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靖国は宗教ではなく国事犠牲者を尊ぶ
- 日本人一般にとっては神仏は自然なものであり、国事と宗教は関わってはならない。
- 靖国神社は《神勅》によって設立された宗教であり、アイヌはこれに関与していない。
- 帝国主義的な神勅が認められれば、どこでも支配権を主張する思想が有効となる危険がある。
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1~5 、8は常識ですね。 問題は 6 です。 中韓にも日本のA級戦犯を尊べとおっしゃっているように見えます。 つまり伊藤博文を暗殺したあんじゅうこんも日本で尊べということになりましょうか。 日本には死者は皆仏になるという教えが普及していますが、これは現状ではローカルなものですね。他国にも広げるべきだと? >その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである ここは哲学として、倫理観として見過ごせないものがありますが、現状では飛躍ですね。 7 については東京裁判の否定ということでよろしいか?
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- nyan_nyanko
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こんばんは > ☆ たとえばクリスチャン兵士が 靖国に祀られるなら 《信教の自由》が守られていないのではないでしょうか? 確かにそうです。実際、裁判で争われたりもしました。 ソース: 靖国合祀取り下げ請求訴訟 http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2011/0127rondan.html > ☆ 趣旨がよくつかめませんでした。 《宗教法人》ではなかったときには 《神として祀る》ことも《宗教》とは関係なかったという意味でしょうか? 前回のサイトにもありましたが、世界各国の例から見てもお分かりのように、国が管理すれば、原則“無宗教”とならざるをえなくなるということであります。 > ☆ もし自覚した意志行為ではなかったとしたら ひょっとして精神錯乱によるという意味になるのでしょうか? 論点は、“ヒトラーが出来損ない人間かどうか”、“ヒトラーに人間としての尊厳を認めるかどうか”だったかと思います。 以下、簡潔に私見をまとめております。 ・“ヒトラーが出来損ない人間かどうか” → 出来損ない人間ではない。ユダヤ人のジェノサイドは、国民感情を利用した、という策士(ただし、軍部の責任すらも問われず、全責任を負わせれた)。 ・“ヒトラーに人間としての尊厳を認めるかどうか” → 認める。ただ、彼に全責任があるかどうかは疑問。 当然、ヒトラーも責任を感じるべきでしょう。最高指揮官でもありますし、アイヒマンなどが勝手にやったとしても、それを強引に阻止しようとはしなかったからです。 > ☆ 第一に 日本人の良心・信教の自由の問題であるのではないでしょうか? 確かにそうだと考えます。ですが、その自由を放棄または、靖国に祀られる自由を重んじる人たちが、そうでない人たちよりも多いだけかと。 もし将来、国民投票を実施すれば、靖国の存続派が否定派を上回ると思われます。 > これを国家として 靖国とは関係なくおこなえばよい。英霊があちらにあるといった見方には いっさいかかわる必要はないと考えます。死者の心も遺された人びとの心ものちのちの人びとの心も このあたらしい制度と施設にある。と宣言してもよいと考えます。 実際、そうしている面もあるのですが・・・ 参考: 千鳥ケ淵戦没者墓苑 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E9%B3%A5%E3%82%B1%E6%B7%B5%E6%88%A6%E6%B2%A1%E8%80%85%E5%A2%93%E8%8B%91
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 論点は、“ヒトラーが出来損ない人間かどうか”、“ヒトラーに人間としての尊厳を認めるかどうか”だったかと思います。 以下、簡潔に私見をまとめております。 ・“ヒトラーが出来損ない人間かどうか” → 出来損ない人間ではない。ユダヤ人のジェノサイドは、国民感情を利用した、という策士(ただし、軍部の責任すらも問われず、全責任を負わせれた)。 ・“ヒトラーに人間としての尊厳を認めるかどうか” → 認める。ただ、彼に全責任があるかどうかは疑問。 当然、ヒトラーも責任を感じるべきでしょう。