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F.ニーチェの良いところをおしえてください。
ありますか? 世は 理性信仰 つまり 理性なる神 理性という神が はびこっているところへ その観念なる神は観念なる神であるに過ぎないと指摘しつつ 観念の神は死んだと言ったのではないでしょうか。 つまり そんな神は もともと 死んでいるというふうに指摘しなければいけなかったのではないか。 そこを そうではなく わざわざ その観念の神を克服しなければならないと思いこみ そのためには 《自然 大河 あるいは 超人であれ》と わざわざ 説くにいたった。・・・ これでは すべてが コップの中の茶番劇であるのではないでしょうか? ほかに ニーチェにいいところは ありますか。
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今回はエーベリアンとして、少し弾けてみます。 ・フリードリヒ・ニーチェ,1844~1900年,プロイセン生まれ,活動拠点はドイツ(プロイセン帝国,ビスマルク時代)。 ・ゲオルク・カントール,1845~1918年,ロシア生まれだが、活動拠点はドイツ(プロイセン帝国,ビスマルク時代)。 ・マックス・ウェーバー,1864~1920年,プロイセン生まれ,活動拠点はドイツ(プロイセン帝国,ビスマルク時代)。 この3人の共通点は何か?・・・精神疾患を患ったか、大酒呑みである事・・・。 (1)フリードリヒ・ニーチェ 茶番劇かも知れない・・・。今ならお気楽なJKやおバカタレント(嫌いじゃないです)が、「KY」や「アハハハ・・・」の一言で片づけるかも知れない。それは、神がいないなんて事は、少なくともこの日本では常識化してるから。 しかしニーチェの時代とプロイセン帝国という特殊性を考えれば、そこでは神を信じて内面化する事が普通だった(と思う)。当時のプロイセン帝国は、中世の面影が今だ強く、ヨーロッパの後進国の一つだった。そこではヘーゲル流の観念論が幅を利かせていた。 そしてヘーゲル流の観念論は、なんか胡散臭いぞと、少なからず誰もが思いだした時、上記のような風土の中では、「神はいない(神は死んだ)」という「神克服」のテーゼは、テーマになり得る。 でもニーチェのような人格にとってそれは、(彼自身も含めた)世界の意味の全消失だったと思う。絶対の無意味の中で彼は、それでも自分に対する意味を生産し続ける自分に、絶対の意味を見い出す。彼はそこで、神と無関係な超人となった。 この視点は現代でも通用しそうだが、このような事に思い至ったニーチェは、引きこもりになり兼ねないような衝撃を受けたと、想像します。・・・で、発狂した。 ニーチェのよいところ、それは西欧という特殊事情の中で、「神はいない」と言い切ったところだと思う。歴史的意義は当然ですが、それは普遍化できるものだった。 (2)ゲオルク・カントール カントールは古典数学者と同じように、数学のア・プリオリな明証性を信じていたと思う。しかし彼は、数学の全歴史の中で異端視されていた実無限を認めるために、禁断の一線を越えてしまう。「数学は自由だ!」と。 「数学は自由だ!」の一言によって彼は、中世の数学的神を捨てた事になる(意識せずに)。中世の数学神は、有限と可能無限しか認めないからです。結果、案の定、彼の素朴無限集合論には中世の数学神が注意深く避けていた、無限に関する数々の矛盾が発覚し、既成数学者からの総攻撃を食らい、・・・精神疾患を発病した。 結果としてカントールは、中世の数学神を捨てた事になる。彼が無限集合論を取り上げたのは、ヘーゲル流の観念論では全然扱えないような、数学的な技術問題からです(フーリエ以来の三角級数の研究のため)。観念論の塊であるような数学の世界でも、こういう事が起こっていた・・・。 (3)マックス・ウェーバー ウェーバーがヘーゲル流の弁証法に疑いを抱いたのは、彼の師でもあるシュモラーの態度だと思います。シュモラー率いるドイツ歴史学派は、文化や時代精神の弁証法的発展の結果として、ビスマルク以下の官僚体制があると言いました。その官僚体制は、過去のドイツのどんな国家運営組織より効率的だったし、後進国であるプロイセンに上からの近代化をもたらしているものでもありました。 でも今の日本と同じように、深刻な弊害もあったんですよ。そこに目をつぶるシュモラーを見てウェーバーは、価値や倫理や信仰は、論理や科学では根拠付けられないものだと明言します(正しいと思います)。信仰とは、訳もなく信じるもので、信じたいから信じるのだと。 非常にひねくれて考えれば、ウェーバーもこの時点で、神を捨てました。ヘーゲルにおける中世の神はいない、と認識したからです。 ウェーバーもじつは、上記のような背景から実父との関係が悪化し、一時神経症を患っています。しかし(過激に?)バランスの取れていたウェーバーは、最後まで持ちこたえ、次のように言います。 ・認識の木の実を食べた人間は、社会との異様な緊張を孕む存在となるが、それが近代人の宿命である。 と。最後までもちこたえたウェーバーですが、じつは大酒呑みでした。きっと皆さん、ストレス高いんですよ(^^;) ・ニーチェもカントールもウェーバーも(そして我々も)、認識の木の実を食べてしまったんですよね、きっと。 で、上記のどこがウェーベリアンなの?、と問われれば・・・。 ・・・俺も大酒呑みのところかな?。 強引だね・・・。 じつは、酒好きなだけ。・・・(^^;)
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#13です。 #13のウェーバー批判ですが、たぶんあなたの仰る通りなんですよね。でもそれに対しては、応えずして避けて通ります。というのは、私はあなたのような立ち位置で、ウェーバーを考えた事がないからです。「たぶんあなたの仰る通りだ」と、言うしかありません。これが以前、エーバーに関するやりとりが尻切れトンボに終わった、理由でもあります。・・・答えようがなかった、が正直なところです。 前も言いましたが、自分はプロの数学者でもないし、集合論が専門ではてんでありません。しかし数学を日常的に使う者として、集合論は何を受け入れ、何を失ったのかを起源に遡って自分なりにはっきりさせないと、気がすまなかった。妥協できなかった。 なので対角線の時は、ある意味あなたと意見を同一にできた。ジネンさんが、その他の視点を持ってないかどうかについては、やはりコメントを控えますが、ジネンさんとやりとりした事例、例えば、「数学者は無限公理を設定するにあたって、その内容をまるで理解していない事を知りながら、敢えてそれを設定したはずだ」という意見などには、全面的に賛成なんです。 一方ウェーバーというか、社会学の分野に関して、自分は妥協できるんです。ウェーバーの概念装置なり方法論を、社会を解析する便利で明解な観測装置と、見てしまうからです。なので今回も、尻切れトンボです。 申し訳ない・・・。 ところで#12の、 > 一定の単位体としての地域ごとの社会において その社稷(または 世間)なる神を――すでに《客体化されている》ものであるからには―― 具体的にあたまの上にいただく。そのとき このような言ってみれば不自由な社会生活の中で生きることに《意味》を見い出すか? >つまりそこから ★ 意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」 ☆ が始まる。のだと。 は、1970年代のウェーバー・フリークの旗手バーガーの著した著作、「聖なる天蓋」の単純化された構図だと思います。そして、「合理化」という神(?)を頂いた西欧(米国含む)が、どこに行って来て現状はどうなのか?、について述べたのが、同じくバーガーによる「故郷喪失者達」だと思います。自分は、この2つの著作からも、強い影響を受けています。 「聖なる天蓋」と「故郷喪失者達」が、あなたにとって新しい情報である事を望みます。こんなにウェーバーに詳しい人とは、社会思想史の教官を除いて、出会った事がないので・・・。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。P.バーガーを知らなかったものですから 急ごしらえで勉強しました。 (あ) ヰキぺ:ピーター・L・バーガー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BBL%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC (い) 野村一夫 :社会学感覚 2 日常生活の自明性を疑う http://www.socius.jp/lec/02.html (う) 吉田 幸治:P. L. バーガーの「媒介構造」論について ―バーガー社会学における行為論的「主体化」契機の可能性― http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/383pdf/yoshida.pdf (え) 今村仁司編:現代思想を読む事典 1988 《現象学的社会学》の項目 (江原由美子稿) まづ 次のような系譜の中にバーガーは位置すると知りました。 ▼ (え) ~~~~~ A.シュッツはウェーバーの理解社会学をフッサール現象学によって基礎づけようとし 社会成員が日常生活世界において使用する類型に着眼する類型論や 生活世界の様々な多元的現実論を展開した。 ・・・ P.バーガーはシュッツの考え方を導入しつつ 日常的知識の知識社会学の必要を主張し 宗教社会学の領域や社会意識論の分野ですぐれた著作を発表している。 ~~~~~~~~~~ この上で (あ)(い)(う)の資料を読んだのですが どうも論点ないし焦点が必ずしも明解ではなくまた合っていないような感じを受けます。 狭い範囲からの評価ですので 感触だけだとは思います。 ですが たとえば ▲ (う) 公的領域と私的領域 ☆ の問題を取り上げて例証したいと思うのですが 何ともどういう問題意識を持っているかについて間延びのした感覚のままに理論を構成しようとしている。のではないか? 《主体ないし主体化》をも扱っていると言っていますが これとても何ともいったいどこ行きのバスなのかが 分かりません。主体論などは 大昔から取り上げられて来ているわけですから 初めっからずばっとこれこれの論点をあつかうのだというようにはっきりさせられないかと いらいらして仕方がありません。 ですから 例証すると言いましたが 反証するかたちを採ります。つまり たとえばこういう議論ないし理論がすでにある。それについて いったいどう思うか? という応答の仕方を採ります。 かんたんにしかも簡潔に成しうる議論をえらびます。 上の《公的領域と私的領域》のもんだいです。 * 【Q:《自然に帰れ》!?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5803077.html ☆☆(その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~ ・・・社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。 しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。 3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。 ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~ 結局のところ ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民) とは区別された ( S ) 人間 homme とみなされる。 なぜなら ( A ) 政治的人間(* アマテラス公民のそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ市民)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。 【 S主導‐A従属 連関】 《現実の人間》は ( S ) 利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ 【 A主導‐S従属 連関】 《真の人間》は ( A ) 抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないしアマテラス科学語)においてはじめて認められるのである。 (城塚登訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は あらためて取り出せば 次のふたつの形態があり得ます。 《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》: あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から―― あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ に花咲かせる人間のすがた。 《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》: 簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る かたちのアマテラス人格語かつアマテラス科学語にもとづく人間の すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。 つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。 ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現代・現在の時点では 《アマテラス人格語およびアマテラス科学語のそれぞれ無謬性の神話が くづれて来ている》と言うべき情況ではないか? こういうふうに世界を捉えて 話をすすめて行って欲しい。というのが バーガーに対する・そして ででてx3さんに対する物言いであり 要望です。どうでしょう?
