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ニーチェの良いところをおしえてください。
ありますか? 世は 理性信仰 つまり 理性なる神 理性という神が はびこっているところへ その観念なる神は観念なる神であるに過ぎないと指摘しつつ 観念の神は死んだと言ったのではないでしょうか。 つまり そんな神は もともと 死んでいるというふうに指摘しなければいけなかったのではないか。 そこを そうではなく わざわざ その観念の神を克服しなければならないと思いこみ そのためには 《自然 大河 あるいは 超人であれ》と わざわざ 説くにいたった。・・・ これでは すべてが コップの中の茶番劇であるのではないでしょうか? ほかに ニーチェにいいところは ありますか。
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こんばんわ。 ふたたび#1です。 また、ぐっとレベルを下げさせて下さい。 ニーチェは膨大の量のアフォリズムを残していますね。 印象深いものはそれこそたくさんあるのですが、私が真っ先に思い出すのは、 「真理は私が獲得するものではない。真理が私を訪れる。」 と言うような意味のものです。 どの著作のものだったか今思い出せませんが。 この意味することは要は「神秘体験」ですね。 もちろんアフォリズムという表現形式は修辞的で、緻密な真理探究作業とはかけ離れてます。 で私事ですが、高校に進学した時図書館に行くと、『世界思想全集』なるものがあったんです。 私は「この全50巻の中に世界に対する答えがあるんだ。」といたく興奮して読み始めたんです。 しかし最終的には、「真理が私を訪れる。」なのかと。 ニーチェはそもそも文献学者でしたが、そのような地味な作業をひとつひとつ積み上げる作業を行い得る者がその延長で審理を獲得するのではなく、最終的には「神秘体験」なのかと、自らの能力に照らして諦めのようなものを感じました。 言いたいことは、この一言で古代ギリシャ哲学の知も、近代合理主義の知も、あっさり否定しているということです。 思弁で得られた知識を共有、構築した共通の知=哲学の体系とするならば、この一言で既存の知が全否定されています。 結局、あったり前のことですが、「分かった奴にしか分からない。」そういうことをニーチェは言ってますね。 「分かった奴にしか分からない。」と言う事は「経験は共有できないよ。」ということですね。 だからどんなにニーチェの著作を読もうが、それについて思弁しようが、それだけじゃ「真理」は得られないよ、そう笑われてるような感がします。 ニーチェが自分をキリストと重ねてる言葉もありますね。 「ただひとりのキリスト者は十字架に架けられて死んだ。」 真のキリスト者がキリスト自身だけだった、考えれば当たり前ですが、それになぞらえて「真理を獲得したのはオレだけだよ。」と言ってることとつながってます。 もちろん、どこまで本気でどこまで道化だったか(ニーチェ自身も)分からないニーチェの言葉ですので、単にうそぶいてる可能性もゼロじゃないとは思いますが。 乱文になってしましましたが、2000年以上積み上げた哲学の業績をたったひとつのアフォリズムでくつがえし、つい見落としがちな「分かった者じゃなきゃ分かんない、分かんないやつはずっと分からない。」ということで後に続く哲学者に挑戦的とも言える「断念」を与えたことだと思います。 失礼致しました。
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- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 【 QNo.75125 神は死んだ。】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa75125.html ニーチェと裁判員制度 ニーチェは言った 「神は死んだ」と そして、裁判員制度が生まれた。神の職域とされるところに 民が足を踏み入れる。神より任ぜられた者でしか扱うことも みることも触ることも許されることがなかった職の一端を民 が担う。神の領域の一端を民はみることとなる。同時に神の 領域とされるところにもとより住まいする者たちはみられる 立場にもなる。職域への介護支援がはじまる。 (介護と名が 付けば、老人介護、障害者介護と健康保険の及ぶ福祉支援を イメージすることだろう。場面をかえて至るところですでに 介護支援は始まっている。郵政民営化もその一環とみること ができようか。) 奉られた神、事実、誰もその姿をみた者は いない。民はみたこともない神の像を描く、そして、求める、 神を。民が描いた理想像を。 どこを見渡しても神はいない。 そこにいるのは我が身によく似た人がいるばかり。神の職域 とされるところに足を踏み入れた民が、ふと、後ろを振り返 れば、その背を見つめる民がいる。見つめられる民、見つめ る民。神をみるような熱い眼差し。 見つめられる民は叫ぶ 「わたしは神じゃない!」しかし、その声は神の職域とされ るところの外にいる者たちの耳へは届かない。神の職域とさ れるところに足を踏み入れた者のみが聞くことのできる声。 声を聞くことで、あらためて人が人であることに気づく。 ニーチェの良いところ…人が人であることへの気づきの切っ掛け “足るを知れば辱められず、 止まるを知ればあやうからず。”
