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熊本神風連の乱
熊本神風連の乱って一体いつ誰が何を何処で起こしたのでしょうか? 本当に全く持って知りません。 教えてください。
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西南の役の3ヶ月前、1876年熊本で起こった保守的士族の明治政府への反乱ですね。 【士族の不満】 明治政府の近代的な天皇制と急激な欧風化政策に対して、 数々の政策に士族たちは、不平、不満を持つようになりました。 【神風連】 こうした時に1872年熊本で太田黒伴雄 や加屋霽堅らの神官を中心とする人々が、 神風連(敬神党)を組織しました。 この組織は維新政府の開明政策に反対し、腰に長剣を帯び,頭に髻を束ね、 烏帽子をかぶり神道を尊崇し外人を嫌忌し復古的排外主義を主張しました。 【廃刀令】 大礼服着用の時および軍人・警察官の制服着用の時以外の 帯刀を禁じた、いわゆる廃刀令1876年3月28日に施行されました。 【神風連の乱】 廃刀令に反対して神風連は10月24日夜、総数約170人が藤崎神社に集結しました。 兵営、県庁を襲撃し、鎮台司令官種田政明陸軍少将と安岡県令を殺害しました。 しかし騒乱はすぐに鎮台兵に逆襲され、太田黒や加屋は自刃し、 他の同士も死んだり捕縛されました。 【秋月の乱】 神風連の乱勃発3日後には旧秋月藩士磯淳・宮崎車之助・今村百八郎ら200余名が 神風連の挙兵に呼応して兵を豊津に進め、 士族たちの決起をうながし「神州之元気恢復」をはかろうとしました。 【萩の乱】 また神風連の乱の翌々日には萩士族が山口明倫館に集合し 同志230名余とともに陸軍の造兵廠から武器弾薬を奪って政府軍と戦いました。 ともに鎮圧されましたがそれは翌1877年の西南戦争へと波及しました。 明治政府の持つアキレス腱が暴かれる結果となりました。 そうした反政府の動きはやがて自由民権運動につながりました。
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- sophia35
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こんばんは。 ラスト・サムライですね♪ 神風連の乱は、明治政府の急激な西洋化政策に対して警鐘を鳴らすために、太田黒伴雄を首領に掲げた、「敬神党」と呼ばれる神官を中心とする人々が挙兵し、わずかな手勢で、熊本鎮台を襲撃した事件の事を言います。 秋月の乱・萩の乱と並んで、西南の役の発端となった事件の一つと言えます。 本も沢山出ていますし、「萩の乱」「秋月の乱」「熊本鎮台」「神風連の乱」等のキーワードでも検索できると思いますので、ご自分でも一度、調べられたら良いと思います。激動の時代であり、ドラマティックで大変興味深い歴史だと思いますよ。 どうぞご参考までに。