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本当の宗教
本当の宗教ってありますか? 昨今ではさまざまな宗教が「自分の宗教こそが真理を語っている。」 「私たちの宗教だけが幸せになる道を知っている。」 などと言っていますね。 でも、真理を扱っている宗教ってありますかね?僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な、こう言っては大げさかもしれませんが荒唐無稽な事を言っているように思います。例えば霊の存在、地獄の責め苦、輪廻転生などです。これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。 到底信じ得ないことも、その宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか?僕はサイエントロジストですから科学を信じています。しかし科学では心の平安は得られませんでした。そこで宗教に希望があるのではと思い調べましたが、どの宗教も不確かな事を信じることを要求してきます。 みなさんは、なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか?その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか?そもそも完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか? 散文的になってしまいましたが、回答いただけるとありがたいです。
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- alwen25
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>僕はサイエントロジストですから科学を信じています。 気になるのですが、これは 科学を信じているという意味ですか。 サイエントロジーという宗教を信じているという意味ですか。 サイエントロジーという宗教は、 精神医学批判で、必ず出てくる宗教です。
- hirai21
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実に明確な疑問を持たれていると思います。 宗教とは読んで字のごとく、宗(むね)の教えであり、これしかないというのが宗教です。 真の宗教とは、この物質宇宙の元、人生の真の目的は何か、われわれ人間は何のために生まれかく生かされているのか、神様のご存在とは何かを明確に解く教えのことを言います。万物の霊長といわれている人間が神様の最終目的物です。神様の目的とは、「人間がお互いに助けあい、誰もが神様に感謝しその恩に報いていく世界、理想世界建設」をすることを目的とされています。神様の目的を人生の目的自身の宗教哲学とて生きていくことこれが本来の人間の姿だったのであります。人間にとっていつもままならぬ身、ままならぬ世といって、病気や病気以外の困りごと、また天災地変等は全て神様が人間に対し早く、自分のことだけではなく、神様の目的に向かう考え方にさせるためのいわゆる手段にすぎないのであります。いわゆる自分を捨てるということです。この考え方が、真の幸せ、心の平安が得られることになります。人間には理性という考えが与えられています。理性とは物事に疑問を持ちその解決を求めようとすることであります。真の宗教は、荒唐無稽なことは教えていません。あなたが完全な宗教を求めることは間違いではなく、むしろ人間の本来の姿なのであります。宗教と科学とは氷炭相容いれないものといわれる人もいますが、「科学の半解者は信仰遠ざかるが、科学の通暁者は信仰にかえる」とのことわざがあります。 科学にしても医学やさまざまな学問の発達とは神様の存在をより確立することになるのであります。 もっともっと書きたいことは山ほどありますが、文章では書ききれないので、ここで終わります。 もしお会いする機会がありましたらもっとくわしく説明します。
