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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「いささか面はゆくはあったけれど」と次の部分の関係)

「いささか面はゆくはあったけれど」と次の部分の関係

このQ&Aのポイント
  • 村上春樹氏の「走ることについて語る時に僕の語ること」という随筆を読んでおります。先日、「いささか面はゆくはあったけれど」という構造についてこちらのサイトでご意見をお伺いしました。
  • 「いささか面はゆくはあったけれど」と『「小説家」という看板を掲げて生きていくことにした』の両者の関係、つまり、どちらの意味が強いのか、それともただ両立しているのか、「いささか面はゆくはあったけれど」は軽視した感じがあるのかなど知りたいと思います。
  • 上記2文はほぼ同じ意味です。お考えの通り、bは「面はゆいところがあった」という意味合いで、全体的な肯定ではなく、部分的に認めた表現に相当します。また、a,bの表現は互いに補完する関係にあり、前後して用いることで、程度・割合を暗示した形でも使われます。また、他の例文も示しました。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

>「いささか面はゆくはあったけれど」と『「小説家」という看板を掲げて生きていくことにした』の両者の関係、つまり、どちらの意味が強いのか、それともただ両立しているのか、「いささか面はゆくはあったけれど」は軽視した感じがあるのかなど知りたいと思います。 : 「両者の関係」という点では、明らかに後者です。 なぜなら、「~けれど」という語で接続されている以上、後半の『「小説家」という看板を掲げて生きていくことにした』が、文の骨子であることは間違いないからです。 「彼は頭は良いけれど、礼儀を知らない」というのが、頭が良いことを言いたいのではなく、礼儀を知らないことを言いたい文であるのと同様です。  a)「面はゆかったけれど、嬉しかった」  b) 「面はゆくはあったけれど、嬉しかった」 のように表現を変えても両者(前後)の関係は変わりません。 ただ、【前半だけ】に着目した場合、  a)「面はゆかったけれど、嬉しかった」は、面はゆかった事実を単純に提示しているだけです。それに対して、  b) 「面はゆくはあったけれど、嬉しかった」は、係助詞「は」の用法によって、面はゆかった事実を「特に取り上げて」着目していることになります。 つまり、後半の「嬉しかった」に対して、「面はゆかった事実」を【強調的に比較している】ことになります。 『「嬉しかった」よりも、「面はゆかった事実」を強調的に表現していることになります』という意味ではありませんのでご注意ください。 あくまで、a)に比べると、b)のほうが「面はゆかった事実」に着目している度合いが強い、ということです。 「面はゆかったけれど、嬉しくもあった」という表現の場合は、係助詞「も」の、 「他にも類似の事物が存在することを言外にほのめかす形で、ある事物を提示する」という用法によって、「両立」のニュアンスに若干近くなるでしょう。 A)その犬は小さかったけれど、勇敢だった。 B)その犬は小さくはあったけれど、勇敢だった。 という例の場合も同様です。 どちらも、「勇敢だった」に重点を置いた表現です。 ただ、【小さかったこと自体】に着目している度合いは、「は」の用法によってB)のほうが強い、ということになります。   

awayuki_cn
質問者

お礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • CC_T
  • ベストアンサー率47% (1038/2202)
回答No.3

No.1です >> 『「小さい」事をやや軽視した文章』とは「小さいこと」を気にせずという >> 意味でしょうか。それとも「小さいこと」に対して差別を与える、 >> 馬鹿にするという意味でしょうか。 後ろの文章「勇敢だった」を強調するために、「小さい」事を対比として使っています。その意味で、確かに例文では、「小さい」事を馬鹿にした意味合いが多少含まれています。つまり、ここで「『体が小さい=気が小さい』という先入観を仄めかしています。 しかしここでは、「その思い込みは的外れだった」という意図で使っており、「勇敢」をより強調するための使い方としてAの文章よりも)「小さい」事を読み手に意識させる文章になっています。 「その犬は大きくはあったが、強かった」といった使い方はしない、ということも理解の一助になるかも知れないですね。 筆者にも読者にも「大きい」と「強い」は両立するものという暗黙の了解がありますから、「大きい」には「強い」を対比的に引き立てる役割を持たせることが相応しくないのです。この場合は「その犬は大きくて、強い犬だった」とします。 「その犬は大きかったが、臆病だった」というように、『前の言葉と後ろの文章が対立する内容である場合』においてのみ、「その犬は大きくはあったが、臆病だった」のような用法が通用します。 面映ゆくはあったが、も同じ。 「面映ゆい」気持ちというのは、「尻込みする」気持ちに通じるものがありますから、『「小説家」という看板を掲げて生きる』事と相反する心の動きに相当します。しかし面映ゆい気持ちを意識した上で、あえて「小説家」という看板を掲げることを決意した、という表現とすることで、決意の強さを強調したものになっています。 ~~~  A)その犬は小さかったけれど、勇敢だった。  B)その犬は小さくはあったけれど、勇敢だった。  C)その犬は小さく、しかし勇敢だった。  D)その犬は小さかったが、勇敢でもあった。  E)それは小さくて、勇敢な犬だった。  F)それは小さく、けれども勇敢な犬だった ・・・幾つか書いてみましたが、上記の表現の使い分けは、文脈や筆者の文体に合わせた「美意識の表れ」と言っていいと思います。意味の上ではどれも同じと言っていい。 日本人でも各文章でほとんどその差を意識して読むことはなく、単純に「小さくて、かつ勇敢な犬」だと認識するだけでしょう。

awayuki_cn
質問者

お礼

 再びありがとうございます。参考とさせていただきます。表現方法は豊かですね。何度もご親切に教えていただき誠にありがとうございました。

  • CC_T
  • ベストアンサー率47% (1038/2202)
回答No.1

補足のBに相当しすると思います。 「面はゆくはあった」という部分で、自分が『小説家』という肩書を名乗ることへの照れや謙遜といった心の内が表現されています。しかし、それ以上に『「小説家」という看板を掲げて生きていくことにした』決意の方が強く表されていますね。 日本では「小説家」は周りから「先生」と呼ばれて一級の芸術家のごとき扱いを受けたものです(昨今はライトノベルなど手軽な書籍や人々の活字離れが増えて、状況は変わってきていると思いますが)。 つまり「小説家という看板を掲げて生きる」ことは、『私は芸術家です』と周囲に示すのと同じような意味を併せ持っていたのでしょう。そういう状況で、『多少は文章を書くとはいえ、自分のようなものが「先生」と呼ばれるのに相応しいほどの人物か、胸を張って誇れるほどの自信はない』とい気持ちが、「面はゆい」気持ちに繋がるわけです。 引用文はそういった「面映ゆい気持ち」はとりあえず脇に置いて、ともかく『小説家』という生き方を選択した、という事を記した文章です。

awayuki_cn
質問者

お礼

 早速のご回答ありがとうございます。わかるようになりました。まだよく理解できていないところがあります。申し訳ありませんが、もう一度教えていただけないでしょうか。

awayuki_cn
質問者

補足

『Aは「小さい」事と「勇敢」である事が両立している事を示した文章、Bの方は「勇敢」な事に対する注目の度合いが強く、「小さい」事をやや軽視した文章ですね。』という説明のなかの『「小さい」事をやや軽視した文章』とは「小さいこと」を気にせずという意味でしょうか。それとも「小さいこと」に対して差別を与える、馬鹿にするという意味でしょうか。 この文章で言うと、「面映ゆい気持ち」を気にせずにでしょうか。それとも馬鹿にするでしょうか。

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