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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は コギトではなく コギターレを思っている。)

日本人はコギトではなくコギターレを思っているのではないか?

このQ&Aのポイント
  • 日本人はコギト(Cogito = Je pense. = I think. =我れが考える。)ではなくコギターレ(cogitare = penser = to think = 考える)を思っているのではないか?
  • 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけているのではないか?何をどう考えるのかこれをおろそかにしてはいないか?
  • もちろんわれが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。ところが誰かが考えたものをあたまの中に入れ込むこのことが《われが考える》だと思っていないか?

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回答No.1

「多くの者は悩む事を悩んでいる」と言う事を言っていた人がいた気がしましたが、検索して探しましたが分かりませんでした。 その名言が実在するかどうかは別にして、実際はそうだと思います。故に、(1)(2)はその通りだと思います。 (3)に関してもそうですね。 私もそうですが、「主な自分の考え方」と言うのは、歴史上の偉人や現在の知識人の価値観や倫理観などを参考にして、自分なりにまとめたものを「自分の考え」と称しているだけです。要するに、私もそうですし多くの人も「本当の意味で自分の考え」などほとんど無いのです。私は冒頭で「多くの者は悩む事を悩んでいる」と言いましたが、これがまさにその通りで、要するに「他人の褌」というやつです。 >考え得る原因は 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》とでも見られるそのつつしみ深さでしょうか? 見苦しいと言う事より、その意見を言う事は、「否定される」と言うリスクを孕みます。それが嫌なのだと思います。 どうでも良い「意見」なら否定されても、「こういう人もいる」で済みますが、自分の人生の根になるような自分にとって重要な意見や価値観を否定されると我慢ならなくなります。よってそのような意見は「表明しない」が安全策と言えるでしょう。 これは主に、宗教や政治がらみでこのような事が起こります。 自分の宗教が一番で、他宗教は邪教だ。と言う主張の好戦的な人物なら、「表明しない」よりもむしろ「積極的に表明し正当性を主張して、間違った考えの他者を排除しよう」としますが、日本人の多くは表明する事での争いを生むなら、黙っていて誤魔化しながら他人とうまく付き合おう。と言う選択をします。 具体的な問題解決で考えるより、悩む事を考えているのもこの影響が強いと思います。具体的な問題解決をする場合、必ず他者との争いが生じます。それは問題解決をされると都合が悪い人がいるからです。「問題」とは、現状を変えたいと言う人と、現状を変えられたくないと言う人の争いから生まれます。 そういう人たちと真っ向から戦わなければ成りません。しかし、そのような争いを避け、現状に甘んじるが余り、問題を解決したい→でもそうしたら○○さんと争う事になる→じゃあどうしよう→このままで良いか→嫌、このままで良い分けがない→ループ と言う、「悩む事に悩む」と言う現象に陥ります。 こういう考えが普段から習慣で身についているので、就職や転職などの他人の争いとは関係ない分野でも、抜本的な解決策を模索するよりも、「悩む事に悩む」と言う事態に陥る人が多いように思います。

