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自分以外の人間は、存在するのでしょうか?
幼いころからこの疑問を常に抱いています。 言葉で表現するのは、難しいですが自分の顔は、自分で見ることができません。このことから自分の目は、自分のものであり内側から見ているイコール自分は、存在すると認識できるのですが、自分以外の人は、本当に存在するのでしょうか? たとえば、それは青いというのは自分の脳が青色に見せているものだと聞いたことがあります。実際に、自分以外の他人は、人間のようにみえるように脳が映し出しているのかとも思います。また、こうして質問を書き込んでいる最中に後ろを見ることはできません。自分の後ろには、本当に世界は存在しているのでしょうか? このことに対する答えは、ないと思います。ですが、少しでも私が楽に考えることができるヒントを教えてくださるかたがいらしましたら教えてください。
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他者が存在するかどうかということは、(1)自分以外に存在一般は成り立つのか、(2)自分以外に精神は存在しえるのかという二つの問いに分けてアプローチできます。これに関して何がしか示唆できるかもしれないことを他の質問に関して書きましたので、ここにほぼそのまま写し、私の提案する一つの可能性とさせていただきます。 「ものそれ自体」というのは存在するのかというのは、哲学史上何度も論じられてきた古い問題ですが、私はこれに、「証明は不可能」とやや折衷的に回答します。 存在について語るには存在をいかに認識するかという問題を避けるわけにはいきません。そこで考えてみたところ、私たちは五感をなしにものの存在は認識できません。仮に私が神経が極度に衰退する病気になり、五感すべてを失ったとします。このとき自分の外に存在を認識できるかというと、恐らく不可能でしょう。ゆえに存在の認識には五感が不可欠だと考えられます。 次に五感によっていかに存在を把握するかですが、直接的に最初の経験で把握することは出来ないと思われます。私の目に映る風景は、それ自体で考えるなら、無数の色が散りばめられた一つの絵に過ぎません。ゆえに視覚による経験はリアルタイムに変更はなされていくものの、その一瞬においては単一な経験だと捉えられます。この事情は他の感覚においても同様であることは、日常の経験を反省してみても確かめられると思います。 ではいかにそこに個物としての存在を認めているかといえば、差異を頼りにした分化によると思われます。例えば色がまったく同一か、いかなる飛躍もなく連続的に変化している面は、私たちには一つの面だと思われる、ということを考えるとわかりやすいかと思われます。そしてそのような差異の分布から、私たちは各々の感覚による地図のようなものを組み立てます。私とどのような位置関係にどのような差異があるかを把握するわけです。差異は一つでも存在を推定する根拠たりえますが、経験上結びつきえるいくつかの感覚による差異が同一の場所に現れたとき(このような地図の重なり合ったもの、あるいは総体的な地図群を私はその主体にとっての世界と呼びます)、その存在可能性はいっそう高まります。けれども最終的には存在していて欲しいという私たちの願いが、私たちにとって存在を存在たらしめます。 このように考えれば、ものそれ自体があるから私たちはそれを見たりするというより、むしろ逆の順に存在の認識はなされているものと考えられ、最も高いレベルの存在の明証性は私たちの信仰にのみ存すると考えられます。 こうした立場からすると、自分が持っている「心」以外の「心」を想定することは困難に思われます。それは感知し得ないからです。けれど、「心」の定義を少し変更したのなら、それは上の信仰を持つ者にとっては明確に存在する原理になります。 単に存在の認識を考えただけでは、認識されたものがなぜそのように認識されたのかがわからず、そうであったからそうなのだとしか言えません。けれど存在を信仰する立場からは、ある存在がそのようであり、そのように差異を統合し、私の世界に差異を作り、変更していく原理は、その存在そのものに求められます。それを私は「心」と呼びます。 一般的な「心」も「目は口ほどにものを言う」などといわれてるほど、他者に語りかけるものであったことを考えると、私の「心」もさほど食い違う考えではありませんが、私は私が私の姿を今こうであるように他者に認識させている働きも「心」に含める、という意味で、いくらかその範囲を拡大しています。 上記のような考え方に立てば、心も物質も、私の言う信仰によるという留保はありながら、同程度に存在し、同程度に確実であると思われます。ここから、私の信仰によるならば、他者は存在します。 折衷的な考えで、何の答えにもなっていないかもしれませんが。
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>言葉で表現するのは、難しいですが自分の顔は、自分で見ることができません。 それは、目が顔についているから。。 じゃ、目をつぶったら、意識してないときは?例えば寝てるとき。 自分はあるでしょうか? 答えは無いわけではない。 ただ、自分の内側を見ているから、自分以外(自分の外側)が見えないのでは? 円を考えてください。この円周が、自分のようなものと考えてみてください。内側も、外側も、自分ではありません。 視座は点ではなく、円周のような輪郭である可能性を考慮できないでしょうか?