回答NO.50という記念すべき順番で光栄に思います。 自己流で宗教を作っては? 宗教はひとつでは完全ではないと思います。そこで仏教、儒教、キリスト教、イスラム教、道教、ジャイナ教、北欧神話、アニミズム、国家神道、精霊信仰、など、世界中の宗教や思想の『いい所取り』が一番良いと思います。私は現にそうしています。どの考えも素晴らしいです。 たとえば仏陀の悟りの教えは私にとって非常に人生にプラスになっています。いかにして欲を無くして苦しみを滅却するか。いかに苦しみから逃れるか。仏陀の教えが無かったら私の人生は悲惨だったと思います。苦しみを滅却する方法、欲を無くす方法を得られて非常に有益なのが仏教です。本多信一氏はこれを参考に『よりマシ発想』を考え出しました。私は仏教系に救われています。 キリスト教の教えによって神という考え方を得ました。逆に仏陀は神や天国などを説教しなかったはずなので、キリスト教も私のためになっています。何かあったら神様に愚痴をこぼします。悟ったとしても苦しみは0にはならないので、いつでも愚痴をこぼせる神様は便利な存在です。一生懸命、真面目に生きれば、神様も愚痴をこぼすの位はおおめに見てくれるでしょう。これも私の心の支えです。 儒教は他人に対する接し方、でしょうか。キリスト教の隣人愛だけではやや不完全な気がして、儒教の仕組みも参考になっています。 イスラム教は顔を見せないようにベールをつけますが、あれも成る程と感動しています。 ちなみに以前クリスチャンの方に聞いたところ、クリスチャンでさえキリスト教を『自己流』で信仰しているそうです。ひとりひとり信仰は違うので『自分流』が良いと彼女も仰っていました。宗教は特別やったとしても自己流で良いのではないでしょうか。現代は科学教の時代ですが、それも使い方を誤まらなければ心も豊かになる素晴らしい道具と私は思っています。ひとつに限定しないで全てを参考に、自分が一番納得いく考えを練り上げて下さい。 逆にひとつの宗教で『完全』はありえません。完全な宗教があるならば、他の宗教は不完全となり、不完全な宗教は滅びるからです。しかし現代で多数の宗教が共存している以上、どの宗教も不完全です。もし、宗教に入るとしても(私は入らない方が良いと思います。どの宗教も色々と面倒くさいので)融通を利かせて自分なりの信仰を持つべきです。逆に強制されるのはおかしいです。本当に素晴らしい宗教ならば強制しなくても信者がどんどん集まるはずです。強制する時点で後ろめたさを持っているのです。後ろめたいから強制せざるを得ないのです。 ちなみに現代の科学教も他の宗教と並存している以上、不完全です。 そもそも信仰とは『信じる』ことです。信仰という言葉がある以上、真実の教えはこの世に存在しません。そのようん完全な宗教では『信仰』が必要ないからです。真実ならば信じる必要もありません。逆に言えば繰り返しになりますが、宗教は『宗=優れた』教えでしかありません。信仰という言葉が存在する限り、その宗教は不完全です。 日本で年越し派遣村やホームレスが大勢います。宗教は彼らに対して援助をしていないとは思いませんか? どの街にも教会はあります。しかしどの街にもホームレスが一人くらいはいることがそれを物語っていると思います。また、どの街にもゴミが落ちていることからも宗教は『完全ではない』ことを示しています。神や教祖が守ってくれるならば、財産を投げ出して彼らを皆救い、町中をぴかぴかにするほどに奉仕しても大丈夫なはずですから。それをしない、出来ない、ということは矢張り宗教は完全ではないのです。逆に宗教は内部はドロドロしているものです。ご注意下さい。 宗教は所属しないで自己流で学ぶのが一番良いと思います。 ちなみに私はどの教団にも所属していないので悪しからず。割と宗教批判をして申し訳ありません。気にされた方はすみませんでした。勿論、宗教で救われた人々は幾らでもいます。『刺青クリスチャン』を筆頭として、多くの人が様々な宗教で救われています。その事実を考えると私は宗教自体はとても良いことだと思っています。何事も使い道次第ではないでしょうか。 長々と読んでくださって誠に有難うございました。
- hihi1631
