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仏教のお経について
通夜、告別式、法要等で、僧侶が読経しますが、今のままで意味があるのか疑問に思います。 一部、参加者も、紙を見ながら一緒に唱えますが、読んでも、意味が分からないことが多いです。 元々は、サンスクリット語だと思いますが、その音を、日本語の平仮名や漢字にあてはめただけのものが多く、読んだだけでは、意味不明です。 それよりは、日本語に翻訳して、それを読み上げてくれた方が、お釈迦様が話した内容の意味が伝わる、と思うのですが、どうでしょうか? ありがたみが無くなるのでしょうか? 私は、今のような、呪文のような読経を聞くだけよりも、お釈迦様の伝えたかったことが参加者一人一人の心に残って良いと思うのですが。 話の内容より、音が大事、という主張もあるかもしれません。 密教系はマントラを使うので、そういうこともあるかもしれません。 その場合、平仮名や漢字にあてはめたものは、イントネーションやアクセント等が、元々のサンスクリット語と随分違っていて、年数が経っている分、英語とカタカナ英語の違い以上に異なっていると思います。 それでも、意味があるのでしょうか? 詳しい方、よろしくお願いします。
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葬儀法要の意味と、僧侶の立場に対する解釈によっては >今のままで意味があるのか・・ となってしまうのでしょう。 訳の分からないお経や呪文を聞いたところで、何の意味もない・・ という呟きは、 残された者の側における宗教に対する、ごく一般的な解釈です。 たぶんですが このような宗教の形式的な行いに対する批判を専門僧侶に向けたとして おそらくは・・ 真面目な僧侶ほど反論はしないものと思います。 なぜなら 葬儀法要の第一義は、死者の供養であり、その儀式を執り行う者は導師たるべき者である という誇り、信念を持っていると考えられるからです。 死者を導くという勤めに迷いがなければ 他から何を言われようが、どうという事はないのです。 朝のお勤めなど、自ら進んで欠かさず行っている真面目な僧侶の方は 私の知る限りでは、そうした誇りを鼻にかける人はいません。 仏様と向かい合っているからでしょうか・・ 僧侶や仏教に対する批判は山というほどありますが 案外、本当の深いところの事は一般に理解されていない、といった感じもします。 葬儀法要における死者の供養と、生きている者に対する説法とはまったくの別物・・ ではないでしょうか。 導師それぞれのやり方というか、方法があるようにも思います。 プロの流儀といいますか・・ その辺の事は、語られないし、語る必要もない事なんでしょうね・・ >英語とカタカナ英語の違い以上に異なっている・・ このあたりの事も、まず語られる事はない 真言の有効性については 導師の一行者としての内面に触れることだと思います。 推測すればですが・・ 三昧における観想の重要性がそこにあるように思います。 進境すれば、真言も形や声が無くなる、無相の真言に至るという話もあります。 有相と無相の違いは 英語とカタカナ英語の違い、どころではないかもしれません・・ 観想とは信心の世界 信なくば、真言は意味を成さず ただの、おまじない 私達一般人には、そうとしか聞こえない 信心の有る無しによって、聞こえる深さが変わってくる そんなところじゃないでしょうか・・。
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- 有木 巨智麿(@kothimaro)
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般若心経は、自分とは誰か死とはなにかを伝えています。 死とは何でしょうか。その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。死んだとしても、気が付くと貴方は、母の胸に抱かれているでしょう。
お礼
般若心経の説明、ありがとうございます。 昔、瀬戸内寂聴さんの般若心経の解説本を読んだ記憶があります。 内容はすっかり忘れています。 ご回答ありがとうございました。
- Tefu_Tefu
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こんばんは >通夜、告別式、法要等で、僧侶が読経しますが、今のままで意味があるのか疑問に思います。 私は ご夫婦で連れの方がお亡くなりになり 何か月か後に 残された方がお亡くなりになる話を聞くと 僧侶の読経の意味の無さを痛感いたします 幸せは 本人がそう信じればいつでも幸せであり 心の問題だと思うんです 読経は 亡くなられた方が自分の生涯を全うして安らかな処(涅槃)に逝かれたことを 残された者が見送るための儀式です また 読経は 残された者に赤ん坊のような生まれ変わった気持ちで自分の生涯を生きなさいと 説いているんだと思います 僧侶は 残された者に死者が天国に逝かれるように みんなで信じましょうと先導して 残された者が死者のためにも 自らの生涯を明るく生きていけるように 教える事が務めだと思います お坊さんは 残された者の生き方を分かり易く説いて欲しいものですね まして お坊さんが寄付の多さにより死者や残された者の扱いを変えるのであればとんでもないことです お釈迦様は悲しんでいらっしゃると思います
