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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》)

見張りの者よ 今は夜の何どきか?

このQ&Aのポイント
  • 尋ねられたとき、見張りの者は答えました。
  • 夜明けは近づいているが、まだ夜であると。
  • 現代についての見方や問題について語ってください。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#189751
noname#189751
回答No.28

ありがとうございます。 Bさんが何故、宗教色を否定しなかったのか少し不思議な感じがします。 >夜へと・・渡されない そうなんでしょうね。 人同士が時を尋ね合うことが 夜という時間はあっても 暗闇をくぐり抜けてしまう言葉の力を表しているようです。 暗闇の中から現れて 暗闇を超えてしまう言葉の力とは 意識や言葉が光でもあるというような感じにも思えます。 逆に見れば 暗闇であってこそ 言葉が光でもある ということなのでしょう。 人同士の共有性を重んじる Bさんらしい言い方とお受けしました。   宗教色へのこだわりは ここにおいて 普遍性という見方からすれば あまり意味がない という事なのでしょうか。 私は意図的に色付けした わけではないのですが 結果的にそうなってしまった。 その事を感じ取られていたのでしょうか。 ヨブの栄光と挫折の一節の中で 目についたのは >29:15 わたしは見えない人の目となり      歩けない人の足となった。 このへんが 一つのピークにも感じられます。 Bさんの仰る共有性の最もたるところのようです。 共有性における普遍性とは 宗教という色に自由に変えることができるのでしょう。 私の書いた文章における宗教色を否定しなかったのは 普遍性というものを 宗教的に限定したくなかった、閉じ込めたくなかった からでしょうか。 もしそうであるならば ナチュラルな立場を貫く という感じで受け止めることもできるのですが はめをはずす というか (批判も含めて)もっと自由になさってもいいように感じました。 無宗教における普遍性とは、それが一歩踏み出すためにある そんなふうにも思います。 試しに一歩踏み出してみることにします。 ヨブの栄光と挫折の物語は そのまま人の一生のようでもありますね。 実時間と思っていたものが 人に与えた最後のものは 老死という悲惨であったのでしょうか 般若心経に説く 是のゆえに、空の中においては・・・・・老死も無く、老死が尽きて無くなることも無い 輪廻も無く、輪廻が尽きることも無い 時間も無く、時間が尽きることも無い  と読めないか 空という実時間の中において、宇宙の内面時間が尽きることも無い  と読めないか 愚かな冒険ですね (お笑いください) 確かな実時間と思っていたものは この宇宙の内面時間であったのかもしれない と思ったのは直感でしたが そう思って周りを見渡すと 雲の流れも、風も すべてが宇宙の運行という時間のように思えたのです。 自然現象の運動が 宇宙の内面時間そのものの現れであるのかもしれない といった感じでした。 さて ヨブの嘆きは 実時間への嘆きでもあったのでしょう。 避けようのない老死の訪れという 実時間への嘆きです。 楽しい時には早く短く 苦しい時には遅く長い という内面時間から見た実時間です。 実時間とは つまるところ苦をもたらすものである というネガティブな感覚です。 ヨブの苦しみへの対処は書かれていませんが さて どうなったのでしょう。 若い時には 自らの内面時間を基準にしてもよいが(問題ないが) 年を取ったら 実時間という大きな生きた時間を基準に 自分を合わせるべきではないのか それが出来なければ さらに苦しみは増すばかり そんな問いかけにも思えてきます。 種々雑多 まとまりませんね 今のところ そんな感じです。 般若心経を取り出してみましたが これ以上は宗教に絡めた話をしたくない感じもあります。 それでいいのではないのか といった感触をもっています。 批判を怖れているわけではないのですが どうも あまり言いたくない のが本音です。 自分自身の内面時間の刻みを伝えたくない・・ 自閉症みたいです。 人に一歩踏み出せ と言っておきながら 自分ではほんの少ししかできない 年ですね それでは。

