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「天皇家は百済系の血が濃い」という俗説・「高野新笠」が皇后として認められなかった理由
1、天皇家は百済系の血が濃いという話を聞いたことがあります。 具体的にどう濃いのかを調べてみたら、全然濃くなかったのです。逆に薄いくらいでした。 天皇家に入っている百済系の血は、たった一人だけです。 桓武天皇の母親が百済王族の末裔の帰化人(国籍は日本人)の「高野新笠」だけです。 具体的に人物を調べてみると、天皇家に血を分けた百済系帰化人は「高野新笠」一人だけでした。 それなのに、どうして世間では「天皇家は百済系の血が濃い」と言う俗説を言う人がいるのでしょうか? 2、百済王族の末裔の帰化人の「高野新笠」は生きている間は皇后として認められていませんでした。(死後、皇后となる。) 生きている間に皇后と認められなかったのは異例です。 これは、当時の帰化人の扱いの低さを物語っています。(実際、大和朝廷内での帰化人の扱いは低かった。) 当時の人々が「百済系帰化人の末裔などは国籍は日本人でも、皇后として認められない」という行動をとった証拠でしょう。 「高野新笠」の夫と息子は天皇です。 「高野新笠」が皇后と認められない理由は他に何かありますか? 3、桓武天皇の父であり、「高野新笠」の夫である、白壁“王”(のちの光仁天皇)は、天皇を継ぐ立場ではありませんでした。 当時、天皇を継ぐ可能性がある者は“親王”を名乗ります。 “王”は一応、皇族ですが、天皇を継ぐ可能性は低いです。 白壁“王”はまさか天皇になるとは、夢にも思っておらず、また周囲も白壁“王”が天皇になるとは思っていなかったので、百済系帰化人の「高野新笠」との結婚を認めたのではないでしょうか? そして、天武系皇族が度重なる粛清で途絶えたために、天智系の白壁王が62歳という高齢で天皇になった。 仕方なく、(血の問題で)天智系の白壁王を天皇になったとしても、百済系帰化人の「高野新笠」を皇后として認めるわけにはいかない。 当時の人々はそう考えて、「高野新笠」を皇后として認めなかったのではないでしょうか? 4、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」と言う人がいます。 果たしてそうでしょうか? 百済系帰化人は最初は一応、それなりの地位(貴族など)を与えられましたが、百済系帰化人はすぐに人民に降下しました。 大和朝廷が百済系帰化人に関東に土地を与えて移民させた話などが残っています。 当時の大和朝廷には、資金的な余裕もなく、例え貴族でも天皇から血が離れていけば臣籍降下します。 具体的には、在原業平などがそうです。 在原業平の父は平城天皇第一皇子の阿保親王。母の伊都内親王は桓武天皇の皇女です。 在原業平は平城・桓武天皇の孫にあたります。 祖父が天皇でも臣籍降下するのに、百済系帰化人がいつまでも貴族でいたというのは間違いです。 従って、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」というのは間違いでしょう。 具体的に天皇家に血を分けたのは「高野新笠」一人だけですので。 いかがでしょうか? 5、天皇家がどこから来たのかは諸説あり謎です。 元々、大和に住んでいた者なのか?九州から来たのか?中国から来たのか?朝鮮半島から来たのか? (私は九州から来たと思っています。) 中国歴史書に書いてあるのは、「百済は支配層と民衆の言語が違う」、「百済の住民の多くが漢人や倭人」、「倭人が頗る多い」 (百済王族は最初は扶余姓を名乗り、しばらくしてから“余”と1文字に略した。余豊璋など。) 例えば、朝鮮半島の百済の王族(扶余族=騎馬民族)が日本を支配したとしたら、それは騎馬民族征服説になります。 (扶余族は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗に、東は挹婁に、西は鮮卑接する範囲に住んでいた。) 私は騎馬民族征服説などと言うトンデモ説は信じていません。 ここで天皇家は朝鮮半島から来た=騎馬民族征服説を論ずるのはやめておきましょう。 ※「騎馬民族征服説は正しいから天皇家は百済系の血が濃いのだ」という理由なら、申し訳ないですが回答はご遠慮して下さい。
