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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:どんな《神は死んだ》のか?)

神は死んだか?ニーチェの闘い

このQ&Aのポイント
  • 神とは何か?それはニーチェが問いかけた問いであり、《神の死》を宣言した。
  • ニーチェの闘いの対象は一九世紀の再キリスト教化であり、自身の生活形式と文化に抵抗した。
  • ニーチェは本当の神を見つけ、その死を告げることで人々の意識革命を起こそうとした。

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noname#195588
noname#195588
回答No.3

ニーチェは実はとても道徳的ではないのか? かつて、キリスト教は無神論と呼ばれた。 そして、人々は、一人の人間になった神を殺した。 人間が神を殺すと、どんな罪になるのか?は、さておき、 こうして、神はいなくなった。 神は人間になったのであって、、 人間を超えるというは、かつての神を超えることではないのか? ただニーチェの思想がおかしいと思うのは、 キリスト教の結果がニヒリズムであるなら、 積極的ニヒリズムはむしろキリスト教を評価しているのではないか? ということ・・・。 ニーチェが善悪的な宗教であるゾロアスターの名を 著書のタイトルに使ったのも謎になってくる。 自分の研究対象だった古代ギリシャでもなく、ショーペンハウアーの憧れたインドでもなく そのどちらとも争ったペルシャの人物を取り上げているのが・・・。 あと、プラトンがイデアの影といったり、インド哲学のマーヤーのヴェールのように この世界が幻影という考えに対して 大地を強調していたり…。 キリストは天に昇り、地上にはいない。 人間は神を殺した。 自分たちが殺しておいて、祈る道理はないのではないか? ひょっとして、ニーチェはキリスト教以後の世界を考えていたのではないか? 神が死んだといっているのは何を隠そうキリスト教なんだから。 それを受け入れて、その後の世界に必要なものは何か? それを考えていたのではないかな…。 わからない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  例によって質問者の考えをストレートに述べてご返礼とします。  ★ ニーチェは実はとても道徳的ではないのか?  ☆ つづくご議論でその具体的な意味内容を捉えて行かねばなりませんが それでもこういう説き起こしには――つまり逆説のひびきがあるようなときには―― まづやはり《道徳とは何か?》や《道徳的であることは よいことかどうなのか?》の定義や説明が要るようには思います。  たとえば  ▲ (ルカによる福音書 6:21) ~~~~~~  今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。  今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 或る種の見方でこれは道徳だと考えられます。  でもおそらくこの思想というのは 何も将来にどんでん返しが必ず起きますよと言っているわけではないでしょう。ましてや死後に天国に行けるというような気休めなのではなく そうではなく 《それでも ほこりを持ってこのいまを生きなさい》と励ましているということのはずです。《ふつうの人間であれ。生活を重んじよ》という当たり前の思想である。    すなわちもしそうではなく 文字通り将来に期するものがあるというようなことの・しかも思い込みに落ち入るのなら それこそただのルサンチマンでありそれを後生大事に反芻しつづけることになりかねません。  ルサンチマンを指摘しそれをいだき続ける生き方は 家畜であると言ったニーチェが では《実はとても道徳的である》のではないかとは どういうことか?(*1)  そういう道徳をあらたに説いたのか? という問いがつづきます。  ★ ~~~~~  人々は、一人の人間になった神を殺した。  ・・・  こうして、神はいなくなった。  ~~~~~~  ☆ これは 趣旨説明欄に書いたような《観念としていだかれている神 つまり観念としての思い込み》をころしたというのではなく そうではなく 生身の人間をひとり殺したという事態を言っているのですね。  《神の子を意味する〈ことば〉が肉となった》の主題について詳しく見てみなければならないでしょうが さしづめここでは このように《肉となった神》が殺され   ★ こうして、神はいなくなった。  ☆ と捉えるその見方じたいについて 考えてみます。  なぜなら 聖書記者たちは その殺された神が《復活して現われた》と――ともかく――表現しているからにはです。(*2)  すなわち  ★ ~~~~~  神は人間になったのであって、、  人間を超えるというは、かつての神を超えることではないのか?  ~~~~~~  ☆ という推論の筋は ほんとうに《神はいなくなった》し再び現われることもなかったという前提での話になりますから。  つまりニーチェが キリストのおしえはすべていじめられた家畜が胸にいだくかに思われるような不平不満をブツブツ沸き立たせるようなルサンチマンに発するものであって それらはプラトンの気高き理念を宿すイデアの世俗的な二番煎じであるに過ぎないと捉えてまづ聖書記者たちの伝えようとした内容をしりぞけ そのあとそれでも あたかもそこにしるされた《肉と成った神》をモデルとしてのごとくそれに取って代わるものとして《超人》を持ち出して来て据えた。  こう言うのでしたら・仮りにこうでしたら 《世俗版のルサンチマン物語》にも何がしかの意味がありチカラをももたらしたというような評価をあたえているとさえ受け取られます。(*3)  あるいはつまり それにもかかわらず プラトンないしソクラテスの思想は――その光り輝く理知主義がでしょうか―― ニーチェのしりぞけるところである。こうも思われます。  ではいったいニーチェはたとえばこの《超人》で何を言おうとしているのか? 何を――神やイデアをも超えて――見ようとしているのか? 何が見えたというのか?  永劫回帰を持ち出したとするなら 将来や果ては死後の世界にのぞみをつなぐのではなく そうではなく 初めも終わりも両方とも無いとする時間にけっきょくのぞみを寄せなさいと言っているのでしょうか? つねに それでもまだまだだから のぞみをつなげということでしょうか?   《同じ時間 同じ情況が繰り返しやって来る》のだから のぞみは消えないし消してはならないとでも言うのであろうか?  そのためにこそ《チカラへの意志》があってそれは あたかも宇宙の主宰神たるブラフマンの息吹きのごとく神秘的に神の霊としても そしてまた人間たるわたしの持てるチカラがあたかも宇宙と同じように呼吸すると言えるかのようなその意志としても つとめ続けなさいと言いたいのか?  でも どうでしょう? この解釈に従うにしても それらはすべて実にかんたんに分かるように やはり二番煎じなのではないか?  たとえば梵我一如のもとに霊我なるアートマンを説く思想の単なるコピーに過ぎないのではないか?(*4)  ブラフマンやアートマンを否定するから――否定しつつ けっきょくアートマンにそのまま対応するブッダター(仏性)をのちにでも説くに到るから―― ややこしいのであって 世界観の成り立ちは 類型としては同じであると 素直にみとめなくてはいけない。  