お礼
死者の成仏が第一義としても、残された遺族の精神的ケアも、本来、お坊さんの活躍できる場だと思うのですが、してないですね。 壇家が減って、生活が苦しいのかもしれませんが、お布施が貰える機会でないと、動かない印象があります。 ご回答ありがとうございました。
- kurinal
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Ano.8です。 >「「お釈迦様」が話した内容の意味」 >「「お釈迦様」の伝えたかったこと」 が、伝わる、参加者一人ひとりの心に残る・・・本当ですか?
お礼
少なくとも、何を言ってるか分からない今のお経よりかは、日本語なので、残ると思います。 子供の頃、うちに来ていたお坊さんは、分かりやすい法話をされる方だったので、子ども心に、良い話をされるなあ、と思ったことがあります。 ご回答ありがとうございました。
- Mokuzo100nenn
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仏教は輸入物ですから、日本人にとってはわかりにくいですね。 わかりやすい日本語がご希望であれば、神道がお勧めです。 仏教はわかりにくいですが、禅宗は大変に奥深い教えを説いているので、自分で勉強する価値があると思います。
お礼
神道の葬儀は安価に済む、というのは聞いたことがあります。 神道には、ヴェーダのヤギャに相当する秘儀があるように聞いたことがありますが、それはマントラを使うのでしょうか? 禅宗も、機会があれば、解説本を読んでみたいと思います。 ご回答ありがとうございました。
- kurinal
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信教の自由かもしれません。
お礼
確かに、クリスチャンは、絶対、仏教や神道の葬儀には参加しませんよね。 ご回答ありがとうございました。
- 0fool0
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意味があると思えば有る 無いと思えば無い
お礼
葬式や法事の時だけ、お寺に依頼する、在家の不良信徒には、お経は、あまり意味がないことなのかもしれないですね。 ご回答ありがとうございました。
- NemurinekoNya
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NO5です。 訂正です。 誤:「ジャク・ウン・コク・バン」 正:「ジャク・ウン・バン・コク」 ですね。 訂正をした、ついでついで。 これ、音(正しくは《種字・しゅじ》)を四つ記したもので、 サンスクリット語として考えると、これは、何の意味を持たないコトバ。 でも、 この真言は、四人の菩薩をシンボル・《種字》であらわしたもので、意味を有しているんですよ。 仏さまを《招く》、《引きよせる》、《とどめる》、《よろこばす》といったような意味をあらわしている、 ら・し・い。 わたしが考えるに、 このほかにも、 その菩薩の徳性なども表現しているし、 色々な意味を有しているはず。 たとえば、 チベット仏教で最も神聖とされているされている真言・マントラに、 「おむ・まに・ぺめ・ふむ」というものがありますが、 (サンスクリット語をローマ字的に書くと、oM mani padme hUM) これには、 http://www.tibethouse.jp/culture/omph.html に書いているような意味があるとされています。 (異説あり) オマジナイのサンスクリット語の意味は、 「お~む、宝物(mani)、蓮よ(padme)、ふ~む」 くらいの意味なんですが、 密教では、そのように考えない!! これを、さらに、 「oM ma ni pad me hUm」 と音節・シラブルに分解して、考えたりもします。 そして、このシラブル一つ一つに意味があると考えます。 なので、 サンスクリットの原音でないと、ダメなんですよ。 サンスクリット語のままじゃないと、ダメなんです。 日本語や他の言語に翻訳してしまうと、 真言・マントラの意味がなくなってしまう・・・。 意味が失われてしまう!! 真言を日本語に訳さないというのは、 こういった事情もあるんです。 《顕教》のように、読んでわかるというお経ではないんで、 《密教》は。 シンボル化の教えなので、 みずから、その《ヒ・ミ・ツ》を解き明かさないといけない!!
