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伊勢物語 寝ぬる夜 にビックリ!
- 昔、男がいた。深草の帝に仕えていた男が親王たちとの関係に迷いを抱き、夜の夢がはかないことに悩む。
- 寝ぬる夜の夢がはかなく、ますますはかなくなってしまった男の悩み。
- 伊勢物語の一篇「寝ぬる夜」に登場する男性の心の葛藤とはかなさを描いた物語。
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古語辞典で「つかふ(ひ)」を引くと、次のようになっています。 つか・ふ【使ふ・遣ふ】他動詞・ハ行四段活用 1、用いる。役立てる。使う。 2、召し使う。用をさせる。使う。 3、(心を)働かせる。使う。 4、[受身の形で]あやつる。支配する。 5、寵愛する。特別にかわいがる。 この内、5の「寵愛する。特別にかわいがる。」の意味については、高校生用の古語辞典には載っていないこともあります。ただ、関連する、派生した言葉として「使者・使い・召使い・側女・神仏の使い」の意味を持つ名詞の「つかひ」についてはほとんどの辞書に載っています。名詞「つかひ」は、動詞「つかふ」の連用形が名詞化してできた言葉ですが、名詞「つかひ」の意味の中に「側女」があるように、元の言葉である動詞「つかふ」には、「寵愛する」「特別にかわいがる」、直截的な言い方をすれば、「男女の仲になる」「肉体関係になる」があることになります。 ところで、動詞「つかふ」には、大別すると、「召し使う」という意味と、「寵愛する」の意味の二つがありますが、「親王たちのつかひたまひける人」の「たまひ」の現代語訳についても、この二つの意味による考え方があります。ランダムに身近にある本で、訳または解説の部分を確認すると、次のようになっています。 日本古典文学全集8『竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』 「お召しつかいになった人。寵愛をうけた女をいう。」 日本古典集成 『伊勢物語』 「親王たちの中には、この女を御寵愛になった方もあった、と言いたげな口ぶりである。」 新日本古典文学大系17 『伊勢物語』 「親王たちから召使われていた女」 日本古典文学大系7 『竹取物語 伊勢物語 大和物語』 「寵愛なさった女」 講談社学術文庫 『伊勢物語(下) 全訳注』 「召使っていらっしゃった女。寵愛してそば近く召使っておられた女。」 角川文庫 『新版 伊勢物語 付現代語訳』 「親王方の召し使っておられた人」 対訳古典シリーズ 『伊勢物語』 「親王方がお召しになられていた女。」 書籍により、「召し使う」あり、「寵愛する」ありという状況です。 さて、「親王たちが寵愛するって?平安時代はひとりの女を複数の親王が共有するのは当たり前だったんでしょうか?」ということについてですが、事の性格上、はっきりしない、表に出ない事柄なので、例は多くありませんが、知っている例を次にあげておきます。 1)時代的には古くなりますが、飛鳥時代の額田王の例があります。大海人皇子(後の天武天皇)の寵愛を受けて十市皇女を産んだ後、大海人皇子の同母兄の中大兄皇子(後の天智天皇)の寵愛を受けたとする話です。 (2)『大鏡』の「藤原師輔伝」の中に、次のような文があります。 まこと、この后の宮の御おととの中の君は、重明の式部卿の宮の北の方にておはしまししぞかし。その親王は、村上(天皇)の御はらからにおはします。この宮の上、さるべきことの折は、もの見せたてまつりにとて、后の迎へたてまつりたまへば、忍びつつまゐりたまふに、帝ほの御覧じて、いと色なる御心ぐせにて、宮に、「かくなむ思ふ」とあながちにせめ申させたまへば、一二度、知らず顔にて、ゆるしまうさせたまひけり。