《超人》のあたらしさは 何か? 独創性はどこにあるのか?(*5) 一向に分からない。と言うより そんなものはない。と もしニーチェは阿呆でなかったなら 分かったはずだ。ゴータマ・ブッダとて 同じである。  強情をつらぬいたのか。(*6) それとも 何も知らなかった――《死ぬことのない神》を何も知らなかった――のか?       --------  (*1)ニーチェにおける《道徳》:善悪の彼岸を言う《道徳》ないし思想が 次のような側面をも持っていたようである。ツァラトゥシュトラのオシエは 善悪二元論を内にふくむ一元論であるらしい。    ★ ~~~~~~    ニーチェが善悪的な宗教であるゾロアスターの名を    著書のタイトルに使ったのも謎になってくる。    ~~~~~~~  (*2)キリスト・イエスの《復活》?:次の議論について ( a )キリストは実際に死を死んだ それはどういうことか? ( b ) 殺した者たちが殺されていわば生け贄になった者をその死後に聖化して崇めるようになりいつまでもオシエの源泉であると言わんばかりにいわゆる《宗教》とするそのカラクリは? の二つの主題として 補足欄で考えます。    ★ ~~~~    キリストは天に昇り、地上にはいない。    人間は神を殺した。    自分たちが殺しておいて、祈る道理はないのではないか?    ~~~~~~~  (*3)《世俗版のルサンチマン物語》にも何がしかの意味がありチカラをももたらしたというような評価をあたえているとさえ受け取られます。:この見方は 次の見解とどう同じでどう違うか?      ★ ~~~~~    ただニーチェの思想がおかしいと思うのは、    キリスト教の結果がニヒリズムであるなら、    積極的ニヒリズムはむしろキリスト教を評価しているのではないか?    ということ・・・。    ~~~~~~~~  (*4)梵我一如の思想のコピーではないのか:★ 《ショーペンハウアーの憧れたインド》――☆ というときの《ショーペンハウアー》は どうなんでしょう? どう言っているのでしょう?  (*5)《超人》のあたらしさは 何か? 独創性はどこにあるのか:次のように超人を《大地》と言い直すのは おそらくキリスト・イエスの《生活を大事にせよ》に通じるのであろうか どうであろうか?    ★ ~~~~~~    あと、プラトンがイデアの影といったり、    インド哲学のマーヤーのヴェールのように    この世界が幻影という考えに対して    大地を強調していたり…。    ~~~~~~~~~  (*6)強情をつらぬいたのか:ならば 何らかの思想が――まだかたちを見せずに――芽をふきかけていたと解される。次のような推測として。    ★ ~~~~~    ひょっとして、ニーチェはキリスト教以後の世界を考えていたのではないか?    神が死んだといっているのは何を隠そうキリスト教なんだから。    それを受け入れて、その後の世界に必要なものは何か?    それを考えていたのではないかな…。    わからない。    ~~~~~~~~    これは 註(*2)の( a )( b )の二つの主題に絡ませて考えます。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の議論――そこでの註(*2)――を承けて 次の二つの主題について考えます。    ( a ) キリスト・イエスは なぜ死んだか? 復活とは何か?  ( b ) イエスをころした人びとがどうしてその死後かれをキリストとしてたてまつるのか?   ここでは( b )を《第三項(犠牲)排除の理論》の紹介において捉えます。( a )は 回答No.2の補足欄に継ぎます。  これは 自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  特定のひとりを犠牲として扱い――それが第三項ということですが これを――排除するというナラワシについて 今村仁司は『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)において理論づけました。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて ささやかな批判をも添えて しるします。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると見られる。  簡単に言うならば 集団の中の一人を例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から追い求めて行く傾向をも持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現すると考えたらしい言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり《秩​序》を楽しむことが出来るというのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行》​現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れるであろうと。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度はぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みとして​。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは崇めるようになるのだと。  したがって今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。それによって人びとは安心するということらしい。  (菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかも左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられたという。そういうからくりであるらしい。)    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。からである。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  一たん聖化され人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり その勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに排除の戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に 戦争に飛びつくことができる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作っていることになって​いる。  だから 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  § 10 イエス・キリストの聖化は 制度化して固まっている側面がある  けれどもその宗教は 個人の信仰の原点にまでさかのぼって その要素要因としてまもり保つべきは保ち あとは要らないシキタリやオシエは 解体するにまかせればよい。  No.2の補足欄に継ぎます。