#12です。 もう良いだけ放言したので、この辺でやめておきます。というか、舌噛みそうなので、逃走しします(^^;)。 なんとなく、あなたの立ち位置がわかった気がします。その立ち位置からすれば、 >世は 理性信仰 つまり 理性なる神 理性という神が はびこっているところへ その観念なる神は観念なる神であるに過ぎないと指摘しつつ 観念の神は死んだと言ったのではないでしょうか。 >つまり そんな神は もともと 死んでいるというふうに指摘しなければいけなかったのではないか。 >そこを そうではなく わざわざ その観念の神を克服しなければならないと思いこみ そのためには 《自然 大河 あるいは 超人であれ》と わざわざ 説くにいたった。・・・ >これでは すべてが コップの中の茶番劇であるのではないでしょうか? となるはずです。 あなたは常に、内容を問題とされていた。私は終始、外面を話していた。こういう処だと思います。 良いだけ放言した後なので、若干後ろめたいのですが・・・、 「私に永劫回帰の評価なんて、求めないで下さいよ!。出来る訳ないじゃないですか!」 自分は、そんなレベルには達していません。 理系人間にとって(ふつうの人でもかな?)、生の哲学や実存主義はとりわけ鬱陶しく(近づき難く)、大抵は外面だけ見て、わかったようなふりをするんだ、と思います(自分のように)。私は、ニーチェの行き方を良いとは思っていません。出来れば避けたい行き方ですが、自分の経験と重ね合わせると、19世紀西欧人のステレオタイプのようなニーチェの行動には、とても納得のいく面があります。でも自分は結局、晴れの文化を選んだようです(←日本人ですね(^^;))。「意味がなけりゃ生きて行けない程、お前は情けない奴なのか?」などと正面切って言った事はないですが(言ったようなものか)、最近は、そんな風に「能天気ここに極まれり」のような、呑気な生活を送っています(仕事は違いますが)。 以下は自分の放言に、いくらかでも妥当性があればですが、ニーチェを外面から敢えて評価すれば、次のようになります。 ウェーバーが言ったように、今や(冷戦が終了したので)大抵の人は、20世紀よりももっと「社会との異様な緊張を孕みながら」生き、典型的には国家間は「通約不可能な価値(信念,理念,宗教)の争い」をしているように見えます。その背景にあるのは、マルクスが正しくも予想した、グローバル化だと思います。そんな中では、 ・ニーチェの行き方は、現代にも通用するやり方だ. と思います(使わないで済むなら、使わない方が健全だとは思いますが)。また19世紀という時代は、中世の体系が現実社会の中で、物理的現実として壊れて行った時代でもあります。思想的には、その前から始まっていましたが。それを決定づけたのは、20世紀の欧州大戦です。 そのような意味で、時代を先取りしたという意味において、 ・ニーチェの行き方の歴史的意義は、無視できない. と思います。 以降は余談です。 はっきり言うと、最初あなたには、あまり良い印象は持っていませんでした。しかし対角線論争をやってみて、使ってる言葉が違うだけじゃないの?、と思うようになりました。対角線は、自分の専門領域に近かったからです。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html を読みました。いや~、あなたって分かりにくいですよね(自分もそうですけど)。誤解されてる気は、十分にします。 余談なので、話は脈絡なく飛びます。 ウェーバーを初めて知ったのは、大学の社会思想史の講義でした。その担当教官(教授)がこれまた、大のウェーバー・フリークでした。 「ウェーバーの研ぎ澄まされた言葉を聞け~!」 と、何回聞かされ事か(「俺の歌を聞け~!」じゃないですが)。 ウェーバーの論文は(訳の悪い事もあり)、確かに難渋なんですが、確かに研ぎ澄まされた論理が、そこにはあると思いました。理念型モデルなどは、まさに抽象数学を読むような感じです。その辺りで、理系人間との相性が良かったんだなと、今では思います。 落ちになったかなぁ~(^^;)。
お礼
(つづきからです)。 但し書きは 次である。引用文の中に 《模範型》という言葉が出てくる。例に取り上げられた一キリスト者の文体表現は 自己到来した自分がわたしする表現行為ではなく 自らの想像において描く理念像の表明になっているから 客観性を求める科学行為から逸れており それは 模範型であると捉えられている。わたしたちにあっても この理念の想像行為・それとしての模範 これを表明することを 自己表現としての文体行為であるとは 見ていない。文体行為たろうとしているものであろうが そこでは まだ 文体としては 成立していないと見なければならない。ただ細かく言うとすれば 逆に 模範型を 自己表現のなかに用いることは ありうる。模範や理念を模範や理念であるものとして(そうことわって) 表現のなかに用いる分には なんの支障もない。文体行為として成立するはずである。――抽象的には そのように捉えておくことができるであろう。 さらに焦点は次に絞られる。文体行為につきものの価値判断――自らの志向性の表明――のために必要な科学的客観認識 これは――そもそもやはり過程的なものでもあり しかしそうであること以上に――わたしたちが得ることが無理な場合が考えられるという点である。言い換えると 万人の主観に共通の客観認識が むしろ得られるかどうか 分からない場合である。客観認識の可能性が 可否いづれとも 客観的に知りえない場合である。文体行為が 自己到来を表出しようとするものであるからには その自己到来には 当然のごとく わたしといわゆる絶対者との関係がかかわっていると思われるからである。先の例で 一キリスト者が 絶対者である神との関係において 自己還帰したと表明したい場合 これには 科学という補助手段には 客観的な基礎構築のための力に 限りがあると言わざるをえない。 単純・簡潔にいえば 文体行為は 科学では論証し得ない部分領域を持つと考えられる。万人が共同主観しえない部分があるからと言って 文体は 科学に 後行し劣るとは 考えられない。一方で 科学にいわば信をおいて価値判断を〔つねに〕保留する文体と 他方で 科学以上のものに信をおいて――論証をなしえないのだが――価値判断をも表明する文体 これら二つの種類のあいだで 優劣を決めるのは 難しいと考えられるのではあるまいか。 ウェーバーも かれ自身 《価値判断――あるいは 生活の全体としての文体行為――》をしないとは言っていないのであるから もし批判という点では まだ微妙ではあるが ひとまず以上のように考えられる。 * ヱーバーは びみょうだということを言いたいためです。 ニーチェは そこまでにも到っていないのではないか? もし有効な考えがあれば おしえて欲しい。やはり こうなります。 ありがとうございました。
補足
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。まとまった文章からその見解や立ち位置を捉えていただくのがよいと思います。 § 文体とは―― わたしの存在は わたしがわたしであるという自同律(アイデンティティ)の展開過程である。 自己到来するわたしの自乗・三乗・・・とその連乗積をかたちづくっていく過程である。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。 わたしとは何か。わたしと名のる存在である。ここから わたしが自己到来をつねに新たに展開していく過程は 表現行為の過程である。一般に内面における自己還帰の確認は 広く自己表現として表わされる。外化される。直接・間接あるいは顕在・潜在を含め広く ことばをとおしての表現行為として展開される。 内面における自己同一性〔たるわたし〕そのものは 必ずしも定かになるわけではないが ことばの表現をとおして・もしくはことばを介した認識をとおして 了解し合われる。表情・振る舞いが 解釈され これを ことばの表現として認識し了解していく。 かくて わたしの生きる過程は 文体として展開される。これらの限りで 文体行為の過程が わたしである。(Le style, c'est l'homme même.) 文体の原則(命題): 1. 文体は 生活である。文体にはわたしが生きていることが先行している。 2. 文体は 生きることであるなら 過程行為であり 行為過程である。 3. 生活は 自然界や社会やの世界すべてを含む。《わたしの自乗》理論は 過程としてこの世界のすべてであろうと欲する。文体行為としては 一人の人間の一主観であるにすぎないというのも然ることながら その(=世界過程の)事後的な認識であるにとどまることが多い。 4. 過程行為である文体は 《わたし》相互のあいだの了解を求める過程として展開する。各自のわたしに修められた主観としての世界観は 共通の基礎を問い求め 互いの共同化に進む。主観の共同化は 経験合理性にもとづく科学行為によってその基準が用意される。 5. 科学によってもたらされた新しいいわゆる客観認識を持ったとき わたしは ふたたび自己に到来し これを自乗・三乗して生きていく。 6. 文体行為そして科学行為は いづれも わたしが生きることに後行している。科学によるあらゆる客観知を得ない場合にも 文体は 自己の判断によって表現行為に出発する。文体がいわば確立しておらず 自己の判断がまだ定まっていない状態にあっても そこに生きる人間は 世界の絶対的な現実である。また 絶対的な現実であるゆえ 一人ひとりのわたしに 自らの文体行為が促されるであろうし 望まれる。 7. かくして わたしは 科学を補助行為として持ちこれを利用しつつ 文体過程として生きる。 ここからわたしたちの持つ課題は 8. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。 9. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。 10. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 § ささやかなM.ウェーバー批判 文体と科学との関係にかかわって ウェーバーの方法にかんする吟味から入っていきたい。ウェーバーとしては 次のように表現することがらが 文体をめぐる問題である。 ▼ ~~~~ われわれの科学があらゆる科学と同様に研究に使用する概念の論理的な機能および構造は いかなるものであるか または 決定的な問題にかんしてもっと特別な言い方をすれば 文化実在の認識に対する理論ならびに理論的な概念構成の意義は 何であるか。 (M.ウェーバー:《社会科学的ならびに社会政策的認識の〈客観性〉》1904 富永祐治・立野保男訳《社会科学方法論》) ~~~~~~ わたしたちの関心は 《文化実在・その認識・そこに使用する概念・概念構成としての理論》 これらを用い文化実在をめぐって自己表現する文体と その補助行為だと考えられる科学との 関係ということになる。 ウェーバーはと言えば 《文化認識の〈客観性〉の考察にあたって 方法上 興味ある問題》として 上の引用節の内容をもって 説明している。かれにとっては この論文に関する限り 《客観性》という観点が 一つの中心主題である。わたしたちのは 《文体》である。