さて後、御心は通はせたまひける御けしきなれど、さのみはいかがとや思し召しけむ、后さらぬことだに、この方ざまは、なだらかにもえつくりあへさせたまはざめる中に、ましてこれはよそのことよりは、心づきなうも思し召すべけれど、御あたりをひろうかへりみたまふ御心深さに、人の御ため聞きにくくうたてあれば、なだらかに色にも出でず、過させたまひけるこそ、いとかたじけなうかなしきことなれな。さて后の宮うせさせおはしまして後に、召しとりて、いみじうときめかさせたまひて、貞観殿の尚侍とぞ、申ししかし。世になく覚えおはして、こと女御・御息所そねみたひしかども、かひかなりけり。これにつけても、「九条殿の御幸ひ」とぞ、人申し」ける。 *村上天皇と重明の式部卿の宮は異母兄弟(仁明天皇の曾孫の子の世代) *后の宮(藤原安子)と北の方(貞観殿の尚侍・藤原登子)は同母姉妹 *后の宮を訪ね、参内する重明の式部卿の宮の北の方を、村上天皇が見かけ、后の宮に逢引の橋渡しを頼む。后の宮は一,二回見知らぬ振りをしたが、その後は北の方の参内を止めさせた。その後后の宮も重明の式部卿の宮亡くなった後、村上天皇は、北の方を宮中に入れ、女官最高の尚侍に任官させ、寵愛した。 *現代で言えば村上天皇と登子の不倫と言えますが、登子を天皇・重明親王が共有したとも言えます。また、関係は一,二回ではなかったとするものや、親王も知っていたとするものもあります。 (3)和泉式部=冷泉天皇と藤原超子の同母兄弟の為尊親王と敦道親王は色好みであったが、弟の敦道親王は、兄の為尊親王が愛した和泉式部を、兄の死後一年で求婚し、愛人関係になる。その後当時としては珍しく、敦道親王が和泉式部を「召人」として自邸に入れ、妻妾同居となる。そのため敦道親王の妻は怒って離婚することになります。『和泉式部日記』は、求婚から同居までの物語(本人・他者執筆説あり)です。 *「召人」は「めしうど(と)」「めしひと」と読み、平安時代、貴人がそばにおいて召し使う女房や、側女のことをいいます。 (4)時代は鎌倉時代になりますが、後深草院二条が書いたとされる『とはずがたり』に描かれた、二条と、後深草天皇、亀山天皇(同母兄弟)、性助法親王(異母兄弟)とされる人物、摂関家の鷹司兼平、朝廷の実力者で二条の慕う西園寺実兼とされる人物の間の愛憎と、男女の関係を綴っています。二条は以上の男性全てと関係したとしています。 *二条の体験をもとに、今読んでもどろどろとした愛憎関係を描いています。時代は鎌倉ですが、平安時代にもこのような関係があったのではと思われる内容です。二条の母は、後深草天皇の乳母(夫あり)で、天皇が元服の時に、乳母として性の手ほどきをしたとして描かれています。天皇はこのことにより二条の母を忘れられない存在と思うようになりますが、古くから貴人の元服の時に、乳母や身近な女性がこのような役割を果たしたのではないかとされています。 平安時代は招婿婚の時代で、女のもとに男が訪ねる(通う)形式の為に、婚姻の拘束が緩く、いつ婚姻関係が始まり、いつ終わったのか分かりづらい点がありました。特に婚姻の終了は基本的には男が訪ねてこなくなることをもって終了とされるため、分かりづらく、場合により複数の男性が通うことも起こります。 長徳二(996)年の長徳の政変は、藤原伊周が命じて花山上皇に矢を射かけさせた事件を発端としますが、藤原為光の三女のもとに通っていた伊周が、四女のもとに通っていた上皇が三女のもとに通っていると誤解し、事件となったもので、当時は同じ女性のもとに複数の男が通い、乱闘などの事件になることが上級貴族及び子弟にしばしば見られることでした。ですから、「ひとりの女を複数の親王が共有するのは当たり前だったんでしょうか?」との問いですが、当たり前ではないと思いますが、有ることだったと思います。 「親王たち」が誰であるかについては分からないとしか言いようがないのですが、仁明(深草)天皇の皇子の常康親王は、紀名虎のむすめの紀種子を母としています。