bragelonne
質問者

お礼

 何と言いますか あばうと72さんの内面時間には負けますね。まづは ご回答をありがとうございます。  そう感じ受け取って思うことは むしろわたしの内面時間は ない。のかも知れない。ということでした。  《固有時》というのは 誰にもあると思っていました。  ですから わたしにもみづからの《とき》があると思っていました。  べらぼう話をするなら その《とき》が満ちるなら わたし自身にとってもその《つとめ》がさらに明らかになってそのことにいそしむようになる。こうも望み見ていました。  でも考えてみれば すでに《永遠のいま》ということも 口をついて出るかのように 出ています。  だとしたら いまが問題である。どうして未来や将来のことを 見やっているのか? どうして いま・ここに居ないのか?  つまり あばうと72さんご自身の内面時間は それがどうであると示されてはいないと言うべきでしょうが しかもそれがあると感じさせるようなのです。いま・ここ です。  といったふうに受ける感じは けっこう わたしにとって こわいですね。ふと なにか・どこかわが内面において欠けるところがあったのかなって。  ★ 人に一歩踏み出せ と言っておきながら 自分ではほんの少ししかできない  ☆ というご表明にかこつけて言うなら わたしはすでに――勝手なことをほざきますが―― 一歩も二歩も自分勝手に飛び歩いているようだとも思い知らされるところがあります。だれかの掌の中を孫悟空のようにかなと思わされるような。  もっと告白をつづけるなら:   外の宇宙の実時間あるいはそれにも内在する内面時間について それをあなどっている。つねにと言っていいほど――自分の内面時間がないかのようであるゆえになのか―― 外の時間ないし世界を おちょくっている。のかも知れないと 思い知らされました。  そういう側面というのは 宗教と言いますか信仰と言いますか あるいは ふつうのことばで言えば 永遠といったほどの時間観にかかわっているであろうとは思います。  ★ ~~~~  時間も無く、時間が尽きることも無い  と読めないか  空という実時間の中において、宇宙の内面時間が尽きることも無い  と読めないか  ~~~~~  ☆ といった世界感覚ではないかと。  ですから もし先ほどの《おちょくり》について自己弁護をするとすれば この宇宙感覚の中で泳いでいたし踊っていたりするのではないかとも思います。  ★ ~~~~~  確かな実時間と思っていたものは この宇宙の内面時間であったのかもしれない と思ったのは直感でしたが  そう思って周りを見渡すと 雲の流れも、風も すべてが宇宙の運行という時間のように思えたのです。  自然現象の運動が 宇宙の内面時間そのものの現れであるのかもしれない といった感じでした。  ~~~~~~~  ☆ ヨブのその後の話をも合わせて 引いてみます。  まづこのヨブという男は それでもなおも身の潔白をうったえます。  ◆(ヨブ記 31:4-6) ~~~~  4: 神はわたしの道を見張り   わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。  5: わたしがむなしいものと共に歩き   この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら  6: 正義を秤として量ってもらいたい。   神にわたしの潔白を知っていただきたい。  ~~~~~~~~~~~~  それに対して 友のひとりが反駁しようとします。  ◆(同上 36:20-23) ~~~~  20: 夜をあえぎ求めるな。   人々がその場で消え去らねばならない夜を。  21: 警戒せよ   悪い行ないに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは   まさにこのためなのだ。  22: まことに神は力に秀でている。神のような教師があるだろうか。  23: 誰が神の道を見張り     「あなたのすることは悪い」     と言えようか。  ~~~~~~~~~~~  こうして議論は神じしんが引き取り むしろヨブを叱りながらも ヨブのうったえる姿勢をたたえます。  ◆(同上 40:6-14) ~~~~  6: 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。  ・・・・  12: すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き   神に逆らう者を打ち倒し  13: ひとり残らず塵に葬り去り   顔を包んで墓穴に置くがよい。  14: そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。   お前が自分の右の手で 勝利を得たことになるのだから。  ~~~~~~~~    直接にヨブを神がたたえるのは さらにあとに出て来るようなのですが  さて 先ほどの  ★ 自然現象の運動が 宇宙の内面時間そのものの現れであるのかもしれない といった感じでした。  ☆ にわたしの感覚が反応しました。次は 《自然現象》ないしその中の或る生物(レビアタン)のことを言いつつ しかもそれは広い意味での宇宙を表わし しかもほかならぬこの身近な世界・われわれの暮らす社会のことを言っているようにも映ります。あるいは 国王ないし国家のことでしょうか。  ◆(40:25-32;41:1-2) ~~~~  25: お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ   その舌を縄で捕えて 屈服させることができるか。  26: お前はその鼻に綱をつけ   顎を貫いてくつわをかけることができるか。  27: 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い   丁重に話したりするだろうか。  28: 彼がお前と契約を結び   永久にお前の僕となったりするだろうか。  29: お前は彼を小鳥のようにもてあそび   娘たちのためにつないでおくことができるか。  30: お前の仲間は彼を取り引きにかけ   商人たちに切り売りすることができるか。  31: お前はもりで彼の皮を   やすで頭を傷だらけにすることができるか。  32: 彼の上に手を置いてみよ。   戦うなどとは二度と言わぬがよい。  41:1 勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。   見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。  2: 彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。   いるなら、わたしの前に立て。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~  宇宙の内面時間とわれわれ一人ひとりの内面時間とが 一体であると言いますか連動していると言いますか。  まさにこの社会のシガラミのただ中に戻って来た恰好になりましたが。・・・