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宗教の中に 自分をみいだし 幸福を得ることが出来るのであれば それはすばらしいことですし 周囲の人も それを尊重すべきことなのですが。 少し視点を変えて 自分の存在を客観視して自分自身を見つめる方法を 心の中に自分自身の基準を身につけることになる考え方も あると思うので ここで、紹介致します 『運命』について考えてみては如何でしょう? ーーー運命ですーーー運命を理解する事ですーーー 戸惑われることと 思います 枠が少ないので 先に結論から言いますと 運命を 理解すると 世界感が 変わります 心の基準が 現れてきます 自分自身の内面からです それら 日常の迷いも 迷いのない部分も含めた 自分自身がです 次いで 変化した 価値観を使い 自由にそして前向きに 進む方法を会得出来ると思っています。 私のいう 運命と 言うのは絶対的な この世界を 理解の及ぶ限りの大きな世界の 法則に従いながら 特別な事ではなく もちろん化学的な話にも 参加しながら 生きるということを言いたいのです。しかもこれは妥協の無い はみだしの 許されていない世界 100%の束縛を意味する 『運命』を理解することが始まりです。 謙虚に現実を見つめて 現実を理解しようとしているだけです。説明を少し省略しますが 『運命』『宿命』変える事の出来ないものです 100%の 束縛を意味する言葉で 表現したいのです 信じる事では有りません 自分で理解する事です つまり あらゆる事象を それに照らし合わせて 確認をして理解することです 『運命』は 占いで 変えようとか 努力で変えようとか ではなく 私達の 回りをとりまく 宇宙の法則 絶対的な法則に従った運命のことで誰もそこから 意図して抜け出す事など出来ない世界を (客観的に こんな気がすると云うような妥協を含まない心をもって)理解したいのです (主観的にはその逆のことが起きています) 先ず 運命を理解するとは 一度は100%の 束縛を 受け入れることがはじまりですが 宗教のように信じる必要は有りません 私達はもともと 人間の考え及ばない 世界によって つくられ 生かされています。 好む 好まないに 関係なく あらゆる全てのことが おきているのです これが事実です そして 次に 100%の 束縛に 気付くと はじめてそこで 人には 人としての努力によって得られる 自己の世界が与えられていることに気づき 今までとは 分離自立した自己の存在が自覚出来ます つまりは努力することすら 許されない世界と自分で作った(つもりの)世界とが 存在していることを区別して理解出来るのです。それらは『束縛の中の100%の自由』であり 私達の意識する枠をも 超えた世界をも含めた自由が存在している事によって生かされているのです 100%の束縛と 100%の自由 反対の意味の言葉が ここで同じ方向を向いていてるのは 『次元の違い』があるからです。 この二つの言葉を発するときの 発する側(私達の自覚) の次元です。 例えば物事の限界を感じたとしても それ自体 自由意識の中の限界なのであって 決して決定的なものではないと言える訳です。私が自覚すらしていない 能力がそこに存在し、自覚している範囲を超えて結果が現れるような ことがおきたとしても それも含まれるのです。そこには 私達の知らない 可能性も含むということです。 嬉しいことに そう感じながら生きる自由は私達にあたえられているようです。もし 何も しなくても運命か? と云う疑問があったとしたら その疑問の行く末も 疑問も 全てなるべくして なっていると云う事は事実です。しかし もしもそれが不幸な結末なら それを予想して回避して 行動するように作られている 自分も含め認めるべきなのです。当然私達は ある程度の未来を予測をしたり 判断をしたりしながら 生きていくように作られています、 ここで 与えられた自己としての存在と 自由な自己意識という『次元の違う』はなしを 一緒に混同すると 矛盾を感じて 混乱してしまうとおもいます。 運命を理解すると 私は 慈愛ということばの意味があらためて理解出来るような 気がします 地球のうえで それぞれが それぞれの 役を演じていると云うのも 頷けます 新しい世代の人には 『競争と勝利』と云う考え方や教育も 能力を高めるために 有効な事ではあっても 行き過ぎによる害を自覚出来るような『自己』 と云うものの確立も目指す必要があるのではないでしょうか。 100%の束縛の中にある 100%の自由 私達人間は 自由をもって生まれているように 感じて生きるのです 自分で考えたように感じる そのように 作られていると 言う話です。
- ttt1214