客観性のあとのことであり 客観認識をもちいての自己表現のほうに 重心がある。ウェーバーは この問題を《方法論》としておこなうと言っている。方法論は 《文体論》と同じだと考える視点があるはずだが ウェーバーの場合の方法論は わたしたちの見る補助行為としての科学のためのそれに重心をおいているように思われる。 ウェーバーは わたしたちの文体行為の過程性という一原則を 科学研究の過程性というかたちで言っている。たしかに――広げて捉えるなら――科学的な客観性が 文体ないし文化現実つまり要するに現実の歴史に 先行するものではないと言おうとして 次のように論じる。長いひとまとまりの議論を参照して これを検討していく。 ▼ ~~~~~ 例えばキリスト教の《本質》に関するすべての叙述(文体――引用者。以下同じ)は 経験的に存在せるものの歴史的叙述として見られることを欲するときは いつでもまた必然にはなはだ相対的なかつ問題的な妥当性しかもたない理想型にすぎぬが これに反して それがもっぱらそれにもとづいて実在を比較し測定する概念的な手段として用いられるならば(――このことが 客観の 本質的な後行性を言っているとして 読むことができる――) 研究にとっては高い索出的(heuristisch)価値を有し 叙述にとっては高い体系的価値を有する理想型たるのである。かかる機能においては理想型(Idealtypus――要するに概念・ことば――)は正しく不可欠である。 ところがかような理想型的叙述には 通常その意義を一層錯綜せしめる今一つの他の要素が付着している。通常この理想型的叙述は 論理的意味においてのみならず 実践的意味においても 理想型的であろうとし 或いは無意識的にそうなっている。すなわち――我々の例では――キリスト教が叙述者の見解に従えばそうあらねばならぬもの 永久に価値あるものであるが故に 彼にとってキリスト教における《本質的なもの》(――そういう意味での客観的なもの――)であるところのものを含む模範型(vorbildliche Typen)たるのである。こういう場合には ――それが意識されていることもあるが また意識されていないことは更に多い――この叙述が含んでいるのは 叙述者がキリスト教を評価しつつそれに関係せしめる理想 すなわち彼がそれにもとづいて自己のキリスト教の《理念》を整頓するところの課題と目標とであって この理想は 同時代の人々〔かりに原始キリスト教徒〕がキリスト教をかかわらしめた価値とは無論非常に違っているかも知れない いな疑いなくいつでも違っているに相違ない。だがそうなると かかる意義においてこの《理念》は勿論もはや純理論的補助手段でもなければ それによって実在を比較しつつ測定する概念でもなく かえってそれは それからして実在を評価的に価値判断するところの理想なのである。ここで問題たるのは もはや経験的なものを価値にかかわらしめるという純理論的な過程ではなく キリスト教の《概念》の中に取り入れられた価値判断なのである。 (前掲《社会科学方法論》) ~~~~~~~ すなわち わたしたちにとってここで問題たるのは 《経験的なものを価値にかかわらしめるという純理論的な過程》である科学行為は 文体にとって 補助手段であり 現在過程である文化現実に対して 後行するということである。後行するというのは 時間的にもそうならざるをえないであろうし 考え方のうえでこそ 従属的であろうという意味である。 今の例でいわゆるキリスト者としての文体行為が 一方で 人々が共通に主観として保持しうる文化現実の基礎認識に欠けていたり それから逸脱していたりすれば それは そういう問題である。共同主観としての基礎が弱いということである。その指摘と訂正を求めることとを わたしたちは 発言していく。他方で やはり今の例を用いるなら 一キリスト者が 自らの自己到来を公的に表現したという現実が すでにあるとするならば それはそれで まず 文体行為が成り立ったと捉えなければならないということ この出発点のことを 問題にしたいと思う。 焦点は やはり《価値判断》にある。文体行為に価値判断はつきものであり その内容が客観性に乏しいことと 文体として成立しないとして斥けることとは 別だと考えられる。もしウェーバーも 全く同じことを含んで言ったとするなら その方法論は 科学行為の客観性を取り扱うことを 文体にとっての補助行為であると明らかに言ったことになる。 (つづきます)。
#10です。 >次の二種区分は 或る意味で独特のようにも感じられます。 ★ 「現世支配的/逃避的類型」に関しては、「意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」と・・・ 「現世支配的/逃避的類型」に関しては、ウェーバーの分類だったと思っていました。間違いだったら、ご指摘下さい。究極の選択問題に関しては、個人的に勝手にほざいた事です。そう翻訳すると、自分にはわかりやすいだけです。実際ウェーバーは、逃避的類型に、道教も含めていたと思います。また、「このような問いを持たない民族」は「いない」と思います。違いは、悪のはびこった状況を実感した時、どれくらい衝撃を受けるかだと思います。 「神様がいながら・・・」と思うのか、「だから最初からいないんだよ・・・」と思うのか、の・・・。 >☆ フランチェスコは かれも独特な性格だったのではないか・・・中略・・・どうも個別の要素・要因のほうがつよいようにも思えて来ます。 述べ方が不味かったかも知れませんが、ウェーバーは個人を語りません。これこれの仮定(信念,信仰,倫理)を受け入れた時、そのあと人は、論理的にどのような行動をとるだろうか?という事を、語りたがると思います。 そうすると、その社会の大局的な方向性がわかるのではないか?、と。彼にとっては、資本主義を生じさせた合理化という考えが、なぜ西欧だけに生じたのか?、それがメインテーマだったと思います。ドイツが西欧世界の中心にいながら、なお後進国だったからです。 では、ユーロッパにはフランチェスコは1000人出てきて、インドには仏陀が2000人現れたのか?と問われれば、そんな事はありません。ウェーバーは定性論ばっかりで、そこには定量性がないとは、特にマルクス関係の研究者言ってた事だと思います。確かにもっともですが、でも彼のやり方は、大局的にはそんなに外れてない気がします。マルクスの壮大な未来予想が、そんなに現在外れてないように。 >さて 保留したかたちで本題に入りますが: > ★ 現世支配的類型を、申し訳ないですが、キリスト教とさせて頂きます。そこでは神が、とりあえず自分に意味をくれます。意味は保証されます。 > ☆ これは もしそうだとすれば いわゆる組織宗教としての・またオシエとしてのキリスト教のことですね。 > パウロ・アウグスティヌスあるいはヘーゲルを引き合いに出して捉えた聖書の行き方は あくまで個人にとっての信仰の問題です。実存ですね。何も決まっていません。決まった路線があるわけではありません。 > 神は われと神との関係 ただこれだけのことですから。 そうではないんです。そこには自分と無関係に最初から、自然の一部として、生存環境の統括者として客体化され得る神がいる。それは組織宗教であろうとなかろうと、同じではないか?という事です。神を信じるという選択には、そういう論理構造が含まれる。 「神は われと神との関係 ただこれだけのこと」であっても、その間で「契約」を結べる訳ですから。「契約」は、適宜解釈して下さい。つまり私は、客体化された神に対して問う事ができる。 突然ですが、以下では注意して具体名を避けます。 コミュニケーションの問題ではあったんですが、あの人があのような状況に陥った以上、何とか本人も納得する形で、その状況から自力で引き返してもらうしかない。そうでないと話すらできない。あの状況では、コミュニケーションも糞もないと思ったので、恥を晒す事にしました。 >・・・拝見したかぎりで 《自己》やその《価値》といった主題ないし視点が色濃く 精神の問題としてかかわっていたというように見受けられました。 そうです。精神の問題として関わりました。そこがポイントだと思ったので。 ・・・それはそれとしておきますが、「生きていて良い」という感覚は、一種のバランス感覚で、ふつうは自分のレゾンデートルなんか、考えてないと思います。考え始めるきっかけは、けっこうくだらないもので、女にふられたとか、成績が下がったとか、仕事が上手く行かないとかの、他愛もないものだと思います。 でもそのとき、気づいてしまう。俺って、そんなくだらないものを評価基準にしてたのかと。だったら、そうやって生きて来た俺の存在理由って、何なのさと。そして存在理由なんて、究極的には全然考えてなかった事に、突然気づく。 普通は神のいない日本人にとって、その先は闇しかない。世界は絶対の無意味だと、どうしようもく気づく。問う相手がいないから。自分しかいないから。 でも日本人ならまだ救われる。もともと絶対神のいない国だったから。しかしニーチェだったら、どうしよう。その衝撃は、はかり知れなかったに違いない。 ニーチェは自分だけを基準にして、返って来るのが遅すぎた。そう思います。 もちろん自分とニーチェが同じ事をやったなどとは、毛頭言うつもりはありません。でも日本人って、けっこう返って来やすいと思うんです。絶対神のいない国だけに。 > 「意味を生産し続ける自分に、意味を見い出した」。これだけで現世支配的類型の、十分な例になると思ったのですが・・・。 ~~~~~~~~~~ ☆ 《十分》ではないとわたしが思ったのは 《生産しつづけるその意味》に意味があるか? という問いを通らねばならないと思うからです。 どういう意味を生産したのか? という訳で、第一義的には《意味を生産しつづける自分に意味を見い出せた》という点こそが、絶対の無意味に対する存在理由になる、が自分の意見です。まわりは、全部闇(無意味)だからです。 そこでは、《生産しつづけるその意味》に意味があるか?、などとは問われる事はない。それは第二義的なもの。神を認めなければ(ニーチェはそう言った)、まわりは全部無視して良いので意味の評価なんて、最初から存在しない。《生産しつづけるその意味》に意味があるか?、などはナンセンスだ。 でもそれではお前は、野垂れ死にするか、殺されるよ。 そこからだと思います。ニーチェは返って来るのが遅すぎた・・・。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 「現世支配的/逃避的類型」に関しては、ウェーバーの分類だったと思っていました。 ☆ そこだけすっぽり記憶から抜けているといった思いでいます。 つまり そういう見方はそれぞれとしてあったかと思いますが この二種に分類して その対比で言わば世界観の重要な中身をかたちづくるといったこととしては おぼえていません。 いやぁ そうでしたか。これは 何とも言えなくなりましたね。 ★★(回答No.10) ~~~~ 「現世支配的/逃避的類型」に関しては、「意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」と、自分は勝手に呼んでます。世界宗教と呼ばれるものは皆、体系化して究極の選択に応えていると思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という内容ですよね。