お礼
☆ この箇所については 特に わたしからの評言はありません。 ★ “足るを知れば辱められず、 止まるを知ればあやうからず。” ☆ 人間の知恵の一端でありますから 水を差すつもりはなく いやみや皮肉を言おうとするのでもなく そうではないのですが ただ いまこのように見てきた筋道に立って捉えるなら その限りでは やはり それは 人間の理性ないし経験知に属するものである こう言わねばならないでしょう。 ★ 裁判員制度 ☆ についても 中身は 理性をめぐる問題としてなら ここまでの議論に従うことができるのではないでしょうか。 介護や医療という仕事としては 二十四時間体制のもとに 全人格を方(かた)向けてのことですので 教師とそれと同じように ふつうに・正当に 《聖職》と見なされます。 裁判員については 汚職事件などなどをも 担当範囲に容れて その範囲をもっと広げるか あるいは まだまだ 準備期間を置いて人びとは訓練しておくべきではないでしょうか。模擬裁判を テレビでもおこなえばよいのです。
補足
littlekissさん ご回答をありがとうございます。 ★ ニーチェの良いところ…人が人であることへの気づきの切っ掛け ☆ たとえば――《神は死んだ》というように クリスチアニスムの神の問題であるからには―― 次の文句を参照しなければいけないでしょう。いづれも パウロです。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・こう書いてあるからです。 わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、 賢い者の賢さを意味のないものにする。 (イザヤ書 29:14) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 (コリント人への第一の手紙 1:19-20) では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 次のように書いてあるとおりです。 正しい者はいない。一人もいない。 悟る人もなく 神を探し求める人もいない。・・・ (詩編 14:1-3) (ローマ人への手紙 3:9-10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから littlekissさんのご指摘は 元に戻ったということでしょうし ニーチェは たとえばデカルトからの理性の神格化なる化け物としての思想について それは 現実になりつつある / と同時に そうであってはいけないと考え これを超克するために 超人を打ち出したのでしょう。ニーチェのそれは――このクリスチアニスムの系譜に立つ限り―― いたづらに と言わざるを得ません。 ★ 【 QNo.75125 神は死んだ。】 ☆ をめぐっては まづ littlekissさんのご回答 すなわち ★★ すべてがおなじになっちゃうこと。(ANo.14) ☆ は 人間どうしのこととして すでに上に述べたところと同じ内容でしょう。ほかのご回答の中で 面白いと思ったのは ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この「神は死んだ」は、キリスト自身にではなく、キリストの名を冠した”キリスト教”への絶縁状であり、宣戦布告なのです。 つまり、信仰の名の下に、弱者(ルサンチマン)になるのではなく、実はキリスト自身はもっと人間の強者としての内的可能性と普遍性を高々と歌い上げていたのだとニーチェは信じていたのです。(ANo.11 naris さん) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 次の但し書きをほどこせば 『アンチ・クリスト』の中に垣間見られる口調であろうと思われ 同意できるものです。ただし miko-desi さんへのご返答にも書きましたが 《人間の強者》となる必要はない。そうではなく 《誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう》(コリント第二 11:30)というごとく 弱いままであってよいのでしょう。 (キリストとしての神の側面は ドグマですので ここでは 控えます)。 言いかえると 宗教組織の上に立ったキリスト教とその信徒となると 多かれ少なかれ 理性信仰ないし精神主義・道徳主義の要素が入って来ているでしょう。《道徳規範》を立てるということは モーセの律法を優先させるただの本音と建前とによる精神主義となり これは 精神の強さを誇るようになります。デカルト周辺以後は 学問・知識に強くなろうとしたわけです。学識があれば道徳堅固であるとも 思いこまれたわけです。 次のご回答をも引用しておきます。