お礼
詳細な解説、ありがとうございました。 真言について、ほんの少しだけ理解が進みました。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
こんにちは。 真言・マントラは、基本的に、呪文・オマジナイだから、翻訳しないんですよ。 オマジナイの意味よりも、オマジナイその物に効力があるので、訳さない。 真言・マントラの多くは、たいしたことを言っていないし・・・。 訳してしまうと、このことがバレてしまい、「何だ、こんなもの!!」と、アリガタミが減ってしまう(笑い)。 このことがバレないために、誰もが理解できないサンスクリット語で唱える必要がある・・・。 というのは、冗談なのですが、 多くのマントラ、真言の内容が、大したことを言っていない、というのは、本当です。 真言の中には、「ジャク・ウン・コク・バク」というように、意味不明のものまであります。 つまり、 訳そうにも訳せないものまであります。 まぁ、教義的には、 I 真言は、真実の言葉、仏さまの語ったお言葉であり、これをサンスクリット語から他の言葉に訳すと、意味が変わって、真実の言葉ではなくなってしまう II 真言の一つ一つの言葉の音、響きに、無限の意味があり、そこに神秘の力が宿る、とされている などなどの理由がありまして、 だから、訳さない。 たとえば、 サンスクリット語の「ア」という音には、この「あ」という単なる音以上の無限の意味があると、 密教では考えます。 これは、宇宙その物であり、始まりであり、密教の本尊・大日如来の象徴、シンボルであるといったように、 密教では考える。 「ア」という音を記すサンスクリット文字自体にも、様々な意味があり、そこに意味が込められている。 だから、 サンスクリット語から他の言語に訳してはいけない という深い事情もあります。 ☆それよりは、日本語に翻訳して、それを読み上げてくれた方が、お釈迦様が話した内容の意味が伝わる、と思うのですが、どうでしょうか? ◇密教の本尊は、お釈迦様じゃないですよ。 大日如来であり、秘密主とされる金剛手(こんごうしゅ)、金剛薩埵(こんごうさった)です。 お釈迦様がといた教えは、《顕教・けんきょう》と呼ばれ、 密教は、大日如来が説いた、《秘密の教え》の意味。 金剛手秘密主 http://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%89%9B%E6%89%8B%E7%A7%98%E5%AF%86%E4%B8%BB そして、 金剛薩埵は、質問者さんであり、わたしでもあり、生きとし生けるもの全てが金剛薩埵です。 金剛手、金剛薩埵は、内なる仏を有する全ての存在の象徴・シンボルでもあるんですよ。 今は、真言のもつ本当の意味がわからなくても、 きっと、将来、 真言の持つ本当の意味がわかるんじゃないですかね~。 ☆ありがたみが無くなるのでしょうか? ◇「ありがたみ」という言葉が適切かどうかはわかりませんが、 「ありがたみ」は、やっぱり、なくなるんじゃないですかね~。 「音」の一つ一つに意味があるので。 ───この「音」の解説書までありますよ(ニコニコ)。 「阿・吽(あ・うん)の呼吸」という言葉ありますでしょう。 空海は、《吽(うん)》という一つの「音」についての解説書・哲学書を一冊、書いています。─── ☆その場合、平仮名や漢字にあてはめたものは、イントネーションやアクセント等が、元々のサンスクリット語と随分違っていて、年数が経っている分、英語とカタカナ英語の違い以上に異なっていると思います。 ◇ええ、ずいぶんと変わっています。原音をとどめていないものも存在します。 ☆それでも、意味があるのでしょうか? ◇それ、そこは、オマジナイですから(わらい)。 なのですが、真言の多くは、サンスクリットを表記する文字とともに残っているので、その多くは復元が可能です。 真言宗ですと、戒名の上に見慣れない変な文字《梵字・ぼんじ》がついているでしょう。 たとえば、 http://www2.saganet.ne.jp/enn/bonji-itiran.htm みたいの。 ちょっと矛盾しますが、 そこはそれ、非常におおらかで、ドンブリ勘定の密教ですから、 おそらく、効果、効能はあるのではないでしょうか(ニコニコ)。 個人的には、可能な限り、原音に復元すべきだとは思うのですが・・・。