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個人的にな意見ですが、 ほとんどの宗教が、教祖の生き方を無私して、教里だけの教えをするから、結局、犠牲者にしか感じない、その犠牲者に触れるから、宗教が信じる事ができなくなったと思います。 僕は、個人的には、神の存在は確かにあると思います。 でも、今ある全ての宗教には、存在はしないのだと感じます。僕が、神を感じる事ができたのは、 キリスト教でも異端と呼ばれている、ほんの小さな集まりです。キリスト教でいう、贖罪を自分で体験して、例えて言えば、過去の自分が、いかに暗闇を歩いてきたかを感じます。 また、そんな機会にふれ、聖書を読み初めました、今まで約40年聖書なんて、みた事もなかったですが、 宗教と信仰は別々だと、はっきり書いてあります。 わかりやすく説明すれば、 人間産まれてから、長年生きている内に、多かれ少なかれ、罪を犯して生きています。 その事を反省し、神と共々に歩んで行こうという気持ちが信仰です。 宗教は、教里の押し売りみたいなもんで、とくに、神を信じる訳ではなく、教祖がといた事を賛同し、自分を良く見せる為に、色々な人を勧誘するのが宗教です
- raribe
- ベストアンサー率40% (2/5)
あなたの仰るとおり、真理を扱っている宗教はないと思います。 宗教とは組織です。 組織になったら真理とは離れていきます。 組織はそれ自体の存続が第一の目的となるからです。 組織は存続していくにつれて縦の組織になります。 そして効率を重視します。 上の人は知識をたくさん持っていて真理に近いという前提が必要となります。 存続するにはお金が必要となり、それは上に集まります。 あなたの求める真理をこのような宗教組織に求めるということは間違っていると思います。 自分の中の大切な部分を他者に委ねる事になり、そうすることで人はかりそめの安心を得ますが、お金と時間と、あと最も大切な自分の思考を失っていきます。 あなたが一人で少しずつ真剣にあなたの真理を追究していくことが唯一の道だと思います。 それはあなただけの道であり、信念です。 もちろん、その道の途中で様々な人と出会い、真理について語り合うことはあるでしょうが、一人一人がそれぞれの真理を追究していくことが大切なのだということを忘れないで下さい。 宗教組織が語る、もっともらしい宗教用語や美辞麗句など真理とは何の関係もありません。 組織を維持したり、お金儲けのための手段です。
- Chezzy79
- ベストアンサー率0% (0/5)
あなたの言うとおり、宗教は「自分の教えこそ真理」と主張していますが、実際には証明不可能な事・科学的に見て矛盾している事を真理として説いているだけです。 幽霊、死後の世界、臨界転生、神様、カルマなどは存在しません。あなたも科学を信じるならわかると思います。科学的に立証されてない所か科学的・論理的に見て真実である可能性は全くありません。 しかし、この宇宙には人の科学では説明できそうも無い物もあります。「この世の始まり・終わり」などです。ある程度の仮説は立てられますが、はっきり言って人類には永遠に理解する事は不可能だと思います。 あなたは心の平安を求めているようですが、嘘の情報で穴を埋めない限り「わからないものはわからない」と開き直るしかありません。「幸せ」に定義はありませんし、「信仰」とは「根拠の無いものを盲信すること」です。 あなたは宗教の不条理さや理不尽さをすでに感じている様ですので、不可知論について勉強することをお勧めします。多分あなたは納得すると思います。「不可知論」自体を理解するには最低限の知識は必要ですが。
仏教における真理についてお話させていただきます。 若い人達のご参考になれば幸いです。 始めに真理というものは、どのようにして認識されるものか、と言う事から述べさせていただきます。 真理というものは、基本的には感性の働きによって直感的に把握されるものであると言われています。 認識作用の成立には、感性による把握と悟性による分析的思惟が共に必要とされますが 感性の働きが悟性に優先して、まず直感的な把握を行うと解釈されます。 この感性の働きを精神的な観測と言い換えても良いと思われます。 精神的な観測の状態を、仏教においては「禅定」とも言い、真理に到達するためには必須の事とされています。 感性によって直感的に知る働きを「無分別智」、悟性によって分析的思惟を行う働きを「有分別智」とも名付けています。 真理とは無分別智によって直感的に把握され、有分別智によって分析・概念化されうるものと仏教では考えています。 以上の事柄を参考にしながら、真理というものを見ていきたいと思います。 