その他の回答 (29)

noname#195588
noname#195588
回答No.30

連続投稿すみません。 間違ってはいないと思います。 墓場から死体の服を取ってきて つなぎ合せて着ていた集団という時点で 仏教は倫理規範などないようなものですから。 反社会的もいいところだと思う。 どうしてこういった人々がやがて尊敬されるようになったのか 謎です。

bragelonne
質問者

お礼

 探究の進展を期待します。

noname#195588
noname#195588
回答No.29

今回の回答は 私の仏教の調べ方には 律と戒の視点が欠けていたのではないか? ということです。 私の中で、 せっかく時間をかけて調べたのに もはや悟りとは何かわからないなら では結局、仏教とはなんなの? という、思いになったので まあ、何の戒律を守るかで 他の宗教と区別できたのではないか? と考えたのでした。 たとえば、ヴェーダの祭祀のために 動物を犠牲にすることを仏教が批判したなら まあ、そういうのが仏教の特徴として残るのかな、と。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  おそらく個人の信仰あるいは哲学にとって 戒律ないし倫理規範やその他の儀式は 何の意味もない。こう考えますが まちがっていましょうか?

noname#195588
noname#195588
回答No.28

法蔵部の興亡 [編集] 知られている限り最も古い仏教経典であるガンダーラ語経典は、明らかに法蔵部の学師に捧げられたものである。ガンダーラ語経典はガンダーラ語を聖なる言語として用いつつ1世紀頃の西北インドにおける法蔵部の隆盛を証するものであり、さらに中央アジア・北東アジアへの法蔵部の影響を明らかにしている。仏教学者アンソニー・ケネディ・ウォーダーによれば、法蔵部はアパランタ(英語版)で生まれたという[11]。 法蔵部はギリシア人の仏僧によって始められたと長い間学者たちによって主張されてきた: 主な宣教師の一人にヨナカ・ダンマラッキタがいる。彼は名前に表されているようにギリシア人の僧侶で(「ヨナ」は「イオニア」に由来する)、「アレサンダ」(アレクサンドリア)の出身であった。彼は神通力の大家であると同時にアビダルマの専門家としてパーリ語圏仏教で大きな役割を果たした。彼はインド西部のギリシア人が占める地域へ行った。かつてプシルスキはフラウヴァルナーに倣って、ダンマラッキタ(dhammarakkhita)はダンマグッタ(dhammagutta、法蔵部)と同義であるから彼が法蔵部の創始者だと主張した[12]。これ以降、この主張を非常にもっともらしいものとする二つの根拠が明るみに出た。一つは法蔵部に属するごく初期の写本で確かにヨナカ・ダンマッキタが見いだせるという肯定的な証明である。もう一つは、善見律毘婆沙(Sudassanavinayavibhāsā)において彼の名前が提出されることで「Dhammarakkhita」よりもむしろ明らかに「Dharmagutta」が提示されている[2]。 ある研究者によれば、ガンダーラ経典によって与えられる証拠によって「法蔵部は初期の成功をガンダーラのインド・スキタイ人に負っており、説一切有部のパトロンとなったクシャナ朝(1世紀半ば-3世紀)の興隆によって結果的に衰えたと主張される」という[13]。 法蔵部の律は5世紀初期に仏陀耶舎によって漢訳され、その後中国の出家信徒の間で支配的な律となった。しかし玄奘は、7世紀にアジアを旅した際に法蔵部がインド・中央アジアではほぼ完全に滅びていたと記録している[要出典]。法蔵部は烏萇國(英語版)や中央アジアには存在していたが、インド本土にはもはや残っていなかったと7世紀に玄奘と義浄が記録している[14]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%94%B5%E9%83%A8 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Gandhāran Buddhist texts http://en.wikipedia.org/wiki/Gandh%C4%81ran_Buddhist_Texts ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Gāndhārī language http://en.wikipedia.org/wiki/G%C4%81ndh%C4%81r%C4%AB_language ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ The Gāndhārī Dharmapada http://titus.uni-frankfurt.de/texte/etcs/ind/mind/gandhpkt/dhpgpkt/dhpgp.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私の仏教の調べ方は律と戒、ヴィナヤとシーラについての視点が欠けているなあ、と あちこち検索していたら、ガンダーラ語というのがでてきたので なんだろう、これは?ということで書き込みます。 しかも、ギリシア人の仏僧とは一体なんなのでしょう。 ギリシア人の仏教徒がいたのでしょうか? それから、wikipediaの法蔵部の項目を読むと書いてありましたが、 ゴータマ・ブッダが阿羅漢より上というのは、法蔵部の解釈なんですかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 教義の発展 [編集] ガウタマ・ブッダの教説が阿羅漢のものより優れているという点でガウタマ・ブッダをサンガと区別するという理解が法蔵部の教義の特徴と考えられてきた。また、法蔵部では卒塔婆に帰依することの利点が強調される。ジャータカに見られるように、卒塔婆はしばしばブッダの菩薩としての前世の中で絵画的に表現された。その結果として法蔵部では、菩薩道(bodhisattvayāna)と声聞道(śrāvakayāna)がはっきりと区別して捉えられた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%94%B5%E9%83%A8 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 榎本先生公開講演会(02.2.16)抄録「アフガン仏典」 http://www.let.osaka-u.ac.jp/indology/Blb.htm

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  何を捉えようとしていましょうか?  何を言おうとしていましょうか?  《さとり》とは何かが分からないのに どうして《阿羅漢より上》だとか下だとかが言えましょう?

