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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》)

見張りの者よ 今は夜の何どきか?

このQ&Aのポイント
  • 尋ねられたとき、見張りの者は答えました。
  • 夜明けは近づいているが、まだ夜であると。
  • 現代についての見方や問題について語ってください。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#189751
noname#189751
回答No.28

ありがとうございます。 Bさんが何故、宗教色を否定しなかったのか少し不思議な感じがします。 >夜へと・・渡されない そうなんでしょうね。 人同士が時を尋ね合うことが 夜という時間はあっても 暗闇をくぐり抜けてしまう言葉の力を表しているようです。 暗闇の中から現れて 暗闇を超えてしまう言葉の力とは 意識や言葉が光でもあるというような感じにも思えます。 逆に見れば 暗闇であってこそ 言葉が光でもある ということなのでしょう。 人同士の共有性を重んじる Bさんらしい言い方とお受けしました。   宗教色へのこだわりは ここにおいて 普遍性という見方からすれば あまり意味がない という事なのでしょうか。 私は意図的に色付けした わけではないのですが 結果的にそうなってしまった。 その事を感じ取られていたのでしょうか。 ヨブの栄光と挫折の一節の中で 目についたのは >29:15 わたしは見えない人の目となり      歩けない人の足となった。 このへんが 一つのピークにも感じられます。 Bさんの仰る共有性の最もたるところのようです。 共有性における普遍性とは 宗教という色に自由に変えることができるのでしょう。 私の書いた文章における宗教色を否定しなかったのは 普遍性というものを 宗教的に限定したくなかった、閉じ込めたくなかった からでしょうか。 もしそうであるならば ナチュラルな立場を貫く という感じで受け止めることもできるのですが はめをはずす というか (批判も含めて)もっと自由になさってもいいように感じました。 無宗教における普遍性とは、それが一歩踏み出すためにある そんなふうにも思います。 試しに一歩踏み出してみることにします。 ヨブの栄光と挫折の物語は そのまま人の一生のようでもありますね。 実時間と思っていたものが 人に与えた最後のものは 老死という悲惨であったのでしょうか 般若心経に説く 是のゆえに、空の中においては・・・・・老死も無く、老死が尽きて無くなることも無い 輪廻も無く、輪廻が尽きることも無い 時間も無く、時間が尽きることも無い  と読めないか 空という実時間の中において、宇宙の内面時間が尽きることも無い  と読めないか 愚かな冒険ですね (お笑いください) 確かな実時間と思っていたものは この宇宙の内面時間であったのかもしれない と思ったのは直感でしたが そう思って周りを見渡すと 雲の流れも、風も すべてが宇宙の運行という時間のように思えたのです。 自然現象の運動が 宇宙の内面時間そのものの現れであるのかもしれない といった感じでした。 さて ヨブの嘆きは 実時間への嘆きでもあったのでしょう。 避けようのない老死の訪れという 実時間への嘆きです。 楽しい時には早く短く 苦しい時には遅く長い という内面時間から見た実時間です。 実時間とは つまるところ苦をもたらすものである というネガティブな感覚です。 ヨブの苦しみへの対処は書かれていませんが さて どうなったのでしょう。 若い時には 自らの内面時間を基準にしてもよいが(問題ないが) 年を取ったら 実時間という大きな生きた時間を基準に 自分を合わせるべきではないのか それが出来なければ さらに苦しみは増すばかり そんな問いかけにも思えてきます。 種々雑多 まとまりませんね 今のところ そんな感じです。 般若心経を取り出してみましたが これ以上は宗教に絡めた話をしたくない感じもあります。 それでいいのではないのか といった感触をもっています。 批判を怖れているわけではないのですが どうも あまり言いたくない のが本音です。 自分自身の内面時間の刻みを伝えたくない・・ 自閉症みたいです。 人に一歩踏み出せ と言っておきながら 自分ではほんの少ししかできない 年ですね それでは。