bragelonne
質問者

お礼

 かんぞうだぶるおーわんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「多くの者は悩む事を悩んでいる」と言う事を言っていた人がいた気がしましたが・・・  ☆ なるほど。そういうことですか。    ○ 恋に恋する  とも言いましたね むかしは。あるいは  ○ 日本の経済学は 経済学学だとか。  ★ 故に、(1)(2)はその通りだと思います。  ☆ そうだとしますと 言ってみれば  ○ コギターレの海を泳いでいる。その泳ぎをたのしんでいる。  と言えましょうか。  ★ (3)に関してもそうですね。  ☆ ですか。  ★ ・・・要するに「他人の褌」というやつです。  ☆ なんですか。  (わたくし自身は 幸か不幸か いくらかの自分の考えを持つことが出来ましたので いちおうその事実に立ってものを言っており質問を挙げています)。  ★ ~~~~   ☆ 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》とでも見られるそのつつしみ深さでしょうか?  見苦しいと言う事より、その意見を言う事は、「否定される」と言うリスクを孕みます。それが嫌なのだと思います。  ~~~~~~  ☆ なるほど。でしたら 必ずしも 《沈黙は金》という方面からの要請でもないのですね。  コミュニケーションは とうとぶのであり それぞれ自分の意見をも自分の中には用意しているのだと。  ★ ~~~~  どうでも良い「意見」なら否定されても、「こういう人もいる」で済みますが、自分の人生の根になるような自分にとって重要な意見や価値観を否定されると我慢ならなくなります。よってそのような意見は「表明しない」が安全策と言えるでしょう。  ~~~~~  ☆ ごもっとも。(ですから わたくしは 少しは人びとが振り返って見直しうる見解を持とうとしてきたのではありますが)。  ★ これは主に、宗教や政治がらみでこのような事が起こります。  ☆ ということは 例の《クウキの支配》がその場や情況を覆っているといったことでしょうか? 個人の見解はむしろこの《宗教や政治》の側面とからんでこそ その値打ちが発揮されるものだとも言えそうですから それを周りから否定されてしまっては元も子もなくなります。  ★ ~~~~  自分の宗教が一番で、他宗教は邪教だ。と言う主張の好戦的な人物なら、「表明しない」よりもむしろ「積極的に表明し正当性を主張して、間違った考えの他者を排除しよう」としますが、日本人の多くは表明する事での争いを生むなら、黙っていて誤魔化しながら他人とうまく付き合おう。と言う選択をします。  ~~~~~~  ☆ あぁ この方面になると 先ほどの《慎み深さ》や《沈黙は金》といったナラワシが顔を見せているかも分かりません。不毛な水掛け論が多すぎます。  ここから  ★ 具体的な問題解決で考えるより、悩む事を考えているのもこの影響が強いと思います。  ☆ というのは いささか情けないとも映ります。残念なように思います。  ★ 具体的な問題解決をする場合、必ず他者との争いが生じます。それは問題解決をされると都合が悪い人がいるからです。「問題」とは、現状を変えたいと言う人と、現状を変えられたくないと言う人の争いから生まれます。  ☆ まぁ 或る意味で例の橋下氏のたたかいとかかわっていましょうか。たとえばですが。  回り道であっても 哲学も それなりのチカラを発揮しうるはずなのですが。  かくして  ★ ~~~~  そういう人たちと真っ向から戦わなければ成りません。しかし、そのような争いを避け、現状に甘んじるが余り、問題を解決したい→でもそうしたら○○さんと争う事になる→じゃあどうしよう→このままで良いか→嫌、このままで良い分けがない→ループ  と言う、「悩む事に悩む」と言う現象に陥ります。  ~~~~~~~~~  ☆ たしかに《ひとり》は よわいです。おそらく特に日本社会では ひとりのチカラは よわい。と考えられます。情況をクウキが覆い包むからだと思います。  ★ こういう考えが普段から習慣で身についているので、就職や転職などの他人の争いとは関係ない分野でも、抜本的な解決策を模索するよりも、「悩む事に悩む」と言う事態に陥る人が多いように思います。  ☆ なのですね。  そうでしたか。  わたくしは 言ってみればバカ丸出しですから どしどしあたらしい考えを提出します。たとえばローマ教会を初めとして宗教組織は ぜんぶ自己解体すべしと言っています。  わたくしも  ★ 「悩む事に悩む」と言う事態  ☆ について考えてみなければならないかも知れません。たぶんその事態に落ち入ることはないと思いますが。恋に恋することにはなじまないと思っていますから。でも 恋に恋する気持ちが分かるようになることも大事であるのかも分かりません。(たぶん そうだとしても これまでの行動方針をあまり変えないかも知れませんが)。  ひとつ分かったように思いました。  でも 日本人は おしとやかなのですね。

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  • MOG777
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回答No.8