noname#195588
noname#195588
回答No.27

勉強のためにもしばらく、休みたいのだけれどなあ。 神について久しぶりに考える。 インド神話には、ヴァルナという法の神がいる。 そういう意味では、神=法。 仏教の法はダルマなので、ヴァルナとダルマで何が違うか 気になるところ。 で、神という漢字は漢和辞典を引いたら 示すと、いなびかりを示す、申からできているそうで、 神という漢字からは、稲妻のことだし、 示し申すと考えれば言葉が神になるだろう。 私として日本で神の単位は、柱だから むしろ、柱が何なのか気になる。 人柱とか。 それで、旧約聖書では アドナイ・エロヒームというのが主なる神と訳されている。 エロヒームはエルの複数形。 だから、エルが本来はヘブライ語とかで、どういう意味なのかが気になる。 エルを神と訳しても訳したことになってない。 アドナイのほうは、おそらく、 ヘブライ語でアドンというのが主とか主人だから アドナイは、私の主人という意味になると思う。どうだろう? でもどうやら、アドニイが私の主人になるらしい。 違っていたらすみません。 もし、アドン=主人が神格化したものなら 神は人間ということになる。人間を神格化したのが神になる。 アドナイという言葉がいつから使われたのかはわからないが、 人々に階級ができて身分ができてからの概念だと考えられる。 旧約聖書の成立が王制以前からのものなら アドンは王を神格化したものではない。 それから、ヤハウエについては 私はある、もしくは、私はなる。という意味だそうだ。 これは抽象的であるし、自然のことではない。 聖書に啓示された神の御名 http://www31.ocn.ne.jp/~fellowship/kaminomina.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 創世記のメルキゼデクのところにでてくる エル・エルヨーン(いと高き神)について調べようと 検索したら上のサイトがヒットしました。 結構、いろんな呼ばれ方をしていますね。 そのサイトによると、エルは力ある者の意味だそうです。 出典が気になる。 すると、権力者とかそういうのを神格化したんでしょうかね。 ところで、人間を神格化したのが神という表現がなんだかおかしい気がする。 でも、ここでイデア論。 神のイデアは、あるのだろうか? なぜ、自然でも動物でも人間でも抽象概念を神格化したにせよ それを神だとわかるのだろうか? よく、人間が神をつくったという批判があるけれど では一体、神をつくるとはどういうことなのだろう。 知らないものを、つくれるのだろうか? 神格化とはなんでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ヤフヱーについては いくらか調べたことがありますが 必ずしもはっきりした説明がついていないように思います。  YHWH にアドナイの母音をあてはめて ィエホワー( Jehovah )と読んだという説明にしても 分かりにくいものがあります。アドナイの母音は 単純に言って a-o-a ですが エホワは e-o-a です。語頭の Y には 母音の a はつかず e に替わるという説明も見ますが よく分かりません。  《生きる》という意味の√HYH もしくは√HWH の活用形であろうとは考えられるようです。(子音の Y と W とは 互いに交替しうるようです。発音上そうなるようです)。  ですが √HYH の不完了(現在存続)形は--ふつうの意志行為を表わすパアル形において――   自称(一人称):eHYeH   他称(三人称):yiHYeH  なんですよね。yaHYeH にはならない。  それで 使役形の活用が考えられます。  使役形には ふたつあります。そのうちもっぱらの使役形としてのヒフイル形が定まらないようなのです。   ピエル形(他称活用):yeHaYYeh   ヒフイル形(同上): yaHYih / yaHiih ( Y が落ちる) / yaHYeH  ヒフイルの三つ目の活用形なら――√HWH の場合の yaHWeH という形に照らし合わせて―― じゅうぶんよいと思うのですが そういう説明を 精確に定説として読んだことがないのです。むしろ《そうであればよいのだが 活用形として特殊になる》という理由で採らないというふうな説明が多かったのです。つまりそれが なぜ《特殊》なのかについての説明はまだ読んだことがありません。  ヒフイル形の yaHYeH / YaHWeH ならば 《 He makes 〔 someone / something〕be. / かれは 〔何々を〕生きせしめる。あらしめる。》という意味になると思います。  ▲ (詩編2:7) ~~~~~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Psa&c=2&v=7&t=KJV#conc/7  ○ Psa 2:7 I will declare the decree: the LORD hath said unto me, Thou [art] my Son; this day have I begotten thee.  ○ わたしは主(YAHWEH)の詔(ホーク)をのべよう。主(エロィ)はわたしに言われた、「おまえはわたしの子(ベニィ)だ。きょう、わたしはおまえを生んだ(√YLD)。  ○   אֲסַפְּרָה אֶֽל חֹק יְֽהוָה אָמַר אֵלַי בְּנִי אַתָּה אֲנִי הַיֹּום יְלִדְתִּֽיך    ○ διαγγέλλων τὸ πρόσταγμα κυρίου  κύριος εἶπεν πρός με  υἱός μου εἶ σύ  ἐγὼ σήμερον γεγέννηκά σε  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《生んだ。(子どもとした)。ゲゲンネーカ(ゲネシスと同じ語根)》。つまり 《あらしめる者(ヤフヱー)が きょうわたしを あらしめた》のような。       *  ★ ~~~~  そのサイトによると、エルは力ある者の意味だそうです。  出典が気になる。  ~~~~~~  ☆ そう簡単に語源辞典が見られるようではないみたいです。  それ以外は 次のようにまとめられます。    ○ エル(√’L: ′ は ア行の子音):神     ・《わが神》のエリィとエロィとの違いは ヘブル語とアラム語の違いか?  ○ 一般的な三子音形として H が添えられる。   √’LH:ヘブル語で エローアハ('eLooHa )(アラビア語で イラーハ 'iLaaH )   その複数形:エローヒーム( 'eLooHiim )(アーリハ 'aaLiHat )  ○ アッラーフ: allaah < al-ilaah アル‐イラーフ  < al-'iLaaH  ○ 定冠詞は セム語として ハル( hal )だったと思われます。    (ヘブル語 ) hal-'eLooHiim > haa-'eLooHiim    (アラビア語) hal-'iLaah > al-'iLaaH > alLaaH      *  ★ ~~~~~  よく、人間が神をつくったという批判があるけれど  では一体、神をつくるとはどういうことなのだろう。  知らないものを、つくれるのだろうか?  神格化とはなんでしょう?  ~~~~~~  ☆ 《かみ》が一定の言葉として定着しその用法もナラワシとして落ち着いたあとでは 《神格化》は その言語習慣にしたがって《〔人や動物や自然現象を〕神とあがめ 神とあおぐ》ようになったと考えられます。  ☆☆(【Q:ニーチェとカントの出会い って?】No.7お礼欄) ~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7919072.html  大野晋によると 日本語の《かみ(神)》は文献〔あるいは民俗学等々〕で分かる限りでは 次のような意味を持ったと言います。  ○ かみの原義 ~~~~~~~   1. カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。   2. カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。   3. カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。   4. カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。〔産土(うぶすな)神・山つ霊(み)・海(わた)つ霊〕   5. カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。   6. カミはいろいろと人格化して現われる。〔明(あき)つ神・現人(あらひと)神〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《神格化》がおこなわれる前には どのようにこの語が生成して来たのか? なかなか分からないでしょうね。  自然現象やあるいはたまに人間の行為や社会の事象として《かみわざ》と思うようなことがあるかも知れません。それは 別に人間がつくったものではないでしょうね。  問題は これら自然および社会といった経験世界のさらにそれを超えた場を思い浮かべて そこに神を位置づけたとき それは何を意味するのか? であるかも知れません。  ただしひとつ言えることは そのような不思議なナゾの場というのは 人間が作ったのではなく 必然的に《絶対》として――《要請》されるというのでしょうか――想定されてくるのだとも思います。  つまり この絶対としての神は 《無い》と言ってもよいのですが それは《絶対》の場ですから 《無い》としてやはり想定されている。ことに変わりない。というからくりになっています。そのような位置づけになることが 人間の存在する条件として避けられないものと思います。  ★ ~~~~  インド神話には、ヴァルナという法の神がいる。  そういう意味では、神=法。  ~~~~~~  ☆ これは 《絶対》という想定から 概念の内容として帰結することだと思います。  ただし 《法》は やはり人間が認識し得ないことを言おうとしているかとも考えられます。なぜなら 認識しうる法なら 人間が変えることさえ出来ると思われるからです。  ★ イデア  ☆ もけっきょく《絶対》から派生したというふうに――事実がどうかではなく――考えられます。それが内容として分かったなら 人間の想像力と思考の中におさまります。分からないけれども つながりがある。というふうに 説明することになるのでしょう。    整理するための覚え書きとしてでした。

