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宗教改革について、お詳しい方!
宗教改革について、私の以下の認識が正しいのでしょうか? お詳しい方、ご指摘お願いします! 「教会主導で行った十字軍遠征の失敗により教皇の権威は弱まり、同時にルネサンスの原典主義、個人主義などの風潮も重なった。それにより原典である聖書を厳密に読み込んでみたら、教会の教えとズレあったり、個人主義により教会権威からの解放などが唱えられ、やがて宗教改革の土台がつくられていった。 その後、ルターが免罪符の販売を批判し、信仰のみ、聖書中心主義、万人祭司を主張し、宗教改革の幕が切って落とされた。」 *ここで根本的な質問なのですが、宗教改革は中世の教会のどのような点を改革しようとしたのですか?個人と神との関に介入していた(←免罪符など)ということかなと私は思っているのですが…。 *あと、プロテスタント諸派のうち、イギリス、アメリカで成立した派をいくつか教えてください!
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宗教改革を正しく読み解くには、複雑な背景を整理しつつ理解する必要があります。 個人的な意見ですが、私なりに纏めてみたいと思います。 背景1・世俗権力争い(王・皇帝・貴族などの諸侯)と教会権力の関係 昔から、ローマ教皇を頂点とする教会勢力と、世俗権力との争いがありました。 ローマ教皇は神の代理人として全ての信者の頂点に立つ存在です。(精神界の頂点) 一方、王や皇帝は世俗の権力を一手に引き受ける存在です。(世俗権力) さらに、世俗の権力争いも加わります。 中世から近代絶対王政へと中央集権を勧めていくプロセスで二つの論理が使い分けられていました。 一つは、「王権神授説」で「世俗の権力は、教皇を通してもたらされる」という論理です。 この論理を使い、「王家は他の諸侯より権力の面で優先される」という正統性を与えました。 しかし、これでは「王(皇帝)」と「教皇」の意見が対立した時に「教皇」に逆らえません。 そこで、もう一つの「封建制」の論理を持ち出し「教皇」に反発します。 封建制では「諸侯の中の諸侯が王であり、王は諸侯を束ねる権力がある」と言って教皇権に対抗します。 でも、この論理が強まれば諸侯の意向を無視出来ず、「王権」が弱まる結果となります。 この二つの論理を上手に使い分け、フランスやイギリス、スペインなどは中央集権をすすめていきました。 で、中央集権が進めば当然利権を脅かされる諸侯は反発するわけで。 これがプロテスタンティズムの複線となっています。 プロテスタントがオランダやドイツで猛威をふるったのはその為です。 英国はエリザベス女王のバランス感覚で上手く調整し、王権と諸侯のバランスを保つことに成功しました。、、、が、後に清教徒革命や名誉革命の混乱期を体験することになりますが。 背景2・ローマ教皇の世俗化と聖職者の堕落 これは、高校の教科書でもよく語られる背景ですね。 教会には信者からの寄進によって多くの富が集中しました。 当然、富が集中すれば聖職者といえどもその誘惑に勝てず、堕落していくこととなりました。 また、ローマ教皇自身も世俗権力に興味を示し続けます。 ローマ教皇の悲願の第一歩は、ローマ周辺のロマーニャ地方の統合です。 この地方には、形式的にはローマ教皇からの委任統治という形でしたが、実質的には僭主制でコロンナ家やオルシーニ家に支配されていました。 こうした野心が、しばしば神の意に反するとして反発されてきたと言う歴史があります。 背景3・ルネサンス運動 ルネサンスとは、古代ギリシア・ローマの文化・芸術・哲学などに加え、アラブ・イスラム教の思想・哲学などと、キリスト教の世界観の融合が行われてきた時期と言えます。 しかし、教会を通じてなされる神の教えとの食い違いもしばし見られるようになってきます。 また、同時に活版印刷の発明によって、少ない費用で多くの本が出せるようになりました。 この出版業の普及と、ルネサンス期の探究心的な雰囲気の中で聖書を母国語に訳そうという動きが活発化します。 当時の聖書はすべてラテン語で書かれ、聖職者や教養の高い人以外の一般人には読めませんでした。 それが、母国語に訳された本が出たことで教会を通さず直接聖書に接することが出来るようになりました。 結果、「教会が言ってることは嘘じゃないか」と反発する声が出てきました。(ただし、これは諸侯が王権と教皇権に反発する為の扇動だったりする。背景1参照) 以上、主に大きな背景を3つあげてみました。 「宗教改革」というと、「教会の堕落に敬虔な信者が反発して改革された」というイメージで語られがちですが、実はそうでもなく、むしろ権力闘争の道具だったというのが実体に近いかもしれません。 (もちろん、歴史観や価値観・思想の違いから異論はありましょうが。) >プロテスタント諸派のうち、イギリス、アメリカで成立した派をいくつか教えてください 英国:長老派教会・英国国教会・バプテスト教会など、、、 米国:米国聖公会(英国からの分派)・新福音主義・再臨派(アドベンチスト派)・SDA(セブンスデー・アドベンチスト教会)など、、、 ただし、これらは一種の思想であって、カトリック派キリスト教のように明確な組織化がされているわけではないようです。 