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心理学の限界とは?人の悩みを解決することはできるのか
- 心理学は人の悩みを解決することはできないだろうという疑問が生じています。
- 心理学の限界を感じる一方、行動心理学や深層心理に取り組むことによって解決につながらないという結論に至りました。
- 現在の心理学や精神分析は人の悩みを解決する方法や科学的な根拠に欠けているため、脳科学の進歩を待つ必要があると考えます。
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あの自分で問題定義しておいて、自分で解決してる質問ですねw >脳科学が進歩するのを待とう。 > 私もこれしかないと思います。脳科学っていっても一筋縄ではいかないでしょうから、これはまあ難しい問題です。まあカウンセリング受けて良ければ良いし嫌なら辞めれば良いだけの話、そんな難しいことではないが、カウンセラーもお金欲しいですからね、助けたい気持ちの裏側(無意識)に通院させたい意図が無きにしもあらずというところで宗教的いや商法的勧誘を無意識に行ってしまうカウンセラーも居るでしょう。そこは患者の冷静な判断にかかってますね。うん脳科学の進歩に期待
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- tumaritou1
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人間の苦しみの大元は、脳の機能に存在しています。この意味は『心』の仕組みの中に原因があるという意味です。 分かり難い書き方になっていますが、掻い摘んで云うなら『心に感情や考えが、湧き上るシステム』そのものが、闇の中にあるという意味です。この意味は『人間がどうして苦しむのか?或いは人間の苦しみとは何なのか?』もっと簡潔に云うなら『心はどうして苦しみを感じているのか?』が今の医学では、分かっていないことを意味します。。 精神医学では、『心の苦しさ』の原因さえ分かっていない、と言う意味です。ですが『早く治療を開始するなら、早く良くなります。』『心も風邪をひきます。』とうたっています。 原因が特定出来ないにも拘らず、治療が開始されています。そうしてその到達点が『寛快』です、この意味は『どうしたら良くなるのかも、どうしたら悪くなるのかも、はっきりと指摘出来ない』まどろっこしさが付きまとっています。 ですが、人間の苦しみの原因は、とうの昔に解明されています。人間の苦しみの原因を聖書や仏典から解き明かしてみます。 人間が真に幸福で、至福の状態は『天国』と聖書には書いてあります。仏典では『極楽浄土』です。此処に住む事が出きるのは、聖書では『幼子』です。仏典では『嬰児』です。此処がカギになっています。 脳(心)の機能に関係するからです。 人間(生きとし生けるもの全て)は、命を授かっています。この命の営みが関係しています。生命としての『芽生え』た時全てが始まっています。 『命の働き』は、細胞分裂する順番まで既に熟知して、整然として働き始めています。そうして母親のお腹から誕生した時点で『既に全てを熟知しています。』 呼吸方法でも、心臓を働かせる事も、消化系等でも神経系統でも、ホルモンの分泌でも、おおよそ生命維持活動全てを熟知した状態で、『何も学ぶ事無しに、全て知っていて生まれています。』 精神面や行動面でも全て知っている状態で生まれています。具体的には『安心する事も不安な事も、恐怖する事さえ』既に備わった状態で生まれています。笑う事も、泣く事も全て知り尽くして生まれています。 幼子が天国に一番近い存在、という理由は『この生命維持装置としての人格と、機能的には一体となって生きている事』がその理由です。つまり『心が一つの者として機能している。』と言う意味です。 『神や仏』=『生命維持装置』と言う関係性です。 思春期頃に、人間の脳の機能分化が完成に近くなります。中二病といわれる頃です。ウイキペデアから人間の脳の機能の説明したいと思います。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 脳の機能分化の完成によって『心が二つの機能として働き始めます。』その結果『見ている自分』=『自我意識』=『顕在意識』VS『見られている自分』=『無意識の自分』=『生命維持機能』が、別な人格として一人歩きを始める、と言う意味があります。 脳の機能に関する、判りやすい動画がありますので紹介します。この動画は、脳科学者が自分の体験から、内面から脳の機能分化を説明しています。自らの脳卒中の体験です。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この体験は、宗教体験と重なっています。仏教であるなら『見性体験』です。キリスト教なら『神と会って、和解中』です。 つまり『悟り』を開く体験です。 人間の苦しみは『意識の根底での(脳梁の中での)二つの意識のせめぎ合い』と言う意味です。 漠然とした不安の正体とは『心の矛盾』を感じている、事を意味します。キリスト教での『原罪』と言う意味です。仏教では『業』です。 神を疑う、と言う意味は『自分自身の命の源に疑いを持つ』と言う意味になります。その結果『自分は何者か?』や『人生とは何なのか?』と言う疑問になってきます。 自分自身を知る、『見性体験』の後では、二つの脳の機能の間には『新しい回路が構成されます。』その結果、出番争いがなくなります。 心の矛盾とは、、右脳が出る場面か左脳が出る場面かの出番争いの事です。表現を変えて云うなら『無意識の自分の出番か?』『自我意識が出る場面か?』と言う意味です。 人間のつつがない正常な毎日では、この交代性がスムーズに順調に行っている事を意味します。この交替制に疑いを差し挟まない時を『健常者』と言っています。 この交替制を疑う場合、心に関しての『自分自身の生命維持機能』に疑いを抱く場合に『心を病む』と言っています。 自分の行動に関しての交替制で『自分自身の生命維持機能』に疑いを差し挟む場合に『神経症』と言っています。 自分の身体の機能に関しての交替時に『自分自身の生命維持機能』に疑いを差し挟む場合に自律神経失調症や、難治性の腸症候群や、心身症と言っています。 全ての場合に当てはまる事ですが、『身体的にも脳の機能的にも』検査では異常が見付かりません。全て正常と言う検査結果が出ています。健常者となんら変わる事がありません。 ただ云える事は、本人の執拗な訴えです。正常でありながら執拗な訴えを取り下げる事が無い場合にその訴えが、症状名になっています。この訴えは『自我意識』が交代制を拒んでいる事から生じています。 その結果『自分自身の命の源から』漠然とした不安と言う形で、アピールを受けています。このアピール葉『無意識の自分からの交替要請です。』 自我意識には『身体を正常にする機能も、心や精神を正常にする機能も、行動を自由にする機能も』備わっていません。この備わっていない自我意識が、備わっていない機能の役割をしようとする事から、全ての障害(苦しみ)が始まっています。 自我意識が「身体の健康も、心の健康も、行動の自由」も忘れ果てた時、全て正常になっています。人間の意識する力や、意思の力が逆に悪い方に作用しています。 眠る場合では「意識が無くなっていって、無意識の自分と交替した時点から」眠りが始まっています。眠れない場合では、自我意識ががんばって、無意識の自分との交替を拒んでいるだけです。 メンタル面が弱いと言う意味は「自我意識ががんばって、でしゃばっていて、無意識の自分との交代制を拒否しているだけ」と言う意味になります。 メンタル面が強いと言う意味は、「自我意識が出ないように出来ていて」無意識の自分に任せる事が出来ている。と言う意味になります。
- ri-zyu
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それでご質問は・・・m(_ _)m あなたの思っている事は、自己主張しなくても大なり小なり みなさん思っている事ですよ。