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「事実などない。あるのは、個々の意味だ。」

私の質問に興味をお持ちいただきありがとうこざいます! タイトルの言葉は、心理学者アルフレッド・アドラーのものです。 どういう意味か。 私たちは様々な人と様々な方法で様々な意味をもつコミュニケーションを行っているはずなのに、「人間ってこういうものだよ」、と一つの事実を悟った(気になった)瞬間、個々の意味を持った他者との関係から切り離されてしまう。 この哲学カテには、独自の理論を延々とふりかざす人が何人かいると思います。(私もその一人か?) 果たして、理論という一つの事実にこだわることは、どこまで有効なのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • kanto-i
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回答No.3

>理論という一つの事実にこだわることは、どこまで有効なのでしょうか? その人が現実として使えるところまででしょう。 理解には3つあるといいます。 一つは、文字の表面を読む。 一つは、書いてあることをそのままやってみる。 一つは、書いてあるものを通して、自分や人を活かす道をやれること。 理論には、この3つの理解があります。 事実は事実であっても、使える以上にこだわったとしても有効性は無いと思います。 使うことにこだわれば有効性は出てきますが、使うものとして考えず 論じるもの(ネタ)として使えば、文字の表面で止まります。

foosun
質問者

お礼

回答ありがとうこざいます。

その他の回答 (3)

回答No.4

 こんにちは。  ですから ひとりの主観がいだき構築した理論とその意味が ほかの人びとの主観においても共同化されうるか否か。これが問われます。  それだけのことです。  しかも 共同主観――常識――になったとしても 間違っていたという場合もあります。  対話あるいは 自由な相互の批判 これが 大事です。  ですから つねにそのような話し合いの過程を受け継いで行くということが このばあいの結論になります。  独我論は 唾棄すべき思想ではないでしょうか。  ★ 果たして、理論という一つの事実にこだわることは、どこまで有効なのでしょうか?  ☆ というようにその理論の絶対値を捉えようとするかのような見方は 生産的でも建設的でもないと考えます。

  • TANUHACHI
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回答No.2

 こんばんは、夜分に失礼します。 質問者様がカテゴライズするならば、僕も「独自の理論を延々とふりかざす人」のうちの一人かもしれません、もっとも理論とは言えない程度のものですが。  さてタイトルにあるアルフレッド・アドラーの言葉と似たものを僕も幾つか知っています。一つはK.マルクスが『ルートヴィヒ・フォイエルバッハと古典ドイツ哲学の終』に遺したあの言葉です。この言葉は「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したに過ぎない。」となっていますが、後半部は次の様に続いています、曰く「大切なことはそれを変革することである」。そしてもう一つは同じくドイツの政治学者M.ヴェーバーの「理念型(Ideal-Typus)」です。  マルクスの言葉もヴェーバーのそれも主張は同じです。「様々な事象があることを指摘するだけでは意味はない。大切なことは『それがどの様な意味を持っているかを問い、考え、そして知ること』だ。知ったことで人間は行動するための根拠を持ち行動に至る」ほどの意味でしょう。  >果たして、理論という一つの事実にこだわることは、どこまで有効なのでしょうか? この「理論」なる言辞が「独自に延々とふりかざす」ものか、それとも既知のテーゼであるのか。また「理論それ自体が一つの事実である」との意味も判然としませんが、そのテーゼの存在理由を含めての「意味」を問うならば、「理論(=モデル)」に意味がある、とも理解しています。一つのモデルがあることで、新たに他のモデルを構築するための叩き台ともなりますから(ヘーゲルが提起し、その後幾多の思索家によって鍛えられてきた「正・反・合」による止揚運動とその構造モデル)。少々古くさいですかね?  アドラー自身も「誰ももう、わたしの名前など覚えていないときがくるかもしれません。個人心理学という学派の存在さえ、忘れられるときがくるかもしれません。けれども、そんなことは問題ではないのです。なぜなら、この分野で働く人の誰もが、まるでわたしたちと一緒に学んだように行動するときがくるのですから」と述懐しているように、彼自らもマルクスやヴェーバーに近い意識を持っていたと思われます。

foosun
質問者

お礼

回答ありがとうこざいます。

回答No.1

人の認識は、感覚器官表面での相互作用による現象表面的感受 から始まり、その蓄積による原理=物理的な階層現象的洞察に 到ります。 「独自の理論」の『独自』が自己の感情的な動機に由来するもの ならば普遍性に欠け、自分以外に対しての有効性は、たまたま 同じ感情を共有する場合に限定されます(しかし通俗的な“説”は、 それで結構賛同者を得るようです)。 そうした感情的な判断を排除する事は科学の本質であり、特に その現象性の原理に遡る物理に依拠すれば、普遍性を得うる。 ただし、社会的・日常的「事実」は、元来感情的な要素を先入さ せているので、「個々の意味(感受)しかない」という事になり、 自分で勝手に定義した言葉をいじりまわして複雑な概念構造を 作り上げ、詩的なエッセイを「独自の理論」として自己顕示欲を 充たす事が可能です。

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