仏教を学ばれた方々には、今更と思われる事ばかりでしょうが、若い人達に少しでもご参考になればと思います。 仏教では、疑いようのない真理とされるものを「三法印」と名付けています。 「諸行無常」 「諸法無我」 「涅槃寂静」 の三つです。 「諸行無常」は万物流転の相を言います。 全ては変わり行く、この世に変わらぬものは無い、という見方です。 形あるものは壊れる・生あるものは滅びる、と言う消極的で暗い見方にもなりがちですが 反対に、生成発展、という積極的な見方も失ってはならないと思います。 いずれにしても、日常的な感覚や思考によっても十分に認識できる事であり、全てのものの変化の相を指しています。 「諸法無我」は現象の本質を指しています。 全ての現象に自性(我)は無く、自性無きままに全ての現象は在る、という見方です。 全ての現象は相依的な関係によって起きるものであり、独立して存在するものは無い、という見方です。 相依的である事・独立性が無い事を無自性とも無我とも表現しています。 そして、このような認識は瞑想(禅定)による体験によって得られるものと見なされています。 前述した無分別智と有分別智とによって認識された現象の本質を指し「空」とも表現されます。 また、この相依性を「縁起の法」とも言います。 仏陀が瞑想の内に発見したとされるもので、その目覚め(悟り)は次のような言葉をもって語られています。 是れあるに 依りて彼れ有り 是れ生ずるに依りて彼れ生ず 是れ無きに 依りて彼れ無し 是れ滅するに依りて彼れ滅す この縁起の考察が相依性の考察でもあり、全ての現象の本質は無自性(無我)であると認識されるに至った訳です。 また、仏陀は生成・消滅の縁起の順観と逆観を瞑想の内に行ったとされています。 人の輪廻を瞑想の対象として、深く縁起の考察を行ったという事は、仏典に於いても伝えられています。 十二因縁の教えとして知られるものが、それに該当します。 「涅槃寂静」とは、真理を悟った静寂な境地を表しています。 仏典によれば、瞑想により縁起の法を考察した仏陀が、明け方近くになって、ついに真理に到達して悟りを得たとされています。 しかしながら、その悟った真理そのものについての内容は全くと言ってよいほど伝えられていないのです。 真理を悟った境地というものは語られても、真理そのものが語られる事は無かったのです。 仏教の教えが、仏陀の直説とされる原始仏教から部派仏教へ、さらに大乗仏教から密教へと様々に変わっていったのですが 密教の正系の最終段階に至って、真理そのものをついに概念化し表現するに及びました。 正統密教の継承者であり、教えを大成されたとされる空海によって説かれるものとなったのです。 以前からあった教え(四大説とか六界経説)も基となっていると言われています。 また、深い禅定体験に裏付けされたものである事は、般若心経秘鍵の秘蔵真言分において明らかなものと受け取れます。 よく知られたこの一節は、真理への参入と帰結を示した体験そのものであり、仏教史に残る名文でもあります。 空海の教えは真理への参入に留まらず、真理の働きに基づいて積極的に展開された巾広いものです。 他の仏教の教えを包括したスケールの大きな教えとなっています。 ここに、真理そのものの内容についての解説は、浅学な私が説くところのものでも無く、また誤伝してはならない事なので控えさせていただたく思います。 密教の教理や正系の阿闍梨さんの著書を拝読して理解を深められるのが最も適切かと思われます。 求めれば必ず得るものがあると思われます。 精神的な観測とでもいうべき感性の働きによって、真理に到達したされる仏教の教えが、これからの時代にどう活かされていくのか 個々の問題であり続けるのかどうかといった点は、科学に於ける物理的な観測の推移と相まって大変に興味のある事でもあります。 これからの若い人達に良い結果を委ねたいとも思う次第です。 以上ご参考になれば幸いです。 参考図書 増谷文雄著書 講談社 原始仏典 渡辺照宏著書 松本照敬著書 織田隆弘著書
- anne20
