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再考: 《神は死んだ》か?
○ 神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論 第十章 《神は死んだ》のか ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0 (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。 (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか? (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。 問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか? (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。 問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか? (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか? 問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。 ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?
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ニイチェに言わせれば、「神が死んだ」から「ニヒリズム」が訪れたのではなく、逆で、神がいたから「ニヒリズム」だったのです。 最初から神なんかいなくて「ニヒル」だったのに、つまり虚無だったのに、それをキリスト教はイエス・キリストの物語で私たちの人生が、あたかも意味があるかのように覆い隠し、「隠ぺい」してきました。 自分が聖書の中の世界の登場人物のように思いなして、人生の真実を直視するのを回避し、それを物語で誤魔化してきた、それが西欧の歴史です。 プラトンが私たちの住む世界の上に「イデア」という最高価値が君臨していて、その「イデア」こそ真の実在で、私たちの住む世界を仮象だといって転倒してより、この世界の上に超・感性的な世界、ニイチェのいう言葉でいえば「背後世界」があると称し、人生の価値はその「背後世界」に由来するものだといってきました。 中世の初期、あるいは古代末期のアウグスティヌスはユダヤ・キリスト教の神による世界創造という「ドグマ」にプラトンの「イデア」を適用し、その結果「イデア」は神になりました。 このような私たちの感性的世界の上に超・感性的な世界が君臨し、その超・感性的な世界から私たちの感性的世界を眺めるのを古来、「形而上学」と呼びならわしてきました。 だから、西欧の哲学の歴史は「形而上学」の歴史であるとともに「神学」の歴史です。 ところが17世紀、ガリレオやデカルトやニュートンによって「科学革命」が起こり、それまでのアリストテレスの「自然学」とそれに基づくプトレマイオスの天体論・宇宙論がひっくり返されると人々は世界というものを科学的・合理的に考えるようになり、この世界から神を追放してゆきました。 この「科学革命」の延長線に出てきたのが、ニイチェによる「神は死んだ」という宣言です。 それはキリスト教の神が死んだといったばかりではなく、プラトン以来の「形而上学」と「神学」の歴史が終わったということを言ったものです。 ニイチェに言わせればキリスト教は「ニヒリズム」の宗教です。 本当は人生に何も意味がなく虚無なのに、それを直視せず、目を背けて、イエス・キリストの物語で「隠ぺい」してきました。 それが、たまたまキリスト教に対する信仰が衰退したために「ニヒリズム」が訪れたように勘違いしているにすぎない。 もう一度言えば、神がいなくなったから「ニヒリズム」がやってきたのではなく、神がいたから「ニヒリズム」だったのです。 ニイチエは新しい時代は従来の価値、しかも最高価値を転換しなければならない、といいます。 それが「意志」です。 「意志」こそが新しい時代の価値でなければならない。 「意志」は力の増大と拡張のみを目的とします。 キリスト教は弱者の宗教で、意志の強化どころか弱体化をもたらす「ルサンチマン(嫉妬・憎悪)」の宗教。 だからキリスト教は打倒しなければならない。 「意志」は目的を持たない、アリストテレスの目的論の否定です。 この世界に、この宇宙にそれが存在するいかなる意味もない、目的もない。 無意味が永遠に回帰する、むしろ無意味を積極的に希求する、それが「永遠回帰」の思想。 人生のこの瞬間、その「今」が無意味に永遠に繰り返したとしても、それを絶対的に肯定して生きる、それが新しい時代の価値観でなければならない。 この世界を超えた超・感性的ないかなる価値もないのだから、当然そうなります。 感性だけしかない、感性を超えたいかなる価値もないというのですから。 ニイチェはこれによってプラトン以来の「形而上学」を葬りました。 プラトンが抽象的な「イデア論」によって感性的なものの価値をひっくり返して超・感性的な価値こそ真の実在といってより、2500年の西欧の哲学の歴史、それは同時に「形而上学「「神学」の歴史でしたが、それをニイチェは最終的に葬ったことになります。