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No.3ですが、ちょこっと横槍入れます。 No.6,10,11の方が、No.11で >歴史には多くの記録がありますから、先に自分の中で結論を決めて >おいて、それに都合の良い資料だけをピックアップしたのでは、どんな >結論にも導けます。 と発言していますが、私に言わせれば >奈良時代に日本の貴族階級に加わった外部の血としては、百済が最大と >結論付けてほぼ正しいと言えるのではないでしょうか。 という意見について、十分な資料の裏付けもない中で、その結論に導こうとしているところは、かなり作為的なものを感じます。 百済滅亡後、百済から多くの遺民が日本に渡ってきたのは事実ですが、同じ頃、日本にきたのは百済出身者だけでなく、新羅や高句麗出身者もかなりいました。 そして彼らの多くは、当時は未開の地が多く残っていた日本各地に移住しています。 高麗神社・百済神社・新羅神社などの名前をもつ神社が、日本各地に点在していることからも、そのことは十分うかがえます。 No.3で考察したように、私はむしろ奈良時代においては、百済出身者は政権から冷遇されていたのではないかと考えています。 しかし、古代においては百済だけでなく、新羅や高句麗からも日本への移民は来ていたのですから(国を無くしたという点では、高句麗も同様の立場)、百済だけでなく他の国からの多くの移民がきていたはずです。 その中で、百済出身者だけが日本の貴族階級に食い組んでいったというのは、推測にしかすぎないと思います。 むしろ、政権を握っていた天武天皇が親新羅派とすれば、政権近くに食い込む機会が多かったのは、新羅出身者であることも十分考えられます。 天智天皇の子孫であった光仁天皇が、百済王家の血をひく女性を娶ったのは、祖先の天智天皇が親百済派だったという縁からきたと考える方が自然かと思います。 私もかなり推測に推測を重ねた考察をしていますが、どちらにせよしっかりとした歴史資料、もしくは考古学的な発見が無い限り、当時の貴族社会において百済出身者の血が多く混ざっていたというのは、単なる仮説にしかすぎないと思います。
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- tiuhti
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混ぜっ返す様で申し訳ないですが、An.07へのお礼にある『韓国人留学生が「天皇家は百済系の血が濃い。日王(天皇)は百済人の末裔だ」とうるさく言うので、調べてみたのです。』というのがきっかけなのであれば、日韓ワールドカップの前の年の、天皇誕生日にあたっての記者会見で、現天皇が「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されている事に、韓国とのゆかりを感じています。」と発言したのが、韓国の一部のマスコミで、話を膨らませて報道され、それが、その留学生の記憶に、誤った形で残っているだけだろうと思います。(そこらへんの事情は、参考URLをご覧下さい。)だいたい、(おそらく)15百年近く続いている家で、特定の『外国』の『血が濃い』状態になる為には、相当な回数の「特定の外国人との婚姻」が繰り返される事が必要で、そんな事は史料には書いていないし、実際、『血が濃い』と思っている人は、まずいないと思います。実は「話を膨らませた」韓国のマスコミでも、そこまでは言っていません。(よかったら、参考URLの内容のうち、事実のみを、その留学生に伝えたらどうでしょう?まぁ、言っても無駄かも知れませんが・・・。) ですから、騎馬民族征服説のように、天皇家や豪族が、丸ごと朝鮮半島から来たという仮説に立たない限りは、どういう理屈を使っても「天皇家は百済系の血が濃い」という話にはなりません。ご自身で「騎馬民族征服説は持ち出さずに…」と最初に縛るのなら、確認するまでも無く、答えは最初から明白ですから、質問はもう締め切られても宜しいのではないでしょうか? 尚、細かい事ですが、J-Textにある日本書紀(国史大系本)の巻六の垂仁天皇三年の項には「新羅王子天日槍来帰焉」とありますけど…。 http://www.j-texts.com/jodai/shoki6.html ところで、ANo.10へのお礼に「皇后として認められなかったのは、下級貴族出身だからか、百済系帰化人なのか、その2つが条件かもしれませんね。」とありますが、これまで回答された方は「そもそも、皇后を出せる家系じゃない」と仰っているだけで、私もそれが正解だと思います。随分「渡来系だったから、皇后になれなかったかも」という点に拘られているようですが、そう推測する根拠は、なんでしょうか?
