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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神は ひとつである。)

神はひとつである

このQ&Aのポイント
  • 神はすべて全体としてひとつであり、人間にとっても同じひとつでないことのほうがおかしい。
  • 信じると考えるは別である。信じる神についての信仰にもとづいた定義や説明は有り得る。
  • 非思考の庭においていだかれる神が本当の神であり、思考の緑野や感性の原野に持たれる神は観念の神である。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

こんな話、確信さえ持っているくせして、あえて質問して人を愚弄するのもいいかげんにしたまえ。何度言ってもワカラン奴だ。外道が。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  学問というものが分かっていませんね。  わたしは 世界中の過去からの資料をぜんぶ当たることはようしていませんが 主題や課題を一つひとつ問い求めつつそのつどの結論をも できるならば 提出しておく。ということ。  そして もし常識や定説と異なる見解が得られたときには これを説明して広くしめす。  ですから 早く言えば 常識になっていないなら そのあたらしい説を常識になるまで問い続ける。これが ふつうの問い求めの姿勢です。  ★ 確信さえ持っているくせして  ☆ 確信をもってでないならば 常識をくつがえす説を提出するのは まだ憚られる。  キリストは イエスの示した見方によると 神の子でありみづからも神である存在です。  その神キリストが イエスなるふつうの人間にそのまま成ったというおとぎ話。  つまり イエスなる人間であると同時にキリストなる神でもある。そういう存在が 聖書では想定されています。  母マリアは 許婚のヨセフとの間にふつうのコイトスをつうじて産んだふつうの人間である子イエスの母であると同時に そのとき神なる聖霊によっても身ごもったという奇妙奇天烈な話です。  ふつうの人間は 神の霊――聖霊 つまりキリストも神の霊です――を分有すると言われています。イエスは キリストなる神の霊そのものであったという想定がなされたわけです。  要するに人びとは まだまだ 《アイドル》なる神――おままごとなのか おふざけなのか ただの無知なのか 商売のためなのか――を神とし続けています。何とかしなくちゃ 復興にはならない。めざめたまえ。

bragelonne
質問者

補足

 確信をもって賛同いただいているようで その点で 今回は敢えて BA にえらんでみました。

その他の回答 (9)

  • 0fool0
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回答No.11

その通りです。 ですので現象として現れるのは複数です。 その根源は一です。 何を神と呼ぶかは呼ぶ者の勝手です。 神は自身の名を人に告げない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぁ そうなのですが。  少し書き損ねましたが 山に降りる神と木に降りる神とあるいは磐座(つまり 石ないし岩ですね)を依り代として降りる神などなどがあると言いますから 現象は複数です。    つまりはけっきょく ひとつの根源なる神が そのように降りるということかも知れませんし。  あとは   ★ 何を神と呼ぶかは呼ぶ者の勝手です。  ☆ というかたちで 名が違っても おなじひとつの神である。この理論です。  共同とし得たかと思います。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.10

一つであるなら根源 複数とするなら現象

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  んーん。そうとも限らないようなのです。  ★ 一つであるなら根源  ☆ であるというのは 一般に妥当だと見なされるでしょう。そのとき  ★ 複数とするなら現象  ☆ であると つねに成るとは限らない。  つまり 複数の神々がいるとすると それは――なるほど現象として現われていると言えるのですが しかもそれでいて 根源にかかわる見方として―― 《ひとつの神の言わば 分身》であるという見方も出来るかと思われるからです。  つまりげんみつに言うとすれば 複数の神々というのは 根源のひとつの神につらなりつつ 現象としては すでに経験的なものごととして人間に見えている。こういった・あいまいなかたちとして捉える見方も それでも出来るかも知れないからです。どうでしょう。

回答No.9

懐かしくかつてを振り返れば、ペットを飼った経験がないのがあなたの欠点であると言った覚えがあるが、最近はコツをそれなりに憶えたようだね。 無い神、 コレを 語らぬ神、 とか、 人間が証拠そ示さずとも神はゆりがない絶対である。 とか何とか、 言い換えてみればペットはおとなしくなるんでないかい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   無い神、  コレを   語らぬ神、  とか、   人間が証拠そ示さずとも神はゆりがない絶対である。  とか何とか、言い換えてみれば・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この言いかえと言えば言いかえは 確かにそのように言いかえ得ますが それが どうしたという見方になりますか?  そう言いかえてみれば  ★ ペットはおとなしくなるんでないかい。  ☆ の意味が読み取れません。《ペット》とは何を言っているのか。これも 分かりません。