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《神は死んだ》は 1882年の『悦ばしき智慧』、アフォリズム125番が初見でした。 市場に突然一人の狂人が現れ、「神は死んだ、我々が殺したのだ」と叫びます。最も聖なるものをわれわれは殺した、誰がこの血糊をナイフから拭うことができるのか…そして、「この殺害にふさわしい存在になるには、われわれ自身が神とならねばならないのではないか!」と激しい言葉が続きます。 意味の方です。上に引用した言葉からうかがえるかと思いますが、直接は「人間理性による神の殺害」という事態を指して言っています。始まりはデカルトによる「機械仕掛けの神」。神は精神と肉体の同期を司る存在として、いわば人間の道具のような地位に据えられています。(ANo.6 serpent-owl さん) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>弱い立ち場の弱い者の工作 あるいは ルサンチマンを伴なった奴隷根性 これらをもって《人間は克服すべき存在である》と わざわざ 規定するようになったとしか 思えないのです。 ニーチェより遅かったのかもしれませんが福沢諭吉さんの名言「天は人の下に人を作らず」があります。これは礼を重んじる謙虚を利用して弱者で煩悩を満たそうとする人と楽な百姓(奴隷)根性のことを言ってるのだと思います。特権階級や生きる糧のない貧しい下層にではなく。 少しの贅沢を堪えれば自由になるお金も時間もある「中流階級こそ隷属の同盟に拘束されている。そうなると学識を重んじなくていい。貧乏な百姓こそ学識を役立て研究したり自立すればいいということだと、私なりな解説です。 中流意識は強者に媚を売り、弱者で煩悩を満たして満足しもするが、反骨精神あってのみ学識は役立つ。 よっていくら高学歴でも保身が主な悩みの人に知識がどれほど有効であるか?超人どころか奴隷なままでは実績の学歴詐称?で勿体無いだけです。 >そこで 《超人》を持ち出して来ます。そんなものは 要らないと はっきり言ってやらなければいけなかったのでしょうし ニーチェも そんなことぐらいには 気づかなければいけなかったでしょう。 そうですね。ルサンチマン(妬み、恨む人)というのを新渡戸稲造さんは武士道の中で「復讐の理屈の中には人間の生まれながらの正確な平衛感覚と平等な正義感が数理のように正確に現われている。ギリシャ神話においては敵打ちを超人的な力にゆだねることができたであろう。しかし武士は目上の者か恩人の仇を報いることのみ正しいとされ、自分自身や身内に加えられた危害に対してはこれを忍び許すべきものであるとされた」とありました。武士が仕えているのは超人のようですね。 世界中で未だ絶えないテロ。テロをするのが賢いとは思えませんが超人なのだと思います。 テロは悪いことだから止めろというのは「人間であることをやめろ」です。 弱者といえど人間には無形でも誇りがあったりする。弱者にとって出来ることは服従して尊厳をなくすか、テロをして自分、個人という枠を超えて人間の生き方をするかしか選択の余地がないことが問題だと思うのです。
補足
miko-desiさん ご回答をありがとうございます。 最初から わたしの結論を述べてまいります。 ★ 弱者にとって出来ることは服従して尊厳をなくすか、テロをして自分、個人という枠を超えて人間の生き方をするかしか選択の余地がない ☆ とは思いません。 (1) 《服従》が 《尊厳をなくす》こととは思えません。相手の狂気に 相手がみづから気づくためには 相手に合わせなければならないと判断することは 愚かなことではありません。 (2) 後半は ★ テロをするのが賢いとは思えませんが超人なのだと思います。テロは悪いことだから止めろというのは「人間であることをやめろ」です。 ★ 弱者といえど人間には無形でも誇りがあったりする。 ☆ と合わせて考えるなら まづ (2-a ) 《人間であること》と《超人になること》とは 同じだと見ておられますか? そうではないですか? (2-b ) わたしに言わせれば 両者は互いに異なるはづです。そのつてとしても わたしが言いたいのは 《テロは 貴い人間性を表わす行為だ》とか あるいは 《テロなる戦いこそが 信徒の信仰を表現する聖なる行為である》ですとか そのような観念の王国に逃れ そこで 観念の王者になろうとするような理性信仰は 人間の弱さにかかわりますが ほんとうの弱さではありません。 人間の弱さにかんしては 《誇るなら むしろ弱さを誇ろう》とさえ言う場合を想起しますが それでも いまの精神主義なる理性信仰は じつは 弱さを誇っていません。弱さを誇ろうとして 強くなろうとしています。強くなって 観念の王者になろうとしています。現実に解決しようとするのではなく 観念の想像世界において 解決を夢見ようとしています。(もしくは 現実の結果があると想像するなら それは 敵との共倒れといったところでしょうか)。 社会的強者が その地位や権限をかさに着て 思いのままに振る舞うなら それは 人間であることを やめにかかっています。