bragelonne
質問者

お礼

 何と言いますか あばうと72さんの内面時間には負けますね。まづは ご回答をありがとうございます。  そう感じ受け取って思うことは むしろわたしの内面時間は ない。のかも知れない。ということでした。  《固有時》というのは 誰にもあると思っていました。  ですから わたしにもみづからの《とき》があると思っていました。  べらぼう話をするなら その《とき》が満ちるなら わたし自身にとってもその《つとめ》がさらに明らかになってそのことにいそしむようになる。こうも望み見ていました。  でも考えてみれば すでに《永遠のいま》ということも 口をついて出るかのように 出ています。  だとしたら いまが問題である。どうして未来や将来のことを 見やっているのか? どうして いま・ここに居ないのか?  つまり あばうと72さんご自身の内面時間は それがどうであると示されてはいないと言うべきでしょうが しかもそれがあると感じさせるようなのです。いま・ここ です。  といったふうに受ける感じは けっこう わたしにとって こわいですね。ふと なにか・どこかわが内面において欠けるところがあったのかなって。  ★ 人に一歩踏み出せ と言っておきながら 自分ではほんの少ししかできない  ☆ というご表明にかこつけて言うなら わたしはすでに――勝手なことをほざきますが―― 一歩も二歩も自分勝手に飛び歩いているようだとも思い知らされるところがあります。だれかの掌の中を孫悟空のようにかなと思わされるような。  もっと告白をつづけるなら:   外の宇宙の実時間あるいはそれにも内在する内面時間について それをあなどっている。つねにと言っていいほど――自分の内面時間がないかのようであるゆえになのか―― 外の時間ないし世界を おちょくっている。のかも知れないと 思い知らされました。  そういう側面というのは 宗教と言いますか信仰と言いますか あるいは ふつうのことばで言えば 永遠といったほどの時間観にかかわっているであろうとは思います。  ★ ~~~~  時間も無く、時間が尽きることも無い  と読めないか  空という実時間の中において、宇宙の内面時間が尽きることも無い  と読めないか  ~~~~~  ☆ といった世界感覚ではないかと。  ですから もし先ほどの《おちょくり》について自己弁護をするとすれば この宇宙感覚の中で泳いでいたし踊っていたりするのではないかとも思います。  ★ ~~~~~  確かな実時間と思っていたものは この宇宙の内面時間であったのかもしれない と思ったのは直感でしたが  そう思って周りを見渡すと 雲の流れも、風も すべてが宇宙の運行という時間のように思えたのです。  自然現象の運動が 宇宙の内面時間そのものの現れであるのかもしれない といった感じでした。  ~~~~~~~  ☆ ヨブのその後の話をも合わせて 引いてみます。  まづこのヨブという男は それでもなおも身の潔白をうったえます。  ◆(ヨブ記 31:4-6) ~~~~  4: 神はわたしの道を見張り   わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。  5: わたしがむなしいものと共に歩き   この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら  6: 正義を秤として量ってもらいたい。   神にわたしの潔白を知っていただきたい。  ~~~~~~~~~~~~  それに対して 友のひとりが反駁しようとします。  ◆(同上 36:20-23) ~~~~  20: 夜をあえぎ求めるな。   人々がその場で消え去らねばならない夜を。  21: 警戒せよ   悪い行ないに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは   まさにこのためなのだ。  22: まことに神は力に秀でている。神のような教師があるだろうか。  23: 誰が神の道を見張り     「あなたのすることは悪い」     と言えようか。  ~~~~~~~~~~~  こうして議論は神じしんが引き取り むしろヨブを叱りながらも ヨブのうったえる姿勢をたたえます。  ◆(同上 40:6-14) ~~~~  6: 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。  ・・・・  12: すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き   神に逆らう者を打ち倒し  13: ひとり残らず塵に葬り去り   顔を包んで墓穴に置くがよい。  14: そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。   お前が自分の右の手で 勝利を得たことになるのだから。  ~~~~~~~~    直接にヨブを神がたたえるのは さらにあとに出て来るようなのですが  さて 先ほどの  ★ 自然現象の運動が 宇宙の内面時間そのものの現れであるのかもしれない といった感じでした。  ☆ にわたしの感覚が反応しました。次は 《自然現象》ないしその中の或る生物(レビアタン)のことを言いつつ しかもそれは広い意味での宇宙を表わし しかもほかならぬこの身近な世界・われわれの暮らす社会のことを言っているようにも映ります。あるいは 国王ないし国家のことでしょうか。  ◆(40:25-32;41:1-2) ~~~~  25: お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ   その舌を縄で捕えて 屈服させることができるか。  26: お前はその鼻に綱をつけ   顎を貫いてくつわをかけることができるか。  27: 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い   丁重に話したりするだろうか。  28: 彼がお前と契約を結び   永久にお前の僕となったりするだろうか。  29: お前は彼を小鳥のようにもてあそび   娘たちのためにつないでおくことができるか。  30: お前の仲間は彼を取り引きにかけ   商人たちに切り売りすることができるか。  31: お前はもりで彼の皮を   やすで頭を傷だらけにすることができるか。  32: 彼の上に手を置いてみよ。   戦うなどとは二度と言わぬがよい。  41:1 勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。   見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。  2: 彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。   いるなら、わたしの前に立て。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~  宇宙の内面時間とわれわれ一人ひとりの内面時間とが 一体であると言いますか連動していると言いますか。  まさにこの社会のシガラミのただ中に戻って来た恰好になりましたが。・・・