その他の回答 (37)

回答No.27
bragelonne
質問者

お礼

 住宅などにかんしてなら 生活の問題であり そういう社会についての《見張り》の問題でもあるということでしょうか。

noname#189751
noname#189751
回答No.26

《見張りの者との対話》 ☆ 見張りの者よ   時は何によって与えられるのか ★ 暗闇に時は無い   今、ここにあなたと私が居ることによって時は与えられる ☆ いや、汝と私が居なくとも時は刻まれているのだ   私はそのように刻まれてきた時の続きを知りたいのだ ★ 私には、あなたの顔が見えない   少しばかりの言葉を交わす時が 互いにあるのみだ ☆ では何故、何のために見張りの者は、ここに立っているのか   確かな時を知ることもなく、知らすこともできないのならば   汝はここを去らねばならない ★ 私はあなたに時を知らす役目を与えられた者   あなたから時を聞かれる度に、私はあなたの時計の針を直してきた   しかし、幾度直しても、あなたの時計は狂ってしまう   そして気が付いたのだ   私には、あなたの時計の針を直すことはできても、時計そのものを正確にすることはできな  いのだと   そしてそれは、私自身が正確であるという思い込みが誤りであったという事 かもしれな    いのだと   それでもあなたが時を求めるのならば   私はあなたに時を知らせよう   言葉を交わす時間と、沈黙の時間とを知らせよう   夜明け前の暗闇の内の確かな時を知らせよう     あなたは足りないと 言うかもしれない   けれども、暗闇への不安が求める時が すでに与えられている事を   あなたは知らなくてはいけない   やがて来る夜明けの光を共に見るまで 私はここに居るだろう   その時に私の役目は終わる   あなたに時を知らせる役目は終わる   光が私に代わって時を知らせてくれるから   私が去っても 時を尋ねるものが あなたに与えられるから ☆ 見張りの者よ   汝の役目はまだ終わってはいない   また、私がいいと言うまで 汝はここに居るべきである ★ あなたとの約束が果たされるまで 私はここに居ましょう   限りない夜の見張りを続けましょう   暗闇への不安が拭い去られるまで 見張りを続けるという誓いを果たしましょう    けれども、光が私に代わる間だけは 姿を隠すことにいたします      では最後に   夜明けが来る前に 一つだけお伝えしておきます   光が自ら語った言葉を      「見張りの者よ    私は自らの時が正しいと言ったことはない    人がそれを用いることを許したのみである    私が照らす全ての者に許したのみである」 ☆ 分かった。 ※ 仮定ですが   私達が実時間と思っているものは   この世界の運動がもつ内面時間であるかもしれない ということです。   宇宙という運動のもつ内面時間かもしれない   光の速さや原子の振動を基準として記述されている時間を 実時間として捉えれば絶対か  もしれませんが   宇宙自体の内面時間として考えた場合には、絶対とは言えないように思います。   私達の知らない、知るべくもない 実時間があるのかもしれないのです。   以上、そんな事も考えてみました。   見張りの者との問答を 思いつくままに書き終えて思ったのは   どことなく宗教的な色彩が感じられるという事でした。   悪く言えば、不純物が多すぎるのかもしれません。   そのへんは、ご感想と共に取り除いていただくことを期待しております。   お互いに新しい発見があるといいのですが   それでは。