痛いという感覚も人や状況により様々なバリエーションに分かれるのです。本来は・・・ ただ鈍い者はコミュニケーションの必要性から生まれた妥協の産物である「痛い」という言葉に違和感は感じないわけです。 しかし、鋭敏過ぎれば生きるのが困難でもあるわけです。 同様に、他人の言葉を借りるというのも、鈍いと同時にそうしなければ社会生活を営めないからそうするわけです。 あと、仏教では悟りに対する先入観は厳しき戒められていますから、仏教徒に対する侮辱は的外れと言わざる得ません。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 他人の言葉を借りるというのも、鈍いと同時にそうしなければ社会生活を営めないからそうするわけです。  ☆ これがまさに デ・ファクト・スタンダードなわけです。事実そうなっている。現実がそうなっている。そしてそのコトをものごとの基準とする。というわけです。  そうですね。そこにあらたな何か規範を考えて差し挟もうとするのではなく では どうしてそのような既成概念追随主義と言いますか あるいは 事実の積み重ねによる済(な)し崩し主義と言いますか のデファクトスタンダードなのか? あるいは それしかないのか? という問いです。    たとえばですが 《大本営発表》は いまだに政府やお二階さんの責任ある立ち場から ときとしておこなわれます。そういうウソの発表がおこなわれます。これは どうしてか? と問うのが 哲学なのではないでしょうか?  ★ しかし、鋭敏過ぎれば生きるのが困難でもあるわけです。  ☆ というほどの事態ではないと思いますが どうでしょう。  ★ あと、仏教では悟りに対する先入観は厳しき戒められていますから、仏教徒に対する侮辱は的外れと言わざる得ません。  ☆ 要するにですが 哲学は すべて疑え ぜんぶ疑えとも思っていて あらゆる可能性を考え尽くし 交通整理をしておくのだと思います。ですから 《先入観をいましめる》のでしたら そのような《既成のおしえとしての戒め》じたいをも 哲学ならうたがう。はずなのです。ブッダじしんが ブラフマニズムを疑い疑い尽くして 自分の哲学を建てたのではないのですか?

回答No.7

やあ、信仰を持ち出す必要がないの一言で今度は私が高ぶっちゃったよ。 これは習性でね、私は悟り、無を理解できていると周知させる事も出来、それを聞く人が無を悟る手助けもできる。 これはおおむね理解していただけるだろうが、そうすると目に余るのは信仰の無い状態で蒙昧したまま行われる神聖なるものへの冒涜だ。 このおかげで合い通じ合う安らぎが、条件闘争へともつれこみ、悪魔が交渉役として登場するのだよ。 私は怒りをあらわにしたらお終いだと考えているから楽しんで人間どもをいじめているのだよ。 救うつもりはない。 結果的に救われるだろうがそれは自助であり計らいではない。 だから知った事じゃない。 人生を共にしたジラーチさんが教えてくれた愛し方だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ 私は悟り、無を理解できていると周知させる事も出来、それを聞く人が無を悟る手助けもできる。  ☆ この命題は 別の質問【Q:《神を見た》は共有できるものではない】の問い求めている主題でもあります。  ★ これはおおむね理解していただけるだろうが   ☆ いえ 微妙だと考えております。一般論としてですが 個別に実際にもむつかしいと考えています。    ★ ・・・そうすると目に余るのは信仰の無い状態で蒙昧したまま行われる神聖なるものへの冒涜だ。  ☆ ですから――あくまでこの質問に限っての話ですが―― 《哲学》のあり方や実際の中身を問うことに絞っていますから 《神聖なるものへの冒涜》という見方にまでは上に上がって行かない。と言いますか そういうかたちではあります。そういう意味です。  たしかに そうは言っても 哲学のいとなみが 《解釈》や自分自身の見解の形成にあると言っても それらがおのが信仰にもとづくということはありますから 決して無関係として除外するものではないのですが かと言って それをもここでの問い求めの範囲に入れますと もう収拾がつかなくなるかとおそれます。  言いかえると 【Q:《信じる》とは 人間にとって どういう行為か】のような質問になってしまいます。  このようにお応えすることになると思います。  つまりたとえば  ★ 悪魔が交渉役として登場する  ☆ というかたちのほうが 哲学がその固有の営為を効果的にならしめるということか? と考えるならば それは いろんなかたち・いろんな場合がある。こう答えることになるでしょうから 範囲がやはり広がってしまうと思われるわけです。  つまり   ★(編集しました) 悪魔を交渉役として登場させる  ☆ と人びとが それまでは《ほかの人間の学説や見解をなぞるかのように〈考える〉こと自体を考えていた》のが じっさいにふと我れに帰って自己自身の見解を持とうとするということなのかも分かりません。  でも この回答を基本的に回答と見なすならば こうなります。つまり人びとは 我れに帰って自己の哲学を考えるようになるためには つねに《悪魔(ないしアクマ役)》を必要とするとなってしまいます。  おそらくそれは 本筋ではないでしょう。  もし本筋に それでも かかわっているとするなら それは こうなります。《では 日本人が 自己の哲学を考えるようになるためには つねに誰かほかの人間がアクマ役になっていじめることが必要だ》というかたち。このとき それは なぜそうなのか? これです。  ★ 人生を共にしたジラーチさんが教えてくれた愛し方だよ。  ☆ が どうして日本人には 必要なのか? なぜそんな回りくどいコミュニケーションの手法を必要としているのか? です。    