そうだとするのなら それと あたかも同じように 観念の無幻境に逃れる《強い王者》は――《人間でありつづける》のではなく そうではなく―― 人間であることをやめてもよいと判断した結果なのではないでしょうか? すなわち《超人》という観念の帝王を――いたづらにも―― 目指そうとしています。 したがって ★ 「復讐の理屈の中には人間の生まれながらの正確な平衛感覚と平等な正義感が数理のように正確に現われている。 ☆ とも考えません。復讐心 これは 人間の弱さから来ています。ルサンチマンを持つことじたいは 誰もがと言ってよいほど 一般的であり ふつうのことです。これを 人間のみづからの弱さに誇りを持つことによって 《正確な平衛感覚と平等な(* ふつうの)正義感》を自己のもとに保つ。これが 人間でありつづけることです。 《数理のように正確に現われている》かどうかは 分かりません。《仕返し》は 数理のような正確さがあるのかも知れません。《仕返しをしたいという弱い心とその誇り》は 複雑な過程をとおって あとから思えば 《わだかまりの数理のような正確な解凍そして和解》を手にすると言えるのかも知れません。 ★「武士は目上の者か恩人の仇を報いることのみ正しいとされ・・・」とありました。武士が仕えているのは超人のようですね。 ☆ という場合もあるのかも知れませんが そうではない場合も考えられます。武士は 軍隊組織に属する軍人とは 微妙に違うはづです。武士のいちばんの務めは 上司に諫言することです。みづからの信ずるところに基づき 上司が 人間であることをやめる振る舞いに出たときには これを いさめる。死を覚悟で みづからもその目上の人もまた恩人であってもその恩人も ともに 弱さを誇る人間でありつづけようと 言い張りつづけます。弱き小さな人間という存在 これに 隷属し 隷属しつづけます。死を賭しての諫言が 賢いことなのかどうか分かりませんが どこまでも《小人》なのだと思います。 ゆえに ▲ 天は人の上に人を作らず 人の下に人を作らず。 ☆ と言うのだと思います。みなが 小人であるということです。人間であるかどうかは この務めを果たしているかどうかにかかります。それ以外にありません。この務めを果たす道にあれば たとえ《煩悩を満たそう》と 《楽な百姓(奴隷)根性》を持とうと 《特権階級》の特権を振るおうと それらは それほど大したことではありません。 ニーチェやあるいはデカルトに限らず 部分的には 新渡戸さんも 必ずしも よい影響だけを与えているとは限りませんね。そう思います。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
普段からこんなもんですよ。冴えてないと思われるのは、多分私がいつにもまして「この手の質問はくだらない」というスタンスで回答してるからかもしれませんが。 三段の変化あたりを読んでもらうとわかりますが、「汝なすべし」という精神の支配者に対して<神聖な否定>をするのが「我欲する」です。 とすれば、 >そんな神(=理性信仰の理性なる観念)は もともと 死んでいるというふうに指摘「しなければいけなかった」 とか、 >わざわざ その観念の神を克服「しなければならない」と思いこみ とかいう動機で説明してしまうのはおかしくないでしょうか。 ましてや、「ねばならぬ」を神聖に否定するものは「ねばならぬ」ではないはずです。ここはあくまで「欲する」側の神聖なる否定です。 書かれた動機が「ねばならぬという思い込み」だというように見えて実は違うんじゃないのという思わせぶりな書き方も同時にしているのが「ツァラトゥストラ」なんです。 つまり、brageloneさんはニーチェの二枚舌(三枚以上あるかもしれない)的なものを読み取り切れていないのではないか。一面的な理解に固執しているのではないか。全体を消化せず一部の消化できるところをつまみ食いしているに過ぎないのではないか。独善的に「こう解釈せねばならぬ」にとらわれているのではないか。このへんが助言どころなんですよ。 「全ての解釈をあるがままに受け入れよう」という幼子の精神はおろか、「こういう解釈もできる」という獅子の精神にも達していない。 でもこんな忠告はbrageloneさんにとって盲点であり、何を言っても響かない、糠に釘だろうとは思っています。 かくして処方箋は無駄に食べられてしまうわけですが、自分の言い草をえらそうだと思うくらいにはなったのなら、少しはいい薬となっているのかもしれません。
お礼
nabayoshさん ご回答をありがとうございます。 分かりました。すべて 飲みましょう。おっしゃっていることを 全部 受け容れましょう。 そうしたとき では 答えは 何か? 可能性があるという答え これで 納得しておくべきか? わたしは 自分の出した答えに 自信を持っていますが これだけだと決めつけたくないので こうして 質問しています。ただ それだけです。 ほかに 解釈の可能性があるよという回答だけでは なんとも そのあと お応えすることができません。受け留めましたが あぁ そうですかということになります。 わたしが 分からないだけだという回答を寄せてもらったわけです。その可能性を持ったから この質問をしているわけです。 こうなると 堂々めぐりですよね。 ★ 処方箋 ☆ に すでに なっているとおっしゃるのなら 分かりませんと 正直に 申し上げるほかありません。