noname#195588
noname#195588
回答No.26

すみません。 ヘーゲルに興味があるのであれば 新しく質問をたてて、他の方から回答してもらってください。 私にはヘーゲルは難解で意味不明なので、 さっさとさじを投げます。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。  それは 仕方がありません。  また主題や論点をどうぞ。

noname#195588
noname#195588
回答No.25

やっぱり、思いついたことを 間違っていてもいいから書いたほうが良かったでしょうかね。 イデアの探求と、神が人間になった この二つを並べてみたら、 なんかヘーゲルの弁証法みたいだな、と思ったのです。 ちょうど、ブラジュロンヌさんの質問文に ナポレオンも登場していましたから。 聖霊=ガイスト=精神。 天と地を精神が動き続ける。 勝っても負けても、戦い続ければ世界は自由になるという なんて物騒な哲学。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううん。どうなんでしょうね。  つまり  ★ 聖霊=ガイスト=精神。  ☆ この等式は 言葉として成り立つものだと思うからです。まづは そう捉えざるを得ないと考えるからです。  つまり 《聖霊 ないし 神》はあくまで仮りに想定したものであるからには・つまり非経験の場であるからには 人間なりその精神なりという経験世界における事象とは 基本的なへだたりがある。まづこう見なくてはならないと思うからです。  しかもそのあと――上の想定と前提を確認したあとでは―― 経験世界を超えた《非経験の場》は 絶対ということであるゆえに 経験世界を超えていつつ しかも経験世界に言わば介入してもおかしくありません。  ニュートリノのごとく突き抜けて来るにしろ 昔のエーテルのごとく覆い包むにしろ あるいはスピノザの《神即自然》というごとくにしろ その聖霊なる神が――基本的には非在としてながら――遍在するという帰結をも人間は持つようなのです。   一切衆生悉有仏性  とも言うごとくであるようです。  つまり そういう二次的な局面においてなら  ○ 聖霊≒ガイスト≒精神。  というようにも世界は捉えられるかも知れません。  ★ 天と地を精神が動き続ける。  ☆ これは どうでしょう? おそらく人間も その想像力にあっては 精神が縦横無尽に旋回するかのように 《天と地を動きまわる》こともありうるのかも知れません。  《イデア》というのは この経験世界に生きる生身の人間には――忘れてしまっているから―― 分からない。けれども 想起し得たり 忘却の河をさかのぼったなら つながっているのかも知れないとなると 自由自在に精神の旋回が成され得るのでしょうか。どうでしょうか?  ★ 神が人間になった  ☆ これはですね。ひとつに 神が人間の想定するものであるだけではなく――《非経験の場》として《人間の能力によっては 分かるか分からないかが分からないナゾのもの》として想定されるのですが それだけではなく―― その神が 肉となったという別の想定をもおこなった結果の神学的命題です。    それはもう観想に属し 早く言えば おとぎ話です。  そしてこれは イエスがそのように神が肉となった《同時にヒトであり神である存在》という仮設のもとに その十字架上の死のありさまについて――これは 哲学として――思いめぐらす問題としてあります。  神であったにもかかわらず 神の子ならその十字架から降りて来いというナジリをユダヤ人たちから受けても 人間でありつづけた。なぜなら もし降りて行ったら それは神だから出来たのだと人びとは思って 死や冤罪に向き合うときの態度が 人間には限界があると見て早々とあきらめることが起きる。  人間以前の状態にある人間という問題あるいは すでに人間を放棄してしまった状態にある人間という課題 これらをすでにあきらめるということが起きます。  だから 人間として そのはりつけという盃は飲むこととし その態度は変えなかった。しかも 生前イエスは 自分が神の子であると言っていた。つまりは 人間の能力と努力によってそのかがやかしい行ないを成し遂げるという限界を超えて 神のチカラのハタラキが――汲んでも尽きない泉の水のごとく――われわれ人間の内に湧き出るのだと言おうとした。  そういう元気づけをおこなった。これは 死を超えての復活という受け取り方にまで――人間の側では――発展した。そのように展開した命題は まだその行方は分からない。ただのインチキかも知れないし あるいはそれとも ヒトのいのちに何か突然変異が起きるというのか まだ分からない。  ヒトが種として変わるのであるかも知れないし ただ寿命が延びるというに過ぎないのかも分からない。  すなわち もし《神が肉となった》という二次的な派生する命題を前提としないならば 人間は依然として その人間の持つチカラによって生き続けているということになります。とうぜんですが。  この上のない愛だとか無縁慈悲だとかと言うばあい 先ほどの《精神の自由自在な旋回をつうじての想像力および思考の最大限の発揮》としてまたそのように精神ないし人間のチカラの発揮としてのみ 捉えるということになります。  つまり早い話が 完全な無差別平等の愛や慈悲は 三角(三人)関係が正三角形のごとく幾何学的な自由平等の姿を想い描くことは出来ても その実践は無理だというのが 経験合理性のみちびき出す答えです。ワタシが二人を相手とするなら おのづからそこに順序があるからです。  ところが ブッダターが人にやどりこれがハタラキを持つとなるなら 奇蹟なる愛も 人間の意志行為として起こりうる。ということにもなります。  そこらへんの問題が イエス・キリストの投じた主題ではないでしょうか?  人間イエスは神の子でありみづからも神であるキリストだという神学的命題。これが どこまで――特には哲学として・経験事象として――伸びを持つか?    考えてみれば この《イエスはキリストである》という仮設がないならば――そしてはりつけに遭って死を死ぬという事件がなかったならば―― おそらく《ブッダターないし無縁慈悲》という同じく想定も まだまだ空想の域を出なかったのではないか?  あるいはつまり 聖霊とも言うべきブラフマンなる神が 人間の霊我とも言うべきアートマンと一体であるという仮設がなかったならば ブッダターもまだなおどこかを彷徨っていたかも知れず 実践しうるとも見られなかった。言いかえると わづかな数のブッダと呼ばれる人においてのみ実現されうるというような・きわめて悠長でしかも貴種を差別して(凡種を被差別の位置におき)人をあざむくようなオシエしか持てなかった。のではないか?  極楽浄土にアミターバ・ブッダを捉えるというような・《精神の旋回》をして得た仮設 これも 想像力と思考の問題にしか過ぎずしかもそこには限界があると見られたことでしょう。さもなければ 思い込みにしか過ぎなくなる。はずです。  ところが 肉となった神の子が 十字架上に死を死んだというウワサが流れたあとは 人びとは無縁慈悲なり人間の至高の愛なりを 現実のものと見なければならないかも知れないと 考え始めた。  という問題が河の底を流れる水となって 現代人にまで受け継がれて来ているのではないか?  この主題をヘーゲルは どう捉えたでしょう? どう言っていますか?  《世界精神》は 《ロゴスとそれの肉化》とどう同じでどう違うでしょう?  