あるいはつまり ★ ~~~~ そこには自分と無関係に最初から、自然の一部として、生存環境の統括者として客体化され得る神がいる。それは組織宗教であろうとなかろうと、同じではないか?という事です。神を信じるという選択には、そういう論理構造が含まれる。 「神は われと神との関係 ただこれだけのこと」であっても、その間で「契約」を結べる訳ですから。「契約」は、適宜解釈して下さい。つまり私は、客体化された神に対して問う事ができる。 ~~~~~~ ☆ いやぁ これは ひょっとしたら わたしの見方とは違うということでどこかに捨てて来た思考形式ではないかと いまは 思いますねぇ。 これは 神を信じるということが 世界とわれとの関係として何らかの枠組みをつくっている。言いかえると 前回ふれましたように《神とわれとの関係》としての信仰ではなく そうではなくて 《世界ないし社会とわれとが 自分のほかにも人びととのあいだで幾重にもネットワークをかたちづくる構造的な関係として 成り立っている》と言っているように受け取られます。 契約によるにせよそうでないにせよ。組織をしっかりとつくっているにせよそうでないにせよ。 ★ 生存環境の統括者としての客体化された神 ☆ というのは そういうことだと考えられます。社会と言いましたが 必ずしもそれは国家ではないのでしょう。国家を意味するかも知れないのですが ふるい言葉では《社稷》というのがあります。 これも神のことですから――土地の神(社)と穀物の神(稷)であり 《自然の一部として》にも合致していますから―― 筋違いではないと思われます。あるいはむしろ《世間》という或る種の実態が 神であると言われることがあります。 そうしますと あんがい簡単に図式化して捉え得るかも分かりません。(わたしにとってでしょうが こころみてみます)。 一定の単位体としての地域ごとの社会において その社稷(または 世間)なる神を――すでに《客体化されている》ものであるからには―― 具体的にあたまの上にいただく。そのとき このような言ってみれば不自由な社会生活の中で生きることに《意味》を見い出すか? つまりそこから ★ 意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」 ☆ が始まる。のだと。 すなわち――もしそのままの路線ですすめますと―― ★ ~~~~ でもそのとき、気づいてしまう。俺って、そんなくだらないものを評価基準にしてたのかと。だったら、そうやって生きて来た俺の存在理由って、何なのさと。そして存在理由なんて、究極的には全然考えてなかった事に、突然気づく。 ~~~~~~~ ☆ ここから 模索がつづく。 ★ ~~~~~ 普通は神のいない日本人にとって、その先は闇しかない。世界は絶対の無意味だと、どうしようもく気づく。問う相手がいないから。自分しかいないから。 でも日本人ならまだ救われる。もともと絶対神のいない国だったから。しかしニーチェだったら、どうしよう。その衝撃は、はかり知れなかったに違いない。 ニーチェは自分だけを基準にして、返って来るのが遅すぎた。そう思います。 ~~~~~~~~ ☆ となるでしょうか? ★ ~~~~~ そこでは、《生産しつづけるその意味》に意味があるか?、などとは問われる事はない。それは第二義的なもの。神を認めなければ(ニーチェはそう言った)、まわりは全部無視して良いので意味の評価なんて、最初から存在しない。《生産しつづけるその意味》に意味があるか?、などはナンセンスだ。 ★ ~~~~~~ という訳で、第一義的には《意味を生産しつづける自分に意味を見い出せた》という点こそが、絶対の無意味に対する存在理由になる、が自分の意見です。まわりは、全部闇(無意味)だからです。 ~~~~~~~ ☆ わたしはですね ずばり言って この方法というのは ネガ戦法だと見ますね。 次のような戦術ではないでしょうか? 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html ☆☆(首位説明欄) ~~~~~~~~~ ( a ) KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。 ( b ) ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか。 民主制の社会では わざわざ《空気》を読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。 KY というときのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。 そのウッタエとは いわば意識の排泄となって現われる。 いろんな意味でのみづからの党派の意向を押し通そうとして 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。 さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としてのクウキも 上昇気流となること請け合いであるようだ。 かくて 先ほどの意識の排泄は ガミガミ電波となって現われ それをアース役が引き受けるかたちとなる。このアース役なる人間のあり方は不当なものであるゆえ クウキを読まない――むしろすでに生理的に読まない――というKYが 歴史的に重要な意味をになって現われたのだ。 たぶん その場合にも KY としてのクウキも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。 また ニートや引きこもりなる現象も同じように アース役からの人間性にとって正当な造反である。 人間の人間による人間のための未来社会構築の過程のひとつである。またそれは もし仮りに疾患だとしても 明らかに社会源病である。 おのおの《わたしがわたしする》という自己の文体の確立のためであり そうであるが いまはまだその負の姿(陰画のようなかたち)で現われているのであろうか。やがて陰画の現像が陽画と成って現われて来るであろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ とお答えするよりないですねぇ。 もうとんちんかんをつづけていないことをのぞみます。
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大きなって顔って… こんな顔かしら?°+.°( ̄  ̄人)°+.° http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E5%9B%9E 顔淵問仁、子曰、克己復礼為仁、一日克己復礼、天下帰仁焉、為仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、請問其目、子曰、非礼勿視、非礼勿視、非礼勿言、非礼勿動、顔淵曰、回雖不敏、請事斯語矣、 18歳選挙権、調整進まず 民法「成人」との整合性で http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009120601000245.html 選挙権と被選挙権 http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo02.html 選挙権年齢及び民法の成年年齢等の引下げ問題2009 http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2009pdf/20090701060.pdf 【QNo.3648451 私は死なない】 http://okwave.jp/qa/q3648451.html 意味が分からん、少年法なんで引き下げたんだろう? 少年による凶悪重大事件が相次ぐことを憂いて…云々とか? 体は大人並みになってきても精神は幼い(思慮に欠ける)と 現代における未成年に対して一定の見解を下したともとれるよな。 なのに、婚姻年齢の法的な年齢は依然変わらず。 おまけに、選挙権の年齢まで何の都合かは知らないけれど 引き下げようとか?もうわけわかんない。 自分の食い扶持、自分で稼げるように自己の身をなんとかしてからの話 親の扶養で食ってるうちは、いまだ成人になり得ず。
そういえば前回、名を名乗りませんでした。#9です。 今回は、とりあえず目についた処だけです。 「現世支配的/逃避的類型」の理念型モデルは、以前も強調しましたように、あえて成されたステレオタイプ化で、そこからはずれる状態は、最初から想定されてます。 中国が現実主義なのは、現代史だけ見ても、火を見るより明らかです。インドが生臭いのは、あのあくの強い映画産業の成果を見ればわかります。砂漠的でも北方系でもない南方系の明るさ、なんでしょうか?。 「現世支配的/逃避的類型」に関しては、「意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」と、自分は勝手に呼んでます。世界宗教と呼ばれるものは皆、体系化して究極の選択に応えていると思います。 そう考えると、フランチェスコが厭離穢土のような思想と行動を持ったのと、ニルワーナの仏陀が厭離穢土になった動機は、全然別だったんではないのか?、と思える訳です。あらかじめ予防線を張っておきますが、これは良い悪いの問題ではありません。ただそういう歴史と風土の中にいたという、偶然の結果だと思います。 現世支配的類型を、申し訳ないですが、キリスト教とさせて頂きます。そこでは神が、とりあえず自分に意味をくれます。意味は保証されます。よって神の御心のままに生きれば、人は自由になれるはずです。これは悪しき循環の中に、減衰機構を持ちこむ事です(・・・こういう表現しか出来ません。申し訳ない)。 現世逃避的類型ではそうなりません。と言うか、結果として逃避的になります。意味がないなら、意味を必要としないように悪しき循環の外に解脱しようと。よって意味を求める煩悩を捨てれば、人は自由になれる事になります(事になるだけですが)。 「現世支配的/逃避的類型」からの逸脱領域が広大なのは、ウェーバーも知っていたと思います。逸脱領域は、体系化を拒むような(首尾一貫していない)、色んな考えの混合である事が多いという印象を受けます。すぐ思いつくのは、「意味がなくたって生きていける」どころか、「意味がなくたって生きていける事を、積極的に肯定する」方向です。そうでなかった仏陀は、意味を却下するために、修行して苦しんだ。 積極肯定するのは、日本で言えば神道かな?、と思います。神道は究極の問いに応えないので、世界宗教ではありません。「神道+仏教+儒教」を無理に体系化したのが、武士道という印象を持ってますが、日本人との相性が良いだけでした。 >★ 現世支配的類型として、ニーチェのような行き方 ☆ これは 例示がないように思うのですが どうでしょう? むしろ反対であるように思うのですが? 「意味を生産し続ける自分に、意味を見い出した」。これだけで現世支配的類型の、十分な例になると思ったのですが・・・。 >つまりたとえばわざわざ《ルサンチマン》をけなすためのように概念として取り上げた。・・・中略・・・。