ニーチェの言葉で好きなのが「全ての人がそれぞれの力でそれぞれ生かしあう」のようなのがあります。 私のような低知能で怠け者でも探求するのがいいのか、高い知能がありながら下世話な話しかしないで子育てや家事に没頭するのがいいのか比べるのは無意味なんです。それと同じぐらいに理性信仰は誰にも合致して誰もが(その役割や人生が人の心が)素晴らしくなるのとは限らないです。 信じるという観念が立ち上ると、同時に信じている自分を観察する自分が居ます。なので信じていることに気がつけるのです。 すると信じるとは「信じた」ではなく「信じたかのように演じている」ものとなります。 犬や猿やおおよその動物は信じている自分に気がつけません。 自省能力がないので、恋をしても寂しくても、演者たる自分の不在は同時に観察者の自分の不在でもあるので、本能の命ずるままな経験と少しの学習。のみで生きているんだと思います。
お礼
miko-desiさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。おっしゃっていること自体については やはり 突っこみをしたくなりますね。おっしゃろうとしていること その文章の指し示す先をながめれば 分かる気がするのですが。 ★ 「全ての人がそれぞれの力でそれぞれ生かしあう」 ☆ 残念ながら 思い出しません。忘れています。ただ こういう内容でしたら ニーチェに限らず よく聞く座右の銘であるように思いますが。《籠に乗る人 担ぐ人 そのまた 草鞋を作る人》という旧い言い回しもありますね。 はっきり言って これだけでは ニーチェに軍配が上がるとは思えません。 ★ ・・・すると信じるとは「信じた」ではなく「信じたかのように演じている」ものとなります。 ☆ 先の戦争が始まり それが続く間 日本人は 庶民のあいだで 《軍国主義や天皇崇拝》に対して 《信じたふりをしていた》と 戦後に言ったという調査がありました。《理性ないし精神 その崇高な理念なり徳としての美なり その神格化した神》についても 同じことです。 とだけ――つまり そういう内省だけを――明らかにすれば よかったのです。ニーチェはです。そういう弱い立ち場の弱い者の工作 あるいは ルサンチマンを伴なった奴隷根性 これらをもって《人間は克服すべき存在である》と わざわざ 規定するようになったとしか 思えないのです。そこで 《超人》を持ち出して来ます。そんなものは 要らないと はっきり言ってやらなければいけなかったのでしょうし ニーチェも そんなことぐらいには 気づかなければいけなかったでしょう。 おっしゃるように 人間は 動物ですが ほかの動物と同じではありません。そのことだけで じゅうぶんです。 ですから そうではなく ニーチェは これこれこういうことを言っているのだという別の解釈があれば おしえて欲しいと言っています。 miko-desiさんも このわたしの立ち場に立っていただけるのではないでしょうか。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
>《人間は超えるべき存在である》と規定して 打ち出してくる《超人・大河・自然》とは何のことか? うん、これについては私が語るより実際にニーチェの説明を読んだ方がいいとは思いますが、敢えて一言。 >つまり これは 《神は死んだ》というその《神》の代わりになるものでもあるのでしょう。 これ、大間違い。 神の代わりに超人という看板に付け替えました。はい今度は大丈夫です救われます、みたいな考え方で読むもんじゃあないですよ。 トップの首をすげかえただけでは元の木阿弥じゃないですか。 新しいものとは必ず前のものの代わりが来るというもんでもありません。そしてそんな考え方は、陳腐で凡俗なものです。 もしも、首なしで生きる人間が現れたら、超人だと思いませんか? 人間が首なしでは生きられないというのが妄想なのか、人間は首なしでも生きられるというのが妄想なのか、それは相対化して考えるべきところとは思いますけれどもね。
お礼
nabayoshさん 今回は nabayoshさんは 残念ながら 冴えていません。 ご回答をありがとうございます。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり そんな神(=理性信仰の理性なる観念)は もともと 死んでいるというふうに指摘しなければいけなかったのではないか。 そこを そうではなく わざわざ その観念の神を克服しなければならないと思いこみ そのためには 《自然 大河 あるいは 超人であれ》と わざわざ 説くにいたった。・・・(質問趣旨) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう物言いが 基本です。『ツァラトゥシュトラ』は 主著と言われることが多いのです。 もう口をつぐむのが えらそうに言えば 武士のなさけでしょう。 今度会うときは 期待していますよ。(ちょっと えらそうです)。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
