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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい)

無の悟りとは?お釈迦様の信仰心について

このQ&Aのポイント
  • 無の悟りとは、お釈迦様が自己の信仰を自覚し、他者の信仰心の不備を慰めるために持った信念です。
  • お釈迦様は、神を信仰しつつも無と語ることで、自己の信仰を表現しました。
  • 無の悟りは、言葉には現れないが心に留められているというお釈迦様の信念です。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

>論理について何か思うところを書いてください。 >参考にします。  その親切が存在するのに無を語り、言葉は無いと語る矛盾。    論理について質問し、その矛盾に文句があっかとお礼する論理が 親切 なんですね。  恐れ入ります。

Flareon
質問者

お礼

物は試しに、 お前の神を明らかにして見せよ。

Flareon
質問者

補足

君の信仰は神を語っていない無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。 どちらにしても無である。 その一切無が釈迦の悟りだ。 しかしだ、釈迦は聖職者として神を明らかにする事を求められていたはずだが、語らない事をあえて語れと無理強いされるばかりでなく、今回の私の動物虐待の様に、積極的に、問う者にこそ「お前の神を明らかにして見せよ」といったかもしれない。 そして、「ほら見ろやはり無ではないか」こういう意地悪をしただろう。 釈迦の無の悟りとは、なんとなく無をひらめいただけの事で、理性的な哲学の完成は、今ここで私が行ったのだ。

その他の回答 (2)

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.2

導入部→いつの時代でも、人々はそうなのです。 ヒンズー教の源流を司る修行僧→2500年前は、ヒンズー教の黎明期であったという確証はどこにもありません。 釈迦独自の無の信仰であった→釈迦が開いた悟りが信仰であったいう確証はどこにもありません。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである→釈迦が開いた悟りが無の悟りであったいう確証はどこにもありません。 語る言葉に関しては一切ないという...それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 →「黙して語らず」(実はある)」。これを悟られたのでしょうか。日本にも、釈迦だらけになりすまが。 整えられた文章ですが、ビジネスマンの世界では、こういう言葉があります。「プレゼンは100点だ。○○○○がない」。 ジャータカという美しい詩がありますので、私は、このきれいに整えられた文章は要らないのでと、思います。

Flareon
質問者

補足

お礼が削除されたので改めるよ。 運営者さん、いつもいつもご心配かけますねー。 レッツチチをもげダンスだ http://okwave.jp/qa/q7541665.html 確証がないと言っているがね、 俺様は正しい。 したがって俺様の言う事は正しい。 コレが確証だ。 日本中お釈迦様だらけになってもいいんでないかい。 そもそも私の哲学は君達に対する救いの哲学だ。 無の悟りはコレで理解可能だと君は証言しているのだよ。 ところで生産性の発揮と創造性の発揮の分別は付いているかな。 ここで出てくる創造性の発揮は、知性でなく感性と名付けられた心に由来するもので、その心をもって我はあるとすればよい。 ところが君達は時給と勤務時間にしか関心がないね。 その創造性のない無駄な仕事はあり方迷惑な奴隷労働だ。

回答No.1

>しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。  あれま、どうして語っちゃったのよ。

Flareon
質問者

お礼

俺のことか。 親切からだよ。 文句あっか。

Flareon
質問者

補足

暇なんでつまらん手直しをしたよ。 > お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、彼は無ではなく神と共に確かに存在する。 こうだよ。 私は伝承に語られる弥勒菩薩そのものなんでな。 彼の言葉よりも、私の悟りを語ったつもりが強くて、不親切な言い回しになった。

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