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言語による考え方などの違い
日本語で、 電車に乗り遅れたので、仕事に遅れた は、 I was late for work becouse I missed the train ですが、 日本語と英語では、文章が逆です。 日本語は、 理由→結果 英語は、 結果→理由 という形になっています。 このような文脈によって、なんというか考え方や会話の運び方みたいなのは、 日本人と英語圏の人で変わってきてたりするのでしょうか? 日本語は、ひらがな・カタカナ・漢字と横に広く、 その上、同じ漢字で読み方が変わったり、ひらがなの並びで意味が変わったりもします。 ハングルは漢字がないため、全部ひらがなみたいな感じであり、 意味の受取りが食い違ったりするとか聞きました。 英語や他の言語では母音がたくさんあり、音に重きを置いていたりもします。 文脈の逆なども同じで、そのような言語の違いによって、 その人の考え方などが変わってくるのかなとか思った次第です。 あなたは言語による考え方などの違いは、どのように思われますか?
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- SI299792
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英語の並び順であれば、結論が先に来るので、途中まで聞けば相手の言いたいことが解ります。その為、相手の話をさえぎって自分が話すというのはよくやるそうです。日本でそんなことをすれば失礼です。 また、日本語は母音が多い、その為虫の声が心地よく聞こえる。英語圏の人には不快な音にしか聞こえないそうです。つまり、音の聞こえ方も変わり、価値観も変わります。 英語では当たり前の言い方が、日本では侮辱に聞こえることもあります。外人が社長の会社で、最初の通訳はそこも考慮して通訳していました。しかし、通訳が変わり、社長の言ったことをそのまま通訳するようになった。すると社員がどんどん辞めていったという話を本で読んだことがあります。
- Nakay702
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以下のとおりお答えします。 >言語の違いによって、その人の考え方などが変わってくるのかなとか思った次第です。あなたは言語による考え方などの違いは、どのように思われますか? ⇒そうですね。どういう切り口から考えても、おっしゃるような「言語による考え方などの違い」は避けて通れない現実だと思います。 そもそも人間は,自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されていて、「サピア=ウォーフの仮説」(言語的相対論)が説くように、本人のあらゆる言動が(無意識に)当該言語の課す様式に従わされているわけですから、言葉が違えば思考様式も異なるのは如何ともしがたいことですね。 *「サピア=ウォーフの仮説」の詳細については、次のサイトをご参照ください。 《ja.wikipedia.org/wiki/言語的相対論(Wikipedia)》 また、その言語習得量や運用能力の差によって、不可避的に個人個人の知的営為において差が出ますね。単純に図式化すれば、「例えば、語彙数1万語の人と2万語の人が同じ頭脳労働をすれば、能率が2倍違う」ということらしいです。我々は、両方の立場を同時に体験することができませんので分かりにくいですが、言語と思考能力がいかに強くつながっているかということを示す例があります。 フランスであったことです。ある人が交通事故で脳の言語野を損傷してしまいました。リハビリのためにいろいろな実験をする中で、床にばらまいた数種の色の色紙を拾い集めて同じ色の箱に入れる、という課題を患者に出したのです。何度やってもできないのです。色覚がおかしくなったのかと疑って調べてみたりしても、異常は見つからず、原因がわかりません。状況をいろいろに変えたりしながら何回も何回もやりました。でも、何度やっても、結果はメチャクチャです。 結局、こういう結論に至りました。「人間、言葉を失うと、色の区別さえできなくなる」と。我々は普段、例えば、赤を識別するのに、「夕日の色、血の色、熟した果物の色…などという意味付けをして」赤を想起し、赤いものを拾い集めるのだろう。それが、健常人に色識別の機序であろう、と。 長々と逸れましたが、本題に戻ります。例えば日本語と英語のように、複数言語を同程度に操ることができれば、当然ながらその分思考様式の幅が広がり、応用力を発揮できることになりますね。そうすると、冒頭でお書きの問題もある程度解消することができるかもしれません。つまり、バイリングワルやトリリングワルの人は、個人的能力の実態に見合った応用力を駆使するはずです。そして、「理由→結果」と「結果→理由」の順序関係を表すような発話表現を、必要に応じてある程度自在に切り換えできることになりますので。
- HAL2(@HALTWO)
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>このような文脈によって、なんというか考え方や会話の運び方みたいなのは、日本人と英語圏の人で変わってきてたりするのでしょうか? <大きく変わります。 私は米国に 10 年余住んでいた事があり、その間は当然、英語で考え、英語で話していました。 日本人と日本語で話す時に非常にもどかしく感じたのは、御質問者さんも指摘されている通り「理由→結果」の並びである事から結果に至る導入がやたらと長く「だから何が言いたいんだ! 結論を言えっ!」と言いたくなるほどイライラさせられたものです……堅苦しい場で「本日は御日柄も良く云々……なんて始められたら帰りたくなりますよね(笑)」 会議の殆どは不要な導入で結論が付かず、Presentation は配布された Print と同じものを画面に映し出して画面を読み上げるだけだったりするものだから Print を読み終わったら寝てしまいます(笑)。 帰国して数年ほどは会社の上司からも取引先の御偉いさん達からも「コイツは日本人じゃないから(^^;)」と或種の免罪符を得ていました(笑)。 今でも「先に結論、理由は後」の癖が残っているのですが、理由に気が付いてしまう人にはいちいち理由を説明しなくても済むので 1 分 1 秒でも時間が惜しい状況では話が早くて助かります。 実は「何で?」と聞かれてから説明した方が相手は良く理解してくれるものでして、先に理由を説明してから結論を言うと殆どの部下や同僚達は理由を忘れ去ってしまいます(笑)……結論だけ覚えておけば良いと思うらしく、理解せずに一夜漬けの暗記で試験を乗り切ってきた者が試験が終わると綺麗さっぱり忘れるのと同じで、応用を期待できなくなります(^^;)。 でも日本語だって「結論→理由」の語順で言えるわけだし「理由→結論」で言うのが正しいというものでもないので、言語と言うよりも、そんな言語の使い方を好む社会、慣習なのではないかと思います。
- tetsumyi
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そう思います。 殆んどの言語は直接定な表現だけですが、日本語は間接的であったり感情を込める言い方がいくつもあります。 それで日本では争いを避けて敬意を表す話し方ができます。 日常的に注意深く行動する為に大勢が行き来しても街は綺麗で静かです。 海外では他の人のことを考えず自己主張が強くアチコチでけんか腰の言い合いが勃発するようです。 街中や電車内は汚く大声で話をしてうるさいらしい。 特に日本のトイレは使う人が汚さないように気を使う為に、どこでも綺麗で外国人は驚く様です。