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「徳川御三家」って尾張・紀伊(紀州)・水戸でした?

徳川御三家の本の記述で 尾張藩・紀州(紀伊)藩・水戸藩の3藩しか出てこないんですけど甲府宰相はこの御三家には入らないんでしょうか?

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  • oska2
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回答No.3

>尾張藩・紀州(紀伊)藩・水戸藩の3藩しか出てこないんです まぁ、一般的な解釈では上記の3藩ですね。 尾張徳川家だけは、御三家は「将軍家・尾張家・紀伊家」と看做していましたがね。 定府の水戸家は、御三家ではない! この考え方は、長州の「毛利」に倣った考え方です。 三本の矢は「毛利本家・吉川家・小早川家」ですよね。^^; >甲府宰相はこの御三家には入らないんでしょうか? いくら家光でも、分家を御三家同様に扱う事は出来ません。 そこで、親藩以上御三家以下の「宰相」という名称で収めたのです。 この考え方は、吉宗にも通じます。 吉宗の場合は、御三卿を設けましたよね。 ※実際、当時は御二卿。 自分の(将軍の)実子ですから、御三家から御六家にしても良さそうですがね。 やはり、神君家康公が決めた事は変える事が出来ません。 ※実際は、尾張家・紀伊家には将軍職は渡さない!という強い目的。

noname#246748
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  • fujic-1990
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回答No.2

 少数説ですが、「御三家とは、将軍家、尾張家、紀伊家の3家のことで、水戸家は御三家には入らない」という説もあります(理由は下記)が、甲府宰相家は御三家には入りません。  水戸家初代(頼房)は、父(家康)も母も紀伊の徳川頼宣と同じで、実の弟だからです。武家社会ではそういう場合、弟は「お控え様」と呼ばれ、藩主の兄に何か有った場合の用意に、兄の家の一室で無給の「飼い殺し」状態に置かれるのが普通だからです。  本当かどうかはわかりませんが、現に水戸家は「独立した藩」扱いされず、参勤交代はなく旗本代表として江戸常駐となっていたとか、官位が従三位を極冠とする、禄高も少ないんなどなどの特殊事情があるから御三家に含めるのはおかしい、という考え方です。  頼房はそれが不満で、藩を潰すつもりで跡継ぎをトコトン決めず、家康に拝謁させなかった(急かされて、家康に対するあてつけに、嫡子を跡継ぎにせず、同じようにお控え様の立場にいた光圀を跡継ぎにした)んだ、とか。歴史の見方はさまざまで、面白いです。  閑話休題。  甲府宰相綱重が生まれた時には「御三家」制度(考え方)は確立していたので、御三家制度に割り込む(徳川御四家にする)ことはできないでしまいました。

noname#246748
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  • notnot
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回答No.1

入らないです。 家光子息の甲府と館林の分家は、早期に無くなったので、後の御三卿のようにも確立しませんでした。 甲府と館林は、御三卿と違って大名として独立していましたが、松平姓ではなく徳川姓ということで、徳川宗家の一部とみなされていたんだと思います。

noname#246748
質問者

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