noname#195588
noname#195588
回答No.24

今回は、遊びで回答します。 なにしろ私の生半可な知識では、あの哲学者に言及することはできませんから。 まずはヤコブの梯子 28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている 次はシェイクスピア 「この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ」『ハムレット』

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ヤコブの梯子  ☆ これについては 前回の《ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理》をごらんください。  むろん 解釈がひとつに限るということではありませんが その《天使の梯子》は あたかも《ロゴス》の階層――ヒラメキとしての――であるかのごとくにも捉えられますから。  次のように 《天使》という項目を添えた図式をあらためてかかげます。  ○ 世界におけるヒラメキの位置づけ:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~  (――または ロゴスの階層――)   (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 次のふたつのロゴスのあいだに ヒラメキは起こります。   ・ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ・ インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ  《スピリトゥス=ロゴス(α):神》が 《真理》です。人間には分かりません。非経験の場としてそれが想定されるというかたちであり 仮りにこの《神》という言葉があるかぎりで人がこれを心に受け容れたとするとき そこには《非思考の庭》が成ります。という説明で 《信じる》という人間の――これは経験的な――行為を捉えるわけです。  ★ 次はシェイクスピア  ☆ についても――ほかの解釈の余地をのこしつつ―― とりあえず上の見方があてはまるものと思いますが どうでしょう?

noname#195588
noname#195588
回答No.23

今回は混乱して雑多な内容ですみません。 まとまりがありません。 そういえば、 カントの物自体というのがあるのですね。 物自体とイデアはどういう関係かはわかりませんが 物自体はわからないなら、 悟りそのものはわからないのではないでしょうか? 現象しか認識できない? 詩と狂気 哲学=愛知と理性 詩と狂気の関係は調べ中。 インスピレーションのことでしょうかね。 文芸と哲学=知を愛することは違う パウロの狂気というか コリントの信徒への手紙一 4.10 「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。」 ところで、 なんだか何度も回答しているうちに疑問に思ったのですが ニーチェのキリスト教批判はなんだかおかしくありませんか? まだどこがどうおかしいといえませんが。 ニーチェの批判したキリスト教は カトリックとプロテスタントのどちらなんでしょうか? それにキリスト教の何を批判したのでしょう? というのも プラトンの「この世界はイデアの影である」という考えは キリスト教の「神が人間になった」と反対であるような気がします。 新プラトン主義のプロティノスはキリスト教を 「神が人間の方へ降りてくることはない」と批判していたようですし、 プロティノス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%82%B9 カトリックが芸術を重視したことを考えると なんだか疑問がでてきました。 キリスト教とプラトン主義の共通点に私は関心があったけど、 実はかなり、違うのではないでしょうか? キリスト教とプラトン主義の差異を強調していくと ニーチェの批判も、だから何だ。 という話になるのかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ぜんぶそれぞれおもしろい主題であり論点であると思います。  そう簡単に済ませ得ないとすれば 保留するというかたちを採りましょう。  中で随意に印象などを述べます。  1. まづ注意すべきこととしては いわゆる宗教としての《キリスト教》と個人にとっての聖書にもとづくキリスト信仰とは 似ても似つかないものです。     1‐2 どちらもアブラハムを 信仰のひととして 受け留めているはずですが キリスト信仰は アブラハムのように神とおのれとの直接のかかわりがすべてです。  1‐3 キリスト教は 神とおのれとのかかわりの間に 聖書の文句や教会組織の公式・非公式のオシエなどが割って入ることがしばしばです。  1‐4 キリスト教を――聖書にもモーセの《律法》が書かれているからにはなのでしょうか ユダヤイズムのごとくその倫理規範にしたがうという《主観内面における信仰の外化としてのナラワシ化》の系譜において―― けっきょく《道徳》だと見なす見方もあらわれるようです。それは次のごとく ニーチェが批判しようとした事態なのでしょう。  2. ニーチェは むろん《キリスト教》の世俗的なとは言わずふつうのと言うことにしてもその社会慣習あるいは延いては文明としての所謂る宗教色――思考停止や規範をめぐる思い込みを相手にも押しつけることなど――をきらったのだと思われます。    2‐1 しかも 聖書にもとづくキリスト信仰のことを知らなかったようであり 信仰とはそもそも何であるかも知ろうとしなかったと思われます。  (信仰とは何か? については つづく第8項における定理を参照ください)。  2‐2 代替案は用意したようで 《超人》と《大地》だとすれば それらはそれぞれちょうど超自然と自然そのものであるというような意味合いがあるとすれば けっきょくディオニュソス流に何でもかでも 持ち出し持ち込もうとしたのではないか?  3 プラトンのイデアは 図式として ひとりの人アブラハムにおける《神とおのれとのかかわり》における神に相当するように 見えます。人間の言葉による表現は――神を指し示すのに限界を持つからには―― ほとんど同じようであるとさえ見えるところがあります。  3‐1 ▲(アウグスティヌス:プラトン学派について) ~~~~  今は次のことを思い起こすことで満足しなければならない。  すなわち プラトンが窮極的善とは徳(ヰルトゥス)に従って生きることであると定めたこと そして そのことは神を知り神に倣う人にのみ起こること それ以外の原因からは至福にはならないこと そうしたことを思い起こすことで満足しなければならない。  それゆえ プラトンは 哲学するということはその本性が非形体的であるところの神を愛することであるということを疑わなかったのである。もちろん ここから今や知恵を熱心に探究する者(すなわち哲学者)が 神を享受(フルイ・デオ)しはじめたとき 至福になると結論づけられるのである。  愛するところのものを享受する人が至福になるとは限らないのであるが・・・  (『神の国』8・8 茂泉昭男訳)  ~~~~~~~~~~~~  3‐2 《徳に従って生きる》のは 倫理規範主義ではないかと問い返されましょうが そのあとに《神を知り神に倣う》とあります。これは 端的に言ってアウグスティヌスにあっては《恩恵》のことです。その《めぐみ》によって与えられたチカラです。《霊が望んでも 肉は弱い》というときの《霊》のチカラを指し示します。  3‐3 そして議論を省きますが プラトンはこの《めぐみ》という考え方はしていないのではないか? と思われます。そこが 微妙なようです。(アウグスティヌス自身が 上の解説においてあいまいにしているかにも見えますが)。  つまり 信仰――非思考の庭――においてあたえられ泉のごとく湧き出るチカラ。〔信仰=クレド(われ信ずる)についても 第8項の定理を参照ください〕。つまり ヒラメキ。これらは プラトンにあって どうなのでしょうか?    4. 次の主題は 保留します。  ★ ~~~~  新プラトン主義のプロティノスはキリスト教を  「神が人間の方へ降りてくることはない」と批判していたようですし、  ~~~~~~  5. 次も同じくです。  ★ カトリックが芸術を重視したこと  6. 次は さらにくわしく見届けられるとよいと思います。  ★ ~~~~  プラトンの「この世界はイデアの影である」という考えは  キリスト教の「神が人間になった」と反対であるような気がします。  ~~~~~~  7. 次は どういう主題になりましょうか。  ★ ~~~~  パウロの狂気というか  コリントの信徒への手紙一 4.10  「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。」  ~~~~~~  ☆ たぶん《宣教という愚かな手段》(コリント前書1:21)にかかわっているものと思われます。  ▲(パウロ:コリント前書1:18-20) ~~~~~  18:十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。  19:それは、こう書いてあるからです。    「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、    賢い者の賢さを意味のないものにする。」 (イザヤ書29:14)  20:知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ それなのにパウロたちは 人びとに説教するかのごとく宣教していますから。  8. ★ ~~~~  詩と狂気  哲学=愛知と理性  詩と狂気の関係は調べ中。  インスピレーションのことでしょうかね。  ~~~~~~~~~~  ☆ 次の定理をご披露します。  ○ (思考領域と非思考の庭との構造) ~~~~~~~~~~~~~    (:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神   _______________________   “インスピレーション”=ロゴス(β):異言      中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ             “インスピレーション”=ロゴス(γ):預言      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ・クレド: credo (= I believe. )   ・コギト: cogito (= I think. )   ・ロゴス: ことば・論理   ・ラチオ: ratio (計算・思考)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《異言(シャリバリ)》は 狂気に近いものがあります。  9. 次は そのまま保留します。  ★ ~~~~~  そういえば、  カントの物自体というのがあるのですね。  物自体とイデアはどういう関係かはわかりませんが  物自体はわからないなら、  悟りそのものはわからないのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~

