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日本人の神とその信仰
- 日本人の神とその信仰について、神の依り代や神社の意味について解説します。
- 神とは神本体の依り代であり、神社や山や石などがその役割を果たしています。また、日本の信仰は八百万の神々として表現されています。
- さらに、信仰は様々な形を取ります。クリスチャニズムでは天使が重要な役割を果たし、自然本性におけるヒラメキの位置も考察されています。一方、日本人の信仰は自然や自分自身の霊に対する敬意があります。
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☆ おごそかな感じ。あるいは こうごうしい(かみがみしい)。という接点から始めますか。理論として耐え得ますか。 ◇これは、「おそろしく」主観的なものなので、 おそらく、学問的、特に哲学的な意味での普遍性はないのでしょう。 その意味では、理論としては耐えられない、と思います。 ですが、 何故だか分からないけれど、 この感性{?}的なもの、直観的なものは、我々の経験として現に存在しており、 そして、 そこには、人種、民族、文化、宗教的な違いを越えた、ある種の共通性があるのも事実であり、完全ではないけれど、ある種の普遍性はあるのでしょう。 ───これがたとえマヤカシであったとしても、構いやしない。このマヤカシ発生の機構が存在することだけは事実なのでしょう。ですが、これがマヤカシであったとしても、理性や悟性といわれるものよりも、より本源的、原始的で、より人間の本源に基づいているのだ、と思う。─── であるから、 従来の哲学的体系とは異なるけれども、 こうした経験を基にした、新しい体系を作ることはできるのではないか。 このように考えております。
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- doc_somday
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相変わらず、勝手な解釈で、専門家の意見も無視。 一般に「依代」を要する「宗教」は格が低い、何かが無いと誰も信じないのでは 安過ぎる。 まともな宗教には「依代が無い」、 「厳然として無なる」 空間が神を宿す。 古代中国では滅ぼした王朝の「聖なる空間」を「封じて」しまう。 するとその空間が死ぬ、神が死ぬ、前王朝が死ぬ。
お礼
何言ってんだい。 ★ 古代中国では滅ぼした王朝の「聖なる空間」を「封じて」しまう。 / するとその空間が死ぬ、神が死ぬ、前王朝が死ぬ。 ☆ これが 依り代だよ! もう少しあたまの中を整理してから どうぞ。 でも ご回答をありがとうございます。
梵我一如とはいうけれど、 詳しく調べてないからなんともいえないけれど、 ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドには 梵我一如という言葉ではでてきていないようなそんな印象です。 どこかにでてくるのだろうか。 あと、私は質問を削除したけど ヤージュニャヴァルキヤとマイトレーイーの会話を参照すると、 わかりやすいような。わかりにくいような。 ヤージュニャヴァルキヤとマイトレーイーの会話は ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの第二章と第四章に 同じような話だけど、異なっている話があるので まるで福音書のように読み比べる必要がありそうです。
- 雪中庵(@psytex)
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宗教は、その発生においてはアニミズムであり、 人の力ではどうにもならない自然の脅威や節理に 対して、具体的にどうしようもない事に対しても せめて何とかしようとする“祈り”、存在の意味や 生きる目的といったその時点では及ばない認識を 補う“説明”、死の不安を打ち消す死後の世界の “想定”といった目的として、神や精にすがった。 それに対し、キリスト教やイスラム教、仏教など 世界宗教が、ほぼ同時期に広まったのは、社会の 発達において、個人の意識の自己チューさを抑え、 社会的行動をとらせるタガとして、国家の登場と 同時期に、時には国家の治世の道具として利用さ れながら、発達したのだ。 そうした応急処置は、存在の本質の無からの演繹、 生きる目的の社会生命的自覚化による自律的社会 行動など、自己存在の本質に根差した意志におい て不要のものとなる。