- kneissl
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goo辞書から引用。 そんざい 0 【存在】 (名)スル (1)人や事物があること、いること。また、その人や事物。【以下略】 うーん、私はもう少し厳密に言う必要があると感じます。 そんざい 0 【存在】 (名)スル (1)ある主体が、その対象を知覚しつづけている、あるいは、なんらかの体験を元に思念・思考しつづけているときの、その対象を包含している状態、またはその包含体系。 例えば、「私」という主体がいます。 それを、理解よくするためにあなた自身と捉えてもらっても構いません。 例えば、「私」という主体(あなた)が今【存在】していると確かに言えるものは、知覚しつづけているもの=五感によって確証づけられているもの、具体的にはテレビの画面や聞こえる隣家の会話、さっき食べた鶏肉、放屁の匂い、タイピングするキーボード等々、のみです。 ひとたび、目を瞑れば、テレビはそこにあるかどうかわからない。その時、「知覚しつづけている」状態とは言えないため、「私」という主体(あなた)が持っている「テレビ」というのは厳密には【存在】しないことになります。 我々が家に常に「テレビ」が【存在】すると思っていられるのは、それが勝手になくなったり、目を瞑った瞬間だけなくなるとは考えられないという、経験則から来ているからです。 でも、実際には分からないわけですから、「知覚」しつづけていないものに関しては【存在】を認定することはできません。 そういう意味で、まず「その対象を知覚しつづけている」状態というのが、【存在】だと考えます。 では、「自己」は【存在】しているか、という問いです。 あなたの論では、「自分の顔は、自分で見ることができません」と述べられているとおり、「知覚」の不充分性は認めておられますが、「自己」の【存在】肯定理由を「自分の目は、自分のものであり内側から見ているイコール自分は、存在すると認識できる」という心もとない論で裏付けておられます。 私が言ったように、その対象が【存在】するかは「知覚」されているという状態が一先ずの第一条件ですが、あなたの論では、主体、この場合では「自己」ですから、主体も対象も同一のものですが、主体の持つ「知覚」能力に、すなわち対象の【存在】性を委ねている点が問題です。 「テレビ」が目を瞑れば【存在】が不確かなように、「自己」も鏡の前にいない時、【存在】は不確かになる。 もっと極端な例を出せば、例えば盲目の人間に「自己」は【存在】しないのか、という命題を考えてみればよい。 詳しい持論の敷衍は省きますが、ここで大切なことは、「知覚」の次に、ある主体にとってその対象が【存在】するかどうかは、実は感覚器官を越えた、脳の機能が重要だということです。 なぜ、我々が自分は【存在】していると言えるのか。 それは、とりもなおさず、常に「自己(自分)」のことを考えているからです。 「自己」というものを常に意識している、私の先程の定義でいくと「体験を元に思念・思考しつづけている」ため、我々にとって「自己」すなわち自分は、確かに【存在】していると認識されるのです。 我々は、幼少期から自分にまつわるさまざまな事柄を“体験”して、それを蓄積していきます。そして、それを元に「自己」を“思念・思考”しつづけるため、「自己」が【存在】するのです。 それは他者でも、同様です。「私」という主体にとって他者が【存在】するかどうかは、「知覚」しつづけているかどうかだけでなく、「なんらかの体験を元に思念・思考」しつづけているかが関わってきます。 友人や恋人でも構いませんが、「私」という主体が常にそれらの対象を「知覚」しつづけていることはありません。しかし、その「私」という主体にとって友人や恋人などの他者が【存在】するのは、「なんらかの体験を元に思念・思考」しつづけているからです。 ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。 同様に、「私」という主体が「私」を「思念・思考」しなくなると、「私」も【存在】しないことになります。