回答No.6

こんばんは、 ぶしつけに続けます。 善行をつもうとするのなら、善しを計らう積極性があり、すなわち自らが善しとするところに確信がるのでしょうが、始末におえない事に誰かがいいと言った事にくっついて回っている。 どうしてもこの追従姿勢がある。 仏教徒を名乗った困った人々は、おおむね自らの考えが正しいと確信する人でなく、お釈迦様などが言った言葉に根拠もなく確信に似たものを感じ、それが信仰だと勘違いして規範とする。 彼らは、そもそも考えなんてありません。 だから簡単に私などを悪人にする。 私は、私自身が悟ったからお釈迦様を人間性において信じる事ができる。 彼らは逆です。 外国も似たようなもんだろうからキリスト教などもあてずっぽうで批判できるけどゴルゴム陰謀説などは反証の題材として上出来だったと思いますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 仏教徒を名乗った困った人々は、おおむね自らの考えが正しいと確信する人でなく、お釈迦様などが言った言葉に根拠もなく確信に似たものを感じ、それが信仰だと勘違いして規範とする。  ☆ たしかに特に仏教の場合に・そして《さとり》の場合に その見解が何となくひとつの説にもとづきその範囲内で《考える》ところを述べているものであることが多いように思います。  ★ 外国も似たようなもんだろうからキリスト教などもあてずっぽうで批判できるけど  ☆ おしえを振り回すかたちが多いように思います。  この質問では 信仰のことはあまり出す必要がないと思いますよ。

回答No.5

こんばんわ。 ぶしつけに続けます。 無我の風俗説は考えも無く書いたのですが、信仰であれば文字通り和を尊ぶ事をかたくなに信念としますので、善行をつもうと頑張ると思います。 日本ではそう言うのは良識とされていますが、行動規範の論理は信仰の伝統ではないか。 伝統に対してかたくなな信念を持ち、誰かから言われた事を自分の考えだと思っている。 以上で解説は一応まとまりますね。 昔はたくさんいて論議も活発だったけどなんだかほとんどの人が逃げ出しちゃいましたね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 伝統に対してかたくなな信念を持ち、誰かから言われた事を自分の考えだと思っている。   ☆ 《伝統》には いろんな種類のものがあるかと思いますが この場合は だいたいそのときの主流派を言うのでしょうね。  その伝統に合った思潮に沿って主流派がいわゆるオピニオンをかたちづくりますから その内容を自分の考えとして持とうとするのだと思います。  ★ 昔はたくさんいて論議も活発だったけどなんだかほとんどの人が逃げ出しちゃいましたね。  ☆ たしかにかなり様相を異にして来ています。  でも わたしの質問の経歴においてその流れは変わっていませんので たしかに《逃げ出した》恰好となっていると見ざるを得ないところがあるかと思います。  だとすれば 賛同する場合は 同感であると ひとこと投稿するのも回答に入るのに それがあまりなされていないと思います。  いささかたかぶりとともに述べました。