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 宗教は、その発生においてはアニミズムであり、 ☆ 宗教は あくまで個人の信仰を何らかの表象において捉え一般に言葉で表現したオシエとし さらにはこのオシエ(成文とは限らない)のもとに個人の信仰ないし生活を束ねる組織的または集団的な心的現象です。 つまり 個人にとっての《わたし》の固有のときを生きる信仰とは 似ても似つかない社会的行為です。 もっと言えば 信仰がみづからをないがしろにする自殺行為によって成り立つものです。 アニミズムは あくまで個人のオドロキや不思議さから始まります。これを束ねるのは シャーマニズムでしょう。束ねる前には すでにアニミズムがその感性そのものの中に沈み込んで行く動きがあって それはすでに意識を無くしたようないわゆるトランスの状態に成るという現象を 意図して起こすというようなことだと考えられます。 シャーマニズムがさらにちょっと高級になって一般にオシエを持つに到る。こうして――オシエが聖化され・またはそれを体得した人間が 勝手に人びととは違った存在として聖別されて来ると―― 信仰が集団による宗教に変身します。 その意味では ★ 宗教は、その発生においてはアニミズムであり、 ☆ となるのかも知れませんが きわめてミスリーディングだと考えます。信仰という基本が ないがしろにされます。 ★ 人の力ではどうにもならない自然の脅威や節理に対して、具体的にどうしようもない事に対してもせめて何とかしようとする“祈り”、 ☆ これは 初めからのナラハシではないでしょうね。もともと自然への恐れがあればこれは むしろ畏れとして自然をあがめるようになる部分も大きい。と言わねばならないでしょう。《どうしようもないコト》に対してむしろこれを受け容れるという素直さを持ち合わせていたという見方です。そういう側面のほうが 基本であったのだと。 ★ 存在の意味や ☆ これも考えなかったでしょうね。つまり 《わたしはわたしである》あるいは《わたしたちはわたしたちである》といった自己への到来――つまり個人としてではなくても 共同体としての自己の自覚を得るようになったと思われ そういう意味での自己への還帰――が やはり基本となったでしょう。《存在》とは このわたし〔たち〕だとうっすらとでも自覚していたでしょう。 ただし初めから その《時間的存在》なることを自覚していたとは思われません。つまり この地上における存在がおしまいになるとは まだはっきりとは知らなかった。 ★ 生きる目的といったその時点では及ばない認識を補う“説明”、 ☆ たぶんそんな悩みは 持たなかったでしょう。持つ必要がなかった。なぜなら この存在に終わりが来るのかどうかは 分からなかった。或る日老いた人がたおれて動かなくなった。としても それは 長い眠りに就いただけと思ったかも知れない。要するに《死》をいまだ知らなかった。そういう意味では 悩みや不安は 死を死として知ったあとの人間にとってのそれとは おそらく違っていた。 ★ 死の不安を打ち消す死後の世界の“想定”といった目的として、神や精にすがった。 ☆ これは ですから 死を死として知ったあとの――いわゆる《世界‐内‐存在》であることを知ったあとの――人間として やがて持つことになった問題でしょうね。人が人としてわれを心得るという生活態度(思想)が 世界内存在であることです。 要するに墳墓の中を開けてみたら 蛆虫がたかっていたり もう身は無く骨だけになっていたりした姿を見たときから 死とはただ倒れ眠るのではないと知ったはずです。 だからと言って それでも《あの世》についての不安や悩みが現われたとするのも 一面的だと見ます。要するに 死とは死んだらもうおしまいなのかと知ったあとでも人びとは 単純に・素直に ぢゃあ不老不死をねがうという思いに切り替えた。だけであるとさえ思われます。鏡があると そうなるといった望みが流行ったりした。 ですから 神という場合でも・周りの何もかもが精霊として受け留められアニミズムの世界がなお続いていた場合でも そこに――つまり精霊にそして神に――見〔たいと思っ〕たのは 単純に世界との一体感・おのが存在にとっての現実との一体なる状態のようなものだったでしょう。 そういう意味で《すがった》かも知れませんが 何も人びとは不安に怯え悩みに凹んでしまったと捉える必要もないのではないか。 死は死として そのむかしの人びとは 素直に受け入れたのです。これが 基本です。あっぱれではないですか。 ここから出発しなくてはならないでしょう。 それでも家族や身内や仲間の人たちが 亡くなって行くのは かなしい。そこで祈るのであって 臆病者が何ものかに取りすがるといった絵は描くべきではないでしょう。 ★ キリスト教やイスラム教、仏教など世界宗教が、ほぼ同時期に広まった ☆ って どういうこと? それに いまこの質問では 《シュウキョウ》は お呼びではありません。 ★ 社会の発達において、個人の意識の自己チューさを抑え、 ☆ 独りあるときのおのが固有の時間 としての信仰からやがて誰かがへそ曲がりを起こして 信仰から離れて行く。そうして 信仰を目に見えるかたちにしたい。思考を超えた心的現象をおのが思考の下に捉えこれをあやつりたい。そうして オシエを持ち人びとを束ねようとする悪巧みを考える。このようなシュウキョウの発生が 人間の《自己チュー》化を物語っています。 ★ 自己チューさを抑え、社会的行動をとらせるタガとして、 ☆ というその施策は あくまですでに集団として組織としてシュウキョウが始まったあと その束ね(=ファッショ)を展開し保守するために採ったものです。締めつけの問題でしょう。聖職者には それぞれ権限を位置づけた階層組織としてのヒエラルキアを用意し 一般の人びとにはこの阿呆どもによる締めつけがおこなわれた。だけのことです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ ・・・存在の本質の無からの演繹、 生きる目的の社会生命的自覚化による自律的社会 行動など、自己存在の本質に根差した意志 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんな理屈を言っているから 悩みも不安もなくならないのです。世界の中にわれあり・われはこの世界の中にありと言って 日から日へ地道に生きて行けばよいのです。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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勉強会として参加するよ。 くだらない事聞くよ。 八百万の神々 これ平仮名で書き下してくれ。 変換できなくて間違って覚えているみたいなんだ。 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ これについて、 君達はなにも語っていないから無だ。 私は語らないことにあり無だ。 したがって全てが無である。 この私の説だと論点がずれるね。 神との関わりがない。 ところが彼は世界観を大切にしたと思うよ。 涅槃も、観念世界という夢の事だし。娑婆という認識も、現実に対する世界観だ。 彼が神についてどうとらえていたかは、自称弥勒菩薩の私には思い当たることがあって、 神のみがある。 私は存在しない。 これを徹底的に突き詰めようとしていたんだろう。 むしろ汎神論的なんだが、徹底しているので、無色の汎神論、姿の見えない神という考えなのだろう。 あんたにしてみると当たり前のコレが、当時は表現するにあたって苦心しただろうね。 無の教えは、彼が仏陀という当時の聖人と目され、それに合わせて世間と対峙するための処世術だよ。 肝心の事ははぐらかすことにしていた。 彼はうそつきじゃなく、本物だと言われているね。 今更疑わないんだろうな。 仏陀の本能には、肝心な事を話すと疑われるから、嘘をついてそれを本物にしてやれと言ったところがある。 嘘の方が耳心地が良く、彼らは喜ぶんだ。 彼らの証言だと、私達の心に寄り添い判りやすく教えてくれたと感謝するんだ。 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) これに関して素朴な私の感覚では、 神を語ること、 神を考えることが、 それ自体で神を偽り、神に疑念を抱く裏切り者。 宗教は廃人のための精神病院。 仏教文化と相まって、語らない事こそ神である。 こうなる。 貴方が心をこめて語った、 きよらかなおそれ、 これの事なんだろう。 日本人の神には、人様、世間様、これも含まれるだろう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 八百万の神々 ☆ やほよろづのかみがみ⇒やおよろずの・・・ ★ 無・涅槃・娑婆 ☆ これらは やはり《苦――ドゥッカ(思うようにならない苦しみ)――》から始まっているということが 大事ぢゃないか。 苦からの解脱として ニルワーナがある。娑婆は 苦の世界。あるいは のちには 娑婆即浄土という見方も打ち出された。などなど。 ★ 無の教えは、彼が仏陀という当時の聖人と目され、それに合わせて世間と対峙するための処世術だよ。 ☆ わたしの解釈だけれど――異論があれば ねむねこさんなりによって明かされる―― ゴータマは 最初どうしても(つまり 身分制がひどいと思われたブラフマ二ズムに反対して)霊我と呼ばれるアートマンに反対した。