brageloneさんはご自身の解釈を、 「互いを 相対性のもとに位置づける効果がある」 ものとして解釈(解釈の解釈)しておられますね。 もしその解釈の解釈が妥当であるならですよ、ものごとを相対性のもとに位置づける人が「いいところ」をあえて探す意図がわからない。 「いいところ」は「悪いところ」ともなりうるだろうから(また逆も真ですが)。 「いいところ」なんていうのは、なんらかの立場の持ち主が決めることですから、相対化する人にとっては不要概念なはずだと思うんです。 >事実などない、あるのは解釈だけ。 自己言及のパラドックスで翻弄しようとされているのかもしれませんが、このニーチェの発言自体が事実なのか解釈なのかということを問うのは論理的に誤謬なのです。 よしんばそれを通したとして、「今度は こちらの勝ちになるかも知れません」というのは見当違いです。なにしろ、いかようにでも解釈できる空間では、勝ち負けの判定自体がナンセンスなものになりますから。 論理だけの問題、という言い方も腑に落ちないものです。 その論理は、理性に由来するものなのか、そうでないのか。 もし前者ならば、デカルトにしてもニーチェにしても、理性信仰の輪郭を攻めて論じることは自縄自縛(あるいは向天吐唾)行為だと思います。 もし後者ならば、それこそ言ったもん勝ち(=勝負なし)で、Q&Aにもなんにもならないのではないかと思います。 自爆かナンセンスかという迷宮にハマりこんでいるように私には思われるけれども、brageloneさんはその迷宮にいるという意識はなさそうです。 私としてはそんなbrageloneさんの問いに対して、客観的な診断(解釈)はできても、処方箋の書きようがありません。仮に処方箋を渡してもそれを食べちゃうでしょうから。
お礼
nabayoshさん ご回答をありがとうございます。 前回わたしの見落とした点は 論理の問題だと指摘したあと その説明をしただけで お応えを終えてしまったことです。それなら 論理の返しが 永遠につづくでしょう。 こういうふうに 別様に お尋ねすればよいのです。つまり ○ 《人間は超えるべき存在である》と規定して 打ち出してくる《超人・大河・自然》とは何のことか? これです。 つまり これは 《神は死んだ》というその《神》の代わりになるものでもあるのでしょう。 わたしの結論は やはり《超人》も 観念であるというものです。妄想だと言いたいところです。それは それとして 主観の内において――相対性の原理のもとに――尊重されるでしょうが いかにも それが批判した《観念の神・理性信仰》と変わりがないという評価は 少なからず共有されるものと考えるからです。その議論の自由は ふつうのことです。 ですが ニーチェ研究の専門の人たちの中には なお別様の解釈を持っている方がいるかも知れない。それだから 尋ねているわけです。ごく単純なことだと思いますよ。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
> 世は 理性信仰 つまり 理性なる神 理性という神が はびこっているところへ その観念なる神は観念なる神であるに過ぎないと指摘しつつ 観念の神は死んだと言ったのではないでしょうか。 ニーチェ曰く、「事実などない、あるのは解釈だけです」。 この質問文もまさしくbrageloneさんの解釈なわけで。 解釈してみたところこんな出来過ぎた図式が見つかった、これって茶番じゃないの?、という提案ってどうなんだろう。 私の読み方が悪いのかもしれないけど、「理性信仰」批判という軸に沿ってご都合主義な解釈をしてませんか? 私にはどうしても、brageloneさんの質問の方が茶番に思えてならないんですよ。 回答者が何かニーチェのいいところを挙げるでしょ。 でもそれがbrageloneさんの解釈によって消化されて、いいところではないものにされてしまうんじゃないかな。 解釈を語る人はなんのために解釈を語るのか。 強いて挙げるならニーチェはそういう反省を与えてくれる思想家だと思いますが、それをいいところだと思わない人には全く効かない薬です。
お礼
nabayoshさん 今回のご回答は――まづは ありがとうございます―― 論理だけの問題になるように思いますよ。 けっきょくのところ ★ 「事実などない、あるのは解釈だけです」。 ☆ と先に言ったもん勝ちという判定をくだしておられる。 その論理なら もう ぐうのネも出ません。 問題は あるとすれば ★ 「事実などない」 ☆ ということが 果たして 《事実》であるのか はたまた 《解釈》にすぎないのか。というように先に言えば――このように先に言ったなら です―― 今度は こちらの勝ちになるかも知れません。そういう論理上の争いであるように思われますが? そうですよね? もし事実であれば 最初の命題は まちがっている。事実でなく解釈であれば あと先に関係なく そのすべての解釈は 互いに同等のものであり 相対的な見方のもとにある。こういうことになりませんか? ですから わたしの解釈は ★ 全く効かない薬 ☆ では 必ずしも なく 互いを 相対性のもとに位置づける効果があるはづです。一本ですか? 有効ですか?
