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歴史について教えてください!
室町時代について調べてます。 (1)室町時代は『北山文化』と『東山文化』の2つですか? (2)年代 北山文化:1400年頃 東山文化:15世紀後半 となっていますが、15世紀後半とは大体1450年~の事ですか? (3)室町時代は1338年~1573年の235年間。 でも北山文化と東山文化が100年間の間なら、残りの135年は?? 『東山文化』は15世紀後半から室町時代が終わるまで全ての期間の事ですか? 文章力がなくて分かりにくいと思いますが、回答お願いします! (また回答者さんは『北山文化』と『東山文化』どちらが好きですか?)
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♯1及び3の方に追加補足する形です。 質問者様がお持ちの第一の誤解は「○○年から○○年までが××時代」との観念的な認識にあります。 こうした見解を象徴する典型的な事例が「鎌倉幕府の成立年代」の問題です。70年代から80年代の日本史教科書では「1192年、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた」との記述がみられましたが、現在では1185年を含めて幾つかの見解が並記される形です。これはなぜかと申しますと、「幕府の権能」をどう評価するかとの問題に訴求することになるからです。 義経を追討する目的で全国に警察組織を張り巡らせたことを評価するならば1185年が幕府の始まりとのことになります。 この様にトマトをスパッと切れの良い包丁で切った可のような形で時代を区分することは不可能に近くまた歴史学としての意味を為しません。誤りの原因ともいえます。例えてみれば、切れない包丁でトマトを切った時の感覚に似ています。ぎざぎざでブチュッとした断面が不規則な形です さて本題に戻りますが、北山文化と東山文化の類似と対比にはさして意味はありません。一つの文化様式を比較して何れの優劣を問うことが可能であるとの前提などなく誰にも出来ないことです。 北山文化は足利義満が私邸としての北山第で実際の政務にあたっていた頃の文化傾向であり今風に呼ぶなら「北山系」とでもなるでしょう。この頃を代表する文化人といえば世阿弥がいます。世阿弥は義満の庇護を受けそして義満からは一種「嘲笑の目線」で見られていた人物でもある。なぜ「嘲笑の目線」かといえば、世阿弥は能役者の頂点に立つ人物であり、言い換えれば能の世界の帝王でもある。がしかし「実際の帝王」は将軍としてのカリスマである義満以外の誰でもない。「猿楽能や田楽能の帝王」は所詮、現実の帝王の掌の上で踊っている存在にしかすぎないとの冷ややかな目線が義満にはあったことに起因します。また後述の東山系と異なる部分は将軍義満の「唐好み(舶来趣味)」としての部分です。京都東山にある鹿苑寺は建物を囲む形で池がしつらえられ、建物の一層目から眺める光景は蓬莱信仰を物語っているともいわれます。 これに対し応仁の乱とそれを前後する形で登場する東山系のそれは、現代の和風建築のルーツとも呼ばれる様式を象徴しています。床の間や丸窓などの渋好み、なんだか訳の分からない精神論に重きをおく傾向が認められます。 がしかし両者は決して対極に位置するものではなく、「理念」として底流に連なる一つだけあります。それは禅宗の影響をまともに受けた形です。将軍義満も将軍義政もブレーンとして禅僧に意見を求めていますが、これはある意味中国的な発想であるともいえます。中国の皇帝(皇帝と呼ぶことが出来るのは世界中に唯一人だけです)と天意によって即位し、天意によって退位する。天命が全てを左右するとの物の考え方です。そのため権力者としての帝王は常に自らのブレーンとして思想的背景を有する者を近くに置きアドバイスを求める。 もし質問者の論理に依るならば、江戸時代の元禄文化と化政文化の間は何文化になるのかを筆頭に、白鳳文化と天平文化の時期以外は奈良時代として何文化になるのかなどの愚問が続出する形になります。 一般に使われている時代区分論としての表記名称(古代・中世・近世・近代・現代などの大枠)とは別に旧石器・縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・南北朝・室町・戦国・江戸・明治・大正・昭和・平成などの呼称で、殊に飛鳥以後は政治の中心がどこにあったかとの問題にスタンスを置く呼び方であって、文化を説明する時には政治のそれらと時期的にズレが生じることなどごく普通にある現象です。