回答No.4

無我が風俗だからじゃないですか。 共通の事柄から逸脱することに弊害が多いからでしょう。 いわゆる無の悟りを理解する下地があると言う意味で、風俗でなく信仰の伝統とするなら、美徳に昇華できる可能性もあります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 共通の事柄から逸脱することに弊害が多いからでしょう。  ☆ これは すでに議論も出たところの《クウキによる支配》なる理論のようです。  クウキをともかくその場やその情況に成っている《和》だとみとめよ。しかるのちに もし抵抗やら反抗やらをおこしたいのなら起こせ。基本は この和なる共通の場や共同の心理から逸脱することは避けよ。であると。  たしかにそのようであれば 自分の意見を そうやすやすと述べるわけには行かない。およそ根回しをしてなのでしょうか その場における根回しをしつつなのでしょうか そのような準備段階を経てやっと 意見が言えるかも知れない。あるいは そのころにはもうその場はお開きになっていて 何も言わずじまいに終わるかも知れないと。  ★ 無我が風俗  ☆ であるのでしょうか? それとも  ★ 風俗でなく信仰の伝統  ☆ でありましょうか? 果たして どうでしょう。    自分で考えることをし得ず よって自分の意見を発表出来ないとしたら 風俗説なのでしょうね。

回答No.3

bragelonneさん、ご無沙汰しております。ひと月近く留守にしておりましたもので… 今回の質問も、非常に難しいですね。今回の質問を読んでいて、自分もどこまで自分の頭で物事を考えているのか、考えさせられました。 ところで、学生のころ、加藤秀俊著「習俗の社会学」か何かで、日本人が自分の意見を断定的に述べない理由をいくつか読んだ記憶があります。だいぶ昔のことなので、書名を含めてかなり記憶が怪しいのですが、 『かつての日本のような、閉鎖的で、閉じた村落社会では、個人の独創的な意見・思想よりも、共同体の和・利益が重視される。そのため、共同体の和を乱すような意見は無視・圧殺される、または、共同体の和を乱すような行為をする者は村八分などのペナルティーを課せられことも多かった。そうした文化的土壌では、人と異なる自分の意見はダイレクトに述べにくい。権力者の顔色をうかがいながらの発言になるので、どうしても歯切れが悪くなる。賛成・反対、どちらとも取れるような曖昧な発言をしてしまう…』 みたいなことが書いてあったように思います。 現代日本に生きるわたしたちの日常での言動を見てみますと、ことさら、自分の”我”を主張して、自分が所属している集団での和を乱すことを避ける傾向にあるようです。 かつての日本人の文化的な遺伝子が今でも色濃く残っていて、ついつい議論を避けてしまう、ということがあるのかもしれませんね。 さてさて、わたしは、これに加えて、日本人の宗教観が深く関係していると思います。日本の伝統的な宗教には、ユダヤ・キリスト教的な唯一絶対的な神は存在しません。そのため、日本の宗教では、キリスト教、特にプロテスタントのように、『神とわたし』という直接的な関係で、唯一絶対的な神と直接向き合って物事を深く考える姿勢(哲学における根源的・根本的思索と表現した方が適切かも知れませんが、そうした姿勢)は求められません。このことも日本人が宗教的・哲学的な問題について”みずからの頭で考えて”発言することを避けることにふかく関係していると思います。 さらに、日本だけではなく、古代インド・中国の宗教・哲学・学問的な伝統が深く関係していると思われます。 仏教・儒教ともそうですが、そこで重視されるのは、伝統です。その教え・思想が古ければ古いほど、価値が高い・勝れているという学問的土壌があります。師資相承の教えこそが価値が高い、勝れているという考えがあります。そのため、中観派の開祖である龍樹ですら、その独創的な哲学思想を釈尊本来の思想と結びつけ、展開する必要がありました。 bragelonneさんのおっしゃる、『誰か(偉大な先人)が考えたものを あたまの中に入れ込む このことが《われが考える》だと思う』ことが、日本の仏教(たぶん儒学でも)で重視されたことも無縁ではないと思います。 「自分の浅薄な思想を述べるのは、烏滸(おこ)がましい」という学問的な土壌が、日本だけではなく広くアジアにあることも、このことに深く関係していると思います。 ☆☆☆ 話は変わりますが、 人には《感情論理》というものがありますよね。 あれこれもっともらしい理由をつけているけれど、換言すると、論理の体(てい)を装ってはいるけれど、実は感情(好き・嫌いなどの感情)に立脚した意見・考え。 