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ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

 ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。

みんなの回答

回答No.2

ニーチェはヨーロッパの閉塞に思想面から革命を起こそうとしたと思えばいいんだよ。 テレパシーともいわれる伝心能力で私が精霊以外のむき出しの人間性に触れるとね、「おしゃべりな犬」としか言いようがない。 損得の取引のみが人間性でそれは日本にとっては文明開化における退化現象だ。 妖怪ウォッチのスタッフはもう10年来になるほど、おしゃべりな犬だよ。 おもちゃ専門家として妖怪ブームに言っておこう、ドラえもんやポケモン並みの永続性を標榜したら採算割れで企業として、金食い虫につぶされる結果になるだろう。 ニーチェに絡んで哲学の話に戻るけど、 ブチキレで喚き散らすくらい青臭いのは頼もしいんだよ。 永劫回帰はインドの哲学と比べたら完成度は低い。 ところで君は、頭で作った神と言って妄想扱いしているね。 いらない。 捨てる。 殺す。 考えてみな。 神が忠実に万人を助けるならば、妄想家に幽閉された、本物の神がやつらの頭の中でいいように拷問を受けているさまを。 私が悪魔の味方とはそういう意味もある。 人間はどうでもいい。 悪魔の浄化と聖霊への回復は、その人を不幸にする滅びの宴だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ニーチェは ダメ。だれが何と言おうと ダメ。  すべて断片から成り立っている。しかも 互いに矛盾する内容のことを言っている。  キリストについて アンチ・クリストの立ち場であり キリストをぼろくそに言っている。と思えば めろめろになってキリストに縋っている。  事例はもう省きますが ニーチェに限らず ひとつの大事なことは:  ☆☆ 11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  ☆ これでしょうね。  神について何かを言えば 神がその影響を受けるとでも思っている人間がいる。  だと思うよ 問題は。  ご回答をありがとう。  

  • ajj12
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.1

《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 」←死んだ人間にも関係あるだけです・・ と言うよりも 人間の本質は無形で永遠性のある心の方なのです・・ 物質の身体は その心を成長させる為に必要なもの・・ 神は 宇宙から微生物まで 全て二性性相で創られた・・

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 」←死んだ人間にも関係あるだけです・・  ☆ つまり そのくだり全体としては:  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  ~~~~~~~~~~~~~~~  つまり 《終末論――最後の審判――》というのは そういう物語として神のことを説明しようとしているのだけれど 神が大事なのは そのような物語を文字通りに捉えての死後においてではなく そうではなく あくまで生きているあいだの問題なのだと言おうとしています。  神は:  ★ 死んだ人間にも関係あるだけです・・  ☆ と言えるかも知れません。でも そういう問題について言おうとしているのではないわけです。  ご回答をありがとうございます。

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