ですから、時々壮大なマリンブルーの海で目を瞑ると、なにもかも忘れてしまって「自己」が【存在】しなくなったような気分になる、というようなことを聞いたりしますが、そのことは、つまり【存在】というものを「思念・思考」しつづけている状態かどうかという点を根本に考えると、説明ができるわけです。 以上を踏まえて、結論部ですが、あなたの問い「自分以外の人は、本当に存在するのでしょうか?」の私の回答としては、「知覚しつづけている限りは存在していると言えるでしょう。ただ、知覚から外れて、思念・思考しなくなると、自分以外の人は存在しなくなります」となります。 続いて、「自分の後ろには、本当に世界は存在しているのでしょうか?」という問いには、「自分の背後の世界というのは知覚しつづけてはいないので【存在】していません。ただ、我々は経験則から判断して、後ろの世界があるのだと信じ込んでいるということはできます。だからと言って、それが【存在】しているということではありません。我々が背後の世界はあるのだと「思念・思考」しない限り、背後の世界は【存在】しないのです。でも、振り返れば「知覚」しつづけますから、間違いなく【存在】します」
- mt33
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17のつづき。 私はあなたがいる同じこの世界で、自分を自覚し、インターネットにつなぎ、誰かの文章を自分の目で読み、考え、キーボードを打っています。 そして、私は確かに(少なくともこの世界では)存在していると認識しています。 porlaliさんにとって「他の人間」である私の認識方法と、porlaliさん自身の認識方法の違いはなんでしょうか。 同じ世界の中で、同じ認識方法を用いて自分の存在を認識しているとすれば、porlaliさんの「だから自分は存在しているのだ」という主張と同様に、他の人間の存在主張も通用するはずです。
- mt33
- ベストアンサー率7% (4/54)
>自分以外の人は、本当に存在するのでしょうか? 「独我論」ですね。 外界がバーチャルだとしたら、そのバーチャル世界でしか「自分」を振舞うことができない「自分」はいったい何なのでしょう。 同じ世界に登場する「他の人間」との違いはなんでしょうか。 どうして「自分だけ」が意識を持っているといえるのでしょうか。 そもそも意識とは何でしょうか。 私は自覚だと考えます。 自覚するには、環境に囲まれることが必要です。 すなわち、自覚をみいだすということは、イコール外界をみいだすということになります。 そしてループしてしまいます。 外界がバーチャルだとしたら、そのバーチャル世界でしか「自分」を自覚できない「自分」とは、いったい何なんでしょう。
- tak9876
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私も同様の疑問を子供の頃抱いてました。 永井均『〈子ども〉のための哲学 』(講談社現代新書) を読んでみると面白いと思いますよ。 「<私>はなぜ存在するのか」について、今まで読んだ中で一番わかりやすく、共感できた本です。 そして、このような疑問を抱えた人が、世界とどう折り合いをつければいいのかの指針等を考えさせられます。 この本を読んだとき、ここまで自分と同じ疑問を感じそして、考え続けた人がいたのか!と奇跡に近い感動を感じました。それも既存の思想・哲学の枠を使わずに! 読後は、かなり興奮すると思いますよ。
- hosiboshi