同じ宗派でも、教団としては個々別々にあるのが普通で、交流すら無い場合も多いそうで、、、。 これは、プロテスタントは「個人と神」の関係を重視するためと考えられます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88 ただ、大きな運動に「エキュメニズム(教会一致運動)」というのがあります。 個々バラバラになった教義を、もう一度再構築しようというものです。 最初はプロテスタント内部の改革でしたが、カトリックや正教会も巻き込んだ重要な運動となっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%80%E8%87%B4%E9%81%8B%E5%8B%95 長文しつれいしました。 (参考URLは、直接は関係ないのですが、歴史の見方として参考に)
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- nacam
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宗教改革ですが、ルターに強く影響を与えたものがあります。 フス派の乱(1419~36年)です。 現在のチェコでフスの学説をカトリック教会が異端として、フスが火刑になった事によるフスの支持者の反乱です。 フス派の乱は、チェコばかりかドイツ南部にも拡大し手がつけられなくなります。 カトリック教会は、一部フス派の要求を受け入れ、フス派を分裂させて乱を押さえ込みます。 教会がフス派に譲歩した内容に、「チェコ語に聖書を翻訳する事を許す。」というものがありました。 それまで聖書は、ラテン語で書かれており、一般人が聖書を直接読む事ができませんでした。 チェコ語に翻訳が許された後、各国の言葉に聖書が翻訳され、一般の人が、直接聖書を読む事ができるようになります。 ルターは、フスの主張した「一般人が直接聖書を読み、それにより行動する」という考え方に非常に感銘し、95ヶ条の論題へとつながります。 もっともフスに影響を与えたのは、ウイックリフだとされています。 >宗教改革は中世の教会のどのような点を改革しようとしたのですか? 宗教改革は、ルターだけが始めたのではありませんので、各派により改革の視点が異なります。 アナバブテスト系の教派の場合、「幼児洗礼の廃止」を強く主張しました。 キリスト教徒としての自覚が無い幼児への洗礼を拒否し、「自らが真のキリスト教徒であると自覚できるまで洗礼を行うべきではない」と主張しました。 ルター派の場合は、「教会組織の否定と聖書主義」を主張しました。 「各個人が、聖書を通して直接神と接するべきであり、神と人との間に介在する教会組織は不要である」というのが基本的な考え方です。 カルビン派においては、地域共同体などを重視し、共同体ごと(教会ごと)での聖書解釈を重視します。 聖公会(イギリス国教会)は、カトリックとの差が当時ありませんでした。 >プロテスタント諸派のうち、イギリス、アメリカで成立した派をいくつか教えてください! イギリスで成立した教派 ・聖公会(イギリス国教会) ・長老派(スコットランド系のカルビン派) ・会衆派(ピューリタン革命の立役者 現在ではアメリカが中心) ・フレンド派(クェーカー教徒 現在ではアメリカが中心) ・バプテスト(アメリカ最大の教派 アナバブテストの影響下に成立) ・メソジスト(聖公会の改革不徹底に対して分派) ・救世軍(メソジストからの分派) など。 アメリカで成立した教派 ・ディサイプルス(長老派からの分派) ・ホーリネス(メソジストからの分派) ・セブンデイアドベンティスト(1860年ミシガン州で成立) ・ペンテコステ派(メソジストからの分派 個々の教会の独立性が強い) など。 以下アメリカで成立していますが、一般のキリスト教からはキリスト教と認識されていない教派 ・モルモン教 ・エホバの証人 ・クリスチャンサイエンス など。 宗教改革に対し、カトリック界では、反宗教改革で対抗します。 ドミニコ会では、カトリックからの離反を無くすような手段をとりますが失敗に終わり、かえってプロテスタントへの移行を即する結果となります。 フランシスコ会では、異教徒の改宗に力を入れますが、ほとんど成果がありませんでした。 イエズス会では、教義の弾力的運用を行い、異教徒の改宗、プロテスタントに一度改宗した人達を再度カトリックへ戻すなど、今日カトリックが世界最大の教派となる立役者となります。 この事から、宗教改革の真の勝利者は、カトリック教会だったとも言えます。
ローマ・カトリックがかなり世俗化していたのも要因のひとつでは・・・・? ローマ教皇に愛人がいて息子や娘がいて、息子が聖職についていた時代もあります。 (チェーザレ・ボルジアさんとその父) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB6%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9