つまり そんなことを言う前に ふつうの人びとと話し合いを持って ふつうの生活態度を身につけるなら もっと違った道をたどっていたことでしょうと思われます。 「・・・もっと違った道をたどっていた」。そうだと思います。これらに関しては、仕方ないので、恥を晒しますか・・・。補足の最後の§の応答にも、なりそうですし。 ・ http://okwave.jp/qa/q7213684.html の#8. 自分に上記のような危ない時期があったのは、確かです。そして我に返った時、どうも神道よりの選択をした、と気づきました。また科学や数学を神とは認めていません。宇宙は数学原理という仮定で記述できそうだ、という事を、経験事実として認めるだけです。ニュートン以降の物理学者は、心の中は窺い知れませんが、概ねこの方向だと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 次の二種区分は 或る意味で独特のようにも感じられます。 ★ 「現世支配的/逃避的類型」に関しては、「意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」と、自分は勝手に呼んでます。世界宗教と呼ばれるものは皆、体系化して究極の選択に応えていると思います。 ☆ あぁ。あるいはむしろ ヱーバーの神義論ですか。テオディツェ。 悪が社会的な力学の関係じょう善よりもつよくのさばっている。そんな世の中に生きる意味はあるのか? 神がいながら なぜ悪がはびこるのか? このような問いを持たない民族は 確かに問いません。倫理も その場その場での適宜性に沿って決めるというようなことになりがちです。 これは ただしまだわたしにはピンと来ません。それほどはっきりと区分され得るか? あるいは日本人は 特殊であるかも知れませんが ほかの民族・国々はどうか? ★ そう考えると、フランチェスコが厭離穢土のような思想と行動を持ったのと、ニルワーナの仏陀が厭離穢土になった動機は、全然別だったんではないのか?、と思える訳です。 ☆ フランチェスコは かれも独特な性格だったのではないか? 聖書の字句どおりの意味内容を行動するように自分に課したのは 個別的な問題ではないか。というようにも思えますし。 ゴータマ・ブッダの行動や思想は なかなか分かりづらいように思いますし。つまり内緒で不用意に言いますと ゴータマはけっきょく人一倍自己顕示欲がつよかった。よって ブラフマニズムのままでは・またその中にとどまっていては 自尊心がゆるさなかった。だけかも知れないと思えますし。 どうも個別の要素・要因のほうがつよいようにも思えて来ます。 ★ あらかじめ予防線を張っておきますが、これは良い悪いの問題ではありません。 ☆ 同意します。日本人のあいだにも ロマンティシズムに生きた人間がいたと思うからです。すくないですが。 ★ ただそういう歴史と風土の中にいたという、偶然の結果だと思います。 ☆ これは さらに加えてその人物の特性にもよると見ます。 さて 保留したかたちで本題に入りますが: ★ 現世支配的類型を、申し訳ないですが、キリスト教とさせて頂きます。そこでは神が、とりあえず自分に意味をくれます。意味は保証されます。 ☆ これは もしそうだとすれば いわゆる組織宗教としての・またオシエとしてのキリスト教のことですね。 パウロ・アウグスティヌスあるいはヘーゲルを引き合いに出して捉えた聖書の行き方は あくまで個人にとっての信仰の問題です。実存ですね。何も決まっていません。決まった路線があるわけではありません。 神は われと神との関係 ただこれだけのことですから。 ただし ローマ教会なりそこから出たプロテスタンティズムなりの集団としての仕組みは オシエにのっとるかたちになります。 ★ よって神の御心のままに生きれば、人は自由になれるはずです。これは悪しき循環の中に、減衰機構を持ちこむ事です(・・・こういう表現しか出来ません。申し訳ない)。 ☆ オシエの輪の中に入っていれば ひとまづ安心といった制度なのでしょうか? オシエをじっさいにおしえるのは・そしてそのことが効果をもたらすのは ヒエラルキアなる権限関係に沿ってその秩序をとおしてだというかたち。 繰り返すなら 輪の中にいて権限かつ身分の階層がもたらす秩序に従っていれば まづ死んだあとの天国もだいじょうぶ。というような情況のことでしょうか? それに対して ★ 現世逃避的類型ではそうなりません。と言うか、結果として逃避的になります。意味がないなら、意味を必要としないように悪しき循環の外に解脱しようと。よって意味を求める煩悩を捨てれば、人は自由になれる事になります(事になるだけですが)。 ☆ 煩悩を包み込むチカラを得ることを目指す場合もありませんか? あるいはまた 《意味を求める煩悩を捨てる》というとき そのニルワーナにあっても むしろ《清浄心》であるとかまた《不老不死》といった現実の意味内容を捉えている場合もありませんか? そういう場合には むしろ遠回りしたかたちで現実支配をもくろんでいるとも考えられます。 政治と共謀するか 政治権力にすり寄るかする。きわめて政治的人間なる類型も 宗教家の間から出ています。親鸞は 支持しますが 蓮如は支持できませんといったような例です。 まだ反論するわたしのほうでも 論点をぜんぶ出していないと言いますか まだどう展開させればよいかが分からない状態であり 保留する部分が多いのですが さらにすすみます。 ★ 積極肯定するのは、日本で言えば神道かな?、と思います。神道は究極の問いに応えないので、世界宗教ではありません。 ☆ たぶん明示的には《世界宗教ではありません》と思います。 ただし 世界宗教でありうる《個人にとっての信仰》の類型は そなえているかとも考えます。 【Q:空仏一如!?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7730857.html 《もののあはれを知る》――つまり あは!と嘆きを吐くそのときの思いに 世界の内にあるわれに還るといったかたちの信仰の姿勢が見られる。こう考えています。 無限と有限とのあいだの矛盾 あるいは世の中の移り変わりを見ても有限性とそれを超える不可変性の何ものかとの間に位置して 《きよらかなおそれ》をいだきつつ あはれを感じるその瞬間。これは 信仰の類型として 世界的な普遍性を持つと考えます。ただし 例に漏れず 集団としての――組織はあまりないようですが――かたちで 世界の意味を問い求めるにしろ意味がないところから出発するにしろの共生については どうであるか? 微妙なところだと思います。 理屈抜きで対立をゆるめる妥協点を探り出そうとする《政治的人間》が出ることもありましょうし。 ★ ~~~~~~~~ 現世支配的類型として、ニーチェのような行き方 「意味を生産し続ける自分に、意味を見い出した」。これだけで現世支配的類型の、十分な例になると思ったのですが・・・。 ~~~~~~~~~~ ☆ 《十分》ではないとわたしが思ったのは 《生産しつづけるその意味》に意味があるか? という問いを通らねばならないと思うからです。 どういう意味を生産したのか? 永劫回帰――これに しっかりとした意味はありますか? 権力への意志にしても しかり。超人しかり。だとわたしは思っています。つまり この質問がそのためにあるということになります。アンチ・クリストは 最大の闇だと言わざるを得ません。 ★ 危ない時期 ☆ にかんしましては わたしのばあい 同じく次の質問: 【Q:空仏一如!?】 ここでの No.7のお礼欄にかんたんに書いています。 その関係で話を継ぐなら ○ 関係性 / 社会的な人間どうしのカカワリ という主題が わたしのばあい 大きい位置を占めていました。その点では 拝見したかぎりで 《自己》やその《価値》といった主題ないし視点が色濃く 精神の問題としてかかわっていたというように見受けられました。 あるいは 別の観点から言って 《孤独》でしたね 主題は。(コミュニケーションの問題だと言えるのですが)。その結果得るにいたった結論は 孤独とは 人間にとっては 孤独関係なのだというところです。 とにもかくにも ニーチェのよさを確かに知りたい。こう思いますね。だって これだけ読者を獲得しているということは いろんな人たちがさまざまにそこから栄養を摂っているのでしょうから。皮肉のひびきが出たかも知れませんが たずねたいという気持ちは じっさい起こったので 設問はしてみたのでした。 これまでわたしはまだその良さを聞いていないという意味になります。
エーベリアン事件と対角線論争で、自分はなかなかあなたの言わんとする処がわからない、と気づき、とりあえず勝手な事をほざいてみて、あなたの応答を待つ事にしたというのが本音です。 まず自分の出自を、はっきりさせておきます。以下いずれも日本語に限ります。 (1)ニーチェ,ヘーゲル 一般啓蒙書か解説書のレベルです。特に、「絶対の無意味の中で・・・中略・・・神と無関係な超人となった」は、自分の印象であり、自分なりの浅はかなニーチェの読み方です。 (2)ウェーバー 原典を可能な限り読みました。また1970年代に一世を風靡した、ウェーバーフリークと呼ばれる人たちの著作。 (3)カントール 集合論の専門書は読んでいます。しかし納得できないので、数理哲学や数学史,物理学史の本に手を出していき・・・。 (4)結局 もともとは構造主義数学とは何?、が始まりです(響きが良かったので)。ところが構造主義と言えば、レヴィ・ストロースやチェムスキーばっかりで、数学の話はほとんどない。もっと遡るべきかと思って深入りすると、今度はマルクスやウェーバーまで出てくる。構造主義にはシニフェとシニフィアンの対立項が出てきますが、(どっちだったか忘れましたが)どうもシニフェが生の哲学に関係してるらしい・・・。それでサルトル,シモーヌ・ヴェイユ,キェルケゴールなんかをつまみ食いし始めた。で、これらの主義,人達(構造主義からキェルケゴールまで)は、直接/間接に、ヘーゲルの弁証法の否定という視点で、整理できそうに思った。 1.視点の違い という訳で今回も、論点(視点)は噛み合ってないと思いました。 >けれどもヘーゲルはそれほどその《観念論》において 《観念の神――つまり そんなものは想像の産物であるからには はじめから死んでいる――》をもてあそんでいるとも思えないのです。 この一文を誤解してないとすればですが、まさにそこが問題だった。内容が胡散臭い訳ではないです。自分は、次のようにしか表現できませんが、底に置かれた暗黙の基本前提(公理)が問題だった。 ヘーゲルは精神(や思想)が歴史を先導すると言った。暴力的な単純化ですが、マルクスの言葉で言えば、上部構造が下部を規定すると言った。しかしそうではないと、あの時に少なからず誰もが考え出した。 ヘーゲルの考えに従っても、ドイツは相変わらずヨーロッパの後進国のままで、真の資本主義は芽生えなかったからです。マルクスはヘーゲルの影響下にあったが、時代を先取りし、上部が下部を規定していないと思った。実情は逆だと。それで下部が上部を規定する、史的唯物論を提唱し、結果として、資本の自己運動を許すヘーゲル流の政治体制の転覆を狙った(自分の独断です)。下部や上部が全面的に他方を規定するという考えは、今にして思えば、どちらも行き過ぎだとなるでしょうが。 ウェーバーの時代になっても、ドイツは後進国のままで、上からの近代化はなっても、資本主義の自発的発展はなかった。