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壬申の乱

学校のテストで大化の改新の意義と壬申の乱の意義を書けって出たんですけど、壬申の乱の意義なんて学校で習ってません。大体あれって皇位継承争いだと思うんですけど。知っている人お願いします。

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  • spiko14
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回答No.7

壬申の乱については、他の回答者の方々がおっしゃるように、天皇の独裁体制の確立だと思います。 大化の改新については、蘇我→藤原氏台頭の端緒となったというのが、後の歴史を考えても大きかろうと思います。 大化の改新後、天智~天武~持統の代までは天皇中心の政権でしたが、文武の代になってから、鎌足の子不比等の暗躍が始まり、娘宮子を妃として、後の聖武が生まれたのを足がかりに権力を伸ばしていきます。元明・元正両女帝が牽制はしていたものの、外孫聖武が即位してからは徐々に勢力が強まっていき、その後弱まったり盛り返したりがあったあと、平安期の摂関外戚政治の強大な地盤を固めていくわけです。 なお、律令制の確立にも不比等は貢献しています。 蛇足ですが意義って、その後の歴史にその事象がどう影響をもたらしたかってことですから、あまり能のない教師でしたら、そんなことまで話したりはしないのかもしれませんね(教科書の棒読みみたいな授業とか)。 余談ながら壬申の乱についてはマンガ「天上の虹」(里中満智子)を読まれるとより理解が深まるかと思います。 関連作「長屋王残照記」も理解を助けると思います。

その他の回答 (7)

  • spiko14
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回答No.8

再び#8です。 あと、皇統が天智系→天武系に変わったという重要な側面もあります。 受験の時とか、こっちの方がやかましく言われていたような気がします。

noname#21649
noname#21649
回答No.6

5番です。 大日本帝国憲法より「天皇は神聖にして犯すべからず」(音で覚えているので漢字は不明)。実質的な天皇独裁体制を規定した内容です。

noname#21649
noname#21649
回答No.5

「壬申の乱」はたしか(乱の名称が混同している可能性がある).「天皇家の争いであるから臣民に知らせる必要がナイ」.として.戦前の歴史教育から抹消された内容です。 大学に入ってはじめてその存在が知らされました(私は理系で.大学の講義はほとんど寝てすごしたので.乱の名称をよくおぼえていない)。 国民主権として天皇独裁からの脱却を示す教材として存在意義があります。

  • Gantz10
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回答No.4

 皇位争いでもありましたが、それしか見なかったら、意義としては「天武が天皇になった」しか出てきません。  No.2 で述べられている通り、壬申の乱は、そんな限定的な政争ではなく、日本の存亡をかけた外交理念の戦いだったのです。  当時の唐はアジアで唯一のスーパーパワーでした。「列強」ですらなく一人勝ちの一強だったということです。むろん日本と大陸の間には荒れる海があり、天然の要害ではありますが、それでも安穏とはしていられない緊迫感がありました。  だから白村江での敗戦の後、九州には水城が築かれ、大津に首都移転までされています。唐からの侵略に備えてでなければ、そんなことに巨大な予算を費やすことはあり得ません。  軍事的にはそのような対処をしながら、外交的には新羅と組むか、敵対するか、180度違う方針を大友皇子と大海人皇子は掲げました。その方針を実現するには、トップに立たないとなりません。そのための手段として、皇位を争ったのです。  大化の改新や、律令制度の構築など、中央集権国家を作るプロセスがここでの背後に流れています。これは、もともと日本ではそんな中央集権化などされていなかったことを意味します。なぜわざわざそんなことをしなければならなかったかというと、すぐ隣国にスーパーパワーが陣取っていて、対抗しなければ侵略されるという危機感があったからです。唐に飲み込まれないために、日本が一つに纏まらなければ、という危機意識としては、大友皇子も大海人皇子も共通です。むろん、当時の更に下位の人々も。  だから、180度違う理念を掲げて、古代最大の天下分け目の戦争にもなったのです。  例えば仏教を入れるかどうか程度の理由では、所詮偉い人たちの勢力争いですから、大した戦争にはならないのです。

  • caesar-x2
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回答No.3

いえ、絶対に習ったはずです。 ほとんど必修項目ですから。 要するに大化の改新が、改革の”始め”で、 壬申の乱後が、律令国家の”確立”となります。 中大兄皇子(のちの天智天皇)が始めたものが 天武(大海人皇子)・持統天皇の代で完成する ということを簡単に書けばいいわけです。

noname#113190
noname#113190
回答No.2

この乱の背景には、日本の外交路線に関する対立が背景にあります。 天武天皇は「白村江の戦い」で新羅に敗れますけど、息子の弘文天皇(大友皇子)も反新羅派で、周囲は白村江の戦いで日本に逃れた百済人が重用され、唐と結んで新羅を挟撃する考えから、唐と接近します。 一方、天武天皇(大海皇子)は新羅派で、新羅が滅亡すれば超大国の唐と海峡を接して直接対峙することになり、日本にとって危険なことと考え、逆に新羅に接近して、唐の力に対する緩衝帯になってもらおうと考えます。 彼の元には、「白村江の戦い」以来負担を強いられてきた地方豪族が支持をして、近江朝を破ることが出来ました。 天武天皇を担いだ有力氏族に「尾張氏」と言うものがあり、現在でも名古屋市内には彼らの古墳が点在していますけど、この尾張氏は蘇我・物部氏とも近く、壬申の乱では近江軍の蘇我果安が不可解な行動(遠征軍の大将である山辺王を暗殺して自殺)をしたり、蘇我赤兄があっさり敗れたり、地方豪族の支持を失っていたと考えられます。 乱の後、天武天皇は皇族中心の中央集権体制を目指し、次の持統天皇(鸕野讚良)の時代に完成を見ます。 この持統天皇の時代に 「大君は神にし座せば天雲の雷の上にいほらせるかも」(柿本朝臣人麻呂) と、天皇が神になったわけです。 ---------------------------------- 以下蛇足 尚、古文で 「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」(持統天皇) を習ったと思いますが、これは政治闘争の凄さを物語っています。 「天の香具山」は壬申の乱の功労者で、この時期一番の実力者の高市皇子を表します。 「白妙の衣」とは、高市皇子が亡くなり、喪に服している。 天皇が政界の実力者の死を見て、自分が絶対の権力者になったと宣言してるような内容ですね。

  • yama06
  • ベストアンサー率61% (101/164)
回答No.1

>壬申の乱の意義なんて Wikipediaによれば、「論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち、服制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。」とあります。 NHKの「そのとき歴史が動いた」でも特集したようです。 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_02.html#02

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

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