noname#195588
noname#195588
回答No.22

韻文と散文でどちらが古いか 仏教の経典研究で問題になるらしい。 なにはともあれ、詩というのが 問題になります。 そこで考えてみたいのが プラトンは詩人を批判していることです。 ニーチェはプラトンを批判して ホメロスを讃えているわけです。 (道徳の系譜を参考) プラトンにとっては詩はイデアの模倣でしかない。 ニーチェはプラトンの芸術批判が気に食わない。 芸術家は価値を創造するから。 仏教の経典を、詩の文芸作品として 評価してみるのはどうでしょうか? 要するに芸術品です。詩集です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ ~~~~~  プラトンにとっては詩はイデアの模倣でしかない。  ニーチェはプラトンの芸術批判が気に食わない。  ★ ~~~~  仏教の経典を、詩の文芸作品として  評価してみるのはどうでしょうか?  ~~~~~~    ☆ 韻文というのは 脚韻・頭韻 母音の長短の配合 一行を何拍で作るか 対句をつくるあるいは句を繰り返すなどなどの工夫をこしらえて 暗記がしやすいようにしたのではないかと考えられます。  かたちにこだわらず 中身で勝負だと思います。  ただし 虚構作品という意味での芸術と哲学思想とは別だと考えます。どちらも自己表現の継続過程であることに変わりないはずですが 思想としてはその《自己》が書き手として固定されています。虚構となるとその自己表現の《自己》に制約がなくなります。  プラトンが 登場人物に言ってみれば思想を語らせているというかたちが見て取れると思うのですが おそらくソクラテスについては ソクラテス〔を理解したと思っている自己自身〕という自己表現者を固定して 思想を語っているとは思われます。あとの登場人物〔の思想や言動〕は 創作でもありうると思われます。  芸術作品であっても 最終的にそういう中身で勝負しようと思えばできるかも知れません。そのために 芸術の評論家がいるとも見られます。        *  プフォルタ学院の四年後輩のヰラモヰッツによるニーチェ批判が 引用されているのを見つけましたので これを掲げてみておきます。  ▲ (ヰラモヰッツ:《未来文献学――フリードリッヒ・ニーチェ著『悲劇の誕生』を駁す》) ~~~~  ニーチェ氏が向こう見ずにも主張するところでは エウリピデスは ソクラテスの根本命題《徳は知》への信条告白を表明していたという。  だがニーチェ氏はエウリピデスのことを分かっていない。というのも 仮りにエウリピデスがかつて ちょうどプロタゴラスのように 徳の教授可能性を公理として立てたとしても たびたびそれを表明するうち その意味のうちに いかなる人も生まれつきしっかりと身につけている抜きがたい人間の性に彼も染まっているという 偉大な詩人によりふさわしい理解を取り戻したはずである。  実際 言うならばこの登場人物たちの人格的な宿命の諸々の衝突・葛藤から 悲劇的な行為は不可避に展開するのである。さらにこの宿命は 人間の努力と失敗 過ちと償いが エウリピデスにとって かくも望みのないものであり 慰めようもないものであることを 自ずと解き明かす。  先のソクラテス的命題に関して言えば エウリピデスは ちょうどこれと反対のことを表明していた。というのは 深い思案の末 パイドラはその後訪れるこの世の悲惨を予感して 人は何が正しいかよく分かっていても 実行しないと 心底嘆いている。これこそ 《霊は望んでも 肉は弱い》というキリスト教的な事態である。  こうして 意志とその実現のあいだの妨げられた調和ということが まさにエウリピデスが舞台上に現出させたことであり それに真に形を与えたのである。   (ギュンダー編:『ニーチェの《悲劇の誕生》をめぐる論争』 pp.50-51 )  (神崎繁:『双書哲学塾 魂(アニマ)への態度――古代から現代まで』 2008 〈第4日 メデアは理性のゆえに狂った〉 pp.78-79 )  ~~~~~~~~~~~~    《徳は知なり》という方針は 主知主義ということでしょうか?  それがソクラテスの命題であり これをエウリピデスも踏襲したとニーチェは言うが それは おかしい。違う。とここでヰラモヰッツは 反駁しているということのようです。つまり ヰラモヰッツに言わせれば ニーチェは何も分かっていないのだと。  引用までにて。  それにしても 理知的であることが喜べない思想形式だとしても パウロの《霊は望んでも 肉は弱い》といった立ち場もあり得るところを もしけっきょく狂喜のディオニュソスへと走りゆくのなら それこそ思想ではなく 《芸術作品》の問題になるように見られます。