回答No.7

  > 《無いニュースは よきニュースである》というふうに言ったとしたら これは 不合理ですか? 無いニュースは 良きニュースであるは成り立つ。 しかし、無い妻は良き妻であるは成り立たない。 同様に、無い神は良き神であるも成り立たない。 1つの文が成り立てば、同じ文型の全てが成り立つのではない。 何故か分からんのか。 そんな簡単な事も分らず、無い神は有るなどとゆーのは単なるアホに過ぎん。  

bragelonne
質問者

お礼

 たこつぼ!  ご回答をありがとうございました。

回答No.6

>神について数を決めるというのは 便宜的な処置です。数量や有る無しを超えている存在(つまり 非存在)について 数がひとつであると仮りに表わしています。それは 名前の違う神も・そして無神論における無い神も みな互いにひとしいということを言うために 全体として神は ひとつである。と表現しています。 無い神は有る。 これは日本語として成立しない。 誰が聞いてもそー語る人間の精神を疑う 日本語どころかあらゆる言語において成立しない。 試しに「無い神は有る」を英文で表現できるか考えてみるが良い。 決して意味のある英文は作れないはずである。 何故なら「無い神は有る」はあらゆる意味において理性に反し、論理に反し、人間性に反するからである。 「無い神は有る」と主張したところで、そこには如何なる意味も思想も哲学も真理も無いのである。 このよーなことを平然と語る人間は既に精神が病んでいると結論する以外ありません。 あなたは精神が病んでいるのです。 単に何かにあがいているに過ぎない。 教会に入りたいが教会に入ることも出来ず、ただただその周りをうろついているのです。 まだ教会に入って皆と一緒に賛美歌でも歌ってるほーがマシでないのかい。 漬かりたいならただ漬かればえーんでないのかい。 悪いがもはやこーゆー以外ありません。    

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 非思考の庭  ☆ こう言ったときから 経験合理性を超えている。このことは 分かっています。  非合理なのです。理屈に合うか合わないかその判定を 人間によっては 確定させ得ないことを扱っています。ただそれだけのことです。  《無いニュースは よきニュースである》というふうに言ったとしたら これは 不合理ですか?    すまんが まだ哲学以前であるようです。十年くらいで何とかなるだろうか。

回答No.5

> (あ) 神は どんな名前の神を持って来ても・あるいは《無い神》を持って来ても すべて全体として ひとつである。 有る神も無い神も一つであるとは、神は存在しないに等しいと主張しているのである。   > (そ) したがって 《非思考の庭》においていだかれる神を イワシノアタマと名づけるなら それが 神である。イワシノアタマという言葉は ただの補助線に過ぎない。 イエス・キリストもイワシノアタマも神であり、神は一つならばイエス・キリストはイワシノアタマとなります。 実際には偽ることのないイワシノアタマのほーが、ペテンのイエス・キリストは真っ当な神かもしれません。  