お礼
神功皇后は久米一族の姫であり、神功皇后は「武甕槌之命」の末裔である説が有力らしいですね。 高取山の頂上に武甕槌之命を御祀りした神社があります。 それが、歴史では神功皇后は、新羅の王族の末裔という事になっています。 何でこんな明らかな改竄・捏造が行われたのか理解できませんでした。 ありがとうございました。
- sudacyu
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たびたび投稿しているので、論が細切れになって論理展開が分かりにくくなって、誤解が生じているようです。以下に論旨を整理します。 4.で質問者さんは、 「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃い」と言う仮説を否定しています。(この仮説は、日本人のルーツ・血脈を論じた本で時々目にする説です。実際に天皇の陵墓を発掘して、DNA鑑定したことはないのですから、仮説という認識でいいと思います。) 質問者さんが、この仮説について成り立たないと考え、その根拠として、 A.祖父が天皇でも臣籍降下するのに、百済系帰化人がいつまでも貴族でいたというのは間違いです。 B.貴族社会から家系が消滅したから、血脈は消えている。 Aと言う認識からBという推論をして、この推論が正しいかどうかの回答を求めています。 尚、私個人としては「百済系の血が混じっている」程度の認識で、決して濃いとは思っていませんが、濃い・薄いは個人の感じ方の問題で、数パーセント混じっていれば、濃いと感じる人もおり、薄いと思う人も居るでしょう。言葉の感じ方の問題になってしまうので、質問者さんの推論の是非についてのみ答えることに限定しました。 A.の質問者さんの事実認識は、私は間違っていないと思います。というより、全くの大正解とでも言うべきものだと思います。 日本の古来からの大豪族である大伴氏、名門の橘・紀氏など多くが消えてしまい、天皇の血統である源氏でさえ藤原氏の前に圧倒されています。その藤原氏も権力の中枢にあった系統である藤原北家、基経系の藤原道長の子孫が繁栄し、特に忠通の系統のみが五摂家として朝廷の中枢を独占しています。当然帰化人としての「家系」は貴族社会からかなり早く消滅したと思います。 B.の家系が消滅したから、血統も消滅したと言う推論は、遺伝学的に言って明らかに間違いですから、この推論で提示された仮説を否定することは、不可能であると述べました。 帰化人系の国母(天皇の母親)が「高野新笠」一人であるのは、日本の正史の記載からみて多分間違いありません。ただ日本人国母の祖先に帰化人が居なかったとすることはできません。 特に男系であった日本貴族社会の場合、女系の記録が残りにくい上、上級貴族は複数の妻を持つ習慣があったので、中・下級貴族からも妻を迎えることが普通であった以上、もし下級貴族に外部の血が混入したとしたら上級貴族にも意外と早く到達する(たぶん数世代)のは、遺伝的事実と言えます。 ですから、質問者さんが論拠として上げている二点をもって、この仮説を否定するのは遺伝学的に考えて無理があると指摘しているわけです。 また、「朝鮮系の血が」と言う仮説ではなく「百済系の」との指摘ですから、その部分についてコメントするにあたって、正史の記述による亡命の受け入れについて、私の論旨のポイントである「女系」に重点を置いて検討しました。検討内容を述べます。 婚姻前の100パーセント(これらの数字は観念的なものです。百済系でも少しは新羅の血が混じっている可能性は大いにありますから)百済系の女性が日本人貴族の妻となって生まれた子供は日本人として扱われますが、50パーセント百済の血が混じっています。 それに対して、帰化人男性が日本人の妻を娶り、その娘が日本人貴族と結婚して生まれた日本人は、外来の血が25パーセントになります。 ですから、大勢の未婚女性が貴族社会に流入したと思われる記述が唯一正史に残っている百済を第一に考えたわけです。 もし百済系でないなら?それはたぶん新羅系と思います。奈良朝において使節がやってきた記載がありますし、随行してきた有能な実務家が日本に残った可能性は否定できません。(唯、この場合妻子を帯同してくることはあまり考えられません。日本人の妻を持つケースの方がかなり多いと考えます。)一度には少数でも回数を繰り返せば増えてきますが、帰化女性が直接婚姻するより血が薄くなるので、百済の場合より多い数の帰化を考えねばならず、可能性はかなり低いと思います。 後は細かい部分について。 日本各地に移住した朝鮮系の人々は多数居たとの指摘は、全くその通りで、その事実に対しては全く同様の認識です。 ですが、質問の「天皇家の血統」については、検討すべき影響を与えていないと考えています。 国が滅亡したのは高句麗も百済も同じですが、高句麗は敵国であった期間が長く日本国内の貴族階級と友好関係がなかったのに対し、百済は友好国として日本の貴族階級と百済の王朝は深い関係を持っていたのはご存知と思います。正史に百済貴族の亡命を認め、貴族としての位を与えた記載がありますが、高句麗滅亡時にはありません。 