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自由とは他者から嫌われることである?

オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラーの思想を説明した本で「自由とは、他者から嫌われることである」という箇所が出てきました。 これについて腑に落ちないところがあります。 なぜ、嫌われることが自由なのか。それは八方美人の生き方は大変であり、そもそも不可能であるということです。 嫌われるような悪事を働く必要は無いが、嫌われることを恐れるなという事だそうです。 他のページも読むと、相手が自分のことや行いをどう評価するかはその相手の課題であり、自分の課題では無いという内容も書かれています。 言いたいことは分かるのですが、私の読み取り能力が低いからなのか、今ひとつ腑に落ちないところもあります。 そのような、自由とは嫌われることである、人からの評価は評価する人の課題であると考えることがみんな出来るのでしょうか。 人から好かれる事が一番の望みである人なら、嫌われることを恐れない理由が存在しない事になりませんか。 ただ、他者の課題に踏み込む(ここでは自分のことを好きか嫌いか)事こそが自己中心的であるといえるとも書かれています。 現代日本人もこのように考え行動すべきなのでしょうか? 嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え 岸見 一郎, 古賀 史健 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC

みんなの回答

回答No.8

個人主義の西欧人らしい言葉ですね。 まず自分の中に主張すべき意見や、独自の行動規範 がある事が前提となっている。 集団主義=人と協調する事が喜びの日本人にとって、 自由によって社会性が阻害される事はありません。 だから西欧人は利己を抑制する宗教が必要であり、 日本人は無宗教でも勝手に集団化するのでしょうね。

noname#192952
質問者

お礼

ありがとうございます。 >日本人は無宗教でも勝手に集団化するのでしょうね。 これはどうでしょうか。 話は逸れるのですが、日本人は神道の影響が強いのでは無いかと思います。 主義で言えば、井沢元彦という作家が次のように指摘しています。 聖徳太子の十七条の憲法にもある和を尊ぶという考えが日本人にとって重要になっている。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.7

「自由とは嫌われることである」とまで言ってしまうとちょっと極端な解釈に思えますね。 嫌われてもいいと思うぐらいの勇気を持つことは大切ですが。 作者が「ちょっと極端な言い方だけど、そのくらい思い切った方がいい」と言い切っちゃったんじゃないでしょうか。 たとえば私が全員に好かれようとするなら、相手に合わせてばかりになり自分の意見さえも言えなくなる。 自分の意見を持たず日和見や風見鶏のごとく意見をクルクルと翻さなければいけなくなる。 そこに私の自由はないので、自分として発言をしたければ嫌われる覚悟が必要になる。 大抵は全員に好かれようとすれば、ほとんど全員から嫌われる結果になりそうですが(^_^;) 自分であり続けるということは、どこかで他の人と意見の相違が出てしまうので 自分のどこかで「嫌われてもいい」という覚悟は、それなりに持って生きてます。 が、何事も極に走らない方がいいってのも持っています。 人からの評価については確かにその人の課題だと言えますが、考え方を知り自分の中で練っていかないと 自分のもにはならないように思います。 誰でも人には好かれたいですが、それ以上に自分であり続けたいという思いでしょうか。 自分を無くしていけば、いずれは病人か廃人か。 そうなることが望みではないなら、自分を失わないために「嫌われてもいい」の方がずっと楽かもしれませんね。 自分の答えは、誰でも自分の中に持っているので、時間をかけて掘り下げていくと良いと思いますよ。

noname#192952
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • stm003
  • ベストアンサー率29% (46/154)
回答No.6

