自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。 アルバート・アインシュタイン
- 0fool0
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融合しても良いし、分離しても良い。 どちらでも良いし、どちらで無くとも良い。 どちらかでないといけないと言うのは、ただの宗教。
お礼
一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である。 そして科学に依存し科学のお墨付きを得ようとする宗教は決まって邪教である。 科学が宗教に依存することは無いなずである。
無理だと思う。 こうしてインターネットを使ってまで話していることが 宗教の話だから。
- 雪中庵(@psytex)
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かつて、人の環境認識の手段が、日常的感覚であった頃、 宗教が哲学(価値観)や科学(世界観)を兼ねていた時代 があった。 遺伝の法則を発見したメンデルも、地動説を唱えたコペル ニクス(宗教に反するというので存命中は発表しなかった) もジョルダノ・ブルーノ(発表して火あぶりになった)も、 皆んな司祭や修道士であった。 上記に表れているように、観察器具や実験手段が発達する につれ、日常的感覚による宗教と乖離し始め、実験や観察 によって環境認識を深める科学と、それに基づいて思索的 に意味を探る哲学は、宗教から分離して行った。 そこにおいて、科学的手法の行きつく先は、1つには基礎 科学の持つ、還元主義的に原理的要素の相互作用として 現象的な複雑さを解析する方法と、もう1つは応用科学の、 科学的分析手法は用いるが現象的なまま法則性や可能性 の発見を行う方法である。 たとえば、生物学は元々は後者であった(メンデルが現象的 観察によって遺伝の法則を発見したように)が、その後 の遺伝子の発見から、遺伝子解析を経た遺伝子操作に 至る過程で、生物を観察する生物学から、それを構成する 分子や原子にまで遡って理解する過程で、分子生物学や 量子生物学といった分野が独立した。 原理的な要素把握もしていないのに、現象的な法則性を 普遍化するのは、日常的感受の向こうに第一原因として の神を見て安心していた宗教の影を引いている。 もちろん、上記の過程に見られるように、全ての現象的 多様性は、物質の本質たる量子(エネルギー最小単位に して物質の根源たる超弦)から導かれる方向に向かうが、 応用化学の実用的側面の実利において、そうした仮説的 信仰を除外できない。 多くの人が“お金”という信仰において、自己チューなまま 社会性に隷属しているように。
- gouzig
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その通りだと思いますよ。 実際に宗教と科学が混在したケースを知りませんが、utayomi_2011さんは具体的な事例をご存知なのですね? 具体的な宗教名は必要ありませんが、ご質問内容あるような事例が書いてあるともっと分かりやすいです。
お礼
宗教と科学が混在したケースはそこら辺りにいくらでもあります。 全て邪教です。 まず奇跡を説き、その奇跡が科学的である主張するキリスト教は真の宗教ではありません、邪教です。 ユダヤ教もイスラム教も同類であり、邪教です。 また輪廻転生を現実の現象と教えるヒンズー教や日蓮系宗派は真の宗教ではありません、全て邪教です。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 哲学は 次のように区別して捉えると考えます。 信仰: 個人の主観内面にのみ生きる。非思考である。 宗教: 信仰から出たもの。思考の分野に降りて来た。 信仰にあって得られた観想(ヒラメキ)について その内容を 経験合理性で思考し得て理解しうるか たちに表現したものを オシエとする。 しばしば このオシエを守るべき教義・規範とし て 組織をつくりその内外にも けっきょく《信仰》 をではなく 倫理規範などのオシエたる思想を広める。 科学: 経験合理性にどこまでももとづき世界を認識する 作業。 文学・芸術: 《オシエ》とすることはないが 世界認識 を 信仰や宗教や思想や科学などなどをすべて自由 に捉えまた交えて 想像力のかぎりで加工をもした りして 提示する。手段は ことばに限らない。 * * * エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。 言いかえると 言葉は 人が物心のつくにつれて わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らないものだと知る。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができるし 実際に つくことがある。そういう意味でも 表現は自由なのだ。と知った。 このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。 * ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。 こうなると ひとは自由であろうと望む。そのときには この自由あるいは人の自由意志を擁護したいと考えるならば たとえば《われ欺かれるなら われ有り》という考えをいだくようになる。これが 《哲学》である。 人が思惟をつうじて哲学を生んだ。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。 《われあやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自然本性の能力がある。そこには 自由意志とその自由がある。《われあり》なのだ。 したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びるものだという自戒を持たせた。と同時にその責任についての自覚が芽生え これが持たれた。自由と責任というもんだいである。 このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)ともプネウマ(神の霊)とも言った。 