だから 無我=アン‐アートマンという路線を打ち出した。 よって そのまま必然的に ブラフマン神をも否定した。 ブッダと呼ばれるひとは ほかにもいたし そういう名称はすでにあったらしい。もとは 神ブラフマンを否定し 霊我アートマンをも無と捉えたゆえ 人間のすぐれた境地を持つ者としてのブッダに落ち着いたものと思われる。 つまり 世間からブッダなる聖人と目されたというよりも 自分から この上無くとうとい知恵のさとりを得たと宣言し宣伝したのだと思う。 このさとり宣言が どういうわけか・その中身を明らかにせずじまいであっても 世の中の人びとに効果を発揮した。どういうわけか賛同者が多く現われた。 ただし ゴータマ亡きあと 人びとは おかしい 何かおかしい どこかおかしいと考えたはず。つまり ブッダなる境地は 思考の問題ではなくむしろ霊我アートマンと同じ信仰の問題だと分かるようになった。つまり 神は ブラフマンでよい。 ただし そのことを――つまり梵我一如なる信仰のかたちでよいものを――わざわざ今度は C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) というかたちにしたのだと考えられる。梵我一如とまったく同じかたちなのにである。名前が違うだけ。だと思われる。 ★ 日本人の神には、人様、世間様、これも含まれるだろう。 ☆ これが 《依り代》なのだと思う。神本体ではないから ものごとや人間 何にでもそのような神の依り代(仮りのシルシ・補助線)を見ることになるらしい。日本人は。
- NemurinekoNya
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なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる by 西行 神は感じるものですよ。 山にも、石ころにも、たとえ、人工的な神社という舞台、神の社であろうとも、人間の思惑や《はからい》とは無関係に、 神は万物に内在、遍在している。 当然、人間にも宿っている。 文学的な表現になりますけれども、 人間に宿る神が他に宿っている神を感じるんでしょうね~。 まっ、 神社や神殿、教会というのは、「神を感じやすくする」という人為的なもの、作為的なものが入っており、時にダマシになることもあるかもしれませんが、 だからと言って 「神を感じている」、あるいは「神を感じられる」ということまで否定することはないのでしょう。 こうした思いや思いが発生することは、他の人の思惑とは無関係なのでしょうから。 そして、問題があるとすれば、 この後に、宗教者が有り難い教えなどを説き、人を教導したりすること。マインドコントロールして、人を利用することなんでしょう。 また、 その社や呪物を神そのものと考えるのも過ち。 それは、あくまで、神へのインタフェース、装置や補助線にすぎないので。 ところで、 西洋に住むタコ、西洋に棲息する鈍感なタコでさえ、高野山なんかに行けば、何かを感じるものらしい。 キリスト教、仏教という宗教の違いをこえて、何かを感じている。 こうなれば、 イエス、お大師さまという形式的な神の違いは問題にならない。 敬虔なクリスチャンであろうが、違和感なく、奥の院におはす《お大師さま》に自然と手を合わせることができるのであった。 この時、 《お大師さま》というインタフェースや補助線を拝んでいるのではなく、 その先にある???を拝んでいるのですから。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 いいと思うんですけれど。 ひとつは ◇ 文学的な表現になりますけれども、 / 人間に宿る神が他に宿っている神を感じるんでしょうね~。 ☆ とみとめておられるように やや文学的だと感じるところがあるのではないでしょうかねぇ。 ◇ 《お大師さま》というインタフェースや補助線を拝んでいるのではなく、 / その先にある???を拝んでいるのですから。 ☆ 依り代は インタフェイスですか。インタフェイスの《その先にある???》なのですね。 ちょうど新日本風土記で《高野山》を見たところです。奥の院では 毎日食事をつくり運んでいるのだとか。運ぶところまでは 取材が出来なかったようです。料理をしている修行僧のすがたが映りました。 しかし ここまではやり過ぎなんぢゃないでしょうかねぇ。分かりませんけれど。自由ご勝手でしょうけれど。 もうひとつは インタフェイスはいいんですが この日本人の神観または神感が クリスチアニズムの場合とさほど違わないという点ですね。 ◇ 西洋に住むタコ、西洋に棲息する鈍感なタコでさえ、高野山なんかに行けば、何かを感じるものらしい。 / キリスト教、仏教という宗教の違いをこえて、何かを感じている。 ☆ とは 触れてもらっていますが これが《感性》の問題であるということでしょうか。 ☆☆(趣旨説明欄) 4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。 ☆ ということ。この見方が どこまで日本人の感覚に入っていけるか。入って行く必要はないのか。 あるいはつまり 理屈の問題として: ☆☆ (趣旨説明欄) 8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。 ☆ ということが このまま仮説として推し進めて行ってもよいものかどうか。 《見る》というより《感じる》ですか? おごそかな感じ。あるいは こうごうしい(かみがみしい)。という接点から始めますか。理論として耐え得ますか。 あとは: ◇ ~~~~~~~~~~~~ そして、問題があるとすれば、 この後に、宗教者が有り難い教えなどを説き、人を教導したりすること。マインドコントロールして、人を利用することなんでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というように おのおの《わたし》の固有のときとしての信仰と そしてオシエにかかわって人びとを束ねる宗教とを区別出来ていればよいのでしょうね。
お礼
そこまではわたしは言えませんでした。すごいですね。 ご回答をありがとうございます。 まぁ 一般論として言えば センスス・コムニス(共通感覚)の主題に成るかと思います。 ◇ そこには、人種、民族、文化、宗教的な違いを越えた、ある種の共通性があるのも事実であり、完全ではないけれど、ある種の普遍性はあるのでしょう。 こういう本を読んだことがあります。たぶん ピッタシカンカンだと思います。 △ 鈴木孝夫:『日本の感性が世界を変える―言語生態学的文明論―』 2014(9月) http://www.shinchosha.co.jp/sensho/editor/2014/603756.html △ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 最近、日本大好きの外国人がテレビなどで紹介されることがありますが、彼らを見ていて、何か気づくことはありませんか? じつは、外国人が日本語を学んでいると、「なぜか物腰が低くなる」「なぜか優しくなる」「なぜか自己主張が苦手になる」「なぜか礼儀正しくなる」といった現象が起きます。 フランス語で「タタミゼ」(タタミ化する=日本化する)と呼ばれる現象ですが、鈴木先生はこれに着目します。世界に類を見ない日本のやわらかな心性が、外国人を変える力を持っているのではないか。 つまり、「対立・論争」的で人間中心主義の一神教的世界観ではなく、「情緒と融和」を基調とした日本の感性が、人間を、世界を変える力を秘めていると言うのです。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さらに 紹介記事は語ります。 △ ~~~~~~~~~~~~~~~ ここに至って、日本の独特な感性は、極東の島国の個性という文化的評価にとどまらず、一神教的世界観からの転換という「文明的使命」を帯びていることが分かってきます。 ちなみに、あの高名な数学者岡潔が、情緒こそ日本人の根源的価値であると述べていることを連想する人もおられるでしょう。 日本独自の世界観とその力を、ローカルな文化性として考えるだけではなく、文明論として考えること。この著者の視点こそ真にグローバルな知であり、他の誰でもなく、日本人に求められている思考であることを教えてくれる一冊です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ ・・・理性や悟性といわれるものよりも、より本源的、原始的で、より人間の本源に基づいているのだ、と思う。─── であるから、 従来の哲学的体系とは異なるけれども、 こうした経験を基にした、新しい体系を作ることはできるのではないか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここまでは よう言いませんでした。 その代わり こういうことを考えたことはあります。 つまり 日本のムラをひとつづつそっくり外国へ輸出するという方策です。むろん ムラビトもいっしょに行きます。それがなくては 何にもなりません。 なお理論立てることにはこだわりがありますが まぁ 天使か依り代かは もはやどうでもよいのかも知れません。