- 1000827313
- ベストアンサー率30% (7/23)
brageloneさん コメント有難うございます。何時もの事ながら言葉足らずで申し訳ありません。私としては自分の考えをまとめるには良い機会を何時も与えていただいていると思っています。 ニーチェは最終的には肺炎で死にますがその前の狂気に到るまでの事を考えて見ます。彼が生まれて初めて旅行したイタリアで「此処は知っている!」と叫んでいる事や、同じような既視幻覚の発作を何度も繰り返していました。この彼にとって不思議な体験(Erlebnis)が、「人間には太古からの記憶が宿されているのだ!」と結論付けたと考えられています。これが“永劫回帰”の元になったのかなと考えています。 勿論普通の人にもこのような経験はたまにはあります。これを本人がどのように解釈するかは分かりかねますが、私の場合は「変な事もあるものだ。」と放置してしまい、残念ながら以後ありませんが。しかし、彼の場合は典型的な側頭葉癲癇発作である既視幻覚発作の繰り返しです。最終的には幻覚・妄想状態を呈する精神異常に陥るとされているそうです。 ですから、コジマが言うように「あの人は病んでいる重い病人だ。」との観察は鋭いと思いますし、一方バタイユの言うように「彼の思考が狂気に陥れた。」と考えるよりその逆が成り立っているのかなと思います。 流転する世界を、流転する真理は権力への意志であるとする考えは、悲劇の誕生と言うより、喜劇の誕生のようにも思えます。 またまた勝手な言い草で申し訳ありません。これからも宜しくお願いします。
お礼
1000827313さん ご回答をありがとうございます。 なるほど ほとんど最初から 病理のほうが 大きく影響していたという見方ですね。 何を隠そう わたしも 最初読んだとき 《友よ!》と呼びかけている詩のような文章に接して――どなたかも 言っておられたように―― なかなか 暖かい息づかいを感じさせるんだなぁと思ったものです。 良さそうだと思ったわけですが どういうわけか 少し 次の作品を読むには 間を置こうとも考えました。だんだん 分かってきたことは この暖かいと感じさせる感じの良さは 少し 濃度が濃すぎはしないかという新たな感触です。(わたしの本性は じつは 実に 感覚人間です)。 あとは 読んでも 批判的に なんとか分析してやろうという読み方でした。(それにしても 日本人の研究者の解説は ニーチェ本人以上に ニーチェを擁護・宣揚していると――しかも なかなか 静寂な志向性のもとに成功しているかに思われます―― そのように 受け取られます。これがあるので やはり 全作品を読んで判断しなければならないと思ったものです)。 権力への意志も 単純に――ただし ほんの一ニ箇所ですが――《生命の力 生きる意欲》と感じられたところもあったのですが なかなか言おうとするところを理解することがむつかしかったのでした。 いやぁ もしおっしゃるように初めから 何らかの兆しがあったのなら 逆に同情する気持ちにもなって来ますが そのまた逆に これまで同情しすぎていた方々は 文章に即して その読み取りをしていただきたいと思います。 そして 夢物語としては――デジャヰ゛ュ→幻覚→発作→・・・という――このような病いにも 医学のほかに・とともに 思惟の薬が効くものならば そういう互いのコミュニケーションということを これからも 大いに 顕揚していきたいものです。 * それにしても 《永劫回帰》等々 まだまだ それらの言葉としては 流通していますので それに こちらも まづは 合わさなければならないのは 続くのでしょうね。(たとえば 女優や歌手に 美人でもないのに マスコミは そういう札をつけて触れると 一般の人びとも それに合わせますし その人びとに こちらも まづは 合わせなければならないようになります)。
- 1000827313
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brageloneさん 素っ気無いお返事ですし、お聞きになりたい回答とは異なっていると思いますが敢えてご批判を頂きたく書き込みます。 ニーチェは癲癇でした。従って既視幻覚に何度も襲われ、そこで“永劫回帰”などの体系を作り上げました。Pathographyとしては面白いです。これが私にとっては良いところでしょうか。 又「神は死んだ。」と言いましたが、彼にとっては神が死んで消滅したわけでは無さそうで、日本人風に言えば「魂魄この世に残り・・」のように考えていた形跡はあると思いますが・・・
お礼
1000827313さん ご回答をありがとうございます。 そうなんですか。晩年の病いははっきりしていますが ★ ニーチェは癲癇でした。従って既視幻覚に何度も襲われ ☆ というのは 聞いたことがなかったです。忘れたのかも知れませんが。病歴の詳細が その分析を可能にしているということでしょうか。 しかも その影響は 《永劫回帰》の考え方に及んでいるのだと。これも なんとも 受け止め難かったものです。木や草が 時がめぐり来ると また 葉を茂らせて花を咲かせるというような そのことに 人間の生をたとえるとは それを なんと理解していいのか分からなかったものです。 つまり ところどころには 心に響く文章を書いてはいるので 人びとも 簡単には葬り去れないのでしょうが なんとも 受け容れがたい思想だと思うのに 逆に 人びとは それを迎えに行っている。これが またまた なんとも 扱い難い現象だと思っていました。 『アンチ・クリスト』でしたか これは はっきり言って 支離滅裂ですが 時には クリストの側に立つというような思いが出ていたのではないでしょうか。そのことと ★ 又「神は死んだ。」と言いましたが、彼にとっては神が死んで消滅したわけでは無さそうで、日本人風に言えば「魂魄この世に残り・・」のように考えていた形跡はあると思いますが・・・ ☆ と関係しているようにも思えますが どうも ちがった問題であるのかも知れません。 ともかく 《超人》は ふつうの生活態度にとって 余計であり余分であるとする評論はないのでしょうか。ないとすれば 不思議に思います。思いつづけて来ました。 なかなか 鍵を握るかのような情報を得ておられるのですね。ありがとうございました。これからもよろしくどうぞ。
