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宗教の違う者同士で仲良くなれますか?
哲学コーナーに質問しようと思ったのですが、社会学的な見地から実現可能か知りたく、こちらに投稿させていただきました。 よろしくお願い致します。 今ある、多国籍国家の共生社会を見ていると、相手を理解するというよりも、お互いに不干渉を心がけているだけのように感じます。 例えば、キリスト教・イスラム教・仏教などを心から信仰している者同士で相手を理解しながら、結婚や家族、親友など本当の意味で親しい間柄になれるものでしょうか? なお、私自身は、今の科学が最も自然の摂理を上手に説明していると信じていますのでこれを宗教の一種と考えています。また、各国の若者と話す時も、科学を基本にしている人が多く宗教が大きな対立になったこともない(話した数が少ないのでサンプリングとしては不適当)のですが、それはある意味で、科学という共通の宗教を信じているからだと思っています。 逆に、共通ではない宗教(or敵対する宗教?)を信じている者同士でお互いの宗教も含めて理解し合い親しい間柄になれるのでしょうか?
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18番です。 > 心の奥では科学に改宗する人が増えつつあるのではないかとさえ思っているのです。 もともとαという宗教を信仰していた人Aさんと、βという宗教を信仰していたBさんがいて、両者がどうしても同意できずに対立することがあるとしますよね。 AさんもBさんも「科学という宗教に改宗」してしまったら、もはやAさんはαを信仰していないし、Bさんだってβを信仰していない。AさんもBさんも「科学」という宗教の信者なわけです。 ですから、矛盾していないというあなたの主張は成り立ちません。 AさんとBさんの行動は、αとβという二つの宗教の間の対立を解消したのではなく、単にαやβを捨てて別の宗教に乗り換えただけですから、依然としてαとβの間にある対立は解消されないままとなります。
12番です。 > また、科学が言語のように思えるのことですが、私は、これについては明確に違うと思っております。 それはあなたの質問文と矛盾しています。 異なる宗教間の対立を第三の宗教が取り持つということはありえないからです。なぜなら、それはどちら側からも信仰されていませんから。 もしありえるというのなら、それは日本のように多神教の場合に限られます。 二者をつなげるものがあるとすれば、宗教では対立するが宗教でない部分で共通する部分によってコミュニケーションをとるという手段がとられるはずだからです。
お礼
回答いただきありがとうございます。 矛盾はしていないと思います。 だからこそ、本人が気づいていない間に、心の奥では科学に改宗する人が増えつつあるのではないかとさえ思っているのです。実際、科学はまだ宗教として認識はされていないと思います。 または、対立しない共通する部分でコミュニケーションを取っているかのように思います。 実際、科学で正しくても、宗教的に間違いであればその人たちは信じて居ないでしょうし、科学を進歩する人とは違う者を想像しているわけですから、科学が言語として機能していない気がします。 また、これは仮定ですが、今多くの宗教がありますが、これらが全く同じものを多方面からたまたま見ているだけであれば、いずれは科学(他の宗教でも構いませんが)に統一されるのではないかと思うところもあります。
- fedotov
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>人生観や死生観、宇宙観などがあるのが宗教 我が国の宗教は八百万の神の多神教、つまり自然崇拝です。 山の神・海の神・水の神・火の神・かまどの神・雷神・風神…。 神様に祟られないように、その場所・その時々で色々な神様に 祈っていました。 そんな日本人にとって、八百万もいる神様に、異国の仏教・ キリスト教の神様が増えても、抵抗はありません。 なので、お正月に神道、お盆に仏教、クリスマスにキリスト教を おまつりする事は、日本人的には極めて自然な行為です。 一神教のユダヤ教からキリスト教・イスラム教が派生しました。 同じ唯一神を祀り、「旧約聖書」を共通の経典にしているのに、 預言者(モーセ・キリスト・マホメットなど)の違いで争っている。 個人的には、「敵対する宗教」ではなく、唯一神教という宗教の 「敵対する宗派」による宗派争い、宗教内の権力抗争です。
お礼
回答いただきありがとうございます。 確かに言われてみますと、近年は社会的な問題(扇動、戦争、紛争、など)となっているという点からは宗派間の争いが目に付きますね。 教義を見た場合、改宗させたりそういった話もありますので、教義の中身による、他の宗教観の価値観の大きな違いという所も気になるところです。