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本当の宗教を探すことは間違っていないと思います。 イエス・キリストは「命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。…良い木はみな立派な実を生み出し、腐った木はみな無価値な実を生み出します。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。…あなた方はその実によってそれらの人々を見分けることができるのです。」と言いました。 それならキリスト教で、「人を殺してはいけない」と聖書に書いてあるにもかかわらず、戦争に加担してきたグループは、それが有名で大きなグループだとしても、本当の宗教ではない、と思います。 また、本当の宗教は、科学と矛盾していないはずだと思います。また、「人は死後どうなるか」といったようなことについて、一つの真理があるはずですが、そういうことを知る点で、科学には限界があるとも思います。 「荒唐無稽」と思えることも、はっきりとした「証拠」がある場合は、初めは信じなくても信じるようになることもあると思います。例えば、もし地獄というものがあるのなら、なぜ地獄があると言えるのか、はっきり説明できなければならないと思うので、ただそう教えられるから、やみくもに信じなけれならないとすれば、それは本当の宗教ではない、と思います。 私は、自分の宗教で心の平安を得ることができています。
- abc2008
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宗教とは元々、字のごとく大元というか根本的なことを我々に教えようとしているものであって、それは当然のごとく、大まかに言えば幸不幸の原因と結果、つまり、~すれば我々にとってはプラス、~すれば我々にとってはマイナスとなる、ということをいろいろなパターンで言い表して、我々に教えようとしているのですが、それでそのことを知った者たちがそれらを知らない人々に伝えるために集団化し、派閥を作り、宗教組織が形成され、今日に到っているかと思われます。 ただ、ご存知のように玉石混交は否めないことであり、一体、真に我々に教えようとしているものはどれなのか、そして、もちろんその実践によってその結果が如実に実生活に反映され、具現化するものは一体どれなのか。 やはり、これを客観的に判断するためには、その宗派の信者の動向、生活等を観るのが一番かと思われます。つまり、いかに耳障りのいい教義や理屈を並べ立てても、それが現実に伴わないものであればエセ宗教と見なしてもよく、それで仏法には『理証、文証も現証には過ぎず』という言葉がありますが、結局、現証に勝る宗教の正邪判別基準はないということです。 ですから、いろんな信者の実生活等を比較検討して見られれば、何らかの答えが掴めてくるのではないでしょうか。そして、その教義と実践と現証が合致して納得されれば、自ら試してみるのも良いかと思われます。信じる信じないはそれからかと思われます。 いずれにしましても宗教の根幹というものは、この世の中には人智では計り知れない力が存在していて、それに準じれば我々にとってプラスと作用し、反すればマイナスへと作用するということで、それが幸不幸、明暗を分けるということです。 そして、その力を仏法では一つの法則としてとらえて法力などと表現します。例えば科学における物理学や天文学でもあまたの法則が出てきますが、それらの法則も結局、人類がこの世に存在する以前からあって、天体の運行や地球上での諸現象に作用してきたのです。そして、それらの存在をケプラーやニュートンらの科学者たちが発見して、その法則の持つ力を世の中に説いてきたのです。 仏法もこれと同じで釈迦は、我々の生活や人生に直結した法則を見出し、その法則の持つ力を世の中に説いていったのです。ただ今のような法則という概念がその当時の人々にはなかったので、聞く人々に少しでも分かり易く、受け入れ易いように、その法則を神とか仏とか菩薩とか様々に擬人化して、その力の持つ作用を様々に説いていったのです。ですから、釈迦も当時における科学者だったと言っても過言ではないでしょう。 結局は何事も法則に準じればうまくいき、逆らえば損な目に遭うということかと思われます。卑近な例で言えば、例えば飛行機などは航空力学や流体力学の法則に適った飛び方や形状をしていればこそ、問題なく飛行し目的地に到達できるのですが、もし、それらの法則を無視した飛び方や形状をしたとしたら、一体どうなるでしょうか。もう言うまでもないことかと思われます。 結局、我々の人生も同じことかと思われますので、もし、完全な宗教というものを知りたいのであれば、法華経を学ばれれば良いかと思われます。