補足
再考のあと補足です。 病的な状態に落ち入って あたかも啓示を受けたかのように(むろん そうでなくて よいわけです) 合理的なことを思ったり表現したりすることは あるかも知れません。 要は その結果としての言説が どのように経験科学にもとづいて解釈されるか つまり 妥当であるか これにかかっていると思います。 そういう意味では 病理のほうは 病理のほうで 研究するということでしょうし 思想は あくまで思想じたいとして 取り上げ 中身がどうであるかを 吟味するということだと考えます。
- dulatour
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学生のころ、荒んだ私の心に優しく寄り添ってくれたことです。 神は死んだ。お前は自分としてしっかり生きよと励ましてくれました。 随分助かりました。 ありがとう。ニーチェ・・・・
お礼
dulatourさん ご回答をありがとうございます。 そうですか。そうなんですね。つまり おっしゃるようなニーチェ体験は かなり多そうに受けとめています。 水を差すかも知れませんが 真実は こちらにあるという自負において あえて お尋ねしてみます。ご回答は ご自由です。 ★ 神は死んだ。お前は自分としてしっかり生きよと励ましてくれました。 ☆ という体験のあと つまり 励まされたあとのご自分において 神は生きているというふうに捉えることは なかったですか? まやかしの神が死んだのだと気づくという後知恵のようなことですが。 そうでないニーチェ理解は わたしには 解せないのです。つまり 百八十度 反応や対応が わたしは 多くのニーチェ読者と異なるのです。 参考にします。ありがとうございました。
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補足
momonga14さん ご回答をありがとうございます。 わたしは いつも 水を差す役回りです。いぢわる好きですので 似合っているかも知れません。 かくて 一点だけ きわめてきちんと整序されたご議論に対して 矢を射るというまでのご批判を加えます。 ● 「神は死んだ、我々が殺したのだ」と叫びます。最も聖なるものをわれわれは殺した、誰がこの血糊をナイフから拭うことができるのか…そして、「この殺害にふさわしい存在になるには、われわれ自身が神とならねばならないのではないか!」 ☆ このように ● われわれ自身が神とならねばならないのではないか! ☆ という言い草に 《超人》につながる思考形式があるように思われます。 ★ ・・・「真理を獲得したのはオレだけだよ。」と言ってることとつながってます。 ☆ とおっしゃるとおりのことだと思います。 この部分がなくて ただ おとなしく ▲ 神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 《わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、 / 賢い者の賢さを意味のないものにする》(イザヤ書 29:14) と書いてあるではないか。 ☆ とだけ言っていれば ふつうに有効だったと考えるのです。 ★● 「真理は私が獲得するものではない。真理が私を訪れる。」 ☆ というとき――くどいように 繰り返しますが―― 《真理が私を訪れる》の表現が その中身として 二つの場合に分かれると思うのです。 《我れにこそ 訪れる》という姿勢 あるいは 《真理が 向こうから やって来たその私》と自己主張する姿勢 これが 一方にあり 他方では 《どうも 我れは 真理に 狙いをつけられたようだ。あぁ 信仰が与えられてしまった。かくなる上は かれ(真理)に 生涯 仕えなければならない》という自己の同一性にとどまる姿があると考えます。 後者は 真理をつかんだとは 言えないと知っています。真理につかまれたわけです。真理を見たのではないと知っています。真理に知られたと知ったのです。知識ではなく 非思考としての信仰が与えられたと 体と頭とが知ってしまった。そういう意味で ★ 古代ギリシャ哲学の知も、近代合理主義の知も、あっさり否定しているということです。 ☆ となると思うのです。自分で否定したり 批判し切ったという意味でもないと思われます。逆に そうであれば それらの学知を すべて 生かしていくことが出来ます。 こうなると 信仰者は 一種のキツネ憑きであるかも知れません。しかも ここに憑いたキツネは 自己を 一介の人間であることに つねにとどめておく力を持つものなのでしょう。 ▲ 自分の持っているもので もらわなかったものは あるか。 ☆ ということで すでに すべてを 与えられていると受け取っている者です。そこでなら ◆ “足るを知れば辱められず、 止まるを知ればあやうからず。” ☆ と言っても だいじょうぶなのではないでしょうか。《自己でないものは いっさい 要らない》と言っています。ところが ニーチェは これこれが必要である。それを得て 自己を作り変えなさいと言っているように思われます。 まぁ もしこうであるなら かれは 分かり過ぎた男だったのかも知れないと言ってやっても やはり褒め言葉にはならないでしょう。どうしても どこかに 余分なもの・余計なものが ついて回っているように思うのです。 ちょっと 想像だけの話になったところがあるかも知れません。が 以上のように考えることを棄てるまでには至りませんでしたと つつしんで 申し上げます。