百済に日本軍が援軍として送られ、その引き上げとともに百済の貴族が日本に渡ってきたわけでが、大規模な移動手段・護衛があったわけで家族・女性もかなり安全に移動できたわけです。 また、距離も高句麗よりはるかに近いですから、百済貴族の大量亡命があったが、高句麗の貴族の亡命は、個人的散発的なものだったと考えて全く問題ないと思います。 「日本の貴族階級に亡命貴族が食い込んでいった」とは、考えていません。まして「百済系のみが」とは全く考えていません。 この点については質問者さんと全く同意見で、百済系だろうと、新羅系だろうと帰化人が、家系として「日本の貴族社会に食い込んでいった」というような事実は全く知りませんし、そのような認識もありませんから、そういう趣旨で書いた部分はありません。 以下の類推は、質問者さんの4の質問について、直接係わり合いはありません。「百済出身者だけが日本の貴族階級に食い組んでいった」と言うことに対する、私の個人的認識を示します。 百済系帰化人が、日本の中で日本人社会と血の交わり絶ったコロニーを形成したため、百済の血統と百済の家系が結びつく形で残ったとは考えにくいとい思っています。 むしろ、生き残りのために必死の政略結婚(貴族社会の常識と言えます。)が行われ、朝鮮語が母語である一世、親が朝鮮語で子育てしたかもしれない二世以後は、百済帰化人貴族社会は急速に崩壊して、二百年もたたずに家系は帰化人でも、日本人と混血した地方豪族となり、政略結婚した一世・二世の帰化人女性の血は日本の中央貴族社会に同化(=遺伝子の状態として存在し続ける)してしまったと考えています。 日本の王朝が百済人貴族に位を与えたとはいえ、朝廷の職を与えられたわけではないのです。ですから、経済的基盤を完全に失い失業の状態なのです。 ですから、貴族階級に食い込むなどというものではなく、当座の生活の維持と、今後の生活基盤を作るため、土地の開墾の権利や奴婢を手に入れる目的で、娘に貴重品を持参金として持たせ、手工業の技術を提供し、そのような開墾の許可や労働力を保障する力のある中央貴族と繋がりを強固にしようとしたはずです。 貴重品の売り食いでは、いずれ破綻します。持ち込んだ貴重品がなくなり、技術が一般化してしまうまでに、少なくとも地方豪族としての経済基盤が作れなければ一族は崩壊します。中央貴族の妻となった姉妹が居れば、兄弟も暮らしている土地の地方豪族から妻を得ることが容易となったでしょう。(経済基盤・政治基盤のない亡命帰化人貴族に娘を嫁にやるような、中央の中・下級貴族はほとんど居なかったと思います。政略結婚で自分より上位のものと繋がりを持ちたいが普通なのですから。また、帰化人同士が結婚しても経済基盤・政治基盤がない状況は何等改善されません。) 多分、婚姻によって日本人貴族社会と結び付けなかった一族は、数代もせずに庶民に落ちていき、結局混血していったと思います。
- sudacyu
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歴史的資料に対する読み方の基本を無視していますね。 歴史には多くの記録がありますから、先に自分の中で結論を決めておいて、それに都合の良い資料だけをピックアップしたのでは、どんな結論にも導けます。 道長の家族について 貴方の提示された資料で、藤原盛子(三条天皇尚侍)・七男:藤原長信(1014-1072)の母親はどなたですか? 母、藤原時姫の父親は藤原仲正ですが、母親はだれですか? 妻の倫子の母は藤原朝忠女の穆子ですがではその母は? 宇多天皇の家族について 女御:橘義子 の 母はだれですか? 女御:橘房子 の父母はだれですか? 更衣:源貞子 の母はだれですか? 更衣:徳姫女王 の父母はだれですか? 更衣:藤原保子の母は誰ですか? これを調べると、歴史人名辞典などでも「~と言う説もある」「~とも言われている」とか、「と言われているが定かでない。」などの記述が多くなって、如何に記録に残りづらいかが実感できますし、下級貴族が多くなって、母系の血が下級貴族から上級に流れているのが分かります。 尚、日本の皇室に亡命百済王族・貴族のDNAが混じっていたとして、それが何か問題なのでしょうか。当時の日本社会が寛容であったこと、百済亡命王族・貴族から感謝されたであろうことが問題なのでしょうか。 百済を滅ぼした新羅(最初の朝鮮統一王朝。朝鮮も中国に倣って儒教化したため、歴代王朝は新羅の国家統治の正統を受け継いだ形式を取っています。)の伝統を意識する韓国人から、1000年以上経っても彼らの敵であった亡命百済人を受け入れたことに、クレームがついているのでしょうか? 人間は親しく付き合えば混血するもので、それが自然な人間の心の流れです。 歴史上、混血・異集団の流入を認めて強国になった例はありますが、人為的民族純血主義をとって大成功した例は、記憶にありません。 民族の理念的純血主義は、世界の歴史の中では戦乱の原因になるだけで、平和をもたらしたことはありません。 近年でも、ユーゴスラビア紛争による戦乱・ルワンダのツチ族・フツ族の内戦・虐殺などいくらでも例があります。