最高指揮官でもありますし、アイヒマンなどが勝手にやったとしても、それを強引に阻止しようとはしなかったからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これからの問い求めのためのたたき台になるかと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > これを国家として 靖国とは関係なくおこなえばよい。英霊があちらにあるといった見方には いっさいかかわる必要はないと考えます。死者の心も遺された人びとの心ものちのちの人びとの心も このあたらしい制度と施設にある。と宣言してもよいと考えます。 実際、そうしている面もあるのですが・・・ 参考: 千鳥ケ淵戦没者墓苑 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このことで いまは満足です。
- a_hona
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ただの墓として、特定の宗教を絡めない方が、自然な気持ちで追悼できると思います。 国を守った英霊として祀るのは、そういった宗教精神が息づいているために現れる社会現象のようなものと思います。どのような自由な精神で物事を判じようとも、実社会の威力ある形態に組み込まれている我々であるから、寧ろ精神のみが闊達であって実際の理想的行動を伴うのは難しい。 人間の持つ負の部分を見つめれば、そのような精神のリベラリティに意思を傾けたくなる気持ちはわかります。しかし実際問題、ファンタジーの世界に生きているわけではないので、諸々の迷妄と妄執に溢れた現実の世界では、理想は通用しない。ただ長久の時代の流れだけが、人々を前進させる揚力となっているように私には思われます。世の習わしが風化した時には、理想ではない形で、新しい答えが息づいているのではないでしょうか。
お礼
日本人どうしが集まると ただちに思いや振る舞いをみちびく通路が出来上がります。 家にいたときには まぁ 自由です。くつろいでいます。けれども 玄関を出て一歩世の中に足を踏み入れるなら この観念の通路があたまの中に用意されます。潜在意識の中でいまにも活動する状態になります。 この通路は 言わば観念の水路となり 社会としては広く観念の運河がうがたれているかたちです。 つまり観念の水路が潜在意識から浮き上がってくると どこからともなく 観念のゴンドラが現われます。お・も・て・な・しを互いに受け合うかのごとく 集団心理なるクウキがみなぎります。 クウキも水路も出来上がって あとはいつものようにゴンドラを漕ぐだけです。 ★ 諸々の迷妄と妄執に溢れた現実の世界では、理想は通用しない。 ☆ という実態です。 けれども この問いの問い求めるところは 《理想》ではありません。家にいてくつろいでいるときには ふつうに持つ思いであり考えです。そんなことは 先刻承知の助 知りきって紙を貼っているくらいです。 つまり ここで問うていることが 普段着のままの雑談であって 《迷妄と妄執に溢れた現実の世界》が あやまった・錯乱した《理想》なのです。それを人びとは 飲まされています。ゴンドラを漕ぎ運河を航くときには すっかり腑抜けとなりたましいが去勢されてしまった状態にあります。 そういうことではないでしょうか。 あ_ほなさん ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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>「国事というのは 国の統治行為です。そのための防衛を含みます。」 こちらこそ、何のことか、判りません。
お礼
調べなさいよ。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
Ano.14です。 >「何のことか 分かりません。」 タイトルに、「「国事犠牲者」は、尊ぶ」とあります。 では、「ノーベル賞受賞者」は、どうするのか。 ・・・尊ばないのか。 ! 「国事犠牲者>ノーベル賞受賞者」ということか。
お礼
国事というのは 国の統治行為です。そのための防衛を含みます。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんにちは。 >「国事犠牲者をとうとぶのは 靖国神社という宗教の場であってはならない。」 ノーベル賞受賞者は、どうしますか。
お礼
何のことか 分かりません。
- nyan_nyanko