>そのような、自由とは嫌われることである、人からの評価は評価する人の課題であると考えることがみんな出来るのでしょうか。 全ての人とはいいませんが、ほぼ全ての人がこれをやっていると思います。 嫌われないようにするには、自分の意思を持たず、全てを他者に任せ、その言葉に従順に従わなければなりません。これを行っている人は、この日本にはいないでしょう。 自分の心の基準に、他者が無理やり別の基準を割り込ませてくることは出来ません。 自分のことを評価している人に対して、自分に対する好悪を押し付けることはできません。 他者の自分に対する評価に対して、自身はどう足掻いても干渉できないと思います。 それは、もう経験則で皆分かっているので他者の自分の評価に干渉しようとしている人は、ほとんど見た事がありません。 >人から好かれる事が一番の望みである人なら、嫌われることを恐れない理由が存在しない事になりませんか。 『嫌われることを恐れない理由=自由に振舞う理由』…という事でしょうか? この場合、他者には好かれますが、かなり抑圧された人生を過ごすことになるでしょうね。 自由には大小あると思いますが、全く自由を欲しない人も人生もないと思います。 少しでもそれがあるのなら、嫌われることを恐れない理由は存在すると思います。 >現代日本人もこのように考え行動すべきなのでしょうか? これはバランスの問題だと思います。 誰もがわがままを言えば嫌われます。 しかし、わがままを言わなければ自分の思い通りに生きる事(満足な人生を送る事)は大変難しいことです。 これは各自が自分の心の基準で、自分の人生をより良くするために判断していかなければならない事だと思います。

noname#192952
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

こんばんは。 >「自由とは嫌われることである、人からの評価は評価する人の課題であると考えることがみんな出来るのでしょうか。 人から好かれる事が一番の望みである人なら、嫌われることを恐れない理由が存在しない事になりませんか。 なるほど。 「他者から嫌われる」って、具体的に、何。 また、他者って、何でしょうね。 >「ただ、他者の課題に踏み込む(ここでは自分のことを好きか嫌いか)事こそが自己中心的であるといえるとも書かれています」 「自分のことを好きか嫌いか」が、他者の課題?

noname#192952
質問者

お礼

ありがとうございます。 他者とは身近な人だったり好きな人だったり職場の上司だったりするでしょう。 本に登場する青年の上司などは話を聞いてくれず、ことあるごとに怒鳴りつけてくる・・こういうのが嫌われている例でしょうね。 他社から承認されることを望み他者の抱いた、「こういう人であって欲しい」という望みの通り自分が生きると、本当の自分を捨てて人の視線だけを気にして生きることになる。 本によれは一例としてこう書いてあります。自分が相手を信じるかは自分の課題、自分の期待や信頼に対して相手がどう動くかは相手の課題。 自分は自分の人生を生きて、その選択に対して他者がどういう評価を下すから他者の課題と書かれています。

noname#194996
noname#194996
回答No.4

>自由とは嫌われることである、人からの評価は評価する人の課題であると考えることがみんな出来るのでしょうか。 できません。私も初めてこの言葉を知りました。しかし、だからといってこれが間違っているとは思いません。たしかに、そうかんがえられるひとも(少数ながら)いるのだなあ、と思いました。そしてそれは、やはりエリートにしか許されないことかもしれません。 >人から好かれる事が一番の望みである人なら、嫌われることを恐れない理由が存在しない事になりませんか。 なぜでしょうか?人から好かれる事が一番の望みである人は、嫌われることを恐れない理由が存在しない事にはならず、まず嫌われることを恐れるはずです。嫌われることを恐れない理由をもたないということは嫌われることに極端にナイーヴだということですから。 >他者の課題に踏み込む(ここでは自分のことを好きか嫌いか)事こそが自己中心的であるといえるとも書かれています。現代日本人もこのように考え行動すべきなのでしょうか? 場合によると思います。ただ日本人として自己中心的に行こうと考えて行動しはじめているのが安倍さんだと思います。この場合すべきかどうかは疑問です。