- sudacyu
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誤解があるようなので。 貴方の書き出しておられるのは天皇の家族についてです。天皇についての記録は当然日本の国の公式記録である正史に記載されます。私が指摘しているのは貴族の妻ですよ。 上級貴族の妻について記録があるかということです。例えば6人の娘を天皇の妻にした上級貴族中の上級貴族、有名な藤原道長の妻は何人居てその母親が誰か分かりますか。摂政関白太政大臣となり栄華を極め、栄華物語など彼を主人公にした物語まで残っており、研究資料が山ほどある天皇を凌ぐ政治権力を握っていた人の妻の母親についてです。彼の子供についてさえ、どの妻の子か明確な資料をご存知ですか? 記録に残っている貴方の指摘された天皇の妻たちについて、その父親の名を記載されていますが、では母親はどなたでしょうか? 例えば、あなたのあげておられる宇多天皇の妻9人について具体的にその母親は、どなたですか?菅原道真など有名な記録の多く残る人の娘などの場合以外、母親の記録がどれだけありますか?全て記録に残っていますか?国史に記載される天皇の場合でさえ、この状況なのです。 宇多天皇の妻の場合、父親でさえ中級貴族出身の妻がいます。母親が下級貴族出身である可能性はかなり大といえます。 上級貴族ほど多くの妻を娶りますし、男女の出生比率はほぼ1対1です。妻の血は上に上っていく事実を否定できますか? また、200年も経つと混血が進み、生物学的遺伝と文化的家系は全く意味が異なってしまいます。貴方の指摘強調しているのは単に父親の家系がどうかということで、血の濃さとはほとんど関係が有りません。 遺伝について詳しくないとの理由で、遺伝学を無視した論を展開するのは無意味です。文系であろうとなかろうと、生物学的遺伝について述べたいなら、先ず遺伝の基礎から勉強し直すべきです。 また政略結婚は貴族社会の常であることは常識です。百済系帰化貴族が、娘を数も多い日本人貴族に嫁がせず、百済系帰化人の間で婚姻を繰り返すこと自体ありえないと言っていいでしょう。(少数の家族間の婚姻は遺伝的劣勢形質を顕在化します。)更に、帰化当初の不安定な時期には、政治的基盤獲得のため日本人貴族と婚姻関係を必死で結ぼうとしたはずです。当然、見返りに百済から持ち込んだ貴重品・技術・文化を婚姻相手の家に提供するわけですから、混血が急激に進んだはずです。ですから、同じ日本人でも庶民より貴族階級のほうが、百済の影響が濃いと言えます。 また、百済滅亡時以前にも日本と友好関係にあった百済人の日本への帰化は徐々に行われています。 奈良時代に日本の貴族階級に加わった外部の血としては、百済が最大と結論付けてほぼ正しいと言えるのではないでしょうか。
お礼
あなたは主張は「上級貴族の妻は名前すら残っていない」ですが、 上級貴族の妻は(ましてや天皇の妻になるような娘は)詳細に残っているのが事実です。 下級貴族の間では、あなたの言うように日本人の下級貴族と百済系帰化人(=下級貴族)で混血が進んで、百済の血が薄くなり、何年後かに人民に降下したと考えられます。 桓武天皇は天武系に子供が存在していたなら、そのまま臣籍降下していたでしょう。 没落した天智系の白壁王と下級貴族の百済系帰化人の「高野新笠」の娘ですからね。 しかも、「高野新笠」の祖先は200年前に帰化して、日本人と混血も進んでいるでしょう。 それなのに皇后として認められなかったのは、下級貴族出身だからか、百済系帰化人なのか、その2つが条件かもしれませんね。 ありがとうございました。
補足
藤原道長の家族構成 父:藤原兼家 母:藤原時姫(藤原仲正女) 妻:源倫子(964-1053)(左大臣源雅信女、母は藤原朝忠女・穆子) 長女:藤原彰子(988-1074)(一条天皇中宮) 長男:藤原頼通(992-1074)(摂政・関白) 次女:藤原妍子(994-1027)(三条天皇中宮) 五男:藤原教通(996-1075)(関白) 四女:藤原威子(998-1036)(後一条天皇中宮) 六女:藤原嬉子(1007-1025)(後朱雀天皇東宮妃) 妻:源明子(964?-1049)(左大臣源高明女・盛明親王養女) 次男:藤原頼宗(993-1065)(右大臣) 三男:藤原顕信(994-1027)(入道前右馬頭) 四男:藤原能信(995-1065)(権大納言) 三女:藤原寛子(999-1025)(敦明親王女御) 五女:藤原尊子(1007-1084)(源師房(頼通の養子)室) 六男:藤原長家(1005-1064)(権大納言・御子左家の祖) 妻: 女子:藤原盛子(三条天皇尚侍) 七男:藤原長信(1014-1072) 妻:藤原儼子(?-1016)(太政大臣藤原為光四女) 当時、藤原氏からは 東三条院詮子 皇后遵子(頼忠の娘で円融天皇の皇后) 中宮定子 の三人が皇后として出ています。 宇多天皇の妻9人の記録は詳細に残っていますよ 皇后の藤原 温子を詳しく説明します。 [皇太夫人]:藤原 温子..872~907 .