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 有る神も無い神も一つであるとは、神は存在しないに等しいと主張しているのである。   ☆ (1) ねむりねこさんの回答No.2でやり取りしたように 神について数を決めるというのは 便宜的な処置です。数量や有る無しを超えている存在(つまり 非存在)について 数がひとつであると仮りに表わしています。それは 名前の違う神も・そして無神論における無い神も みな互いにひとしいということを言うために 全体として神は ひとつである。と表現しています。  (2) 言いかえると A さんは 自分のいだく神をブラフマンと呼び B さんは 同じくアルケーと呼んでいるとしますと それらの名づけの違いによって神の存在は 変わることはない。こう言おうとしています。  (3) つまりは A さんや B さんにとっては それぞれの主観内面において 神は――非存在なのですが 受け容れているというかたちにおいて――存在している。という表現でしめされたとしても マチガイではないと考えられます。  (4) 神は 経験世界を超える非経験の場として もともと非存在です。  ★ 存在しないにひとしい  ☆ というのは 《主張している》のではなく そうではなく 初めにそのように想定したということです。  経験事象としての因果関係から 神は自由であるという想定です。原因があったから これこれの結果が出るといった経験事象からまったく自由な非経験の場として 存在している。すなわち 非存在である。と想定したのです。    (5) なぜか?  それが 《絶対》ということだからです。《無限》ということだからです。昔から人びとがそれぞれの民族言語で《かみ》と言って来たものは もし意味があるとしたなら そういうものだ――すなわち 《非経験の場》のことだ――という答えを出した格好です。  (6) そのほかの神は 人間の作り上げた偶像か観念かである。という理論です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエス・キリストもイワシノアタマも神であり、神は一つならばイエス・キリストはイワシノアタマとなります。  実際には偽ることのないイワシノアタマのほーが、ペテンのイエス・キリストは真っ当な神かもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(7) イワシノアタマというのは わざわざ片仮名で書いたその理由としても ただのシルシだという意味です。上に説明して来た神のことを その人は 自分の好きなように自分のいだく神を イワシノアタマと名づけたということです。  (8) もしイワシノアタマを 実際の鰯の頭として持ち出すなら・そしてそれを神だと言い出すなら それは ただの偶像の神です。そのようにその人が神をつくったという意味です。  (9) もし鰯の頭についての何らかの概念――生物としてのいのちに関係するような概念などなど――を持ち出してそれを神だとするなら それは 思考の対象である意味内容=概念を 神としているからには これは 観念の神です。そのような思考や想像の産物であるしかない。  (10) 《イエス・キリスト》というのは 《ふつうの男であるイエスが 人間であると同時に 神の子でありみづからも神であるキリストでもある》という意味を持たせたものです。  (11) 神の想定および定義の仕方にもとづき 非経験の場として キリストなる名をその神に当てはめています。ここまでは キリストがイワシノアタマとそれぞれ互いにひとしい神の名であるというわけです。  (12) ただし イワシノアタマの場合と違うのは これを神とする人にとっては イワシノアタマなる神が 誰かひとりの人間と同じ存在になるということは ないわけで そこが違います。つまり 早い話としては イエス・キリストは いわゆるアラヒトガミのかたちを採っているということになります。  (13) キリストは それを神とする人びとにとって そこで特異な信仰のかたちにおいて持たれています。これは これも早い話が 神がただ単なる非経験の場であるという初めの想定だけにとどまっていないぞと言っているわけです。  (14) いわば――いわばです いわば――キリスト者は 人びともそれぞれ 神であるキリストを体験できますよ その人であるイエスのように 汲めども尽きぬ泉の水のごとく元気が湧き出て来ますよと言っています。  (15) イワシノアタマを神とする人にあっては その神を 霊として(つまり 何が何だかわけの分からないナゾのチカラとして)人間が分有するという理論(想定)であるわけです。つまり 早い話が 人間はだれもが ブッダター(仏性)を宿していると言っています。ただし そのイワシノアタマと名づけられた仏性が そのまま現われるか・いつどのように現われるか これは 分からないかたちになっています。  (16) キリスト者にあっても いつ・どのように現われるか分からないのですが その神の霊にしろ仏性にしろそのような水が湧き出てくるとは じつは 今度は 思い込んでいる。必ず湧き出てくると思っているというかたちになります。主観内面にとどまる思いとしては そこまでの中身がある。こういう違いです。(イエス・キリストというふうに類型としてアラヒトガミのかたちを採っていることによる違いは そんなところにあります)。  ★ 神は一つならばイエス・キリストはイワシノアタマとなります。  ☆(17) 神はその名が違えば その名で受け容れているその人に固有の神なのですから こういう見方は なじみません。キリストと呼ぶ神とイワシノアタマと呼ぶ神とは 互いにひとしい。このように捉えるのが 初めの想定にもとづく実際でありその説明です。  ★ 実際には偽ることのないイワシノアタマ  ☆(18) これは キリストなる神も まったく同じことです。神なのですから。  ★ ペテンのイエス・キリストは真っ当な神かもしれません。  ☆ (19) まづ ここからキリストは 神の名なのですから 除外しましょう。  (20) イエスという人間は ウソをつきました。たとえば 自分は神の子であると。そしてこのウソが ペテンになるかどうかは 物語の全体にもとづき何が言われているのか。そのウソによって 何が指し示されたのか? こういう問いを経て 決められることでしょう。  (21) 名がどんなであっても 神に《まっとうな神》と《まっとうでない神》とがあるというのは 初めの定義に反します。  (22) 神を騙った人間イエスには ペテンやインチキの疑義が生じている。こう捉えるべき問題でしょう。  (23) そのときには これこれのウソ・イツワリを語ったから それは ペテンになり詐欺をはたらいたのだ。そうではないか。うんぬん。というふうに主張を明らかにすることから 議論は始まります。ウソ・イツワリは そのままペテンでありインチキであると結論づけることは 短絡すぎます。  (24) このイエスのウソについては 次のように弁護しておきます。  【Q:キリスト史観】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8358412.html  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられ〔* そこから ウソの有効性が明らかにな〕る。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような弁護論に対して いや やはりイエスのウソは インチキであるという論陣を張って批判をのべるのが 哲学のつとめです。

