- ベストアンサー
藤原氏ひとり勝ち。その勝因は何だと思いますか。
こんばんは。 中臣鎌足が天智天皇より藤原姓を賜って以降、 藤原氏は他氏排斥を行ってひとり勝ちしてきた観があります。 757年-橘奈良麻呂の乱→橘氏を排斥 770年-道鏡失脚→弓削氏を排斥 842年-承和の変→大伴氏と橘氏を排斥 850年-惟仁親王立太子→紀氏を排斥(文徳天皇は紀静子が産んだ惟喬親王を即位させたいと考えていた) 866年-応天門の変→伴氏を排斥 901年ー昌泰の変→菅原氏を排斥 ざっと思いつく限りをあげてみてもこれだけあります。 史料に残されていない事件などもあることでしょう。 藤原氏がひとり勝ちできた勝因のひとつとして 天皇の後宮に娘を入れることで、天皇家との関係を深めたということがあると思います。 しかし、他の氏族も同様のことを行っています。 たとえば、紀名虎は娘の静子を文徳天皇の更衣としていますし、 嵯峨天皇の皇后だった橘林皇后は橘氏の女性です。 小野吉子という女性が仁明天皇の更衣であったという説もあります。 ここから考えて、天皇の後宮に娘を入れることだけが 藤原氏がひとり勝ちできた勝因ではないと思えるのです。 藤原氏の勝因として、他にはどういったことが考えられますか。 皆様の意見を聞かせていただければ幸いです。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
No.4です。お礼有難うございます。 鎌足=豊障(障はほんとは王へんです。変換できないんでこれで勘弁してください)は、何人かの方が言ってるようです。関裕二氏は「古代史の秘密を握る人たち」などで述べています。根拠はいくつか挙げてますが、ひとつは蹴鞠で知り合ってから(いいつたえでは^^)死ぬまで天智天皇の懐刀であった彼が、天智天皇がもっとも困っていたと思われる白村江の戦いの前後、天智の側に居た気配がないということです。この時期、日本に実質人質として居た百済王子の豊障は、滅亡した百済復興の旗頭として朝鮮に渡っています。結局、失敗して行方不明になりますが、彼が行方不明になると天智の側に鎌足が現れるのだそうです。 また鎌足は日本史上唯一「大織冠」という位(?)を貰ってますが、イッキにそれというのが少し不自然ではないかと言う点です。破格の待遇といえばそれまでですが(実際、彼は死ぬ直前に大臣になりますがそれまで無官です)、鎌足ならもっと早くその下の「織冠」を貰ってもいいのではないかということです。で、実は豊障は「織冠」を貰っているのです。ということで、もうすでに持ってる位をやるわけにもいかんので、その上を与えたのではないか。などなどを関氏はのべています。 ご参考まで。
その他の回答 (4)
- ?橋 昌也(@fudousin)
- ベストアンサー率21% (138/631)
鎌足は実際は中臣氏ではないとおもわれます。(藤原の姓を受け、特権を天智天皇より獲得しますが、その特権は中臣氏には及ばず、訴訟問題に発展しています。) そして、不比等は天皇の隠し子だった疑いがあります。 だからといって、あの権謀のうまさは日本人離れしてますねえ。 やっぱり鎌足は百済の王子だった豊障ですかねえ^^
お礼
回答ありがとうございます。 返事がおそくなってすいません! 実は私も不比等は天智天皇の子ではないかと思っています。 天武系の天皇は女帝の称徳天皇でたえ、 その後、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位しています。 これは藤原氏が天智系の血筋にこだわり、綿密に練った計画を成功させたということなのではないか。 藤原氏が天智系にこだわったのは、不比等が天智の後胤であるからではないか思うのです。 鎌足=豊障説は関裕二さんが称えておられる説だそうですね。 まだ本は読んでいないのですが・・・。 もしよろしければその論拠を教えていただけませんでしょうか?