それどころか、シュモラーやモムゼンによれば、上からの近代化はヘーゲル流の弁証法の歴史科学的必然だとなる。もしそんな事を認めたら、信念(政治理念と価値含む)や信仰は、論理と科学で根拠付けられたものになり、この態度はたやすく現状追認に直結する。 >・・・ ☆ という論理で 《信仰》が成り立つわけのものではない。という物言いを言いたいという意味です。 それはそうです。論理と科学で根拠付けられないから、《信仰》が成り立つとは言っていません。逆に信念や信仰は、科学によっては成り立たない、と言っています。それらには、科学以外の別の根拠がある。ただし、ヘーゲルの宥和には騙されるなよ、と(過激に言えば)。 > ★ 信仰とは、訳もなく信じるもので、信じたいから信じるのだと。 ☆ というかたちで 成り立つものとは思えません。それは 《信じる》のは 《訳もなく》だというとき ・・・中略・・・。神なら神 もしくは ブラフマンならブラフマン キリストならキリストというようにその名を受け容れるのが ふつうだからです。 >そして次には《信じる》のは 《信じたいから》だというとき 上で言った《その名を受け容れる》の意味として《単純に好きだから》でもいいわけで 《信じたいから》がそういう意味だとすれば――わたしの見解では――分かりますが ですけれども 《受け容れる》のであって・・・ それでウェーバーは、なぜ 《受け容れる》(認める)のかを知りたいと思った。《受け容れる》という実践的行為は価値の問題で、それは科学の範疇ではない。その意味で訳もなく、です。余談ですが、ウェーバーがこういう度に、アウグスティヌス(だったでしょうか?)の「不合理な故に神を信じる」を思い出します。自分には言い当て妙と思えるんです。趣旨は違うのかな?(^^;)。 しかしそのような価値を認めたと仮定して、どのような行動をとるかは研究できる。そのような価値を認めるために必要な信念なり信仰は何か?、という無限後退をある程度科学的に追跡はできるし、理解する事はできるはずだ。科学に出来るのは理解する事だけ。それは認める事とは違う。この点でウェーバーはモムゼンと対立し、モムゼンの秘蔵っ子から、ドイツ歴史学派の鬼っ子になります。実際の発言は、「科学集団である歴史学派が、現在の官僚体制を礼賛するな!」という、非常に政治色の強いものですが。 > けっきょく どうなんでしょうか? 《神についての観念論》 これに対して人びとは抵抗した。ここまでの実態であるように思われます。 では 成果は 何か? どうなんでしょうねぇ。 ありていに言えば、成果はなかった。成果を得る事が非常に難しい事が、逆にわかってしまった。ウェーバーは、ただこう言うだけです。 「価値(信仰)は論理や科学では通約不可能だ。解決策はない」 「それを受け入れろ、引き受けろ。そして責任倫理によって闘え」 (まるで、今の世界情勢みたいじゃないですか・・・) ここで責任倫理は、抽象的論理も扱えたウェーバーにしては、非常に常識的であいまいなものになりますが、理解しかできないと思った時点で、決まっていたのかも知れません。また責任倫理を持ちだしたという事は、彼も人間一般に普遍的であるような価値の存在を、心の底では信じていたという事だと思います(あえて言えば、訳もなく)。 2.ニーチェ 当時の人達にとって、この世界が精神主導でないと考えるのは、非常に難しかったと思えます。弁証法を唯物論的に転倒させたマルクスさえ、ヘーゲルへの反動という意味では、ヘーゲルの影響下にあった(個人的意見です)。 世界を動かす精神の中には、神様がいます。それを諦めるという事は、「神を克服する」と(ニーチェが)自分に言い聞かせる必要を生んだ。そんな風に思えるんです。 次も個人的意見です。 人間の意識は、自分で自分をモニターするので、数理的には非常に強力なフィードバック機構です。負のフィードバックが生じれば、すぐにも「死に至る病」に陥るような・・・。で、この世には、この悪しき循環(フィードバック)を断つ、だいたい2つの方法があった。 一つは、何らかの方法で生の意味を絶対的に認める方向:西欧的「現世支配的類型」。もう一つは、生の意味を積極的に却下する方向:東洋的「現世逃避的類型」。現世支配的類型として、ニーチェのような行き方は、自分には納得できます。 3.カントール カントールを、ニーチェとウェーバーに並べるのは、やっぱり無理がありました(面白いとおもったんですが(^^;))。中世の数学は、そんなに暗黒時代じゃありませんでした。スコラ哲学者達は、ガリレイやニュートンに100年ほど先んじて、微積分と同等なものを発見しています。ただし証明方法は、可能無限しか認めない取り尽くし法になります。微積の発見者と言われるニュートンは明らかに、無限小,無限大の考えを用いていますが、新技術の欠点を突かれるのを恐れ、公の刊行物には、取り尽くし法による証明しか与えていません。 数学的神秘主義の歴史は長く(今も形を変えて存在し)、宇宙は数学的被造物として神が与えたとなります。そこでは宇宙の天球は、有限距離にある有限個の(地球を中心とした)有限球殻である必要がありました。中世の数学は、神様が与えた数学です。 カントールが「数学は自由だ!」と言ったとき、それは人間の数学で、人間の自由だったわけです。 という訳で、長かった上に、落ちはやっぱり強引でした・・・。すいません・・・(^^;)。
お礼
(つづきです)。 現実世界に向き合って 問題に対処する行き方としてふたつがあると。 ★ ~~~ 一つは、何らかの方法で生の意味を絶対的に認める方向:西欧的「現世支配的類型」。 もう一つは、生の意味を積極的に却下する方向:東洋的「現世逃避的類型」。 現世支配的類型として、ニーチェのような行き方は、自分には納得できます。 ~~~~~ ☆ たぶん中国はいやがおうでも現実主義でしょうね。 インドは ニルワーナ=消滅=灰身滅智=死という看板をかかげつつ どこかひそかに・あるいは時にはおおっぴらに 実際問題として現実のなかに生きているでしょうね。密教・タントリズムという現実肯定のあからさまなオシエにまで行き着きましたから。 日本は どうでしょう? 武士道として・またその一部として 罷宴(避宴)の思想――あるいは死の思想――が生まれたかも知れません。 西欧でも アッシジのフランチェスコは どう思ったからか 聖書のイエスの語ったことをそのまま行動に表わそうとしました。じっさいに厭離穢土のような思想と行動を持ったのではないでしょうか。その軌跡が歴史から消えなかったとすれば 自己の無化なるニルワーナの傾向も人びとのあいだにあるのではないでしょうか? すみません。 ★ 現世支配的類型として、ニーチェのような行き方 ☆ これは 例示がないように思うのですが どうでしょう? むしろ反対であるように思うのですが? つまりたとえばわざわざ《ルサンチマン》をけなすためのように概念として取り上げた。くよくよしなさんなと言うだけなら分かりますが ウラミを一度としていだいたことのない人間がいますか? それでも誰もが これを自分で克服しようとして生きています。その生活態度をもけなして もうこの世界から去って行けとでもいうような論調を持っているのではないでしょうか? 《超人》を体得していないおまえらは 猿だと何で言わなければならないのか? 自分が恥ぢ入って 消えてしまえばそれで 世の中は 勤勉な生活を送る市民中間層が栄えて 申し分ないのにと思いますが どうでしょう? つまり そんなことを言う前に ふつうの人びとと話し合いを持って ふつうの生活態度を身につけるなら もっと違った道をたどっていたことでしょうと思われます。 § 3.カントール ★ 中世の数学は、そんなに暗黒時代じゃありませんでした。 ☆ ただし ★ ~~~~~ 数学的神秘主義の歴史は長く(今も形を変えて存在し)、宇宙は数学的被造物として神が与えたとなります。そこでは宇宙の天球は、有限距離にある有限個の(地球を中心とした)有限球殻である必要がありました。中世の数学は、神様が与えた数学です。 カントールが「数学は自由だ!」と言ったとき、それは人間の数学で、人間の自由だったわけです。 ~~~~~~~ ☆ といったところでしょうか。 ○ 創造主としての神 ☆ これは あくまで《無限・絶対》を擬人化した表現の問題だと見ます。 そこには 確かに人間とこの経験世界を超えた場に対するきよらかなおそれを感じさせるものがありますが。そのおそれは 有限と無限とのあいだの矛盾にかかわっているとは思います。つまりは 非思考の庭としての信仰の問題だと見ます。
補足
そうですね。《出自》ですか。 ――まづは ご回答をありがとうございます。 わたしは 経営学専攻ののち アウグスティヌスによって道が開け 聖書を基にして 自己流の解釈を展開している。でしょうか。系統立って読んではいないですし 原語での素養も少ない。研究史の研究を怠っているという点では 学問のガの字にも届かないと自白せねばなりません。 (1) ニーチェ,ヘーゲル これは両人とも その著書のかなりを読みました。ヘーゲルは カントからの流れで哲学の基礎をきづく内容だと考えます。 ニーチェは ご覧のとおり《よきもの》を見い出し得ません。 (2) ウェーバー これもかなりの量を翻訳でそして日本の研究者たちの著書をもかなり読みました。大塚久雄にわたしのようないぢわる心があったら ヱーバーをぼろくそに批判してもっともっと活性化させ得たと考えます。 (3) カントール 分かりませんという告白もむなしくひびくほどです。 (4) 結局 ★ 構造主義 ☆ ひとえに――《神は死んだ》としても その概念内容としての――《実体》の問題 またその実体とつらなるような《主体》の理論 これの《観念論的な固着性》を批判するあまり 振り子が他方の極に振れ切って 《無主体による歴史過程》の理論にまで行き着いた。そのことが ひとえに マチガイだったと見ています。 構造としての関係主義が 網の目の連結線のところをのみ捉えて結節点――つまりそれとしての《主体》たる人間――を見なくなった。これを批判します。 その基礎としてのようなソシュールの《言語記号の恣意性》説については すでに批判的視点から 幾度か問うています。 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html ソシュールないしむしろ丸山圭三郎の説は 《シニフィアンとシニフィエとの間に――聴覚像として(つまり音韻として)―― 自然で論理的なきづなはない》と言っていると思います。《自然で論理的なきづながある》という例証をしています。 ここでヘーゲルを擁護する観点を提出しておきます。 ▲ (アウグスティヌス:無限と有限) ~~~~~~~~ たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38 加藤武訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ § 1.視点の違い ★ ~~~~ ヘーゲルは精神(や思想)が歴史を先導すると言った。暴力的な単純化ですが、マルクスの言葉で言えば、上部構造が下部を規定すると言った。しかしそうではないと、あの時に少なからず誰もが考え出した。 ~~~~~ ☆ 次のようにわたしなら書き直します。 ○ (ヘーゲル哲学のもんだい) ~~~~~ 1. いわゆる唯物論と言わば振り子の両極に位置しあって姉妹のような関係にある唯心論 これにもとづき確かに《第一形相》ないし《世界精神》を その根源に据えました。 1-1. (これは――なぜ姉妹関係かというと―― 《第一質料》なる《物質》は すでに目に見える物ではなく 或る意味でイデアなのであり けっきょく物質〔なる神〕があたかも自己運動を起こして世界が生成し自己展開するというのと同じように ヘーゲルの場合は《世界精神》が自己運動をおこなう。と見ている。この構図においてです。《歴史の狡知》は 人間がその有限の能力において この世界精神にまでは思いも認識も馳せ得ないからだと考えられます)。 2. すなわち 世界精神は この経験世界においてモノにも人間の身と心にも そのチカラをおよぼす。と言っている。その世界精神のハタラキによってか・それを知らずに勝手にか 人間はその能力に応じて世界を生き動き存在する。 3. つまり《世界を先導する》のは 想定上《世界精神》であるが それはどのように経験事象に現われているのか それは 分からない。人間が世界精神でないからには 《分からない》というのは どういうふうにも《おれは分かった》と言って自説を展開することが 展開することまでは可能であり それは自由だとなる。 4. ということは 思想や宗教やあるいは政治なる上部構造が土台を動かすこともあると見れば ぎゃくに土台が上部構造を規定することもあると見ている。のだと考えます。弁証法は それほどちゃちでやわな世界観ではないはずです。 5. マルクスは ヘーゲルが 前項のあとの半分つまり《土台から上部構造へのハタラキ掛け》は説いていないと言ったことになっていると思います。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ その結果としては 次のご見解と内容をひとしくします。 ★ 下部や上部が全面的に他方を規定するという考えは、今にして思えば、どちらも行き過ぎだとなるでしょうが。 資本主義の――つまり資本の原始的蓄積から始めての――起こりや発展にかんしましては まだ保留としまして。(基本的には――上からの政治の要請によるものであろうと人びとの自生的で内発的な内からの起こりであろうと―― 勤勉の精神とガリ勉の超越精神とのからみ合いによると見ますが)。 ★ 余談ですが、ウェーバーがこういう度に、アウグスティヌス(だったでしょうか?)の「不合理な故に神を信じる」を思い出します。自分には言い当て妙と思えるんです。趣旨は違うのかな?(^^;)。 ☆ ひとつに《信じる》というのは 《無限と有限との矛盾を引き受けるもの》である。ゆえに《不合理ゆえに》だと捉えます。要するに この有限な経験世界にあってわれは閉じられていないと宣言することだと見ます。 もうひとつに 究極的には煮詰めたかたちでは このいまの矛盾を惜しみなく引き受けた存在として・経験世界の因果関係からまったく自由な場を示し得て《特異点》とも言うべき《十字架上のイエス・キリスト》を原点とする。それを受け容れる。こんな《ばかばかしいことゆえに 信じる》という意味だと思います。 ▲(パウロ:コリント前書2:2) ~~~~ なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶんヱーバーも ここまでは見ていない・言っていないでしょう。 ★ ~~~~~ 「それを受け入れろ、引き受けろ。そして責任倫理によって闘え」 (まるで、今の世界情勢みたいじゃないですか・・・) ~~~~~~~ ☆ ヱーバーのこの側面については 同感します。ただし かれはわざわざ《心情倫理》などというわけの分からないことをも言ったと思います。《心情》などは 心のうわべの心理のウゴキだけですから 意志行為としての答責性にはなじまないと考えます。つまり 《ふたつの倫理》と言ったとしたら それはマチガイである。倫理にはひとつの意志行為しかないと言わねばならなかった。こう考えます。 資本主義うんぬんにつきましては どうもすでにおこなったわたしたちのやり取りを繰り返すことになりそうで まづは その箇所を掲げておくかたちを採ります。 【Q:キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6778821.html (全編――三つの問答――が そのやり取りです)。 § 2.ニーチェ ★ 世界を動かす精神の中には、神様がいます。それを諦めるという事は、「神を克服する」と(ニーチェが)自分に言い聞かせる必要を生んだ。そんな風に思えるんです。 ☆ 次のように見てもよいのでしょうね。 ○ (ニーチェは 何をたくらんだか) ~~~~ 1. まづ デカルトのあと むしろ《わが精神 わが理性こそが 神である》という思潮が少なからず世の中を支配した。のではないか? 2. だとしたら もし《神を克服する》とたくらんだのなら それは 自分たちのあたまの中からその《観念として残っている神なるもの》を捨て去ろうとした。のではないかと。 3. つまりは 予期に反してかどうか 理性なる精神は そのまま――あたかも神であるかのごとく――残ったし 人びとの思潮の中に君臨する存在であった。 4. そのあとさらに自然科学をあらたな神とするかどうかは 人それぞれであったかも知れません。が おおむね思潮は そのように流れたのでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~ (つづきます)。
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さて、wikipediaをちょい開いて ニーチェ みてみましょうか? フリードリヒ・ニーチェ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 - 1900年8月25日) ↑ いま、何年でした?2012年でしたね。 1900年8月25日に他界されてます。 ほらね、この世にはおられませんよね。 開いたついでに、ちょいと中に目を通してと、 ポーランドがどうしたこうしたとニーチェについて云々書かれてありますね ちょいと 飛んで↓ここ開いてみてみましょうか グダニスク http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%AF ポーランド王国の消滅と街の運命 18世紀、度重なる戦争によってグダニスクの経済は徐々に衰退していった。1734年にはロシアに占領された。1793年には第2次ポーランド分割が行われ、グダニスクはポーランド王国から奪われてプロイセン王国に併合され、公式な名称を「ダンツィヒ」に変更された。1807年から1815年にかけてのナポレオン戦争の期間は、ナポレオンの政策によって自治都市としての地位を取り戻した。ナポレオン戦争が終結すると、ダンツィヒは再びプロイセン王国の支配下に置かれ、西プロイセンのダンツィヒ地方の行政中心地とされた。ダンツィヒでは住民のドイツ文化への同化政策が徹底的に行われ、住民の多くはドイツ人(バルト・ドイツ人)となっていった。 下剋上、栄枯盛衰、祇園精舎の鐘の声と… ガーーーーン)))))))))) なんか、音聞こえてきそうですね おっと、ニーチェのいいところといえば… ゴーギャンよろしく われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのかhttp://okwave.jp/qa/q4917187.html ↑ 「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」 この謎にニーチェも問いを馳せ、いいかえれば未来に思いを馳せてたんじゃないのかな 超高齢社会に求められる近代的アイデンティティと道徳性 ~日本社会の変容と道徳的葛藤を巡る現代の諸相~http://www.nkri.or.jp/PDF/2011/Rep116kawai.pdf 【主要な著書・論文等】 (著書) http://www.intcul.tohoku.ac.jp/european/kyouin/nunota/top.html 議院の意思決定手続に於ける棄権及び無効票の取扱い( 一) : プロイセン王国に於ける実務を中心として http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/14021/1/03878937_35_07.pdf プロイセン第二院乃至代議院における棄権及び無効票の取扱(上) http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/14072/1/03878937_40_08.pdf http://jairo.nii.ac.jp/0004/00008535
お礼
問いはすでに問われていたもの。 答えが出せないのに 大きな顔は出来ない。
安易に安心を求めなかったことではないでしょうか。いわゆる集団催眠的な側面がある宗教のむなしさを明確にしたともいえないでしょうか。
お礼
かいたら1さん おはようございます。ご回答をありがとうとございます。 ★ いわゆる集団催眠的な側面がある宗教のむなしさを明確にしたともいえないでしょうか。 ☆ どういうふうに《明確にした》のでしょう? ★ 安易に安心を求めなかったことではないでしょうか。 ☆ というふうにでしょうか? そうですね。 1. 《宗教》の定義があったか? 2. 宗教そのものが だめだと言ったのか? 3. 宗教について 具体的にどれどれの宗教を取り上げあつかっているのか? 4. 宗教は どういう《むなしさ》があるのか? 5. そこに《安易に安心を求める》と何も手に入れられず《むなしさ》のみを得るということなのか? 6. それだけでは 説明が《安易》すぎないか? 7. 《集団催眠的な側面がある》とは どういうことか? 8. つまりそうだとしても たとえば全体主義体制をとるとき・あるいは そうでなくともそもそものあり方として 国家は 隠然とか顕然とか 人びとにマインドコントロールを――それによって人びとは ほんとうには 引っかからないのだが――仕掛けているのではないか? 9. あるいはそれとも その国家と同じように・またはむしろ肩を組んでいっしょに 《集団催眠》を 陰に陽に仕掛けてくると言うべきなのかどうか? 10. 国家が存在するように――或る方面からは《必要悪》だと言われつつもまだなお存続しているように―― 宗教も そうなのか? どうなのか? 11. そもそも宗教論をしっかりと語ったのか? 12. どうも人間にとって・個人にとっての《信仰》という事態を おろそかにしていなかったか? 13. むしろ《非思考の庭がわが心に成る》というわが人生の動態であるところの《信仰》について 何も知らなかったのではないか? 14. 何ものかによって仕掛けられて来たとも言えるかも知れないところの・人びとのあたまの中に変なDNAとしてのようにまで巣食う宗教ヰルスについて ほんとうにじゅうぶんだと言えるほど探求したのか? 15. ただただあたまの中の《観念の神》つまり《ただの観念》をその想像の世界においてのみ ああぢゃこうぢゃとひねくり回しただけではないのか? 16. どうなのか? ・・・・・ どうでしょう?
