※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:徳川治済は何故将軍に成れなかったか。)
徳川治済は何故将軍に成れなかったか
このQ&Aのポイント
徳川治済は何故将軍に成れなかったのでしょうか。徳川11代将軍である徳川家斉より血筋も年齢も体力気力も上だと思われますが、なぜ将軍の座を奪われたのでしょうか。
徳川治済は家基の後継者として有力候補でした。性格は今一ですが、政治的能力に優れ、向上心もあります。しかし、何故か徳川家斉が将軍になりました。血筋や年齢、体力気力から考えると、徳川治済の方がふさわしいと思われます。
徳川家斉が将軍になった理由については明確な情報はありません。徳川治済は家斉よりも血筋も年齢も体力気力でも優れていると思われますが、何か理由があったのでしょうか。
徳川治済は何故将軍に成れなかったか。
徳川11代将軍ですが、1779年に家基が亡くなった時点で、28歳(1751年生まれ)、8代吉宗の孫にあたり血筋もよい、77歳まで生きたことを考えると健康で子どもも多い、また事績を見ても性格は今一だが、政治的能力に優れ、向上心もある。
ライバル田安家、清水家にはこの時点では候補はおらず、尾張、紀州も年齢や健康状態からパス。
実際に11代将軍になった徳川家斉より血筋も年齢も体力気力も上だと思うんですが、何故将軍の座を徳川家斉に奪われたのでしょうか。
徳川家斉は8代吉宗のひ孫世代で、1781年に将軍世子になった時点でも8歳、医療の発達していない時代ですから、幼児では成人できるかどうかも怪しいし、政治的手腕も未知数、どう考えても徳川治済の方がふさわしいと思うんです。
一橋家の跡目も、豊千代という長男がいますから安泰、将軍世子になるのに何ら障害はないと思うのですが、何か理由があったんでしょうか?
お礼
再度おつきあいいただき恐縮です。 いろいろ条件を考えると、どう考えても年齢、血筋、健康状態を考えれば、候補の1位が田安賢丸、2位が一橋治済で、後を見渡すと無理矢理に候補3位は水戸治保(実弟が付家老中山家を継いでいるので、スライドは可能)くらいですが、言うまでもなく水戸家の継承順位は低いからこれは非現実的、紀州重倫は30歳で隠居させられた異常人格で論外、尾張宗睦は年齢的に難があり自身の後継者もいない、清水家には人がいない。 消去法で行くと、第一候補の田安賢丸が消えれば候補は一橋治済しかおらず、彼がいる以上息子の豊千代が親を差し置いてという選択肢は薄いと思うんです。 そう考えると、何か成れない訳があるんじゃないか、前後を考えると家基は暗殺され、黒幕は一橋治済で、将軍家治もそう思っており、親としての恨みでこいつにだけは宗家を渡したくないと思っており、さりとて当時の権力基盤では無理に水戸治保を後継指名もできず、双方の妥協の産物として豊千代・・・という線が濃厚ではないかと思いました。
補足
いろいろ疑問は尽きませんが、このあたりで締め切りまたの機会にしたいと思います。