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  わたしは筆のちからがおよばないので どこかから借りて来てかかげるのみです。  夜の闇の中へと連れ去られてしまったヨブの嘆き節です。     *  29章 1節: ヨブは言葉をついで主張した。  29:2 どうか、過ぎた年月を返してくれ      神に守られていたあの日々を。  29:3 あのころ、神はわたしの頭上に      灯を輝かせ      その光に導かれて      わたしは暗黒の中を歩いた。  29:4 神との親しい交わりがわたしの家にあり      わたしは繁栄の日々を送っていた。  29:5 あのころ、全能者はわたしと共におられ      わたしの子らはわたしの周りにいた。  29:6 乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで      わたしのためには      オリーブ油が岩からすら流れ出た。  29:7 わたしが町の門に出て      広場で座に着こうとすると  29:8 若者らはわたしを見て静まり      老人らも立ち上がって敬意を表した。  29: 9 おもだった人々も話すのをやめ      口に手を当てた。  29:10 指導者らも声をひそめ      舌を上顎に付けた。  29:11 わたしのことを聞いた耳は皆、祝福し      わたしを見た目は皆、賞賛してくれた。  29:12 わたしが身寄りのない子らを助け      助けを求める貧しい人々を守ったからだ。  29:13 死にゆく人さえわたしを祝福し      やもめの心をもわたしは生き返らせた。  29:14 わたしは正義を衣としてまとい      公平はわたしの上着、また冠となった。  29:15 わたしは見えない人の目となり      歩けない人の足となった。  29:16 貧しい人々の父となり      わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。  29:17 不正を行う者の牙を砕き      その歯にかかった人々を奪い返した。  29:18 わたしはこう思っていた      「わたしは家族に囲まれて死ぬ。      人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう。  29:19 わたしは水際に根を張る木      枝には夜露を宿すだろう。  29:20 わたしの誉れは常に新しく      わたしの弓はわたしの手にあって若返る。」  ・・・・  30:1 だが今は、わたしより若い者らが わたしを嘲笑う。     彼らの父親を羊の番犬と並べることすら     わたしは忌まわしいと思っていたのだ。  30:2 その手の力もわたしの役には立たず     何の気力も残っていないような者らだった。  30:3 無一物で飢え、衰え     荒涼とした砂漠や沼地をさまよい  30:4 あかざの葉を摘み     れだまの根を食糧としていた。  30:5 彼らは世間から追われ     泥棒呼ばわりされ  30:6 身震いさせるような谷間や     土の穴、岩の裂け目に宿り  30:7 茨の間で野ろばのようにいななき     あざみの下に群がり合っていた。  30:8 愚か者、名もない輩     国からたたき出された者らだった。  30:9 ところが今は、わたしが彼らのはやし歌の種     嘲りの言葉を浴びる身になってしまった。  30:10 彼らはわたしを忌み嫌って近寄らず     平気で顔に唾を吐きかけてくる。  30:11 彼らは手綱を振り切り、わたしを辱め     くつわを捨てて勝手にふるまう。  30:12 彼らは生意気にもわたしの右に立ち     わたしを追い出し、災いの道を行かせ  30:13 逃げ道を断ち、滅びに追いやろうとする。     それを止めてくれる者はない。  30:14 襲って来て甚だしく打ち破り     押し寄せて来て廃虚にする。  30:15 死の破滅がわたしを襲い     わたしの力は風に吹きさらわれ     わたしの救いは雲のように消え去った。  30:16 もはや、わたしは息も絶えんばかり     苦しみの日々がわたしを捕えた。  30:17 夜、わたしの骨は刺すように痛み     わたしをさいなむ病は休むことがない。  30:18 病は肌着のようにまつわりつき    その激しさにわたしの皮膚は    見る影もなく変わった。  30:19 わたしは泥の中に投げ込まれ    塵芥に等しくなってしまった。  ・・・・・・         *  見よ 精神は生きている。夜へとはわたされていない。――と言えましょうか どうでしょうか。  ★ この世界の運動がもつ内面時間 / 宇宙という運動のもつ内面時間  ☆ と言わば対話をしていましょうか この男ヨブは。  《くぐり抜け》の時間。火の中をくぐり抜けて来るごとくの夜の道のり。  見張りの者にときをたずねるというよりは こちらが・わたしが見張られているというべきような。  けれども もしそうであるなら むしろその状態にあるほうが もはや《とき》は 広大無辺な緑野を行くかのごとき《永遠のいま》にあるとも受け取るべきかも知れない。  その夜こそが 自由なるときである。か?