お礼
そうですね。――まづは ででてx3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 この質問は 二度目ですが こんかいも質問趣旨の説明は 或る意味でええ加減なままにしてあります。わづかに《神は死んだ》論として いくらか具体的なたたき台を提出しているかと思います。 要するにどうなるか どういうやり取りになるか 分からないままにすすめてみようとしています。それに すでに全体観として最終の判定をくだしたかっこうとしていますが じつはほんとうにニーチェについてそう思っていますが 問題提起としては そんな自信たっぷりな口ぶりで問うかたちを採っています。 さて ご見解をみてまいります。 ★ ~~~~~ しかしニーチェの時代とプロイセン帝国という特殊性を考えれば、そこでは神を信じて内面化する事が普通だった(と思う)。・・・ そしてヘーゲル流の観念論は、なんか胡散臭いぞと、少なからず誰もが思いだした時・・・ ~~~~~~~ ☆ こうなれば ヘーゲルは 神について何と言っているかを見てみないことには話はすすまないと思われます。 けれどもヘーゲルはそれほどその《観念論》において 《観念の神――つまり そんなものは想像の産物であるからには はじめから死んでいる――》をもてあそんでいるとも思えないのです。 たとえばまづ 歴史哲学の三位一体について論じたところでは 解釈するに面倒なことをたしかに述べているようです。 ▼ (ヘーゲル:神と人) ~~~ (ヘーゲル:『歴史哲学』第三部 ローマの世界 II キリスト教 1.三位一体 武市健人訳) ・・・むしろ人間が〔* 部分的に霊的に〕神であるのは 人間がその精神の自然性と有限性とを止揚し 自分を神にまで高めるかぎりにおいてのみ可能である。 *(ぶらじゅろんぬ註)《自分を神にまで高める》というこの規定からして いかにも精神主義の観念論であるように見られます。 すなわち 真理に関与する者であり また自分が神的理念の契機であることを知っている人間にとっては〔* という意味はおそらく 真理=神(それは 霊)を分有する人間にとっては というような内容であろう〕 同時に自分のもつ自然性の棄却が問題となる。なぜなら 自然的なものは自由をもたないものであり 精神をもたないものだからである。 * おそらく もし《ひとには神の霊がやどる(《一切衆生 悉有仏性》)》 のならば わが身とわが心の《自然性ないし自然本性》を《棄却》する必 要はないであろう。 あるいはつまり 身と心 身体と精神とを分ける必要はない。 そして 精神は神ではないと言うのに 精神をけっきょく観念のうちに 至高の存在であると見ようとしており 言おうとしている。と言わざるを 得ない。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ のですが この観念論がそれほど空回りしているとも思えないのです。 たとえばこうです。上の引用文のなかの ▼ 人間がその精神の自然性と有限性とを止揚し ☆ という見方にかかわっています。 ▼ (ヘーゲル:無限と有限)~~~~~ (ヘーゲル:『法の哲学』 §35追加。藤野渉・赤沢正敏訳) 無限なものと有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* つまりは 《時空間としての存在》における身と心との境地)の高さである。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 人間にそなわった《時間》にも――いわば《非思考の庭》なる動態としての――《高さ》があると言っていないであろうか? つまり――神を想定したときには―― 《ひとは 神の霊を分有する》のだというわけだと見ます。 おそらく 神学におけるキリスト論は これが 基礎であり基本だとわたしは見ています。《胡散臭い》とは思えないのです。 《神がいる》と観念において捉え これをうたがわないのは 《矛盾》だと言っているわけですから。 ★ ~~~~~ でもニーチェのような人格にとってそれは(* つまり《「神はいない(神は死んだ)」という「神克服」のテーゼ》は) (彼自身も含めた)世界の意味の全消失だったと思う。絶対の無意味の中で彼は、それでも自分に対する意味を生産し続ける自分に、絶対の意味を見い出す。彼はそこで、神と無関係な超人となった。 ~~~~~~~ ☆ という必要はない。絶対的に ない。とわたしは見ます。どうでしょう? ★ ~~~~~ 「数学は自由だ!」の一言によって彼(カントール)は、中世の数学的神を捨てた事になる(意識せずに)。中世の数学神は、有限と可能無限しか認めないからです。 ~~~~~~~~~ ☆ そうですね。いかにも暗黒の時代だったのでしょうか。どうでしょうか。ですけれども たとえば ▲ (パウロ:コリント後書5:7) ~~~~~ たしかにわれわれは〔* 矛盾や不合理を帯びる《非思考の庭》なる動態としての〕信仰によって歩いているのであって 見るところによって歩いているのではないのである。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 《有限と可能無限》という《見るところ によって歩いているのではない》。ということですが 世間一般は めちゃくちゃな理解だったのでしょうか? ★ ~~~~~ そこ(* 官僚制をめぐる深刻な弊害)に目をつぶるシュモラーを見てウェーバーは、価値や倫理や信仰は、論理や科学では根拠付けられないものだと明言します(正しいと思います)。信仰とは、訳もなく信じるもので、信じたいから信じるのだと。 ~~~~~~~ ☆ というのは 《論理であり科学である》のではないでしょうか? その心は ★ 価値や倫理や信仰は、論理や科学では根拠付けられないものだと明言します(正しいと思います)。 ☆ という論理で 《信仰》が成り立つわけのものではない。という物言いを言いたいという意味です。 ★ 信仰とは、訳もなく信じるもので、信じたいから信じるのだと。 ☆ というかたちで 成り立つものとは思えません。それは 《信じる》のは 《訳もなく》だというとき それが《論理や理屈において妥当だからではない》という意味 また《倫理規範がそうせよと言うからそうするのではない》という意味だと考えますが ですからそのとおりだとしても それは《何を受け容れるのかを知らずに》というわけではありません。神なら神 もしくは ブラフマンならブラフマン キリストならキリストというようにその名を受け容れるのが ふつうだからです。 そして次には《信じる》のは 《信じたいから》だというとき 上で言った《その名を受け容れる》の意味として《単純に好きだから》でもいいわけで 《信じたいから》がそういう意味だとすれば――わたしの見解では――分かりますが ですけれども 《受け容れる》のであって・あるいは《有限と無限とのあいだの矛盾を 引き受ける》のであって やみくもに《信じたいから信じる》というのも きわめてあいまいなままだと まづは 捉えられます。という物言いなのです。 話をわざと複雑にしていると見られかねないような反論の仕方ではありますが 要するに ★ 信仰とは、訳もなく信じるもので、信じたいから信じるのだと。 ☆ という命題は まだ 実地にその信仰を成り立たせるものではないでしょうし そもそも何らかの命題によって 信仰の世界が成ったとは言えないと思われるからなのです。 つまり 《信仰は 論理や科学で根拠づけられるものではない》という論理によって 信仰が成るものではない。です。 それは・つまりヱーバーの命題は 信仰の世界の入り口に立ったと言えましょうが まだそれは始まっていない。と思われますし 言わねばならないでしょうね。 そのように捉えるとき では ★ 非常にひねくれて考えれば、ウェーバーもこの時点で、神を捨てました。ヘーゲルにおける中世の神はいない、と認識したからです。 ☆ という見方は 何を言おうとしているか? わたしに思われるのは 聖書があやまって人びとのあいだで読み解かれていること。ヘーゲルも誤解されていると思われること。――つまりは 《神》があやまって受け留められている。ようやくその神の信仰の世界の入り口に立とうとしたかも知れないが では何を言おうとしているのか? 何をどう実践しようとしているのか? けっきょく何も分からない。ということではないでしょうか? けっきょく どうなんでしょうか? 《神についての観念論》 これに対して人びとは抵抗した。ここまでの実態であるように思われます。 では 成果は 何か? どうなんでしょうねぇ。