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こんばんは まずは手短に・・・ > ☆ 現憲法を離れたら どう考えるのか? あるいは 現憲法が政教分離をうたうことについて 批判点は何か? こういった観点でのお考えがありましたら お聞かせください。 政教分離は、「信教の自由(憲20条)」を国家の思惑や癒着等から守るのが、その制度趣旨だったと思います。つまり、「信教の自由(憲20条)」が確固として保障されていたならば、特に問題はないと考えています(ただし、この「信教の自由」も脅かされる状況となりますと、国としての存続自体が危ぶまれると思われます)。 > 宗教法人であるかどうか。これは あとになってそうなったとしても 神を・または神として祀るからには おのづから宗教であると――歴史の全体をつうじて そうであると――考えられるのですが そうではないとおっしゃっていますか? そうではない、と考えております。 たとえば、アーリントン墓地(米国政府、厳密には陸軍が管理)、セノタフ(英国管理担当官庁が管理。追悼式はイギリス国教会の礼式に従う) これらはすべて、政教分離の原則から(信教の自由から)、特定の宗教とは関係を持たないとされています。もちろん、信教の自由も認められており、特にアーリントンではプロテスタントが多いようでありますが。 したがって、宗教法人と国家が管理する違いはあると考えています。 参考: http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai7/7siryou1.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > ☆ どういう経過で《内部的存在》となったのでしょうか? イヅモと同じく《クニゆづり》だったでしょうか? そこまでの問題に触れなければ 話は宙ぶらりんだと考えますが。 蝦夷と倭人との違いから、述べました。 「蝦夷征伐」などから考えますと、《クニゆづり》では、なかったと思われます。 > ☆ 戦犯である。ということでしたら その戦が負け戦であるからだけではなく 戦争を 相手との絡みにおいてですが 起こしたことも 含まれると受け取られます。自国の兵隊やいきさつはどうであれ他国の人びとを殺し合い等々に駆り出したりまた敵としてじっさいに殺したりしたことについても 責任を負うものと思います。 これは、非常に難しい問題かと考えております。 たとえば、アフリカの独立戦争(ゲリラ戦が主ですが)などがそれにあたります。しかし、独立の功労者は英雄視されているのを見ますと・・・ > ★ ヒトラー / 無差別ユダヤ人虐殺に関与した人たち について ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~ 6. ・・・その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである。出来損ないという例外をつくるわけにはいかない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という考えによって その存在をとうとぶということでよろしいでしょうか? それとも各国においてその国事犠牲者の列には入らない・入れられないとお考えでしょうか? はい。なんら変人的存在ではなかったと考えています。全責任を負わされた存在にすぎないからであります(そうしなければ、ドイツ人は生き残れなかったからです)。実際、ユダヤ人のジェノサイドにどれだけ自らの意志を反映したかは不明だからであります(ヒトラーはユダヤ人を恨んでいたといわれる説もありますが、信ぴょう性は小さいと思えました。「国家社会主義ドイツ労働者党」という元々はちっぽけな政党が政権をとれたのも、この政策が功を奏したのだとかんがえております)。 かく申し上げるわたくし自身も、その場にいた場合、平然とジェノサイドをやってのけたかもしれません。 したがって、少なくともわたくし自身、「彼らを出来損ない」呼ばわりはできないと思っております。 > ☆ その《宗教》を 人間にとって基本的な・死者への思いと戦争についての考えの場に揚げて 棄てることができれば よいのではないでしょうか? 現代という時に立って われわれによって可能なのではないでしょうか。 宗教と人間〔の存在・いのち・その生の軌跡〕とは どちらが 大切でしょうか? まず、宗教と人間〔の存在・いのち・その生の軌跡〕では、後者の方が大切です。 「その《宗教》を 人間にとって基本的な・死者への思いと戦争についての考えの場に揚げて 棄てることができるか?」 につきましては、以下の点から、可能だけれども、困難と考えております。 ・保守的な国民性 ・靖国の歴史(戊辰戦争まで遡るのだそうです) ですが、国際関係の点からは、政教分離させる(国営化させる)のが、まず取るべき策だと考えております。