- Shin1994
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No.7です。お礼ありがとうございます。 これは、宗教に対する考え方の違いなのでなんとも言えませんが、僕が思うには信仰心がなくてもレジャー的でも宗教的なイベントに参加しているという意味は普遍的かと思います。日本は、現憲法下では「信教の自由」が保障されてます。何を信じるか又は何も信じない(無教)もOKとなりました。時の流れによって、信仰心というものは薄れ、その行事は慣習的なものとなってしまったものの、宗教活動に変わりはありません。宗教は、あくまでも人の心の拠り所であり、信仰心がないと成り立たないというものでもなかろうと思います。たとえ、当事者に宗教的意味合いはないよと口で言ったとしてもその人のいうことにかかわらず、その行動は宗教的意味合いを持たずにはいられません。知らぬ間に、宗教活動をしているのです。 日本人は、ある意味信仰心が薄いからこそ互いを批判したり争ったりしていない(もはや他教徒を気にしていない)のではなかろうかと思います。 ところで、そもそも不干渉と共存は違うんでしょうか?不干渉もある種の共存とは考えられませんか?だって、両者が平和に同じ空間に居られるというのに変わりはないのですから。
お礼
回答いただきありがとうございます。 共存という語彙が適切ではなかったかもしれません。もっと親密な関係を築きながら一緒に生活していく。そんな意味合いで使わせていただきました。もっと適切な語彙があればそれを使いたかったのですが、語彙不足です。すみません。 不干渉については、例えば、隣国で戦争や差別、貧困があろうとも、一切何も言わないというような、鎖国のような状態を想像しています。中学生がタバコを吸っていても何も言わないという感じです。
- fedotov
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宗教=価値観なので、価値観の違うものを本当に理解する事は できません。 ただし、理解できないももの・異質なものを排斥するのではなく、 相手を思いやり、互いの宗教を尊重して、干渉しない事で共存 する事は可能です。 イスラエル・パレスチナ問題も、オスマン・トルコ帝国は、ミレット制で、 ユダヤ教徒を税制で優遇していたけれど、キリスト教徒・ユダヤ教徒も 税金さえ払えば、生命・財産を保証し、宗教共同体にも不干渉でした。 つまり、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒はお互いの宗教を 尊重して干渉しない事で、一緒に暮らしていたのです。 それを帝国主義がオスマン・トルコ帝国の領土を勝手に分割しようと、 イギリスの三枚舌外交で、アラブ人にはアラブの独立を約束して アラブ反乱を起こさせ、ロスチャイルドには戦費調達のみかえりに 約束の地パレスチナにユダヤ人のナショナルホーム建設を約束。 キリスト教では金貸しを蔑視していたので、各国の金融をユダヤ教徒 が支配しており、アラブとの約束を反故にして、イスラエルを建国。 イスラエルはパレスチナの地からパレスチナ人を追い出した。 米国の金融もユダヤ支配なので、イスラエルをかばい続けていおり、 それが9.11などイスラム・テロの原因。
お礼
回答いただきありがとうございます。 私も、何となく、出来ない気がするのですが、不干渉ではなく共存共栄が出来るという話も聞きますのでどうやるのかと思い質問させていただいています。また、単純に人口が増えすぎて、相互理解ではなく共存共栄をしなくてはならない状況になりつつある国もあるようです。 テロの原因についてはよく分かりませんが、日本などアメリカにたくさん殺されましたが、これだけ力を付けてもアメリカにテロをすることはありません。歴史的経緯があるからテロに走るというのはまた別の問題な気がします。
- Shin1994
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No.7です。 日本人は、不干渉以上に共存していると言っていい状況にあると思えます。 日本では、年始は初詣、彼岸やお盆でお墓参り、クリスマスを祝い、年末は除夜の鐘で終える。 家には、仏間に仏壇がありリビングに神棚がある。産まれたら神社に行ったり七五三を祝うのに死ぬ時はお経を読まれ仏式で葬られる。 日頃の行動が既に様々な宗教的週間が混ざって構成されています。これは、海外ではまず持ってあり得ない事です。この点をもって海外の方は「日本は不思議だ。なぜこうして共存していられるのか?」という人が結構います。普段から、相互の悪口は言わないのも宗教観の礼儀としてほとんどの宗教が心得ています。互いの崇めるものを尊重し、否定はしない。それが日本です。 もともと、日本人は宗教をそこまで重くは考えて居ない人が多い(最近では無教という人もいる)ので、このような事があり得るのだと思います。