その他の回答 (37)

回答No.38
bragelonne
質問者

お礼

 世代交代は いつもあるかと。

回答No.37
bragelonne
質問者

お礼

 そこまでの問題をここでどう見るかまでは。

回答No.36

ベストアンサーが選ばれそうになっている頃合いでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC

bragelonne
質問者

お礼

 そうかも知れません。  ▲(ヰキぺ:ソフト・パワー) ~~~~  (Soft Power)とは、   国家が軍事力や経済力などの対外的な強制力によらず、その国の有する文化や政治的価値観、政策の魅力などに対する支持や理解、共感を得ることにより、国際社会からの信頼や、発言力を獲得し得る力のことである。   対義語はハード・パワー。  ジョセフ・ナイはソフト・パワーを提唱し、ソフト・パワーを構成するものとして三つの要素を掲げている。  ひとつは、その国の有する文化である。  その具体的な例として文学や美術、高等教育などのエリートを対象とする高級文化や大衆の娯楽などの大衆文化が挙げられる。  ナイはその国が有する文化の価値観に世界共通の普遍性があり、その国が他国と共通する利益や価値を追求する政策をとれば、自国が望む結果を獲得することが容易となるとし、一方で偏狭な価値観に基づく文化では、ソフト・パワーが生まれにくいとしている。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~

noname#189751
noname#189751
回答No.35

☆ 《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》 ★ すでに あなたの足元に時は知らされています    暗闇への怖れが消えた今 私に時を尋ねる必要はございませぬ    あなたの足元に 光なき光が差しているからです。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  いえ。しょうじきわたしは 知っていません。  むしろ将来のほうを見つめようとするほどです。  でも たしかにおかげさんで 闇は照らされてある。すでに光が差しているかに思います。  ということで ここは一たんお開きにしたほうがよいかも知れません。  いますこし開いていて 閉めます。