  • edie
  • ベストアンサー率31% (156/502)
回答No.4

かなり難しく考えているようですね。 現実というのは、ただ目の前にあることだけが存在します。 この世は表裏一体。 「正しい」があれば「間違い」もある。 「あなたは正しい」という人があれば、「あなたは間違っている」という人もいる。 現実をありのままに見て、ありのままに受け入れる。 ただこれだけです。 妙な既成概念や固定観念は捨てることです。

bragelonne
質問者

お礼

 えでぃーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  まづわたしの考える《現実》は 次のようです。  ○ 人間にとっての《現実》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 人間存在= 自然本性(身と心)+ カザリ・シガラミ   ・ 一般に 心(精神)において 現実を捉える。   ・ 身(感性)において知覚したものをも 心で認識して概念として扱う。   ・ カザリやシガラミは 生まれたときにすでに過去の歴史としてある。  (い) 人間としての《現実》= 世界事実 + 主観真実(*)    * 主観真実= 事実認識 +ウソ(想像・虚構・思考・知恵)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   これは  ★ 現実をありのままに見て  ☆ 世界を表わしたものだと考えていますが それを  ★ ありのままに受け入れる。  ☆ ことに ただちには つながるとは考えていません。  その中の《ウソ》の領域に入ると見てもよいのですが 要するにさらには《人間が認識しようとして分かるか分からないかが分からないナゾの領域》が おそらく 想定されるものと考えています。  これは 《非経験の場》であり つうじょうこの経験世界において因果関係にもとづき推移するものごととは違って それらから自由な場のことです。因果関係を超えた領域です。  そしてその非経験の場を もしひとが心に受け容れたなら そのわが心には《非思考の庭》が成る。こう見ます。  (し) ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この非思考の庭――つまり信仰のことですが――においてひとは 神を受け容れている。こういう寸法です。  言うなれば 経験世界における有無や善悪や真偽を超えている場です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この世は表裏一体。  「正しい」があれば「間違い」もある。  「あなたは正しい」という人があれば、「あなたは間違っている」という人もいる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように把握される相対性の世界から自由な場が 想定されるという意味です。真偽を超えているのですから 人間はその場を思考によっては ついぞ分かりません。分かるか分からないかが分からないナゾの何ものかのことです。どうでしょう。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

B様。 「信教の自由」なんですね。 私は、落ち着きました。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ううん。そうなんですけど それは 大前提なのだとも思いますね。  その上で 信仰について・もしくはつまり神について さらに共通の理解を得ておこうというとき 神はみな同じである〔はずだ〕と見ようとしています。  そういう問いになっています。

