戦いというは、双方に戦う意義のあるもの同士が戦うことをいいます。乱は本来なら従うべきものが、対抗して戦うことを言います。
たとえば武田信玄と上杉謙信が何度か戦った川中島の戦いは、上杉も武田も一国をもつ戦国武将であったために、双方戦う意味があり、それは自分の領土を増やしたいとか天下をとって自分の勢力の元で天下泰平を実現したい、というものです。双方に戦う「意義」と「資格」があるので「戦い」と表記されます。
島原の乱などは、本来藩の意向に従って生活するべき庶民が蜂起したものです。特に島原の乱はキリシタンの弾圧という問題点がありましたが、農民は武士階級の決めた法律に従うべきだった時代に、キリスト教が禁制になったことを受け入れられず、農民が蜂起したために「乱」つまり「秩序を乱す行為」と表現されます。
また他の方が書かれているアイヌ人と和人との北海道での争いは、アイヌ人を松前藩の領内に住む領民とすれば、その蜂起は「乱」となりますし、松前藩がもともとアイヌ人の土地だった国後を占領し、それに納得がいかないアイヌ人が自分達の土地を取り戻す為に戦ったなら、国家間の戦争ですから「戦い」になります。
これらはすべて歴史をどのように見るか、というスタンスですので、たとえば徳川家康の大阪の陣も関が原の戦いも、豊臣家絶対という価値観から見れば「謀反」であり「乱」になるといえます。
しかし、徳川は五大老とはいえ、戦国時代が終焉していないという後世の歴史家の解釈があって、最終的な勝者としての徳川家康であり、そこに至る過程はすべて「戦い」と表現されるのです。
平治の乱や保元の乱は、完全な内輪もめの権力闘争です。徳川と豊臣の戦いと違うのは、関が原の戦い以降は支配者が徳川家に変ったのに対して、平治の乱も保元の乱も内輪もめして勝った者が朝廷を居のままに動かせる、というだけで、政治機構としての「朝廷」や天皇制はまったく手付かずになっています。
徳川は豊臣に代わり征夷大将軍を受けて、その後子孫に継承していきますので、権力の支配者がまったく変ったということになります。
このように「権力」の保持者・権力構造がまったく変化してしまうものを「戦い」と表現し、権力者に反対運動をしたり、権力構造内で内輪もめしたものは「乱」といいます。
1960年代に起きた学生運動はかなり激しい戦いをしていますので、あと100年ぐらいしたら「安田講堂の乱」なんて名前になってるかもしれませんよ。
お礼
双方に戦う意義がある…なんかかっこいいですね(笑)← 権力者に反対=乱なのですね! よくわかりました!回答ありがとうございます