noname#195588
noname#195588
回答No.21

困ったので、発想をあれこれ変えるのに トンデモなことを書いてみます。 法身説法というのがあるなら 仏典を書いたのが法身でもいいのではありませんか? いやむしろ、 テクストは法身そのものである? ロゴスとミュトスとか 模倣とかそこらへんのことを考えたくなるけど 難しいです。 文章を読んでも、それはイデアの模倣でしかない。 模倣はイデアではない。遠ざかるだけ? 文章の背後にロゴスを読み解くのは 形而上学が死んでしまっては無理なのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ ~~~~~  法身説法というのがあるなら  仏典を書いたのが法身でもいいのではありませんか?  いやむしろ、  テクストは法身そのものである?  ~~~~~~~  ☆ 後半の命題は 二つの側面があるでしょうね。ひとつは 罪のない《教典の読み》 もうひとつはいわゆる原理主義としての読み。  後者は もう放っておくとして 前者は 一人のひとの主観内面において――けっきょく信仰をめぐるささやかな理解として・みづからの備忘録としてのように――受け留めている場合だと思います。  言いかえると この命題すなわち《テクストは法身そのものである》は 主観を超えて共同化されることはないということでしょうね。《善行をおこなおうとする主観の志向性はあるが だからと言って 善因善果というような因果応報説を共同化することは出来ない。言いかえれば 因果応報説に依り頼むことは出来ないし してはいけない》。というのと同じように このテクスト法身説に依りかかることは 出来ないし そうするのは――むしろ主観や信仰の放棄であることにより―― もってのほかの行為です。  前半の命題:《仏典を書いたのが法身でもいい》=(α‐1)。  これは 聖書についても言われます。《神が預言者らの手を用いて その命ずるままに 書かせたのだ》=(α‐2)という啓示説ですね。  これは 上の《教典は 主観内面の信仰〔の理解のため〕の備忘録におさまる》=(β‐1)という説に似ていますが 違う側面もあります。  (β)の説は 誰が書いたかは どうでもよいというかたちです。(α)は それがはっきりさせられています。  言いかえると 《〈誰が書いたか〉を明らかにする・しない》の問題だというよりも その《誰》が どういう存在だと明らかにされているか。こちらのほうの問題であるようです。  けっきょく人間が書いたし人間が考えたことが書かれているという場合は (β)のほうの主題だとして措いておくことが出来ると思います。  《法身》もしくは《神》あるいはつまり《人間を超えた非経験なる存在(または非在)》=(α)が書き手だと言う場合が 問われます。  ちなみに   ★ 文章を読んでも、それはイデアの模倣でしかない。  ☆ というときには 《イデア》があたかも いまの(α)の系譜に入るかにも見えます。  《イデアが書いた》=(α‐3)  これは ひとつにイデアが人間の想定するものであるだけではなく 人間が想起しうるものだという点において 《法身や神》とは別だと見られます。ひとつに 想起しうるにしても《認識できない》とするのなら いくらかは《法身や神》に似ています。  あるいは 《ロゴス》=(α‐4)=じつは(α‐2)は 《神》だという立ち場もあるのかも知れません。    さて問題は・つまり回答は わたしの考えでは こうなります。  信仰――わが心なる非思考の庭〔としての動態〕――をかするようにして この(α)の系譜の命題は 信仰内容にかかわっている。けれども その文字通りの受け留めになるなら けっきょくは(β)の系譜の特によくないところの原理主義に限りなく近づくと思います。  (α)の系譜の命題を活かすには その法身なり神なりの書き手が あくまで《非経験の場》として想定したものだという条件を忘れないこと これだと考えます。  要するに 法身もブッダターもあるいはけっきょくブラフマンもアートマンもみな 人間にあっては《非思考の庭》におさまっているということ。これではないでしょうか? すべての鍵は。  主観内面におさまっているのなら――(β‐2)とも違って―― じつはこの《非経験の場 ‐ 我れ》なる関係としての《非思考の庭》なる主観動態は ひとつの存在形式として 普遍性を持つのではないかと考えられるからです。  つまり《信仰》とは何か? についての答えが 以上に述べた内容だと思うのですが そのような実存のかたちとしてなら 《テクストは法身が書いた》説は活かされるのではないでしょうか?  ★ ~~~  文章の背後にロゴスを読み解くのは  形而上学が死んでしまっては無理なのでしょうか?  ~~~~~  ☆ その《ロゴス》が 経験事物であってはダメであり 想像の産物であっても――想像ないし思考は経験事象であるからには―― ダメである。こう考えます。  言いかえると 非経験の場(つまり 神)としての《ロゴス》を文章の背後にまた行間に読み解くというとき それは けっきょく読み解けないという帰結を意味しています。しかも――《活かす道》だと見たからには―― ヒラメキとしてなら そのロゴスのかけらが直感(かつ直観)され得ると思っております。

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