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命の重さってリアルに同じなんじゃないかと思う。 例えば僕らは縁があって人間として生まれてきたけど、それ以外の生き物として生まれる可能性もあって。それだけじゃなく、この世に存在する生き物全て、自分なのではないだろうか。生まれ変わってってのはちがうかもしれないけど「いつか」経験する自分ということで、王様も奴隷も聖人も罪人も豚も蚊もライオンも鯨もいつかの自分ということで、自分そのものだと僕はおもっている。 なんという苦しみと喜びの多い世界だろうか。 そして、僕らは一時の自分の幸せのために、多くの自分のしあわせを奪っている。それは大きな損だ。なんとか仲良く暮らしていく手はないだろうか。 もちろん今知っている世界だけが全てではない。全く違う次元も存在していて、もっと多くの自分が生きているだろう。無限といえるほどの・・・ その一方で昔は自分は生まれ変わってもまた同じ人間としてここに生まれるのではないか、と思っていた。今経験した出来事がずっと前に経験したことのように感じることが、よくある。記憶が一時的に混同しているだけらしいけど、僕らは同じ場所でずっと同じことを繰り返しているんじゃないかと考えたことがあった。 ふたつの考えをあわせれば、僕らは、無限のうえに無限の生き方を送っていることになる。 この世は閉じられているのか、広がっているのか・・・ って考えたひとがいましたとさ。
あなたが認識している見えるもの聞こえるもの触れるものなどが脳で加工されたもので見せてもらっているものだということは事実です。 あなたにそれらのものを感じさせているのは無意識です。 この手の疑問そのものが、無意識はあなた自身を間接的にしか認識できないゆえに生じるものです。 自己の同一性の限界ゆえに生じるものですが、健康な無意識と、それに支えられた健康な人はこの手の疑問とは無縁です。 あなた自身にもあなたを信じきっている健康な無意識があるゆえに生活できているわけで、まずはその健康な無意識と仲良くするコツを憶えて下さい。 そうすればこの手の同一性に関する疑問は、あなた自身には無関係で解決を手伝うことも不能なため無意識同士の水面下の葛藤として抑圧することが可能です。 あなたがあなた自身の真実の子供たちに支えられた存在であることを悟ってください。 仏教哲学の唯識が役に立ちます。
- miniture_min
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誰だったか忘れましたが、昔の人に 『この世界で唯一確かな事は私が今考えているという事だけだ』 って感じの言葉を残した人がいます。 疑って突き詰めれば、この世界が存在している事なんか証明できないし、今私がここにいることすら証明は出来はしないという事です。 重要なのは『疑えば』ってとこです。確かにあなたの言うとおりです。客観的に見れば、自分の見ている情報が正しいなどと言う証拠はどこにもありませんから。 でも、それであなた今まで間違ったでしょうか? 目で見えているはずの物を信じたばっかりにあるはずの道路の底が抜けて奈落の底に落ちた事がありますか? 耳で聞こえたはずの台風の音を聞いて外にでて快晴だった事があるでしょうか? 答えはNoのはずです。あなたが何歳かは知りませんが、今まで生きてきてそれでもミスが起こらないなら十分です。これから先もそのような事は起こらないでしょう。 それでも不安な人が哲学などを学ぶのです。世の真理とは何か、人とは何か?世界とは何か?私が感じているものの本質とは??そういった事の核心を学ぶのが哲学です。但し、この学問は完成していないため、学ぶと中途半端に世界を理解するため、逆にそういう不安感が増える可能性があります。あしからず。
- shiara
- ベストアンサー率33% (85/251)
同じようなことは私も昔から考えていますが、それで悩んだりはしておりません。私にとって重要なのは、自分にとっての「現実」です。自分が決して認識できない「本当」の現実があったとしても、それは自分にとっては意味がありません。自分ができることは、自分にとっての「現実」を生きていくことです。そして、私はそれで十分だと思っています。 このような疑問を映像で表したものに、映画マトリックスがありますね。自分の見ている世界が、実は仮想世界である可能性は、自分では否定できません。自分が見ている世界以外の世界を知る由がないからです。知る由もない世界のことで悩んでも、何も得るものはありません。自分に見えている世界をいかに生きていくかで悩むことをお勧めします。でも、もしこの世界以外の世界のことを知ってしまったら、そのときはそのときで悩みましょう。