回答No.25

『何時が汝の石版時計によっても難渋…!?』 と温まらなかったプリンコロッケ弁当を手に取り、勇者は…。 http://okwave.jp/qa/q7711784.html

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 何時が  ☆ が主語ですか?

bragelonne
質問者

補足

 何時は 汝のことでしたか。  それでも 難渋するのが 石版時計によってというのは どういうことか?

回答No.24

『汝が時計の盤上に示さるるが如くに、…。』 とプリンコロッケ弁当係が…!!!?

bragelonne
質問者

お礼

 すみません。そのあとがよく分かりません。《如くに》のあとです。

回答No.23
bragelonne
質問者

お礼

 ★ 地球温暖化  ☆ については それがすでに一方の側へのみ・つまり温暖化の側へのみすすんでいるという説には まだ疑問がつくのではないでしょうか? 分かりませんが。

noname#189751
noname#189751
回答No.22

○(あ) 内面時間と外の時間との往来また葛藤 これらの共有性  なのではないかと思います。そしてこれなら 互いに自己表現しながら対話を交わすと共通するところや違うところやが分かるようになる。のではないか? と思い続けています。 私が別な質問で少し話しましたが 年齢による内面時間の変化は、間違いなくあると思っています。 若い頃は時間が経つのが遅く、年を取ると時間が経つのが早く感じられてきます。 そうした年齢による共通性が共有性を伴っているとも考えられます。 また、スポーツをしている人と、そうでない人の場合でも同様かもしれません。 いずれにしても、年齢や行為がもたらす変化と共有性の程度については興味があるところです。 Bさんの仰る、「互いに自己表現しながら対話を交わすと共通するところや違うところやが・・・」ですが 解釈のしようによっては、対話とは その奥にあるものを探りながら行っているわけで 意志や概念にとどまらず、感覚的に相手の持つ時間性をも探っているのかもしれない たぶん、この辺はありそうな気がします。 結果的な共有性以前の、個々の内面時間の接近を図っているのかもしれません。 私とBさんの視点の違いは、私にとって共有性とは結果であって前提ではないというところのように思えます。 Bさんは、繋ぎ止めるというか、常に良い意味での関連性を求めているように感じられます。 私は、どちらかというと関連性よりも細分化的な考えを求めていってしまう感じです。 このズレが面白いといえば、そうかもしれませんね。 時間における内外面の二極化の思考は、まだ足りないというか、まとまっていないのが本当のところです。 半ば問う感じで答えたことも確かです。 Bさんから、さらなるヒントを・・・ 気が狂わなければ またお答えしたいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 うわぁ。ずいぶん大きな課題を振られてしまった。  まづは ご回答をありがとうございます。  ひとつの考え方として   ○(け) わたしたちはそれぞれ歴史を夜から始める。  と言われることがあります。   ○(こ) 外の世界のシガラミに自分が引っかかった〔と認識した〕ところから わが内的時間の充実が図られて行く。  ということではないでしょうか? しかも   ○(さ) ひとはそのシガラミの夜へは――精神としては――渡されない。そのように出来ている。そのように生まれて来ている。   ○(し) 言いかえると シガラミの網の目にからまってしまったなら そのようにからまってしまったと知るのが 精神です。どこまで行っても その夜の闇に渡されてしまうことはない。と考えます。  おそらくここらあたりに居座って  ★ 時間における内外面の二極化の思考は、まだ足りないというか、まとまっていないのが本当のところです。  ☆ といった思いが持たれるようになる。のではないでしょうか?  ★ 二極化  ☆ というのも どうなんですかねぇ。内と外 これらのあいだに隔たりはあると思います。理論的にあると思います。そして:  あとは どうなんでしょう(思案しながらの書き込みですが) この内と外とは互いにからまっていると言うべきでしょうか?  たとえば こういうふうに言われるのを聞いています。   ○(す) 神の国と地上の国とは その間に非武装中立地帯( no man's land )があるというのではなく――そんなものは あるようでいて じつは ないのであって―― 互いがその隔たりや違いを認識しえないくらいにからみ合っている。この状態この情況としての《にんげん》という視点と立ち場 これをむしろ大事にするのが 神の国の市民たちである。  おそらくこれは 《無住処涅槃》の立ち場であるとも考えます。  この《内外の時間制の絡み合う視点および立ち位置》 これはたぶん誰にも共通の《人間の条件》であるように思います。  そこからでしょうか 出発は。あるいは そこから踏み出して行く。そしてそのときには 人それぞれの行き方が――その内的時間が―― 展開されて行くのでしょうね。  いやぁ ここまでですね とりあえず考えが現われ出て来たのは。