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ・・・つまり、「信教の自由(憲20条)」が確固として保障されていたならば、特に問題はないと考えています(ただし、この「信教の自由」も脅かされる状況となりますと、国としての存続自体が危ぶまれると思われます)。 ☆ たとえばクリスチャン兵士が 靖国に祀られるなら 《信教の自由》が守られていないのではないでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 宗教法人であるかどうか。これは あとになってそうなったとしても 神を・または神として祀るからには おのづから宗教であると――歴史の全体をつうじて そうであると――考えられるのですが そうではないとおっしゃっていますか? そうではない、と考えております。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 趣旨がよくつかめませんでした。 《宗教法人》ではなかったときには 《神として祀る》ことも《宗教》とは関係なかったという意味でしょうか? ★ ・・・実際、ユダヤ人のジェノサイドにどれだけ自らの意志を反映したかは不明だからであります(ヒトラーはユダヤ人を恨んでいたといわれる説もありますが、信ぴょう性は小さいと思えました。・・・ ☆ もし自覚した意志行為ではなかったとしたら ひょっとして精神錯乱によるという意味になるのでしょうか? なったとしても その責任は負うものと考えます。つまりは 一人の人間に責めを帰することは出来ないとしても 社会が・その生活共同が そのような精神錯乱の状態においてであれ 他民族を民族が違うというだけでそのすべてを抹殺しようとする行為 この行為には あとからであれ 責任を感じるべきことと思うのですが どうでしょう? ★ ですが、国際関係の点からは、政教分離させる(国営化させる)のが、まず取るべき策だと考えております。 ☆ 第一に 日本人の良心・信教の自由の問題であるのではないでしょうか? 靖国神社は それとしてひとつの結社だそうですから 国家としてはもう放っておくしかないと思われます。 歴史上の日本人のすべてとその社会全体の観点に立って 国事にかかわった広い意味の犠牲者は まとめて・あらためて これを 一方でその思想や行動について検証しマチガイがあればこれをきちんと指摘し批判しておき 他方でその人間存在としてはこれをとうとぶということ。 これを国家として 靖国とは関係なくおこなえばよい。英霊があちらにあるといった見方には いっさいかかわる必要はないと考えます。死者の心も遺された人びとの心ものちのちの人びとの心も このあたらしい制度と施設にある。と宣言してもよいと考えます。
- nyan_nyanko
- ベストアンサー率54% (27/50)
こんばんは どうもお久しぶりです。 > 1.いかに神仏という観念が日本人一般に自然ふつうのものであっても 国事が宗教にかかわってはならない。 現憲法下では、そのように定められている以上は、そう考えるべきかと。実際は、宗教法人化されたのは戦後の話なのですが(それ以前は内務省と軍務省の管轄でした)。 > 2. その宗教は そもそも《あのアシハラのミヅホの国は わがアマテラスの治める国だ》という《神勅》が宣言されたことをふくむ。 これも、異論はありません。 > 3. アイヌは その神勅を承けて《くにゆづり》をしたわけではない。 クニゆづり、のときには、”外部的”存在でしたから、しなかったと考えられます。 > 4. それに もしその帝国主義を内容とする神勅が みとめられるなら そういった覇権主義は どこでも・いつでも有効になってしまう。つまり わが民族のあがめる天子は あそこに見える島々は われわれの統治する領土なりとみことのりした。よって われらがモノである。攻め込め。となり その思想は 有効であると認めなければならなくなる。 もちろん、これには無理があると考えます。 > 5. 国の統治や防衛に宗教色が入り込んではならない。 1と同様であります。 > 6. 国事の際に逝った人びとを いかに戦犯であったことがあったりあるいは敵であったりしたとしても よき国際関係のためには その人たちをみな とうとぶべきである。その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである。出来損ないという例外をつくるわけにはいかない。 つまり、戦犯という考え方は以下の2つに分類できると思います。 1. 単純に敗戦国だから 2. 日本国民を悲惨な負戦に巻込んでしまったから 東京裁判の資料を見ますと、明らかに復習裁判です。こう考えますと、”2”と考えるべきでしょう。 ではヒトラーは? と言いますと、これはむしろドイツ政府自身が徹底的に追求しました。なぜ、追求したのか、いやせざるをえなかったのかは、そのときの国際状況に関わっていました。