お礼
(つづき) (ひ) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ところが17世紀、ガリレオやデカルトやニュートンによって「科学革命」が起こり、それまでのアリストテレスの「自然学」とそれに基づくプトレマイオスの天体論・宇宙論がひっくり返されると人々は世界というものを科学的・合理的に考えるようになり、この世界から神を追放してゆきました。 この「科学革命」の延長線に出てきたのが、ニイチェによる「神は死んだ」という宣言です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。あえて言えば《科学革命》は すでに古代人にあっても起こっていたと思うのです。 (ふ) たとえばアウグスティヌスによるならば文章で明示的にこそ書いていないでしょうが たとえばイエス・キリストの母マリアについて 【Q:聖母マリアは 聖霊と精子との両方により身ごもった】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8395100.html というくらいの認識は持っていたと考えられます。聖霊によっても身もごり 許婚のヨセフとの交渉によっても身ごもったという意味です。 (へ)★ この世界から神を追放してゆきました ☆ それは 妥当なことです。つまり この《考える・感じる》の経験世界から 《非経験の場》なる神を区別することはマチガイではありません。言いかえると それまでは 例の形而上学のあしき系譜によって 《考えられた観念の神》が人びとのアタマの中にこびりついていた。こういうことだったわけです。 (ほ) ★ それはキリスト教の神が死んだといったばかりではなく、プラトン以来の「形而上学」と「神学」の歴史が終わったということを言ったものです。 ☆ すなわち 人びとがクリスチアニズムの神と言っていたのは あくまで形而上学とそれと同じたぐいの神学によってあくまで《考える》ことをとおして持つに到った神――すなわち 《観念の神》つまり ことばだけの神――をあたまに抱いていた。ことを意味する。つまりは 神は 非経験の場として しかるべき位置づけを得る準備がととのった。 (ま) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ニイチェに言わせればキリスト教は「ニヒリズム」の宗教です。 本当は人生に何も意味がなく虚無なのに、それを直視せず、目を背けて、イエス・キリストの物語で「隠ぺい」してきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここが わたしには分かりません。たとえば ☆☆ (く) 《人生に意味が無い》ことと《人生は虚無である》こととは 同じではないのではないでしょうか? ☆ この(く)の命題が 反駁されないかぎり この(へ)の結論は 飲めません。飛躍があり過ぎます。 (み) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ それが、たまたまキリスト教に対する信仰が衰退したために「ニヒリズム」が訪れたように勘違いしているにすぎない。 もう一度言えば、神がいなくなったから「ニヒリズム」がやってきたのではなく、神がいたから「ニヒリズム」だったのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これが 最初の(か)(き)ですが まだその入り口で足踏みをしています。《信仰が衰えた》のではなく それは《頭の中に理性で抱いている観念の神が――それは けっきょく理性でこしらえた時点で死んだ神であるのですから――死んだ》というに過ぎないでしょう。ニヒリズムとの関連は まだ分かりません。 (む) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ニイチエは新しい時代は従来の価値、しかも最高価値を転換しなければならない、といいます。 それが「意志」です。 「意志」こそが新しい時代の価値でなければならない。 「意志」は力の増大と拡張のみを目的とします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえば神を 擬人化してさらには物語として創造主だと表現した。これは 人間の自己表現としての《意志》ですよ。 聖母マリアは 神の子であるキリストを身ごもり 人間のイエスとして生んだという預言(解釈)とその認識を自己表現すること これは あくまでも人間の意志行為です。昔から意志はありました。 《最高価値》なんて 決まっているのでしょうか? (め) ★ ~~~~~~~~~~~~ キリスト教は弱者の宗教で、意志の強化どころか弱体化をもたらす「ルサンチマン(嫉妬・憎悪)」の宗教。 だからキリスト教は打倒しなければならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ クリスチャンにも《強者》はいるのではないですか? たとえ《弱者》であったとしても おそらく初期キリスト者にとってや最初の出会いのときには きわめて強く忍耐をつらぬくという意志が発揮されたのではないのですか? ルサンチマンを抱かない人間が どこにいますか? そういう人生のひとこまというだけの話ではありますまいか。 まるで自分が《キリスト教》ででもあるかのように 目の敵にしているのですね。