- gungnir7
- ベストアンサー率43% (1124/2579)
祭祀の儀式を行える立場にあったからです。 日本の飛鳥時代は呪術中心の律令国家であり、密教の経典は閲覧が厳しく制限されていました。 各役所の官吏や僧侶は自分の所属する機関に関する経典しか拝見できません。 全てを閲覧できたのは天皇と一部大貴族のみです。 いわば天智天皇をはじめとした歴代の天皇は陰陽道のスペシャリストでもあったわけです。 平安時代に入ってその政治色は次第に薄れていきますが、やはり平安年間は神祇は絶大な力を持ちます。 幾つかの氏があるのですが、筆頭は安倍氏と中臣氏です。 安倍氏は安倍晴明で有名な陰陽道の大家で、当時土御門に住居があったことから後に土御門性を名乗ります。 一方、藤原氏はこの中臣氏の出身でもあり、中臣ブランドを背景に権勢を誇ります。 中臣氏は絶大なブランドであったことから中臣性だけは藤原性に改性していません。 また、明治に入るまで代々伊勢神宮の宮司に就いています。 伊勢神宮は現在でも神道の格付け1位で他の神社とは別格の扱いです。 これをみても中臣氏の影響力の大きさが伺えると思います。
お礼
回答ありがとうございます! 大変興味深く読ませていただきました。 たしかに陰陽道は大変影響力を持っていたものと思われます。 中臣氏は明治になるまで伊勢神宮の宮司職についていたのですか。 知りませんでした! 祭祀の儀式を行える立場にあったことと 藤原氏が朝廷での発言力を持ち続けることができたこと には確かに関係があるように思えます。 大変勉強になりました。ありがとうございます。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
政治コンセプトの確保と運用ノウハウ。 たまたま政治センスのある人間が続いた。 律令制度は、大宝律令によって確立します。 この大宝律令を作ったのが、藤原不比等。 無論個人でやったわけでなく、彼のスタッフが細かい作業をしていたはずです。そのスタッフは不比等が死んでも生き残る。生き残ったスタッフがバックアップするのが不比等の後継者、藤原四兄弟ということになります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/藤原仲麻呂 孫ですが、唐風職名に変えています、遣唐使帰りのスタッフ群が彼を支持していたと言うことの傍証に当たるかと思います。 現代でたとえて言えば、自民党の総裁が替わっても、霞ヶ関の官僚が次の自民党総裁に肩入れするようなものです。 奈良時代の不比等のスタッフにとっては、他氏は「律令制度、理解していないんじゃないの?そんな連中に付いていっては、俺たちの能力が生かされないし、食っていけないぞ」となります。 明瞭になった事件としては http://ja.wikipedia.org/wiki/阿衡事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/藤原佐世 朝廷の役人ですが、基経の家司でもあるわけです。 このタイミングで言えば、天皇が臣籍降下から戻ってきた宇多天皇で、権威が低かったというタイミングで、ナイスカウンターパンチだったと思います。 この意味で、基経に政局を見る目があったなります。 これはいける!と踏んで主張することで、自分の権威を高めているわけですから。
お礼
早速の回答をありがとうございます。 なるほど、政治センスがあるということですね。 藤原氏はそういったノウハウを子孫に伝えていたのかもしれませんね。 仲麻呂が唐風職名に変えたのは、遣唐使帰りのスタッフが支持していたことの傍証にあたるというのは慧眼だと思います! 確かに阿衡事件は実によく計算された事件だと思います。 大変勉強になりました。 感謝します!
- sosdada
- ベストアンサー率33% (265/792)
「氏族」「氏」「姓」「苗字」ということからお考えになってはいかがでしょう。 結論だけ書きますが、「一人勝ち」する以前の飛鳥時代から「藤原一族」が多かったのです。後には「佐藤」さんとかも。
お礼
何度も回答をありがとうございます。 本を読めばわかることなのに、わがままを言いました。 それなのに親切にお答えくださってありがとうございます。 それもとてもわかりやすく要点をまとめてくださっていて感激です! 豊障が行方不明になったのち鎌足が登場する。 しかも鎌足はいきなり「大織冠」という高いくらいを得ている。 確かに怪しいですね。 また藤原氏は大変な資産家であったようにも思われます。 平城京遷都をすすめたのは不比等だということですが そのためにかなりの出資をしているんじゃないか、と。 財力があったのは鎌足が百済王子の豊障だったから? などと考えてしまいました。 「古代史の秘密を握る人たち」 読んでみることにします。 歴史を推理するのは本当に楽しいですね。 心より感謝いたします♪