つまり、当時のドイツの貿易国は欧州のみで9割を占めていました(日本ではアジア諸国とは2割程度だったかと)。そのような状況の中でドイツが生き残っていく道は限られていた訳です。貿易国の信頼を得るには、自らが進んで戦犯者(戦争犯罪人というよりも無差別ユダヤ人虐殺に関与した人たちだと思います。ドイツはあの戦争自体には謝罪していませんから)を裁いていくしか生き残れなかったため、そのような判断を下したのでしょう。 > 7. 戦争に到ったことについては けんか両成敗である。どちらも 人殺しをして結着をつけるまでに成ったことに 責任を負い どちらの戦死者をも互いにその存在としてとうとぶべきである。排除することは出来ないし してはならない。これが あたらしい姿勢である。 開戦には、アメリカも暗号解読を済ませていたとされていることから、真珠湾攻撃も予想できたはずです。つまり、アメリカにも開戦の必要性があったのでしょう(真珠湾攻撃の前までは開戦反対が78%もいたといわれていますから)。 > 8. 国事犠牲者をとうとぶのは 靖国神社という宗教の場であってはならない。 これはある意味、難しい問題だと思いました。日清戦争、日露戦争の戦没者もいますから・・・ 法的には、宗教の立場を取るべきではない、しかし現実的ではない、と考えています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 1.・・・ 現憲法下では、そのように定められている以上は、そう考えるべきかと。実際は、宗教法人化されたのは戦後の話なのですが(それ以前は内務省と軍務省の管轄でした)。 ☆ 現憲法を離れたら どう考えるのか? あるいは 現憲法が政教分離をうたうことについて 批判点は何か? こういった観点でのお考えがありましたら お聞かせください。 宗教法人であるかどうか。これは あとになってそうなったとしても 神を・または神として祀るからには おのづから宗教であると――歴史の全体をつうじて そうであると――考えられるのですが そうではないとおっしゃっていますか? これは (2)の問いとつながっていて それについては ★ これも、異論はありません。 ☆ ということですので (1)のご回答については うたがう余地があるかに見えたということでおしまいのようです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ > 3. アイヌは その神勅を承けて《くにゆづり》をしたわけではない。 クニゆづり、のときには、”外部的”存在でしたから、しなかったと考えられます。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どういう経過で《内部的存在》となったのでしょうか? イヅモと同じく《クニゆづり》だったでしょうか? そこまでの問題に触れなければ 話は宙ぶらりんだと考えますが。 ★ 2. 日本国民を悲惨な負戦に巻込んでしまったから ☆ 戦犯である。ということでしたら その戦が負け戦であるからだけではなく 戦争を 相手との絡みにおいてですが 起こしたことも 含まれると受け取られます。自国の兵隊やいきさつはどうであれ他国の人びとを殺し合い等々に駆り出したりまた敵としてじっさいに殺したりしたことについても 責任を負うものと思います。 ★ ヒトラー / 無差別ユダヤ人虐殺に関与した人たち ☆ について ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~ 6. ・・・その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである。出来損ないという例外をつくるわけにはいかない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という考えによって その存在をとうとぶということでよろしいでしょうか? それとも各国においてその国事犠牲者の列には入らない・入れられないとお考えでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ > 8. 国事犠牲者をとうとぶのは 靖国神社という宗教の場であってはならない。 これはある意味、難しい問題だと思いました。日清戦争、日露戦争の戦没者もいますから・・・ 法的には、宗教の立場を取るべきではない、しかし現実的ではない、と考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その《宗教》を 人間にとって基本的な・死者への思いと戦争についての考えの場に揚げて 棄てることができれば よいのではないでしょうか? 現代という時に立って われわれによって可能なのではないでしょうか。 宗教と人間〔の存在・いのち・その生の軌跡〕とは どちらが 大切でしょうか?