<号:中宮・東七条后・七条后> 父:関白太政大臣 藤原基経 母:操子女王(式部卿 忠良親王の女) [夫との血縁関係]:再従兄(6親等)・・・父基経の母、乙春の姉妹、沢子の孫 888(17才) 宇多天皇(22才)に入内、更衣(10月)、女御宣下(11月) 891(20才) 父・基経没 893(22才) 正四位下より正三位に昇叙(1月) 896(25才) 東宮敦仁親王(醍醐天皇)の生母胤子死去に伴い、その養母となる 897(26才) 宇多天皇退位、醍醐天皇即位,皇太夫人に冊立 898(27才) 五条宮より朱雀院に移る,「朱雀院女郎花合」を宇多上皇と共催する ....... 中宮職に賜る恩典の一部辞退を申し出る(4月) 902(31才) 屏風歌を紀貫之に詠進させる 903(33才) 東七条宮に移る 905(35才) 出家する(5月) 907(36才) 崩御〔6月8日〕 (宇治木幡の宇治陵に葬られる) 所生の皇子女 890~ 910.. 均子内親王(敦慶親王室) (養子)醍醐天皇 宮廷での女官:伊勢(歌人) *晩年に東七条宮(亭子院)に住んだため、東七条后・七条后と称されます。 .宇多天皇即位の翌年入内し女御となりました。均子内親王を生むが皇子はなく、藤原胤子の所生の敦仁親王が立太子しました。しかし関白の娘として重んじられ、胤子の死により東宮敦仁親王の養母となり、その即位により皇太夫人に冊立されました。 .宇多上皇と「朱雀院女郎花合」を共催するなど、その宮廷は華やいでいたようです。また女房には歌人の伊勢がおり、『古今和歌集』に伊勢の哀悼歌を載せるほか、『伊勢集』に温子との贈答歌や哀悼歌を伝えています。
- IXTYS
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5、天皇家がどこから来たのかは諸説あり謎です。 元々、大和に住んでいた者なのか? 九州から来たのか? 中国から来たのか? 朝鮮半島から来たのか? 私は朝鮮半島ではないかと思います。 その根拠は万葉集です。 巻一の雄略天皇の歌は有名です。 篭(コ)もよ み篭(コ)もち ふぐしもよ みふぐし持(モ)ち 此(コ)の丘(ヲカ)に 菜(ナ)採(ツ)ます児(コ) 家(イヘ)きかな 名(ナ)告(ノ)らさね 虚(ソラ)見(ミ)つ 山跡(ヤマト)の国(クニ)は 押(オ)しなべて 吾(ワレ)こそ居(ヲ)れしきなべて 吾(ワレ)こそ坐(マ)せ 我(ワレ)こそは告(ノ)らじ 家(イヘ)をも名(ナ)をも (巻一) 雄略天皇が野原で花を摘む乙女に恋をし、名を聞いた歌であると高校時代の歴史の時間に学びました。 万葉集は古代人の牧歌的な愛を歌の賛歌である。 これは日本人の多くは持っている万葉集に対するイメージだと思います。 ところが、これを古代の朝鮮語で読むと、愛の賛歌ではなく、即位宣言となる。 そうなると、これは立派な歴史書となります。 万葉集が恋愛賛歌なのか、歴史書なのか、その帰結はわが国の古代史の解釈を根底から覆すほどのインパクトをもたらすものです。 雄略天皇は鹿狩りと称しては。軍隊を編成して、ライバル達を葬り、権力を掌握した策士と聞いています。 野原で美しい乙女に愛を打ち明ける朴訥さはとてもイメージ出来ません。
お礼
>これを古代の朝鮮語で読むと、 古代朝鮮語は郷歌が17首(もしくは21首)しか残っておらず、解読されていないのが現状です。 解読されていない古代朝鮮語で読むなどは不可能です。 今のところ、古代朝鮮語は解読できてないのです。 例えば、江戸時代の日本語が解読されていないとして、松尾芭蕉の俳句が17首だけ見つかったとましょう。 その17首から日本語を解読することはできますか?不可能ですね。 今のところ、古代朝鮮語は解読不可能なのが現状です。 余談ですが、その郷歌17首を発見したのが京都大学の日本人教授なのですが、 「郷歌を発見したのは日本人だよ。」と韓国人留学生に言うと、不機嫌な顔になりました。 日本人の世話になるのは嫌だ!みたいな感じでした(笑) 朝鮮半島からか、中国南部の長江周辺から来たのか、九州南部から来たのか、謎ですね。それが歴史の面白いところです。 ありがとうございました。
- suicyo
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ANo.7です。ちょっと気になったもので、補足しますね。 質問者さんの仰せの「天皇家に血を分ける」というのが、歴代天皇の 女系での近親者(母とか祖母とか)のことを指すなら、百済系帰化人と しては仰せの通り「高野新笠」が唯一と言っても良いと思います。 ただ、天皇に限定せず皇族の妻となって子を儲けた、ということにな ると、事情は変わります。例えば、ANo.7でも触れましたが、桓武天 皇の後宮には百済(王)氏と思われる女性が何人かおり、子供もいます。 以下、本朝皇胤紹運録によると、 太田親王 母は百済教仁 駿河内親王 母は百済貞香、教徳の女 良峯安世 母は百済永継 ものの本によるとこの他にも居たようですが、原典が確認できない ので省略します。 ただ、いずれにしても、これら百済(王)氏の出身と思われる女性か ら生まれた皇子女の後の世代から、次世代の天皇家に通婚したとの 記録も見つかりません。絶対にないとは言い切れませんが、このこ とが「天皇家は百済系の血が濃い」ことの理由にはならないことも 明白です。
