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平治の乱について
私は保元の乱についてはかなり明確に対立構造や利害関係が完全にに理解ができるのですが、次の平治の乱についてはどうしてあの事件が起こったのかが理解できません。藤原信頼はただ大将の地位がほしくて乱を起こしたのでしょうか?この方面にお詳しい方宜しくお願い致します。
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鳥羽院の近臣だった藤原信頼は、『平治物語』にも評されているように、「文にもあらず、武にもあらず、能もなく芸もなし」の人物であったにもかかわらず、後白河院の偏愛によって、驚異的な昇進を遂げ、27歳で中納言になり、更には大臣・近衛大将を望んだが、信西に阻まれて、信西を深く恨むようになった。 そして信頼は、清盛に対抗意識を燃やす義朝を抱き込もうと考えた。 義朝は保元の乱の恩賞で、清盛に比べてあからさまに冷遇されているだけでなく、信西の息子を婿に迎えたいとの要請を、冷淡に断られたこともあって、信西を憎んでいた。 信頼は、クーデター成功後に二条天皇を推戴すれば、天皇親政派の支持も得られると楽観していた。 何の理念も構想も持たない信頼と義朝は、信西憎しの一点だけで結託し、信西打倒のクーデターを決意。 平治元年12月、清盛が熊野詣に出発した留守にクーデターを決行。 このクーデターは表面的には成功し、信西に代わって信頼が朝廷の実権を握ることになる。 しかし信西の改革政策に対しては、前関白以下公卿たちは好意的でもあった上、京内住民の評判も悪くはなかったため、信頼・義朝側には信西打倒の名分はなかったのが実態だった。 これを知った清盛は、急遽引き返して六波羅館に戻る。 内裏では、天皇・院を六波羅に奪われてしまい、狼狽する信頼に対して、義朝は「日本一の間抜け者に同心してバカなことをしてしまった」と罵倒するなど大混乱。 「朝敵」となりたくなければ六波羅に馳せ参れと清盛が布告すると、前関白忠通・関白基実以下、公卿・殿上人のほとんどが六波羅に参入。 皇居となった六波羅から、「信頼・義朝追討宣旨」が出され、頼政が寝返ると義朝は敗走。 信頼は仁和寺の覚性法親王を頼るが、平氏に引き渡され六条河原で斬首。 義朝は東国に逃れる途中、尾張で家人に謀殺され、獄門に梟首。 以上が、「平治の乱」の顛末です。
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- あずき なな(@azuki-7)
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信頼は単に利用されただけです 「大将はあんたしかおらん!ほれ今こそ挙兵じゃ」ってね
お礼
ご回答ありがとうございます。 いったい誰に唆されたんですか?
- notnot
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最近読んだこの本に両乱の詳しいことが書いてありました。おもしろかったです。 「源頼政と木曽義仲 - 勝者になれなかった源氏」 http://www.amazon.co.jp/dp/4121023366
お礼
ご回答ありがとうございます。 以仁王と木曽義仲はちょっと時代が下がりますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 信頼自身、のぼせ上がって、信西を打倒しようとしたということですね。