- kobarero
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おもしろい疑問だと思います。実は、最近、似たような議論を家で飼っている猫のグダと近所の太郎ちゃんや次郎ちゃんが話してました。質問者の方の疑問と似ている気もしますが、全然違うかも知れません。 二人の会話は、疑問を出しているだけで、ほとんど結論なしですが、参考のために、以下に載せておきます。もし、どちらかの会話が、質問者の方の疑問に近いようでしたら、教えていただければ、彼らに、もう少し考えてもらおうと思います。 <その1>「太郎とグダの会話」 太郎:ねーねー、自分の顔って自分で見ることできないよね。 グダ:どうしてにゃ? 鏡みれば見えるにゃん。 太郎:そうじゃなくて、直接見ることができないっていう意味だよ。 グダ:そりゃ、当たり前にゃ。鼻くらいはみえるけどにゃ。それが、何にゃ? 太郎:うん。だから、自分は目玉の付いているこの自分の体の中にいるんだと思うんだ。 グダ:そりゃそうだ、外にいたら、幽霊にゃ。うんにゃ、幽体分離ということかにゃ? 太郎:うん。だから、自分は、この自分の体の中から外を見ていることは確かなんだけど、他の人も同じように他の人の体の中から外を見いているのかどうか、よくわかんないんだ。 グダ:他の人が他の人の体の中から見ていないとしたら、どこから見ているんにゃ? 太郎:そうじゃなくてさ、そもそも、見てないんじゃないかってことだよ。 グダ:そんな馬鹿にゃ? 見てなかったら、道歩いていて車にはねられるにゃ。 太郎:違うんだなぁー。そういう意味じゃなくて、うーん、何と言えば。。。。。。。。。 グダ:何と言えば、いいのにゃ? 太郎:だからさ、見ているけど、本当は見てないっていうことなんだけどな。。。。。。 グダ:何? 見ているけど見てない? お主、オイラを猫だと思ってからかってるにゃ? 太郎:そうじゃないんだってば。だからさ、例えば、ロボットが進化すれば、外界の情報を集めて、車が来ても避けるようになることは、将来できるかも知れないよね。 グダ:うん。その程度のことなら、今でもできそうにゃ。 太郎:だけどだよ、そのロボットは、本当にこの世界が見えているんだろうか? このボクがこの世界を見てるようにだよ。 グダ:そりゃ見えてるに決まってるにゃ。そうでなければ、車を避けられないにゃ。 太郎:結局、そーいう話になっちゃうんだよな。違うんだなぁー。 グダ:何が違うんにゃ? 太郎:(太郎、黙って、グダの足を踏む) グダ:痛いにゃ! いきなり何するにゃ! 太郎:ごめん、ごめん。今、グダ、本当に、痛かったよな? グダ:当たり前にゃ! 足踏まれて痛くないヤツはいないにゃ! 太郎:そしたらさ、もし、ボクがロボットの足を踏んで、ロボットが「痛い!」って叫んだとしたら、やっぱり、ロボットは本当に痛いと感じていると思うかい? グダ:うーん。そりゃ、ロボットは足を踏まれたら、「痛い」と叫ぶように作られているだけだから、ロボット自身が「痛い」と感じることはないにゃ。 太郎:だろう。だったら、ボク以外の人が足踏まれて「痛い!」と叫んだからと言って、その人が本当に痛いと感じているかどうかなんてわかんないよね。 グダ:何? っていうことは、太郎は、他の人やオイラはみんなロボットじゃないかと思っているのかにゃ? 太郎:いや、そう信じているわけじゃないけど、そうじゃないという保証もないよね。 グダ:オイラは、絶対、ロボットじゃにゃい! オイラから見ると、太郎の方がロボットかも知れないと思うのにゃ! 太郎:うーん。そうなるだろうね。それは、よくわかるよ。 グダ:でもにゃ、太郎は本当は信じてないにゃ。 太郎:何をさ? グダ:だから、他の人がロボットかも知れないっていうことをにゃ。 太郎:そりゃーそうだけど、でも、ロボットじゃないって証明はできないよね。ロボットでないとかなり信じているけど、でも、それは勘違いってこともあるよね。 グダ:じゃ、どうして、かなり信じているにゃ? 太郎:えー? どうしてって言われても。。。。。。。