これは 異常です。よ。 (も) ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 「意志」は目的を持たない、アリストテレスの目的論の否定です。 この世界に、この宇宙にそれが存在するいかなる意味もない、目的もない。 無意味が永遠に回帰する、むしろ無意味を積極的に希求する、それが「永遠回帰」の思想。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 異常な考えです。精神錯乱に近い。 意志行為の目的は アリストテレスが何を言ったからどう何を言わなかったからこうといった話はありません。それとして 人それぞれにあります。 ★ 無意味が永遠に回帰する ☆ とでも考えなければ きっとそのおのれの弱さに泣き続けているだけであるから やって行けないということなのでしょう。 《目的》だとか《意志》だとか そういった言葉をならべて何とかさまになるようにしないと 世界の中で生きていけないのでしょう。 《永遠》というのは 《非経験の場》ことです。神のことです。そんな容易に使ってだいじょうぶですか? (や) ★ 人生のこの瞬間、その「今」が無意味に永遠に繰り返したとしても、それを絶対的に肯定して生きる、それが新しい時代の価値観でなければならない。 ☆ 別にそんなにむつかしく考えないでも 人には生きるチカラがそなわっています。なにしろ聖霊が女を身ごもらせるほどなんですから。われわれにんげんには ブッダターなる霊がやどると言うまでに 人びとは互いに共生するすべを心得て来ています。何をいまさら 《意志》がどうの《永遠に回帰する》がこうのとわめかなくてはならないのでしょう。 価値観は 昔からあって つねにあたらしいものへとも更新されつづけて来ています。なんで フリッツよ あんただけは そんなにりきまなくてはならないのか? もう死んで何年も経つのにまだその心は癒されていないのか? (ゆ) ★ ~~~~~~~~~~~~~~ この世界を超えた超・感性的ないかなる価値もないのだから、当然そうなります。 感性だけしかない、感性を超えたいかなる価値もないというのですから。 ニイチェはこれによってプラトン以来の「形而上学」を葬りました。 プラトンが抽象的な「イデア論」によって感性的なものの価値をひっくり返して超・感性的な価値こそ真の実在といってより、2500年の西欧の哲学の歴史、それは同時に「形而上学「「神学」の歴史でしたが、それをニイチェは最終的に葬ったことになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《超・感性的な世界》は 《超・理性的な世界》とともに この経験世界を超えたところの《非経験の場》なのですから 《有る》とも《無い》とも人間には分からないのです。ですから この神を 有神論としても無神論としても 経験存在としての人間語に翻訳して人は持つようになっています。両者は 互いに同等で自由です。 神とは そういうものです。 これで まだたましいが安らぎを得ていないらしいフリッツ君のまやかし理論を葬り得たでしょうか。
補足
うりがだい2013さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづこの質問は 【Q:能動的ニヒリズムについて】におけるうりがだいさんのご回答を読んで触発されたものであることをお伝えします。 そして 最初からわが胃袋は消化に手間取っています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (か) ニイチェに言わせれば、「神が死んだ」から「ニヒリズム」が訪れたのではなく、逆で、神がいたから「ニヒリズム」だったのです。 (き) 最初から神なんかいなくて「ニヒル」だったのに、つまり虚無だったのに、それをキリスト教はイエス・キリストの物語で私たちの人生が、あたかも意味があるかのように覆い隠し、「隠ぺい」してきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。 対立する二項に分けておられますね。《存在ないし 存在肯定》と《その否定ないし 虚無》と。ここにまづ つまづきます。 (く) 《人生に意味が無い》ことと《人生は虚無である》こととは 同じではないのではないでしょうか? (け) 人生に意味がないというよりは 人生は意味から自由であって 人によって如何ようにも意味を見つけ出すことが出来るし 見つけ出さなくてもよい。ということではないか。そしてそれは 《虚無》観とは ひとまづ別ではないのか? (こ) ★ 最初から神なんかいなくて「ニヒル」だったのに、つまり虚無だったのに ☆ というのは 《神がいない》ことを《人生に意味を見い出さない》ことと採るならば そういった一面・一部分は確かにあるにしても これを特別視して虚無志向や虚無主義にまで話を持って行くのは 行き過ぎではあるまいか? ☆ (か)は分かりにくいのですが さらにつづくご議論の過程でわたしもはっきりした反応を持つことが出来るかと考えて 先へすすみます。 (さ) ★ 自分が聖書の中の世界の登場人物のように思いなして、人生の真実を直視するのを回避し、それを物語で誤魔化してきた、それが西欧の歴史です。 ☆ ううーん。歴史全体についてのひと言批評ですよね。 (し) 《人生の真実を直視するのを回避し》 これは何が何でも言い過ぎではないでしょうか? ヨブが試練に遭ってそれでもおのれの置かれた情況を《直視》しつつ おのが真実を貫こうとした。そういう物語ですが そこからヨブは その心が藁で出来たものではなく金しかも純金であったという読みを たとえばアウグスティヌスはおこなっています。 (す) そのような読みは かえって《物語で誤魔化して来た》のだと見ておられるのかとも考えますが 火の中をとおり抜けて来たという歴史は 同感を呼ぶものがあります。それは いわゆる因果応報なる仮説をしりぞけるという歴史の直視があるからです。 (せ) そのようにヨブの物語を読まないとすれば――つまり《自分が聖書の中の世界の登場人物のように思いなし》たわけでなくても そこに教訓を得るというように読まないとすれば―― それはおそらく神があってもなくても 虚無であると言いますか すべてはのっぺらぼうの世界であると捉えていることになりましょう。 (そ) つまり のっぺらぼうの世界観であるなら――つまり究極の相対主義史観ですね であるなら―― それこそ現実の世界を直視していない。こう考えられます。人間の心が分からないといったこの上のない虚無思想に落ち入るものと考えます。 (た) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ プラトンが私たちの住む世界の上に「イデア」という最高価値が君臨していて、その「イデア」こそ真の実在で、私たちの住む世界を仮象だといって転倒してより、この世界の上に超・感性的な世界、ニイチェのいう言葉でいえば「背後世界」があると称し、人生の価値はその「背後世界」に由来するものだといってきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そんなことを言って来たんですか? その背後世界は 《超・感性的な世界》とされていますが それは同時に《超・理性的な世界》なのではないでしょうか? あるいはつまり《超経験の領域――または 非経験の場――》と呼べるナゾなのではないですか? (ち) ただし 《イデア》は もういいです。なぜなら 《理性》を超えていないからです。 同時に もうひとつただし ★ 私たちの住む世界を仮象だといって ☆ というのは 普遍的な世界認識なのではないでしょうか? いわゆる色即是空の無常観に通じます。この世界は 時間的で有限で相対的で 移ろいゆかざるを得ないものなのですから 《仮象》と言ってマチガイではないと。(ただし だから虚無だとは決して言っていません)。 (つ) もし《人生の価値》を問い求めるのなら したがってこの仮象なる経験世界にその根拠を見い出すことは出来ない相談である。もし《超自然ないし非経験の場》が想定できるなら その場にこそ――無根拠としての――根拠がある。つまり ★ 人生の価値はその「背後世界」に由来するものだといってきました ☆ ことにマチガイはないように思われるのです。 (て) ★ 中世の初期、あるいは古代末期のアウグスティヌスはユダヤ・キリスト教の神による世界創造という「ドグマ」にプラトンの「イデア」を適用し、その結果「イデア」は神になりました。 ☆ これは 聖書の読みという問題ですが 一般に表現の問題です。 (と) 《創造主》というのは 先ほどの《非経験の場(つまり 神のことですが)》を擬人化してみれば そういった・しかも物語としての表現に成り得ます。つまりは タトエです。 (な) アウグスティヌスに《ドグマ》がないのではないのですが この創造主の物語は ドグマでも何でもなくて ただの例え話です。つまり この経験世界と《非経験の場》とを峻別して 後者をただ表現じょう《絶対者であり創造主である》存在として描いた。だけのことであり それをそのように受け取ったまでのことです。 (に) 《イデアが神になった》のではなく 非経験の場なる神と先ほどの《超・理性かつ超・感性の世界》とを定義じょう同一としたのであり そこにその限りで《イデア》をも 表現としては 受け容れておいた。これだけのことだと考えます。 (ぬ) ★ このような私たちの感性的世界の上に超・感性的な世界が君臨し、その超・感性的な世界から私たちの感性的世界を眺めるのを古来、「形而上学」と呼びならわしてきました。 ☆ おそらくこの形而上学は アウグスティヌスらも使ったかも分かりませんが その使い方は はっきりしています。 (ね) あくまで《経験世界》と《非経験の場》とを峻別しつつ 同時にそれら両世界の互いのつながりはどうかと問うたときの説明に用いた。こういうかたちです。 (の) つまり言いたいことは 《私たちの感性的世界の上に超・感性的な世界が君臨し、その超・感性的な世界から私たちの感性的世界を眺める》ことは けっきょく《理性ないし知性による経験思考》の問題としてあるし そうおこなっているのですから そういうたぐいの形而上学は 決して神学ないし世界観の基本ではない。こう決まっているということです。厳密に言えば その形而上学は マチガイです。マチガイでないとすると 神がわれわれをみつめているというその様子が われわれ人間に見られていて 分かっているという変なことになります。 (は) ★ だから、西欧の哲学の歴史は「形而上学」の歴史であるとともに「神学」の歴史です。 ☆ つねに 《経験世界と非経験の場》あるいは 《考えると非思考(つまり 信じる)》 これら両者をきちんと区別しているなら 神学はそれとして有効であり 形而上学にしても効果的に活用できるはずなのです。 (つづく)