- michael-m
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国事に宗教色等ありませんよ 記紀は国史であって宗教ではありません。宗教とは何かを学んでください。 なぜここにアイヌが出てくるか判りませんけど。別にアイヌが国譲りをしたなどとどこに書いてあるんでしょう。彼らは攻め追いやられたのです。 1と5がどう違うのか判らないけれど、宗教色等ありませんよ。 国事犠牲者を尊ぶという表現はわかりませんけどね、だから国は天皇を向かえて、宗教色の無い合同慰霊祭をしているんです。 靖国に詣でたことを政治だとか外交だとか騒いでいるのは、いい加減な愛国者や中韓のスパイだけでしょ。 勝手に「個人的」を否定しているに過ぎないし、一単立神社でしかない靖国を殊更に大そうに取り上げるほうがおかしいんですよ。そうする事によって中韓の立場を強くしようとする者共がいることを認識しましょう。 愛国者の振りをして参拝している右翼や支援者の中に、実は中韓との縁が深いものがいることは周知の如くです。 ちなみに神道は宗教ではありません。これは世界的に常識家には認知されている事です。 また政教分離とは政治が宗教にかかわってはいけないのではなく、一宗教に有利な政治をしてはいけないという意味です。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 ★ 記紀は国史であって宗教ではありません。 ★ ちなみに神道は宗教ではありません。これは世界的に常識家には認知されている事です。 ☆ たとえば 次の思想は 靖国神社の成り立ちとかかわっていませんか? ● (ヰキぺ:葦原中国平定) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A ○ (古事記) アマテラスは 「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし ○ (日本書紀) タカミムスヒは 「我、葦原中國の邪鬼(邪神達)を掃い平らげんと欲す。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ アマテラスらは 神であり 国史であろうが神話であろうが 《宗教》です。とこの質問は 言っています。 ★ 靖国に詣でたこと〔は・・・〕「個人的」 ☆ なことである。と同時に 国の統治すなわち国事にもかかわっているはずです。国の秩序や防衛にたずさわった人びとが祀られているのですから。 ということが受け留められたとしますと 次のように考えられて来ます: ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~ 4. それに もしその帝国主義を内容とする神勅が みとめられるなら そういった覇権主義は どこでも・いつでも有効になってしまう。つまり わが民族のあがめる天子は あそこに見える島々は われわれの統治する領土なりとみことのりした。よって われらがモノである。攻め込め。となり その思想は 有効であると認めなければならなくなる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち ★ また政教分離とは政治が宗教にかかわってはいけないのではなく、一宗教に有利な政治をしてはいけないという意味です。 ☆ 《一宗教に有利な政治をして》いることによって 信教・良心の自由を侵しかねないでしょうし またその宗教の説く論理(つまり 先ほどの《葦原中国平定》です)を公的にみとめると 外国からの侵略に対して 反論するすべをうしないます。 こういった疑問であり物言いであり問いです。
> ☆ 国事あるいはつまり われわれの共同自治ですよ。 「われわれ」って、具体的には誰でしょう。国事と言うと聞こえは良い。しかし大日本帝国が突っ走っただけで、今の日本国と何の関係があるのでしょう。そんなものうっちゃっておいていいのではないか。あなたのいう「われわれ」なるものに、私は含まれないようです。私はあなたが国事なるものにシンパシーを感じるのが不思議ですよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「われわれ」って、具体的には誰でしょう。 ☆ 大雑把に言って まづ日本人ですね。 ★ 国事と言うと聞こえは良い。しかし大日本帝国が突っ走っただけで、今の日本国と何の関係があるのでしょう。 ☆ 国事の主体が変わったということでしょうか。 法律上の問題もありましょうが まづは 国民一般は 同じ人びとがあたらしい国の住民となったわけですし 責任を負うべき天皇も 同じ人間がひきつづき元首のような地位に就きつづけました。このとき 過去の歴史の清算をおこなっておくということが いまの問題です。
>それとかかわった場合にのみ 靖国問題が自分自身に関係して来るとは思えないのですが どうでしょう? 関わりのないものを尊敬せよと言うのは難しいことですよ。さながら子供がエジソンの伝記を読んで、敬意を抱く程度のものです。私にはそれはできないなあ。 あなたは人間に対する敬意とおっしゃるが、それなら、死した人類全部を祭る施設でも構想したらいいんです。特に戦争に関係なく。理屈からいえば、それが筋でしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 関わりのないものを尊敬せよと言うのは難しいことですよ。さながら子供がエジソンの伝記を読んで、敬意を抱く程度のものです。 ☆ 国事あるいはつまり われわれの共同自治ですよ。エジソンの伝記を読んでいなくても 電球をどうするかのような問題だと思うのですが。 市民は じっさいには 選挙等をつうじて公民である。とは言わなければならない。 ★ あなたは人間に対する敬意とおっしゃるが、それなら、死した人類全部を祭る施設でも構想したらいいんです。特に戦争に関係なく。理屈からいえば、それが筋でしょう。 ☆ いや いまは国事です。国の秩序と安全にかかわった行動をめぐってです。 ムラ(市町村)の自由な連携としてのインタムライズムになれば――文字どおりの地域主権の共同自治体制になれば―― 国事犠牲者の扱い方も変わって来るかも分かりません。と思うんですがねぇ。