回答No.2

こんにちは。 そうですね、と言うしかないです(ポリポリ)。 ですが、 ☆ (い) 人間にとって 神だという存在――または 非存在――が 同じひとつでないことのほうがおかしい。 ◇これは何とも微妙な問題のように思います。 ここでおっしゃている《非存在》は、「現象的な存在ではなく、かつ、認識や思考の対象にならない」もののことなのでしょう。 ですから、《非存在》を分けて考えることは、原理的にできない。同じである、一つと考えざるをえないのかもしれない。 しかし、だからと言って、一つと言えるのかとなると、「う~ん」となってしまいます。 「わからん」!! わたしは、おそらく、神は一つだとは思うのですが・・・。 観念の神や、教えの神、偶像・アイドル的な神は、星の数程あってもいいと思うのですが。これは人間が作った神ですのでね。 ☆(く) ということは この神についての定義や説明あるいはさらに神学であっても そのような文章表現やシルシなどはすべて 神を指し示そうとするための補助線である。 ◇でしょう。 補助線・手がかりだと思います。 ☆ (こ)  もしこの補助線としての説明書きを 神であると錯覚したなら それは 《思考や想像の産物》としての神が出来上がる。そのように人間がこしらえた神であるとなる。 ◇これをやってしまう。 幾何学の補助線は、定理などの証明のためにつかうものであって、証明が終わってしまうと、捨てられてしまうもの。 ですが、幾何学の問題では、この補助線を引けるかどうか、これが生死を分ける場合が多いのも事実。補助線を引けないと、解けない問題、証明できない定理が存在する。そして、この補助線の引き方が解法のパターンとして、金科玉条になったりする。受験数学では、《チャート》とか《鉄則》と呼ばれたりします(笑い)。 カタチ、形式にこだわってしまうですよ、人間は。 これがないと、不安になってしまう。 《チャート》や《鉄則》と呼ばれるもの、これを駆使して問題を解くことが数学であると勘違いしているヒトが、高校生や受験生に何と多いことか!! そして、こういうヒトの多くは、大学での数学ですぐに挫折してしまいます。 数学が嫌いになってしまいます。 治療困難な数学アレルギーを発症してしまいます。 ☆ (た) もし実際の鰯の頭を――ということは 感性や思考の対象となる事物としての魚であるものを――神としたなら それは 偶像としての神であり もしさらにこの鰯の頭を自分のあたまの中に想像し思い込み神としたなら それは 観念の神である。人間のつくった神である。 ◇ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ここでおっしゃている《非存在》は、「現象的な存在ではなく、かつ、認識や思考の対象にならない」もののことなのでしょう。  ☆ はい。おっしゃるとおりです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですから、《非存在》を分けて考えることは、原理的にできない。同じである、一つと考えざるをえないのかもしれない。  しかし、だからと言って、一つと言えるのかとなると、「う~ん」となってしまいます。  「わからん」!!  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ それは ごもっともだと思います。  非存在ないし非経験の場が どうして数量として数えることが出来るのか? という疑問だと思います。  つまり 何のことはなく この《非経験の場》を全体として――と言っても おかしな話なのですが それとして まとめて――《磁場のごとき場ないしチカラとそのハタラキ》だと仮りにすれば 全体として《ひとつ》と言うことに落ち着くのかと思っています。  ◇ 観念の神や、教えの神、偶像・アイドル的な神は、星の数程あってもいいと思うのですが。これは人間が作った神ですのでね。  ☆ そうですよね。つまり かんなび〔神な(ノ)霊〕山だとか磐座(いはくら)の石だとかは 神の降りて来る依り代として――そういう意味で補助線として――捉えられていますから まだおかしな神ではないはずです。つまりは 全体としてひとつの神の分身のようなものと捉えれば それほど不合理ではないと思われます。  ですが 純粋精神やら純粋意識やらの究極のものというのは どこまで行っても 明らかに《観念の神》です。あたまの中で もやもやしているだけのことです。  オシエも 同じくあたまの中でモヤモヤ・ワールドをかたちづくっているだけです。なのに 神としがたるようです。究極の愛だとか至高の慈愛だとか そういった観念――イデアと言うのかも知れません――を神としたがります。    十字架のイエス像や あるいは聖母と呼ばれるマリアの像が 偶像の神でありうることは 目に見えています。    アイドルなる神は どんなものがあるか? AKB ? 人によって いろいろでしょうね。  すべて 人間の思考や想像の産物としての神です。  ◇ 補助線を引けないと、解けない問題、証明できない定理が存在する。そして、この補助線の引き方が解法のパターンとして、金科玉条になったりする。受験数学では、《チャート》とか《鉄則》と呼ばれたりします(笑い)。  ☆ なるほど。答えよりも大事だったりして。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《チャート》や《鉄則》と呼ばれるもの、これを駆使して問題を解くことが数学であると勘違いしているヒトが、高校生や受験生に何と多いことか!!  そして、こういうヒトの多くは、大学での数学ですぐに挫折してしまいます。  数学が嫌いになってしまいます。  治療困難な数学アレルギーを発症してしまいます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  だとすると 神については 理性万能の思潮が影響していることもある反面で こういった受験数学におけるたいへんだった経験という羹に懲りてなますを吹く場合もあるのかも知れません。ヘンな経験を経て来ているのですね。  わたしは 能天気でして 大学へ入ったら 授業は試験の前でもなかなか勉強する気にならなくて困ったものでした。つまり 友だちやみんなは 卒業して就職試験で学業成績がものを言うと知っていて 優を集めるのに抜かりがなかったということを三年生になって知りました。  つまり 入学したあと受験勉強をいっさい振り払ったすがたに成ったのだと思います。これが あとあとになってよかった。こう思っています。  そういった学制についての質問を誰かしてみればよいかも知れません。

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