《責任をともなう自由》が人には生まれつき自然本性としてそなわるということであれば その自然本性には 人間のチカラを超えた何ものかのハタラキがあるに違いないと見た。これは 思惟を超えて・という意味は あたかも哲学を超えて わが心に《非思考の庭》を捉えることにまで行き着く。思考に非ず なのに そこに何かチカラのハタラキがあるのではないかと。これが 《信仰》と呼ばれる。 アートマンあるいは仏性があらゆるものに宿るであるとか ひとには 神の霊が宿るといった見方である。 この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。 神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これを あやまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺さない。ひとを殺すこともなければ むさぼることも裏切 ることもなかろう。 といった命題(判断)を得る。 この命題を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として抱き おのが心にやどる神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。 《わが心の内なる非思考の庭》の問題ではなくそこから離れ 戒律や道徳としてその《人間の言葉》に代えた。つまりそのときしかもこれを神のおきて(法)として 説き始めた。これが オシエであり 《宗教》である。 * 宗教は 一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この倫理規範と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。 やがてこれが権威とさらに権力をも持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということであるが(われ欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。 宗教は 早く言えば 個人の信仰の自殺行為である。そのセミの抜け殻である。自由から出発し 自由を問い求めて来たひとつの結果が このオシエをつうじて 何ものか上に立つチカラによってその自由がおさえつけられるということになった。 非思考という信仰にある自由が 倫理思想を生んだ。それを 規範としたところで そのオシエ経由による自由でしか無くなった。 * 《科学》は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。 それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。 あるいは だれの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとすれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する。 そのような人間の自己表出および自己表現なる行為である。 ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。 * このようにして 世界のすべて・歴史上の人間のあらゆるいとなみについて考えこれを 認識し整理しておく仕事が 哲学である。つねに より妥当性のある認識をもとめてその仕事はつづきます。 ちなみに 哲学はこのようにしてあらゆるものごとを視野におさめ 想像上においても論理的に考え得るあらゆる可能性について考え尽くすことをもおこないますが このとき その時代やその社会に視点を絞り込む場合があります。 それは そのいま・その場(社会)で必要有益な事柄に集中して 認識をおこなうと同時にさらにはそこから問題を取り上げそれについての取り扱いを考えるものでありこれは 《思想》と呼ばれます。 もっとも思想も 哲学にもとづくものですから それほどの違いはありません。
で、そう言うのであれば、科学と宗教のそれぞれの定義を 理解できていますか? 辞書どおりの意味だけでも把握 しておれば、そんな陳腐な単語は並べられないだろう。 因果を明確にし、一定の価値基準の下に論証を行うと 言う点に関して言えば、宗教と科学には共通する点がある。 融合と分離しか無いのかとツッコミを入れたい。 「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である (Science without religion is lame, religion without science is blind.)」 かのアインシュタインの言葉です。この意味を考えてみましょう。 但し、ヒキコモリになって考えろというのではなく、他の回答者も 言うように、現実の生活において論証実験をしてみろという事です。
お礼
>因果を明確にし、一定の価値基準の下に論証を行うと 言う点に関して言えば、宗教と科学には共通する点がある。 一つ言っておきます。 真の宗教とは実は単純なものである。 念仏を唱えさえすれば極楽浄土へ行けると信じ、ただただ南無阿弥陀仏と唱える。 これが真の信仰である。 そこに何の論証も有ってはならないのである。 ただただ信じる以外ないのである。 それが出来ないものは全て邪教である。
お礼
>真の宗教は正しさを問われることはない。宗教は世の道、人の道の精神的な面を説くものであり、その教えに共感できない物に対して強制する性質のものではないのだから、証明を必要としない。 完全に正しい!!! >真の科学は物理法則以外の何ものにも左右されず、普遍のものである。科学はある系に対して実際に観測される事象の因果関係を証明するものであり、科学的手段を用いていない説明は単なる仮説として扱われるだけである。 完全に正しい!!! >従って、真の宗教と真の科学にはその性質において重なり合う部分はなく、人の「欲」だけが両者を繋ぐ鍵となりうる。 完全に正しい!!! つまり宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきであると結論できますね。