noname#192952
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.3

こんばんわ、たなけんさん。 心理学の話ですね。 まづ先にたなけんさんにとって「自由な状態」 というのがどんなものなのか おいらから質問。 「自由」を定義してみてください。 たとえばスズメやカラスは自由でええなあ・・・ 檻に閉じ込められることもないし 空には行き止まりや袋小路もないし ひとに嫌われようが気を使わなくていいし 好きな時間に飛んで好きな時間にメシ食って・・・ とか思いますか。 ___________ けど鳥たちも鹿に飛びかかる猛獣たちも そうしなくてはならないからそうしている、 自然界を支配している法則から 自由になれないからそうしているんですね。 一方人間は、恐ろしいほど常に自由で、 「自由」の圧力を感じるほど自由だとも思うのですよ。 腹が減っているときに 隣の人がおにぎりを食っていたからといって そのおにぎりを取り上げて食ったりしませんし、 会議中に眠くなったからといって 会議室を寝床にしたりしませんし、 あいつイケ好かないヤツだと思ったからといって そいつを殺したりしませんし、 いちいち自分の行動を選択することができ、 自分を自由に扱うことができますから。 ___________ 人間は存在が本質に先立つ、というのが 「自由」のありがたいところで重苦しいところ。 たとえば、 ナイフはモノを切るためにある、とか 椅子は座るためにある、とか 鉛筆はものを書くためにある、とか これが「本質が存在に先立っている」状態。 人間は「何のために」というわけでもなく、 どこまでもどこまでも自由に、まづ存在しています。 一生、自由と付き合わなくちゃいけません。 「すべき」もへったくれもない。 「自由」を求めますか? もちろん「自由」を放棄したりはしませんよね、 しませんよね、よね。 質問の意図からズレているかもしれない上、 分かりづらかったらすみません。 どうもお邪魔しました。                                                                          

noname#192952
質問者

お礼

ありがとうございます。 自由とは・・・ここでは、人の目をいちいち気にせず、人の人生を生きるのはなく自分の人生を生きるという事でしょうか。 この本では青年と哲人が対話する形式をとっています。 青年は対人関係の悩みは承認欲求であると言っています、哲人はそれに対しアドラー心理学では承認欲求を否定している、他者の期待を満たす必要はどこにもないと言います。 自由について実はこの本の中で書かれている箇所があります。 欲望や衝動の赴くまま坂道を転げるように生きることが自由化というと逸れも違う、承認欲求などの自然な欲求に逆らい坂道を上ることが自由であると書かれています。 回答の例で言えば会議中に眠くなったからといって、会議室の床で寝るわけでは無い、それが自由なのでしょうか。 こころのふしぎ なぜ?どうして?という本に面白い例え が載っていました。 あるところに男が居ました。 ルールに縛られた生活が嫌なので無人島に住み自給自足生活を始めました。 「おれはじゆうだあー!」 一ヶ月後こんな生活をしていました。 日の出と共に起きる 朝早い時間が一番魚が釣れるので魚釣り 火をおこして魚を焼くから時間が掛かるので2時間朝食 エサさがしお昼からは山へ 日が暮れると危ないのでその前に山からは出る 夕方も結構魚が釣れるので魚釣り 夕食 夜は真っ暗なので早めに寝る ある日男は気づきました。自由なはずなのに自然のルールに従っているじゃ無いか。

回答No.2

じゃあ、韓国人って自由なの? 質問者も疑問に思うように、自律が重要なのです。原典は俺も知らんが、それではあまりにもお粗末過ぎる。

noname#192952
質問者

お礼

ありがとうございます。 強迫観念のような反日の国ですよね。 韓国人は自由・・・という感じはしませんね。 中国も好き勝手やっているとは言えても、自由とは何か違う気がします。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.1

>現代日本人もこのように考え行動すべきなのでしょうか? 此処で何故、日本人全体に範囲が拡大するのかが理解出来ません。 世界中の全ての人が自由に行動しているとでも? あくまで個人の行動規範としての学問だと思いましたが。 >人から好かれる事が一番の望みである人なら、嫌われることを恐れない理由が存在しない事になりませんか そういう人間は「自由」より「協調性」を重んじると思います。 勿論、自由に振舞って、尚且つ人に好かれるのが最上の結果だと思いますが、中々そうは行かないでしょう。 また、嫌われるのが怖くて、言いたい事・やりたい事が出来ない人間は不自由でしょう。

noname#192952
質問者

お礼

ありがとうございます。 日本人は・・は考えすぎでしたか。 自由を採るか協調性をとるか各々の選択ですね。

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