お礼
suicyoさんには感服します。本当に詳しいですね。 確かにそうです。 当時の記録は詳細に残っており、桓武天皇の後宮には百済系帰化人と推測される女性が何人いて、子供もいます。 しかし、その子供が次世代の天皇家に通婚したという記録はありません。 天皇家に通婚した女性は記録に残るので、その子供たちはしばらくして人民に降下したのでしょう。 度々ありがとうございました。
- suicyo
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1・4・5について 他の方からも指摘されている通り、日本人自体が北方・南方からの 混血だとされています。で、天皇家(の先祖)が誕生した当時、仮に 天皇家とその他の日本人とは血が違うということがあったとしても、 その後の通婚で混血が進みます。結局、天皇家とその他の日本人と の間に血の違いを求めるのには無理があります。 (遺伝子の問題ではなく、男系での血の継承のみを「伝統」として 問題とするなら、別の議論が成り立ちますが‥) 百済系の血が濃いというのは、何をもって「濃い」と判断するのか、 私にはわかりません。強いてあげるのなら、桓武天皇の後宮に百済 (王)氏が何人かいるのが眼に留まる程度です。天皇家に限らず、日 本人の総体として百済系の血が濃いという証拠でもあれば、話は別 ですが‥ 2・3について ANo.1さんが既に仰せられていますが‥以下、蛇足。 歴史時代というか、神話の時代以降は、皇后になれる身分は限られ ていました。最初は王(皇)族のみ、その後藤原氏や橘氏にも門戸開 放?されますが、以後も近世まで、中宮を含め皇后になれるのは上 級貴族出身の女性だけです。高野新笠の生家は桓武天皇の外戚とい うことで高い位を贈られますが、もともと皇后になれる身分ではあ りません。 当時の帰化人の扱いの低さがどの程度のものか、私には分からない のですが、仮に帰化人の扱いが良かったとしても、王(皇)族や藤原 氏と肩を並べるということは無理だったと思いますね。 当然、夫と息子が天皇であっても皇后・中宮になれなかった皇妃は 他にいくらでも例があります。また、例外としては、徳川秀忠娘の 後水尾皇后和子という例があります。でも、徳川家の権勢を見れば、 むしろ例外とは言えないですね。
お礼
詳しい説明をありがとうございます。 例えば、天皇家が中国南部の長江周辺から来た集団だったとしても、日本で生活している間に混血が進み、他の日本人と同じようになるということですね。 当時、皇后になるのは天皇家や上級貴族(藤原氏)など身分は限られていたので、下級貴族である百済系帰化人の「高野新笠」が皇后になれなかったのは当然だということですね。 韓国人留学生が「天皇家は百済系の血が濃い。日王(天皇)は百済人の末裔だ」とうるさく言うので、調べてみたのです。 詳しい説明をありがとうございました。
- sudacyu
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4.について 集団の遺伝子保存について、高校の生物(選択で知らない人も多いのでしょうか?)でも学びます。 奈良・平安時代の貴族階級のような集団から、世代が進むにしたがって中・下級貴族の遺伝子が失われていき、上級貴族の遺伝子のみが貴族階級に広がり、更にその時の上級貴族の遺伝子のみが残っていくということを繰り返すと、上級貴族(皇族を含む)の遺伝子は種類が少なくなっていって単一化し、劣性遺伝子が隠されずに身体的異常が多発します。 現実にはそのようなことは起こっていませんし起こりません。遺伝子はなくならないのです。 家名の残る父親のみを見て、全体を判断するからそうなります。遺伝的には男女同じ重さなのです。 具体的に言うと、上級貴族は複数の妻を持つことが普通であったのに対し、生まれる子供の数の男女比率は同じなのです。ですから数人の妻を持つ上級貴族の男子は中級貴族の妻を多く持ち、中級貴族は中・下級貴族の妻を多く持つことになります。 家名の残らない母親を中心に見ると、遺伝子の流れは上に向かっていきます。 この父親と母親の遺伝子を対等に見ると、どのような集団からも基本的には遺伝的性質は失われずに保存されるのです。そして、保存の過程で混ぜ合わせが進行します。 外国人を日本の貴族階級として受け入れたなら、考える以上に貴族階級の中で急速に混血が進んだと思われます。亡命百済人同士が結婚するよりも、日本人と百済人が結婚することのメリットの方があったと思われるからです。 百済人にとって、娘が日本人貴族の妻となることは、一族の生活基盤の安定につながります。日本人貴族にとっては外来の技術・文化を手に入れることで朝廷内の出世の助けになったでしょう。双方共に有利な話です。上級貴族の妻の名前さえ記録に残らない時代ですから、母方の祖母に帰化人が居たとしても記録にはほとんど残りません。