お礼
回答いただきありがとうございます。 宗教としての体を成していない気がします(私は、宗教には人生観や死生観、宇宙観などがあるのが宗教だと思っているため)ので、これを共存と呼ぶのは何となく抵抗があります。 日本では、すでに宗教行事ではなく、運動会や記念日、商売に乗せられた、単純に綺麗なデザインだからなど宗教について、尊敬や礼儀すらない(悪口を言う理由すらない)、純粋なレジャーと成っている気がします。 例えば、人生の節目である?結婚の時、神父の前で式を挙げた2人に宗教的な意味があったのがと本人に聞いたのですが、宗教的な意味はないし改宗する気もないと言われたのには少々驚きました。
- hekiyu
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実際に共存している地域はあります。 結婚までやっているかは、知りませんが 仲良くやっているところも多いようです。 社会学者の話によりますと、格差、とくに経済的な格差 が無ければ、あまり問題にはならないそうです。 反面、格差があると、宗教の違いを理由にして 仲が悪かったり争ったりするようになるとか。 科学が共通語になるのは、それが合理的で 普遍的で、宗教や慣習、伝統などと関係が薄い からでしょう。
お礼
回答いただきありがとうございます。 確かに経済格差は良く聞きますね。 ただ、この経済格差は、特に教育格差(科学知識の差)にも繋がっているように思うのですがいかがでしょうかね? なお、科学が共通言語とのことですが、それは、科学を強く信じて居るからではないでしょうか? #12さまのお礼欄でも書かせていたのですが、特に、一般的な日本人であれば、宗教の時間よりも科学知識を得る時間の方が長く必然的に信じて居る人が多いだけのような気がします。 また、普遍的という観点から見ても、科学はとても未熟で限られた範囲内の自然法則を見つけ出したに過ないように思います。ex.質量保存則、ニュートン力学などなど
ポイントは、宗教の異なる2者が、相互に見解の異なるような場面に遭遇するかどうかではないでしょうか。 そのような場面が無い様な組み合わせはあるかもしれません。 そのような場面が存在しても、それを回避するような行動をお互いがとれば、対立を避けることができるでしょう。 しかし、どうしても回避できないことというのはあると思います。 たとえば、堕胎について宗教上決定的に相容れないような2つの宗教をそれぞれ信仰する二人が夫婦になったような場合。 たとえば、輸血が必要な場面で、輸血を絶対に受け入れないという教義をもつ宗教の信者とそうでない宗教の信者が患者本人または家族にいる場合。 友人同士とか、知人同士ならば避けられても、夫婦とか親子の場合、見解が決定的に相容れないような場面に遭遇してしまうと、どうしようもない場合というのはあると思われます。 神道と仏教のようなものは決定的な対立ポイントが多分ないのでしょう。 あなたの質問に答えを出すのに、素朴な楽観論や悲観論に則った夢想のまわりをぐるぐると回るのではなく、意味のある進展を見ようとするならば、決定的な対立ポイントを生み出すような場面にどういうものがあるか、それはどの宗教とどの宗教の場合か、具体的に洗い出せばいいのではないでしょうか。それこそが”あなたが信仰する科学”的な態度というものかと思います。 なお、あなたは科学を宗教の一種と見られているようですが、自分の科学に対する認識の仕方は、母国語が異なる2者が会話するのに国際語として英語などを使うときのその英語のような役割に相当するものの一つが科学であるというものです。コミュニケーションの手段の一つとして使えるとしても、宗教間の対立を解消するのに役立つかというと、それは別の話であると思います。
お礼
回答いただきありがとうございます。 そうですね。確かに、対立ポイントをその宗派の人に直接取ってみるのも一だと思います。いくつかそういった点を抜き出して考えてみようと思います。 また、今回はもう少し大きな視点からも見たいと思っていますので、より幅広い意見などが聞ければよいと言うのもあります。勿論、ぐるぐると回る可能性もありますけどね。 また、科学が言語のように思えるのことですが、私は、これについては明確に違うと思っております。 別途質問した方が良い話かもしれませんが、 多くの宗教では、自然の理解、宇宙観、人生観など、人が科学という言葉を思いつく前から、科学のような事を行っているように思います。また、現代でも、科学よりも宗教を優先する人も国家も多くありますので言語と言うには問題があるように思います。