うーん、そうだなぁー。自分が痛いって思う場面で、他の人も痛いって顔してるし、自分が嬉しいだろうなって思うような場面で、他の人も嬉しそうな顔しているし、それに、話をしてみれば、自分と同じように考えていることがわかるからかなぁー。 グダ:っていうことは、もし、宇宙からエイリアンが来て、太郎が痛いって思う場面で笑い出し、太郎が嬉しいと思う場面で怒りだし、話しても何を考えているか全くわからなかったとしたら、そのエイリアンは、何も感じてないと思うかい? 太郎:うーん。そうでもないかも知れない。もしかすると、感じてないのではなく、地球人とは全然違う形で感じていると思うような気がするな。 グダ:ふーん。そうすると、自分と反応や考え方が似ているだけでは、感じているかどうかの判断にはならないっていうことだにゃ。 太郎:そう言われれば、そうだね。 <その2>「次郎とグダの会話」 次郎:オレさ、最近、ときどき、変なこと考えるだ。 グダ:どんなことにゃ? 次郎:自分以外の人って、人間のように見えてるけど、本当は、自分の脳が映し出しているだけじゃないかって思うんだ。 グダ:自分の脳が映し出してるってどういうことにゃ? 次郎:うん。例えば、今見えてる空があるよね。 グダ:うん。空はどこにも行かんのにゃ。 次郎:あれは、何色に見える? グダ:何色って、そりゃ、青だにゃ。 次郎:じゃ、どうして空は青く見えると思う? グダ:どうしてって、そりゃ、空は青いから青く見えるに決まってるにゃ。そこに咲いている花は、赤いから赤く見えるだけにゃ。 次郎:ところがちがうんだなぁ。 グダ:どこがちがうんにゃ? 次郎:学校の先生にならったんだけど、空は、青いんじゃなくて、0.43ミクロンの電磁波を反射してるだけで、赤い花は、赤いんじゃなくて、0.70ミクロンの電磁波を反射しているだけなんだって。 グダ:電磁波? 何にゃ、そりゃ? 次郎:うーん。要するにさ、ラジオの電波みたいに空間を飛んでくるものだよ。 グダ:じゃ、その電磁波に色が付いているんにゃないのか? 次郎:ちがうよ。だって、電磁波って、あのラジオやテレビや携帯で使ってるやつだよ。グダは、携帯の電波が見えるのかい? もしかして、何を話しているかまで、見えちゃう? グダ:いくらオイラでも、それはないにゃ。でも、じゃ、その電磁波が空間を飛んできただけで、何故、青く見えたり、赤く見えたりするんにゃ? 次郎:そう! それが、不思議なんだけどさ、その電磁波の波長によって、脳が青い色にしたり、赤い色にしたりしているらしいんだ。 グダ:ふーん。じゃ、脳は画家ってわけにゃな。 次郎:まー、そんなとこかな。 グダ:ところで、それが、さっきの自分以外の人は脳が映し出しているのじゃないかという話とどういう関係があるんにゃ? 次郎:あー、そうそう、その話だったんだよな。うん。だから、自分以外の外にあるように見えるものって、本当は、そこにあるかどうかはわからなくて、もしかしたら、全部、自分の脳が作り出した幻想じゃないかって思うんだ。他の人も含めてさ。 グダ:あー、そういうことか。そんなの当たり前にゃ。オイラは、幻想で大いに結構。オイラにとって大切なのは、毎日、ご主人がオイラにご飯をくれるかどうかってことだけにゃ。 次郎:うーん。猫は気楽でいいよ。 グダ:じゃ、次郎は幻想じゃ何か困ることあるのかにゃ? 次郎:そりゃあるよ。だって、もし、こうやって見えている世界が全部幻想だとしたら、何が本当かわからないじゃないか。 グダ:何が本当かわからないって? 今、この世は全部幻想だって言ったじゃにゃーのか。それが、本当だってことじゃにゃーのか? 次郎:この世は全部幻想だって言ったわけじゃないよ。幻想かも知れないけど、そうかどうかさえわからないって言ったんだよ。 グダ:じゃ、次郎は、本当の世界と幻想の世界をどうやって区別するんにゃ? 次郎:そんなのわかんないよ。 グダ:ん? でも、さっき、この世界は幻想かも知れな言っていたじゃにゃーか? 次郎:言ったけど、それが何か関係あるの?
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