お礼
説明を読んで、とても深遠な世界が広がっている印象を受けました。 密教の葬儀や法事では、お坊さんの発音や所作が、顕教と違ってて、変わってるなあ、という印象を受けました。 仏教も、いろいろありますね。 参列者に理解できるようなお経、というのが、そもそも無理な要求なのですね。 ご回答ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
マントラ(ナンマイダーとか)のように、唱えるだけで救われるものなのです。 特に日本のように、もともと集団主義が強く、教義によって他律的にモラルを強要する必要のない所では“儀式宗教”化し、追悼の意を表し、他の人と思いを共有する事が肝心なのです。
お礼
>追悼の意を表し、他の人と思いを共有する事が肝心なのです。 なるほど。 一理あると思いました。 ご回答ありがとうございました。
- hunaskin
- ベストアンサー率30% (1854/6060)
ありますよ、日本語訳(というのも変な言い方ですが)のお経。 和讃という日本語で語られるお経のようなものもあります。これは経典を和訳したものではなくてお経に対する賛辞を述べるようなものが主ですが。 宗派によっては和讃も法事に用いられていますが質問者様はご存知では無いということですね。 >日本語に翻訳して、それを読み上げてくれた方が、お釈迦様が話した内容の意味が伝わる、と思うのですが、どうでしょうか? でも内容自体が難しく術語・専門用語が多いので学校の授業やお寺の勉強会ならともかく、法事なんかの場所でそれをやってもらってもおそらくほとんど理解できないでしょうね。 たいていの坊さんはお経を唱えるだけではなく、その後に法話をすると思います。 普段から勉強していない信徒(お寺で法事をするといいうのは皆さん在家の信者であるという前提です)がそれ以上を求めるというのは不遜ではなかろうかと私は考えます。 質問者様の提案は大学院で研究する物理学を幼稚園児にもわかるように伝えろというような無理難題です。 もちろん、坊さんによっては一般の信徒にできるだけ多くのことを伝えようと工夫している方もいらっしゃいますけどね。 ちなみに、私の持っている経本(天台宗・臨済宗)はいずれもウラ面は和訳です。 が、しかし、その内容を理解することは非常に難しいです。 質問者様もお手持ちの経本を確認されてみてはいかがでしょうか。
お礼
経本は持っていません。 裏面が和訳のものもあるのですね。 法話は、告別式以外は、最近は、しないお坊さんの方が多いように見受けられます。 地域や宗派やお寺にもよるのでしょうけど。 先日あった、遠い親戚の一周忌では、若いお坊さんでしたが、法話はありませんでした。 >質問者様の提案は大学院で研究する物理学を幼稚園児にもわかるように伝えろというような無理難題です。 そうだったのですね。 道徳的、倫理的な内容かと思ってました。 ご回答ありがとうございました。
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お礼
>葬儀法要の第一義は、死者の供養であり、その儀式を執り行う者は導師たるべき者である それは確かにそうですね。 参列者が、理解できようが、できまいが、関係ないですね。 ただ、本当に死者の供養になっているのかどうかは、素人には分からないことなので、お布施が高い等の不満につながってしまいますが、それはまた別の問題になりますね。 ご回答ありがとうございました。