「これからますます少子高齢化が進むので、将来の消費税の増税はやむをえない。しかし、今ではないはずだ。消費税の増税を考える前に、議員定数の削減など無駄を省く必要がある」 「原発の必要性は理解できるが、ホニャララ、ほにゃらら…」 などなど、この世の中には、《感情論理》にもとづく意見・考えが意外と多いですよね。そうした《感情論理》的な発言をする人に限って、「自分は自分の頭でよく考えて発言している」とのたまう人が多かったりして… ここで、消費増税や、原発再稼働の是非を議論するつもりはないですけれども、 《感情論理》の克服法について bragelonneさんの意見がありましたら、ご教授をよろしくお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃあさん お帰りなさい。ご回答をありがとうございます。  時事問題ないし国際関係論あるいは現代史などについてあかるくないにもかかわらず こちらのほうが簡単かと思って 先に考えます。  ★ 《感情論理》の克服法について  ☆ です。そうですね。もし   ★ あれこれもっともらしい理由をつけているけれど、換言すると、論理の体(てい)を装ってはいるけれど、実は感情(好き・嫌いなどの感情)に立脚した意見・考え。  ☆ と規定するのでしたら それでは一般論としては たしかに困りますね。  そしてもし政策などの問題でしたら なぜ理論的に考えるとこれこれの結論となるはずだよりも その実施による結果がどうなるかが重要であるように思われます。しかもその結果は シミュレーションどおりになるかどうかも分からないのではないかと思われます。いまは あたらしい商品やサービスがどんどん需要された時代とは違うでしょうから。  そして――決して茶化すわけではありませんが―― 責任者や首相が決定した政策が 考えてみれば《感情論理》から提出された素案と同じようだったということもあるかも知れません。  つまりまづ言いたいと思ったことは 政策立案や議論の段階とそして意志決定の段階とは分けて考えたほうがよいと思われたことでした。  そうして議論の段階では たとえば  ★ 「原発の必要性は理解できるが、ホニャララ、ほにゃらら…」  ☆ という提案というのは たぶん突き詰めて行くと レトリックの問題に行き着くというように思います。  《感情論理》であると言えるとも思いますし あるいはまたどんな論理で説明するかよりも 人びとの心象をよくするようにいろんな手法を用いるのではないかと思います。感情から発して議論を立てておられますねと言うよりも ディベートのノウハウを会得されていますねと皮肉ったほうがおもしろいかと考えます。  ★ 「これからますます少子高齢化が進むので、将来の消費税の増税はやむをえない。しかし、今ではないはずだ。消費税の増税を考える前に、議員定数の削減など無駄を省く必要がある」  ☆ こんな論理を持ち出されたなら 経済や財政によいことはみんなやればよいではないですか? どうでしょう? と言い返せばどうなのでしょう。  たぶん レトリックにはレトリックをもって言い返したいと思うのですが どうでしょう。     *  さて《われは かくかくしかじかと考える》という本家本元と バカ丸出しにおいて 任じるわたしといたしましては 質問者としてながら どしどし意見をのべてまいりますが まづ  ★ 加藤秀俊著「習俗の社会学」か何か  ☆ の見解は それとして無難なまとめとして聞こえます。でも それは一応ということではないでしょうか?  問題は 《和》であるとすれば それは ふたつの局面に分けられると思うからです。  ひとつに ムラの内外における水平的な人間関係 そしてもうひとつには ムラとクニ(中央政府)との垂直的な社会関係 これらのふたつだと見ます。  ★ ことさら、自分の”我”を主張して、自分が所属している集団での和を乱すことを避ける傾向にあるようです。  ☆ という水平的な人間関係における《和を乱す》の問題は  ★ 権力者の顔色をうかがいながらの発言になるので、どうしても歯切れが悪くなる。  ☆ の《権力者》を 代官や地頭やあるいは幕府ないし中央省庁のお役人と見立てた場合に およそひとえに収斂するのではないかと考えるからです。  ムラの仲間どうしは けんかが絶えないほど《和》のもとにあります。(そうではなく へんな地元の権力者がいる場合はあるでしょうが)。問題は クニのお役人さんたちとの仲です。  とにもかくにも 《和を以って貴しと為せ》と言われなかったなら わたしは和を乱すことは知らなかったと パウロにならって言いたいほどなのであり すべては お上に従えというそのお二階さん幻想に問題は帰着する。