種子の兄弟姉妹は、仁明天皇の子の文徳天皇の更衣で、惟喬親王の母の紀静子。在原業平の妻の父である紀有常がいます。紀有常は『伊勢物語』の中で、16・38・82段に登場しますが、16・38段は主人公ですし、82段では、在原業平・有常・惟喬親王の交流が描かれている有名な段に登場します。『伊勢物語』は、昔男の在原業平を軸に、紀氏-特に名虎の子女・孫との人的な交流を描いている側面もあるので、あるいは常康親王も関係するのではと想像はできます。確証はありませんが。 また、宗康親王・時康親王・人康親王は藤原沢子を母とする同母兄弟ですので、可能性があるかもしれません。 ともかく、親王たちに限らず、当時の招婿婚と言う結婚形態の中では起こりやすい事柄であったのではないかと思います。ウン十年前の私が学部生の頃、よく教授から、平安時代は、父と息子であっても、妻妾の姿は見せないものだと言われたことを思い出します。これは『源氏物語』を念頭に置いての発言と思いますが、色好みと言うか、現在の倫理観ではルーズと言うか、しかし、これも当時の風俗としか言いようがないのではないかと思います。 以上、まとまりませんが参考まで。
お礼
回答ありがとうございます。 これだけの長文回答、書くのにさぞ時間がかかったことと思います。 本当にありがとうございます。 (回答がつくと、お知らせがつくはずなのに、なぜだかついていませんでした? okwaveさん、システムの見直しをお願いします!) >「つかふ」には、「寵愛する」「特別にかわいがる」、直截的な言い方をすれば、「男女の仲になる」「肉体関係になる」があることになります。 やはりそうなのですね~。 額田王の例は確かにありましたね。 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nukata.html ↑ こちらのサイトでは単なるじゃれ歌と解釈していますが 単なるじゃれ歌と解釈すると万葉集って味もそっけもない歌集になってしまうような気が。 村上天皇と登子の不倫ですかー。 たしかに、登子を天皇・重明親王が共有したといっていいでしょうね。 そのほかの例も、大変興味深く拝読させていただきました。 そういえば、平城天皇が寵愛した薬子は自分の妻の母君でしたっけ。 彰子なんかも相当なプレイガールみたいでしたしね。 乱れてるなー、と思うのは現代の感覚であって 当時は別にふつうのことだったのかもですね。 となると、子供を身ごもったときに、誰の子なのかについて もめたりはしなかったのか、というのが気になってきます。 女に「あなたの子です」と言われたら、天皇や親王は「あいよ~」といわざるを得ない状況ですね。 というか、昔は天皇や親王に子供ができたって別に困ることはなかったかもですね。 養育は女の家がしただろうし。 >仁明(深草)天皇の皇子の常康親王は、紀名虎のむすめの紀種子を母としています。種子の兄弟姉妹は、仁明天皇の子の文徳天皇の更衣で、惟喬親王の母の紀静子。在原業平の妻の父である紀有常がいます。紀有常は『伊勢物語』の中で、16・38・82段に登場しますが、16・38段は主人公ですし、82段では、在原業平・有常・惟喬親王の交流が描かれている有名な段に登場します。『伊勢物語』は、昔男の在原業平を軸に、紀氏-特に名虎の子女・孫との人的な交流を描いている側面もあるので、あるいは常康親王も関係するのではと想像はできます。確証はありませんが。 喜撰法師は紀有常または紀名虎のことだとする説がありますね。 で、六歌仙とは藤原氏と対立していた人ばかりで 業平や遍照、紀有常らは惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを計画していたのではないかと。 伊勢物語はそういう政治的なものを背景に描かれているのではないかと常々思っているのですが 意味がわかりにくいですね。 大変、勉強になりました。 心よりお礼申し上げます。