noname#189751
noname#189751
回答No.34

なかなか終りませんね。 というより 終りはないのでしょう。 次々に生じる問いかけもまた「時」のように感じられます。 Bさんにとっても 私にとっても 終りのない問いかけとは 終わってはならないもの として捉えたほうがいいのかもしれません。 >《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》( Y‐Z )は もしそれがあるとするなら 真理( X )へ開かれた窓であるかも知れない。 難しいですね。 言葉は満ち溢れているのに Bさんが求めておられる、そのような言葉とは 果たしてあるのでしょうか 以下、自由な展開になりますが 解釈とは、それを行う者の立場を表しているものですが 解釈の浅深は 同時に 人の浅深でもあるように思います。 言葉についても同様で 通常は 相手がどう解釈するのか という前提を基に言葉を発しているわけです それは 相手の解釈の程度によって 言葉が選ばれている と見る事もできると思います。 言葉がそのように正確に用いられているならば 一人歩きをしないわけですが 実際には そうでもないようです。 いわゆる 悪い意味での勝手な解釈とか 良い意味での深い解釈とか 日常茶飯事的に数多く見受けられるからです。 何気ない言葉から 深い意味を感じることもあれば その反対の場合もあります。 言葉を発する側と、受け取る側とにおける言葉の解釈の違いによって 様々なことが起きてしまうようです。 Bさんの仰る 《言葉・・真理への窓》 とは どこにあるのでしょう。 どこにも無い とすれば 逆にそれは どこにでもある のではないでしょうか 言葉や概念の解釈において 「深秘釈」というような言い方がされる事がありますが それは目に見えない解釈がすべてに潜んでいる という可能性を示しているようにも思います。 知ると知らざるも 浅いも深いも 人次第 と言えば厳しくなってしまいますか。。 以上の、これらの考えのヒントを与えてくれた人の言葉の断片を記しておきます。 《一字に千理を含み 即身に法如を証す》 ラジカルですね こう言い切れる人を 私は他に知らないのです。 とても追いつけない すべての言葉に真実は秘められている と  だいたい そんなものかと 鳥の声を聞けば 薄々感じる程度です。 私もBさんと同じように >・・・旋回・・・ なのかもしれない 《見張りの者との対話》 夜明け前 ☆ 見張りの者よ    夜明けはいつ来るのであろうか ★ 暗闇が消え去る時です ☆ 暗闇はいつ消え去るのか    暗闇とは なぜ消え去るものなのか ★ 暗闇は あなたの背中に隠れましょう    東の空に向かう時 あなたの影となりましょう    大いなる影が 小さな影となる時です    大いなる影を 小さな影に閉じ込めるものが現れるためです ☆ 汝の知る 大いなる影とは何か ★ すべてに眠りを与え 眠りにつかせたものです    長い時が そのままであってはならぬと 与えられた大いなる闇でございます Bさん そろそろお別れの時が来たようです。 勝手をお許しください。 良い勉強ができたように思います。 ありがとうございました。 Bさんの時間に幸いあれ。

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ただちに次のくだりを思い浮かべました。ので かかげます。  ▼ (出エジプト記  33章) ~~~~~~~    20: また言われた。    「あなたはわたしの顔を見ることはできない。    人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~  ▲ 33:23 あなたはわたしの後ろを見る  ☆ 《背面を見る》そうです。  それまでは 何ものかの手がわれわれを覆っていた?  ▲ 33:22 ~~~~    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  ~~~~~~~~  ○ ~~~~  ☆ 汝の知る 大いなる影とは何か  ★ すべてに眠りを与え 眠りにつかせたものです    長い時が そのままであってはならぬと 与えられた大いなる闇でございます  ~~~~~~~  ☆ 《まど》でしょうか?  ★ 《一字に千理を含み 即身に法如を証す》  ☆ これは 《窓》である以上に 背面が見える以上に でしょうか。  ありがとうございました。  今回はこのあたりにてでしょうか。

回答No.33

差部が正当化されてきた暗黒時代からの絶対的な夜明け…!? http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120927-00000000-mai-soci.view-000

bragelonne
質問者

お礼

 《絶対的な》ですか?  たぶん西欧人たちは そのように思っていたところ ナチスの民族根絶やしの事件が起こって 時計は逆に進んだと思ったらしいです。へこんでしまったらしいです。  三分割法で ひとつには 行きましょう。  あたらしい同感と 浮動層の共感と そして反感反動と。

回答No.32

見張りの部署もがWANへと繋がっている、という状況の下での話題が此処で展開…!? http://ja.wikipedia.org/wiki/Network_Time_Protocol

bragelonne
質問者

お礼

 そうすると どうなりましょう? 

noname#189751
noname#189751
回答No.31

付録 内面時間とは 感覚情報を単位として生じる 内的な時間性 実時間に対してのヒューマンな時間性 解説 感覚による情報の区切りが 一つの時間の単位として認識されている状態 五感や思考における区切りは 集合的、複合的であり それらに伴って時間の単位が認識されている 感覚の遮断においても 記憶情報に基ずく それらの時間の単位は存在する 情報量の増加は 情報の区切りの増加であり 同時に 内的な時間の増加として認識される 情報量が通常より著しく増加した場合には 実時間とのズレが認識されやすい 通常における内的な時間は 情報量に伴って 一定の範囲を保ちつつ常に変化している と考えられる 内的な時間性は 人間的な時間性であり 非生命的な時間性に対して 生命的な時間性とも言える 内面時間とは 万人の内に存在する

