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目の役割と観測範囲について
- 人間の目は現実世界を観測し、私たちに景色を提供しています。しかし、他人の目がない場合や遠くの存在はどうなのか疑問があります。
- 自分の目は他人が観測することで存在するかもしれませんが、自然の中では自分の目だけでは景色は出現しないかもしれません。
- また、自分の観測範囲は限られており、壁の向こう側や遠くの場所は存在するかどうか、観測できるかどうかについて疑問があります。
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この世には、さまざまな電磁波があります。 色とか光というのは、そのなかのきわめて一部のものです。 人は、その一部の電磁波を色として認識しているだけです。 電波は電磁波だし、紫外線や赤外線も電磁波です。 放射線も電磁波です。 光もこれまた電磁場です。 すなわち、目に認識できるものは、きわめて一部で、ほとんどの電磁波は人は認識できません。 ここが放射能に汚染されているというか、放射線があっても、体に強い影響があるものでない限りは、体感としてわからないし、また目にも見えません。 ですから、赤色というのは、たまたま、地球上の生物で、ヒトという種が、そのような色に認識しているだけです。 また、色弱の人が劣性遺伝としていますが、このような素質をもった人は、生まれつき、色の認識がないですから、自分が見えている世界が正常な世界で、一般の人がみえている世界は、推測もできないと思います。 色の感じ方が生まれつき違うからです。 (違うというより、三原色の光の特定の光に対して、感受性が異なります。 まったく感じないわけではないです。 個人差があるので、程度も人により違います) 色弱などは、遺伝により起きるものですが、おなじように、人は、それぞれ受けている遺伝情報が全員細かくは違いますから、あなたが見ている赤色が、わたしが見ている赤色とまったく同じと感じている(見えている)かは、本当のことはわからないと思います。 わたしはあなたにはなれないし、あなたはわたしになれないので、ほかの人の感じ方は、推測も想定もできないです。 基本的に、人の遺伝情報はほぼ全部が同じもので構成され、きわめてごく一部のところで個性として差がでてきますから、人が感じている赤色と、自分が感じている赤色は、基本的に同じもののはずですが、それは、確認のしようがないです。 科学的に、人の遺伝子はこのようになっていて、脳の構造はこのようになっていて、こういうことから推測しているにすぎないです。 これは、何についても似たようなものだと思います。 病気に関しても、医師というか、医学では、ほとんどなにもわかっていないというか、たいしたことは、現実は解明されていないからです。 現にこれが解明されたら、病気はなくなるでしょうから。 ご質問者様のような感じ方は、普通、誰にでもおきる現象です。 見えているものが人と違うとか、自分というものが実感できないとか、見ている物が現実にそこにあるのか、こういう感覚を感じることにより、その「不思議さ」を解明することから、科学は進歩してきたのではないでしょうか。
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- 雪中庵(@psytex)
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目が五感の中で特殊なわけではない。 全ての感覚器官は、感覚細胞の表面での量子相互作用を しているに他ならず、ただ感覚細胞の構造、相互作用する 波長の違いにより、媒体が異なるだけだ。 目=視覚や、耳=聴覚が、「遠くのものを感じている」と思うの は、その媒体である光や音が先行感覚(早い、情報性が高い) であり、それにより他の生理的感覚(触覚、味覚etc.)と相関 した経験の蓄積が励起される=そこに至った時に起きる事を 予測=空間的広がりを生じているに過ぎない(実際に感じてい るのは感覚器官表面での量子相互作用パターンとして同じ)。 ちなみに相互作用には、量子相互作用=電磁力以外にも、 強い相互作用、弱い相互作用、重力があり、それ以外の作用 は全て原理的にこの4つに還元される。 そして重力は到達距離無限大で、打ち消したり遮蔽したりする 事ができない(存在する限り観察手段がある)。
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ありがとうございます。 遠いとか、近いは、感覚で得ているに過ぎない??・・・ ということは、本当は、点と触れ合っているに過ぎないのかもしれませんね~?
- naoiga2008
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人類は自分が見なくとも他人が見たことを言葉で聞き、お互いに伝えあって生存を可能にしてきました。 例えば、あのもみの木の向こうに馬が30頭ぐらい群れていたよ、丘の向こうに杏が実ってる、敵が来たよ、など。 場合には時間を超えて伝えあった。すでに死んだ人間が見たことさえも文字を使って見ようとした。 しかも、個人の見える、見ている世界はとっても選択的です。目的的です。 例えば恋は盲目、私は街では若い女性しか見ていません。 目に映るから見えるのではなく、目に映っていてもある人には見えていないのです。 また、激しい感情、欲望で誤作動もあります。 だから、「見えないからと言って、ないとは言えない」「見えるからと言って、あるとは言えない」 だから、物事を正しく観ようとしたら、理屈のための言葉遊びを止め、心をオープンにし、謙虚に保ち、こだわりを捨ててることでしょうか?多面的に重層構造で博く見る努力をする。そのためには場合によって時間がかかる。 それと、もう一つ、他者との繋がりを確認することでしょうか?かっこつけて言うと「愛」ですか。
お礼
ありがとうございます。
>見えないところは、存在するのでしょうか?観測されますか? 学生時代に大学で哲学の教授に質問したことがありますが 「あると考えておいたほうがつじつまがあうからあると考えて問題ないのでは?」という話でした。 物理学者のファインマンがエッセイでこんなことを書いていたので聞いて見ました。 「レンガを考える。表面しか見えないので、中身が詰まっているかどうかはわからない。 中身を確かめるために半分に切っても、見えるのは切断面だけで『本当は中身は空っぽで、切った瞬間に切断面が出来上がる』と考えると、何度切っても同じことだ」 エッセイのコピーまで持っていって「この話はどうなんでしょう?本当に中身はあるんでしょうか?」と質問したら 「確かにこの仮説は否定できないけど『本当は中身は空っぽで、切った瞬間に切断面が出来上がる』というのは不自然すぎる。中身が詰まっていると考えるのが合理的ではないか」 と言う説明でした。 言われたときは納得できませんでしたが、後で考えてみると「この考えって面白いだけで相当不自然だよなあ」と思うようになりました。 「見てないものは存在するか」問題に似ているものに「5分前仮説」があります。「過去は存在するのか」問題ですが、これも「そう言われるとそうだけど…」という感じがします。 なんか、科学哲学には「反証可能性」という考え方があって「原理的に反証できないものは科学ではない」とかなんとか。「見ていないところ(レンガの中身・『自分の半径○m以上離れた人々、モノ、建物、自然など』)にはものがない。見たor観測した瞬間にすべてが作られる」仮説は「5分前仮説」と似ていて「興味深い仮説ではあるものの、反証できないからなんともいいようがない」となるのではないかと思います。 「目」の存在については…。お気持ちはなんとなく伝わりますし、なにか論じたい気もするのですが、ちょっと力不足でできません。すみません。
お礼
ありがとうございます。 切断面の話は、面白いですね~。
お礼
ありがとうございます。