お礼
文系ですので、理系の遺伝子の話は苦手です(笑) >上級貴族の妻の名前さえ記録に残らない時代 それは間違いです。名前は残ります。名前が残らないのは下級貴族だけです。 弘文天皇の家族構成は 父:天智天皇 母:宅子娘 兄:建皇子 弟:川島皇子 弟:志貴皇子 姉:大田皇女(夫:天武天皇) 姉:持統天皇(夫:天武天皇) 妹:明日香皇女(夫:忍壁皇子) 妹:新田部皇女(夫:天武天皇) 妹:御名部皇女(夫:高市皇子) 妹:阿閇皇女 元明天皇(夫:草壁皇子) 妹:山辺皇女(夫:大津皇子) 妹:大江皇女(夫:天武天皇) 妹:泉皇女 妹:水主皇女 宇多天皇の妃と子供は 女御(皇太夫人):藤原温子 - 藤原基経女 女御(贈皇太后):藤原胤子 - 藤原高藤女 女御:橘義子 - 橘広相女 女御:菅原衍子 - 菅原道真女 女御:橘房子 更衣:源貞子 - 源昇女 更衣:徳姫女王 - 十世王女 更衣:藤原保子 - 藤原有実女 尚侍:藤原褒子 - 藤原時平女 敦仁親王(醍醐天皇) 斎世親王(三品兵部卿) 敦慶親王(二品式部卿) 敦固親王(二品兵部卿) 均子内親王(敦慶親王妻) 柔子内親王(六条斎宮) 敦実親王(一品中務卿) 依子内親王 君子内親王(斎院) 誨子内親王(元良親王妻) 孚子内親王 季子内親王 ほか源順子(藤原忠平夫人、実頼母)など子供多数 このように名前は残ります。 その中でたった一人だけ百済系帰化人の「高野新笠」が天皇家に血を分けています。 「高野新笠」の祖先は200年以上前に帰化した「百済太子淳陀」だと日本書紀には記されています。 200年前というと今日を基点とすると江戸時代です。 200年以上もの間、日本に住んでおり、あなたの言うように日本人と混血を進んで、百済の血も薄くなった。 200年という長い時間が経て、混血もしているのに、「高野新笠」は皇后として認めなかったというのは、(理由は、高野新笠が百済系帰化人だから)明確な血の区別が行なわれていた証拠でしょう。 希少な百済系帰化人と結婚するのは珍しく、多数いる日本人貴族の中で結婚が行なわれたと考えるのが自然でしょう。 あなたは当時の日本人貴族の数がかなり少ないと勘違いしているようですね。 あなたが思っているよりも、当時の日本人貴族は多数いますし、百済系帰化人は少数ですよ。 ありがとうございました。
- tomimasa2006
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ちなみに、神功皇后に(伝承どおりであれば)新羅の血が入っているというのは事実です。 アメノヒボコはもと新羅の王子でありその曾孫が、菓子の神とされるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)であり、次ぎの代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命です。
お礼
私がANo.2に言いたかったことを詳しく説明すると、 神功皇后がアメノヒボコの末裔とは記しています。 しかし、日本書紀にアメノヒボコは新羅の王子だとは記していません。 日本書紀どころか、「アメノヒボコは新羅の王子だ」と明確に記している史料はないですよ。 「アメノヒボコは新羅の王子かもしれない?」という推測の域は出ていないのです。 それなのに、ANo.2は「日本書紀によれば神功皇后は新羅王子の天日槍命の血が入ってる」と、日本書紀に「アメノヒボコは新羅の王子だ」と明確に記してあるようなことを書いた。 だから、嘘はいけませんよと書いたのです。 理解して頂けたでしょうか? 個人的には、アメノヒボコは朝鮮半島から来たかもしれなが、百済の王子ではないと思います。 倭人の勢力が住んでいた朝鮮半島南部(任那)から来た人物だと思っています。 任那があった場所で倭人の神が祭られている土地があるらしいので、近い内に行く予定です。 わざわざありがとうございました。
補足
(訂正)アメノヒボコは朝鮮半島から来たかもしれなが、“百済”の王子ではない。 ↓ アメノヒボコは朝鮮半島から来たかもしれなが、“新羅”の王子ではない。 に訂正します。
- sgi1962
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「血が濃い」・・・のではなく 「地が入ってる」・・・ということでしょう。 日本人自体、アジアの雑種ですから、なんら不思議ではないですよ。 古代は、大陸系の文化・技術がなければ国づくりはできなかったですね。
お礼
そうですね。 もちろん、南方系の中国の長江周辺から来た楚人の子孫の血も入っていると思います。 中国の歴史書に呉の孫権が日本(と推測される)まで徴兵をしに来たという記録を読んだ記憶があります。 ありがとうございました。
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お礼
横槍は大歓迎です。 私も当時の貴族社会において、百済出身者の血が多く混ざっていたというのは、単なる俗説にすぎないと思います。 ありがとうございました。