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 内的な時間  ☆ を《ことば》の種類から考察した文章があります。それをわたしがつぎはぎしたものです。  わたし自身には《時間》として捉えるよりも 身近に感じられる存在観についての捉え方だと思って かかげます。    *    *    *  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》( Y‐Z )は もしそれがあるとするなら 真理( X )へ開かれた窓であるかも知れない。      *  《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。  《疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  有限・可変的・可謬的ながら 人間の得得る真実のことば( Y‐Z )だと考えられる。  《けれども このことばが いかに なぞの真理のことば( X )から遠いかを わたしは 見なければならない。》      *  今このようにわたしが思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。  思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。  《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟を及ぼすこと》と いづれも ある種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》ようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解とは別に 解は もはや あたかも どうでもよいと思わせるかのように 奥のほうには 真実のことば( Y‐Z )が 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。そういうイメージが起こる。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしは なお このわが《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》( Y‐Z )をも超えて その窓を 開いて行かねばならない。    (アウグスティヌス:『三位一体論 DE TRINITATE 』中沢宣夫訳。1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479を読んで 覚書したものです。意訳・変更している箇所があります。)     *    *    *  情報や知識やあるいは知恵のさらに奥の何らかの《ことば》です。そういう時間もあるかも知れない。  しかもそのことば・その時間をさらに超えて行かねばならないのではないだろうか? といった感想です。

回答No.30

ネットワークタイムサーバーの安全性が保証されていませんと、 自前の時計の挙動の最適化の可否が…!? http://okwave.jp/qa/q5836454.html

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 自前の時計  ☆ とは何を言うのでしょう?  それと   ★ ネットワークタイムサーバー  ☆ との関係・つながりは どういうふうになっていましょうか?  よくは分かりませんでした。

noname#189751
noname#189751
回答No.29

☆ むしろ わたしに内面時間はない。 ★ 時計を二つ持つより むしろ 一つだけの方が良いとは思いませんか      (悪魔のささやきが客観を生む) ☆ 《固有時》というのは 誰にでもあると思ってました。 ★ 炎は消えるまでに 必ず一度は燃え盛る    けれども 炎は その時がいつ訪れるかを知ることができない ☆ いま・ここです。 ★ 過去でもなければ 未来でもない    そして その思いは続かない    時の見張りは 次々に生まれてゆく 生まれ変わってゆく ☆ 孫悟空 ★ 汗をかいて働く  それでいい    山に登る     それでいい    精一杯話す    それでいい    迷いのない時間は 後で分かる    掌が見えない方が幸せかもしれない ☆ 外の時間ないし世界を おちょくっている。 のかも知れない ★ 無明という暗闇の中の見張りに 肩を叩かれた    振り向いても 誰もいない    あなたが言葉を発したときに 見張りは現れる ☆ シガラミのただ中に戻ってきた ☆★ 宇宙の内面時間とわれわれ一人ひとりの内面時間とが 一体であると言いますか 連動していると 言いますか だいたいこのへんでしょう。 たぶん。 皮肉を申し上げて失礼いたしました。 それでは お元気で。 おっと忘れ物 私の内面時間 ですが 私に代わって 小鳥が話してくれるかもしれません 朝明けると まっ先に鳴いているやつです だいたい おおよそ ですが。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。ご回答をありがとうございます。と感謝の意を表しまして。  思ったことは――感じたことは―― 《客観》をむしろ問い求めておられる。のかも知れない。でした。  ただひとつの原理に固執すべしなどという悪魔のささやきから自由な時間としてのです。  いづれにせよ 《真理》を問い求めておられる。  では わたしは そうではないのか?    たとえばそれとくらべるなら 真理の道を――勝手にすでに思い込んで――あるいている。です。  脱線することは出来ない。どうあがいてももがいても脱線することは――真理のほうからの《見張り》のもとにあって〔と信じてうたがわないかたちにおいて〕―― ありえない。というかたち。  だからなのか。だからといった理由づけを超えてなのか。踊ったり宇宙遊泳をしたりしている。  でもこれは ときどき気づくこととして あたかもサーカスの出し物として手を変え品を変えしてのごとく その見世物であることに精を出すことではないか。    内面時間がないということは そういうことではないか?  世の中の屑として宇宙遊泳している。すがた。  あさはやくさえづる小鳥の鳴き声は 人びとのあとから最後に聞くことになるにんげんなのか? (と言うと すこしは恰好をつけ得たかな)。

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