文化ならば石器・土器・青銅器・鉄器等の道具の使用と材料による区分もあれば、仏教文化などの呼び方もあります。更には仏像や寺院建築様式からは飛鳥様式・白鳳様式・天平様式・阿弥陀様式・浄土様式・鎌倉様式(唐様)など細かい区分の仕方が幾つもあります。 因みに質問者様は日本の中世がいつ頃に始まるとお考えでしょうか。 鎌倉から室町そして戦国時代にかけて、文化の担い手はそれ以前とは激変します。そこで具体的に文化を支えていくのは世の中の秩序(幕府法やら律令に規定された秩序と身分編成)がオオヤケなるものからワタクシ的なルールに移行し、またオオヤケを取り込む捻れた形で構築される社会構造として新たに登場するアウトロー的な人々と社会集団で、彼らは「傾ぶき者(歌舞伎者の原形)」や「バサラ」などとも呼ばれます。また寺院の山門から内部、神社の鳥居から内部は一種の聖域であり、そこには独自のルール以外幕府や大名、公家の権力は及ばない隔絶された世界となります。これを「アジール論」などと呼びます。 質問者への「テストの回答的な答え」としては以下の形になります。 (1)北山文化→三代将軍が表向きに引退した時期(質問者ご自身がお調べ下さい。それによって質問の前提が誤りであることが判ります)。 (2)東山文化→応仁の乱(1467年~1477年)の前後からとの意味で正解とは言えないまでも誤りであるともいえません。 (3)以上のことから室町時代がいつ始まりいつ終わったかは「歴史評価」の問題ですので一概にはいえません。ご指摘の時代以前に終わっていたと説明する学説もあります。それぞれの見解に根拠と難点があります。 ※少なくとも歴史を学ぶ時には「○○イコール△△」との暗記的な考え方は排除するに限ります。こうした発想は情報の理解としても不十分です。関係を理解する事にもつながりません。 尚♯2の答は皮相的そしてヒステリックで根拠のない意見ですので無視するに限ります。
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- izuhara
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室町時代の文化を代表して北山文化と東山文化を分類しています。 特徴的な文化を見ることができた義満の北山と義政の東山をピックアップして便宜上分けているに過ぎず、室町時代を通して文化は醸成され続けています。 教科書では習いませんが、室町後期・戦国の山口では山口文化(大内文化)と称される文化も発展していました。もちろん山口が際立っているだけで他の地域にも文化があったことは言うまでもありません。 全部ひっくるめて「室町文化」です。 文化(文化に限りませんが)は常に変わり続けますから、明確な線引きは難しいのです。
お礼
回答ありがとうございました!
- あずき なな(@azuki-7)
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北山も東山も同じ 室町後半はあまり文化的発展はありませんでしたから 室町が終わるころは文化はすでに皆無 戦国時代でしたから 信長 秀吉が築いた文化を 安土桃山文化といいますが
お礼
回答ありがとうございました!
- mekuriya
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ちょっと認識が違います。そもそも北山文化と東山文化に本質的な違いなどない。またきっちり境界を定義することもできない。強いて言うなら、応仁の乱以前が北山文化で以降が東山文化というだけ。応仁の乱で京都が戦乱に巻き込まれたことで、京都の文化人が地方の守護大名、例えば周防の大内氏に保護を求めたことで京都の文化が地方に広まったというだけです。それだけの違いなのです。北山文化で水墨画が全盛を極めたといわれているが、水墨画は鎌倉時代にもありました。ただ鎌倉時代は余り発展したともいえない。また水墨画は北山文化の時代だけのものでもない。雪舟が残した水墨画はたくさん国宝になっているけど、それらは東山文化の時代に描かれたものです。だから北山文化と東山文化は明確に区別することはできないし、区別する意味もない。
お礼
回答ありがとうございました!
お礼
詳しくありがとうございました!