noname#189751
noname#189751
回答No.21

>☆ ということであり そのことは たしかに外と内との行き来があったとしても ひとの内面時間がほんとうにほかの人に伝わるということはないから ということでしょうか? 内面時間の共有性・・・難しいですね どうしても私には孤立した狭い論理を展開してしまう という悪癖があるようです。 おかしい と言われても仕方がないのでしょう。 ご忠告としていただいておきます。 詩文的なものを書いてみましたので、そこから何かを汲み取っていただければ幸いです。 また、ご批判から煮詰めていくことも私にとって有益だと思っています。 暗闇に手をかざして振ってみれば 何もない暗闇に 三度手を振ってみれば 一度目よりは二度、二度目よりは三度、あなたは遅く手を振るだろう そして 三度目の終りに生じたものを あなたは忘れはしない 何もない事が そのまま何もない時間である事を 夜が明ければ あなたはもう一度手を振るのだろう 手で全てを確かめるかのように 有る、という時間の訪れを 自らの手をもう一度振って確かめるのだ あなたにとっての本当の時間とは あなたが生きていてこそ有り得る 生きている事を確かめる事が 時の始まりなのだから そのようにして 時が与えられるためには あなたは生きていなければならない それは この世界に あなたの時間が必要であるという証明でもあるから あなたを迎え入れる事が この世界に必要だったのだという 小さな星の時間は消えて無くなる事はない 命の時間に幸いあれ

bragelonne
質問者

お礼

 ふむ。まづは ご回答をありがとうございます。  今回は 二点のみです 反応は。  というより たしかに ほぼ72さんの内面時間を捉えることはむつかしい。です。  一点は:  ★ 内面時間の共有性・・・難しいですね  ☆ というところを     ○(あ) 内面時間と外の時間との往来また葛藤 これらの共有性  なのではないかと思います。そしてこれなら 互いに自己表現しながら対話を交わすと共通するところや違うところやが分かるようになる。のではないか? と思い続けています。  二点目は:  むしろ どう言いますか すべてのこの世界の見方――そしてその中に内と外とのふたつの時間制があると考えられる――についての前提となっていることを確認吟味してみるということ。  学問なら《準拠枠》とでも言うでしょうか あるいはパラダイムでしょうか。この前提が違っているのではないか? こう思うものがあります。  これは 哲学の議論に耐えうるか分からないのですが けっきょく感覚として言ってみます。  ★ 暗闇 / 夜  ☆ ということ・そしてそれとしての世界観の一端 これを取っ払うということです。   どういうことか?   ○(い) そもそもひとは 夜へはわたされない。  これです。   ○(う) 日がのぼり昼を経て 夕べに成る。夕べから ひとは夜へは渡されずに 次の朝をむかえる。   ○(え) 闇は あなたを捕まえはしなかった。  これです。  あの夜空にかがやく星をめざしてあゆもう。といったことで励ますのは ウソです。  芸能界に限らず スポーツ界から政治や学者の世界まで いわゆるスターがいます。  必ずしも話はかみ合うものではないでしょうが こういう《星》にあこがれ星をめざすということ これには 注意が必要です。     ○ ~~~~   (お) われは いかに外の時間によって傷つけられたと思ったとしても それは 内なる時間における欠陥つまり善の損傷によっている。   みづからがみづからを傷つけたというのみである。   (か) ところが 精神は傷つくことはない。夜をとおることはとおる。けれどもこの夜の闇に 精神が渡されるということはあり得ない。   (き) 精神は おのれが狂ったなら狂ったと知っている精神である。夜をくぐることはあっても その闇に捕まったというのは ウソである。   (く) やがてあくるあさを 精神は身体とともに むかえるのである。  ~~~~~~~~~  《原罪》だとか《煩悩・無明》だとか言いましたからね エライ人たちは。でも  暗闇の哲学よ去れ!   星をめざす思想よ ウソを言っちゃいけない!  夜の明けるのを俟つのみなのだ。  くぐりぬけることに決まっているのだ。  このくぐり抜けの時間――つまり 内の時間と外の時間との往来のありさま――をわたしたちは 互いにその自己表現をとおして 語り合い分かるところは分かり合ってすすむ。・・・  ★ 命の時間に幸いあれ