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お礼
こまあす88さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 1~5 、8は常識ですね。 ☆ はい。 ★ 問題は 6 です。 ☆ 話が早いです。 ★ 中韓にも日本のA級戦犯を尊べとおっしゃっているように見えます。 ☆ これが No.2のやり取りで 二重性の見方をするとのべたところです。 ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~ ★ A級戦犯を国事犠牲者としてはならないと考える。 ☆ これにつきましては 言わば二重の捉え方をしているという意味になります。 すなわち その戦犯と見なされた行為――平和に対する罪でしょうか――については きちんと批判をしつづける。と同時に その人間という存在については どうしても排除するわけには行かない。排除したぶん 将来にも同じような犯罪行為がなされ続けるのではないかとおそれられるからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 中韓にも同じ行き方を取るように話を持ち込みますが むろん どうするかは 相手の判断です。 ★ つまり伊藤博文を暗殺したあんじゅうこんも日本で尊べということになりましょうか。 ☆ そうです。人間という存在は とうとぶべきだと考えます。言わば韓民族の独立という国事に従事したという意味においてです。内外の国々が その暗殺という手段を取った行為の非人道性を批難しつつ 存在じたいはとうとぶのがよいと考えます。 国の統治および防衛 そして国際関係としての共同自治 これらの行為にかかわって逝った人について もしその行為が戦勝にみちびいたものだとしても 人殺しをという手段を取っているからには その行為の非人道性を批難しつつ 同時に存在については 排除することなくとうとぶ。という方針です。 ★ 日本には死者は皆仏になるという教えが普及していますが、これは現状ではローカルなものですね。他国にも広げるべきだと? ☆ 日本人は そのような中身として持ち続けてもよいと思います。そのローカル性を開くためには 《人という存在の共生性》を基本的な共有すべき思想とすればよいのではないでしょうか? ひとは その生まれつきの自然本性なる存在においてすでに 家族としての生活や社会一般の生活としての共同自治を その欠かすべからざる性質として持つと考えられます。社会的動物であります。 つまり 《存在》としては――その思想や行動がいかにあやまちを露呈していても―― 互いにとうとび合うものと考えられます。誰かを例外としてはいけないでしょうし 排除することはならないと考えます。 もしどうしてもというような場合 その人を――たとえば ヒトラーでしょうか――例外とするその理由をきちんと明らかにして 排除するのがのぞましいでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである ここは哲学として、倫理観として見過ごせないものがありますが、現状では飛躍ですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういう意味での《飛躍》と見なされるのであれば 御の字のつくありがたいことです。 方向性ないし志向するところが 明らかになるという役割りがあります。 ★ 7 については東京裁判の否定ということでよろしいか? ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~ 7. 戦争に到ったことについては けんか両成敗である。どちらも 人殺しをして結着をつけるまでに成ったことに 責任を負い どちらの戦死者をも互いにその存在としてとうとぶべきである。排除することは出来ないし してはならない。これが あたらしい姿勢である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 国際政治という現実の実際の場で はっきりとそう言うかとなると 妥協を必要とするそういった場裏では足踏みをしつつ――ということは いましばらくは議論の段階にとどまってという意味なのですが―― けっきょくのところは おっしゃるとおり はっきりと勝者による裁判というその考え方を否定するべきだと考えます。 勝者の一方的な裁判にあっても その敗戦国への批判の中で 一般に学問的にも肯定すべき内容のものは それとして有効でありつづけるわけでしょうし。まちがった判定内容については あらためて考え直してもよいと考えます。 基本的には 考え方についての修正主義的な思想です。その後の歴史の経過や現状についての修正をもくろむものではありませんが。 たとえば自衛の戦争であったという部分的な見方が 受け容れられてもよいのではないでしょうか。 戦争は相手があることですので オアイコである部分が多いと思われます。