少なくとも、そういった思想では、宗教的に正しい事がはじめにあり、次に、科学が正しいという解釈かと思います。 また、仮に、共通言語だとすると、地動説や進化論などももう少し穏便な方法で解決に結びついたと思いますが、多くの人はそこまで科学を言語と言えるほどには信じて居ないのだと思います。逆に、科学を強く信じる人は、信仰に近いくらいに信じて居ると思います。EBMなどその流行の最先端だと思っています。ただ、現代の科学は非常に未熟でエビデンスと思われることも未来には覆っていますし、宗教が想定できる全てを説明できるわけではありませんので、スケールで言えば宗教の方にまだ優位性があると思っています。 ただ、客観性や納得のしやすさという点においては、恐らくどの宗教よりも明確であり、科学に改宗する人が増えている理由ではないかと思っています。
- cxe28284
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ともに生命を尊び、他者を愛し、平和を愛する宗教であれば 共存出来るものと思います。
お礼
回答いただきありがとうございます。 今でも、お互い不干渉という形(***タウンや国境)で共存は出来るでしょうが、深いところでお互い理解できますかね? また、実際には博愛や正義、愛、そして平和の為に戦争していますけどね・・・
- oska
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>多国籍国家の共生社会を見ていると、相手を理解するというよりも、お互いに不干渉を心がけているだけのように感じます。 その通りですね。 社会主義・共産主義国家では、表向き宗教・信仰の自由を求めています。 が、実質的には「宗教は認めない」方針ですよね。 宗教の力を、異常に恐れている結果です。 中国では、カトリック司教は「バチカン法王でなく、中国共産党が任命」しています。(笑) 相互の宗教を認めないのが、イギリスとアイルランドの紛争ですね。 双方が「相手は、悪魔だ!」と非難しています。 同じキリスト教徒でも、宗派によって軍事紛争になります。 神道・仏教・キリスト教寺院には、異教徒でも自由に境内に入る事が出来ます。 イスラム教寺院境内には、異教徒は入る事が出来ません。(マレーシアで経験) ビジネス的にも、「政治・宗教・野球の話はするな!」という営業の不文律がありますよね。^^; これも、一種の「宗教の不干渉」でしようね。 >相手を理解しながら、結婚や家族、親友など本当の意味で親しい間柄になれるものでしょうか? その相手側が「どこまで宗教にはまっているのか?」で変わるでしよう。 EU諸国(特にフランス)でカルト集団認定を受けている日本の宗教団体。 成太作(ソン・テチャク)を教祖・会長と崇める集団(本山からは破門)会員でも、色んな人がいます。 選挙になると絶叫して運動を行なう会員がいれば、普通に接する会員もいます。 集団への会員加入を熱心に奨める会員があれば、何ら奨めない会員もいます。 町内会に会員の方が居ますが、極めて普通ですね。 仏教・キリスト教・イスラム教信者でも、同様です。 成太作(ソン・テチャク)を教祖・会長と崇める集団と同じで、信者にも色々な方がいます。 私の場合、色んな国・色んな宗教宗派の方とプロジェクトを組みます。 が、不干渉でなく「尊重する事」が(経験上)重要ですね。 互いに尊重しあえば、親しくなれます。宗教上の冗談も言える仲になれますよ。
お礼
回答いただきありがとうございます。 「野球」も含まれるのですね。知りませんでしたw >「尊重する事」 これは、お互いガチンコで話し合って矛盾を解決して友達になると言うよりも、結局の所、不干渉なのではないかと疑っているのですが、真意について教えていただければ幸いです。 正直、良く綺麗事で言っているだけで意味が分からなかったりしています。この質問をさせていただいた根本的な疑問です。
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お礼
回答いただきありがとうございます。 心の奥底ではと書いたのがポイントで、表面的には改宗してはいないが、改宗しつつあるという感じに捉えていただいても良いかと思います。 例えば、α宗教ではこういった考え方(α’)だが、科学ではこう(σ)だ? 例えば、β宗教ではこういった考え方(β’)だが、科学ではこう(σ)だ? で、実際の日常生活では、α’やβ’を実践することが減り、(σ)に基づいた行動を取ることが多くなっており、(σ)という答えのある、科学に改宗しつつある(αやβの教え全ての改宗ではない)というのが今の状況ではないかと思うのです。 対立点は解消されつつありますし、矛盾についても無くなっていると思います。