回答No.20

>はれ。  主をほめたたえよですか。最高の祝福。納得ですパスタ。

bragelonne
質問者

お礼

 堀内明という人もその本も知らないと言っておかないと。  応答技術にまけました。

noname#189751
noname#189751
回答No.19

もっと深く言わせていただくならば ですが 実時間に対する認識にも疑問をもっています。 時計の針とは一つの目安であり 人は実時間による拘束を望んではいない と思うのです。 常に 内面時間と実時間の比較を無意識に行っているのではないかと思うのです。 実時間に内面時間を合せなければならない という調整は、苦痛にも似た感覚をもたらしているのではないでしょうか。 自らの時間の尺度を否定しなければならないという意識は 時計の刻む秒針が痛みをもたらしているようなものです。 人は希望をもって時計を見るのと、そうでないのとでは、後者の方が圧倒的に多いと思います。 また、個人差における実時間の変容の問題もあります。 同じ時間に生きていながらも 客観的な時間さえも違いがあるのではないか、という疑いです。 時間は全てに対して均一であるのでしょうか? 相対論もあるのでしょうが 運動や行為の量、或いは各個人の意識によって、実時間が変化してしまうのではないかとも思うのです。  内面時間のみならず、実時間も変化しているとなれば 人間にとっての正確な時間とは、一人一人の個人における時間だけとなるのでしょう。 人は時間から離れられないものです。 離れられないという意識が悲しいものなのか、どうか分かりません。 ただ 生きるという行為の中で充足感があれば、それが内面時間の設定に影響しているのは確かなような気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ前半についてですが:  そうだとしますと ひとは実時間によって苦しめられていることがほとんどである。よって 他人(ひと)とこの外なる実時間のことを語ろうとはまづ思わない。――こういうお考えなのでしょうか?  後半を加味して受け取った結果としてですが:  ★ ただ 生きるという行為の中で充足感があれば、それが内面時間の設定に影響しているのは確かなような気がします。  ☆ ということ。だとしたらこの《内面時間》をそれぞれが互いにオモテにも出して表現してみる。  ということは なさないのか?  なす必要があるとわたしは考えますが 必要ないとお思いなのか?  必要不必要の問題ではなく そのような対話をしてもほとんど意味がない なぜなら  ★ 人間にとっての正確な時間とは、一人一人の個人における時間だけとなるのでしょう。  ☆ ということであり そのことは たしかに外と内との行き来があったとしても ひとの内面時間がほんとうにほかの人に伝わるということはないから ということでしょうか?  もしそうなら  ★ 生きるという行為の中で充足感があれば  ☆ というときのその内面時間におけるかがやきも 他人(ひと)には見えないし分からないとなれば けっきょく〔その内面におけるかがやきも〕 ほかの人から見れば むしろ闇(つまり 無意味)だということなのでしょうか?  どこかおかしいように思います。

noname#161550
noname#161550
回答No.18

夜7時 ふとん 問題なし

bragelonne
質問者

お礼

 ん?  いまの時間ですか?  それも一考であり 一興ですね。  なぜなら 《永遠の現在》と言いますから。  ありがとう。

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