のではないでしょうか?  (わたしは たとえば自然科学者のあいだでは どんどん自由にあらたな仮説が出されたり実験が行なわれたりすると聞いているものですから 多少の上下関係のいさかいはあっても 風通しがまったくわるいというのでもないと思うところがありました。ですから この《和 ないし 和を乱す》の問題には触れなかったのです。でも もし触れるのでしたら こういう《アマテラス公民-スサノヲ市民》の逆立ちした連関制の問題になると考えます)。  くどくならないように ひとつの例示を出します。    おほきみは神にしあれば    あまくものいかづち(雷)のうへに    いほ(盧)らせるかも       (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番)  国家が 二階建ての構造としていよいよいわゆる中央集権制として国家たらんとして成ろうとするときに 詠まれたものと思われます。その後 《現人神》といった思想も出ました。  さてこのうたは 何と言っているかですが:    人麻呂にしてみれば こうです。  世の中の空気は 神が人となって現われているのだということになってしまっている。けれども そうだとしてもまづ問題になるのは そう(神)でない人である市民スサノヲらも この神となって現われているアマテラス(その子孫)とは じつは・じつに じつの弟と姉であるわけです。従って 人麻呂の心としては     なるほど神であれば いかづち山の上に住まいを持っておられる。    そうかな。そうかもね。  とうたっているだけです。その後の国文学などの定説において これを大君讃歌と言い慣わしていますが どうしてどうして。ただ現実に立脚して 現実を見ている。それを認識している。のみです。  ★ 師資相承の教えこそが価値が高い、勝れているという考えがあります。  ☆ 神話の伝承に立脚して正統の歴史にもとづく議論を 人麻呂はしていると言えましょうし あるいは別様に 世の中のうわべの《師資相承》としては 現人神なるあらたな神話に片向いている。そして人麻呂は これに何食わぬ顔で異論をとなえている。しかもつまり その異論が異端ではなく もともとの神話に立脚したかたちである。    これは 最初の《感情論理》の克服の問題にもつながるかと思います。  ★ 「自分の浅薄な思想を述べるのは、烏滸(おこ)がましい」という学問的な土壌が、日本だけではなく広くアジアにあることも、このことに深く関係していると思います。  ☆ これは一方で確かにわたしも 慎み深さからくるのかと思ったように 大きく生活日常に見られると考えますが それでも他方では・またこれがけっきょく基本の問題だと思われるかたちで あくまでこの引っ込み思案が拠って来たるその元凶は 逆立ちしたアマテラス‐スサノヲの連関制にある。こう そうだとしたら 言わざるを得ないと考えられて来ます。  西欧社会では そこでもこの二階建て体制として国家が成っていると捉えますが ただしそこでは アマテラス公民とスサノヲ市民とが分離していないのではないかと見られます。そこでは人間は一人ひとりが いわば《スサノヲ市民性=かつアマテラス公民性》の一体となった存在として生活している。のではないか? だから  《公民 A 圏( A = S なる人間 )‐市民 S 圏( A = S なる人間 )》連関制  のごとく成り立っている。ゆえに そこでは 一階と二階との回転(レヲ゛リュシオン)が容易に起こるのだと見られます。  ヒトが《公民性=市民性》として成っているということは たとえ自分の思想が浅薄な内容であったとしても それをきちんと述べなければ そのほうが烏滸がましいことだとなるのではないか?  それでも・つまり日本社会では 《 A - S の分離した成り立ち》なる人間であったとしても 先に見た人麻呂の例は 日本人として  ★ 『神とわたし』という直接的な関係で、唯一絶対的な神と直接向き合って物事を深く考える姿勢  ☆ を結果としてでも持ち得ている。こう考えます。神が そうやすやすとこの世の中にお出ましになるわけがないと言っているはずです。神は わが心なる非思考の庭の問題として処理すべしと言おうとしていませんか?

  • MOG777
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回答No.2

正直、文の構造が分かりにくいので補足をお願いします。 (1)で述べたコギトとコギターレを、(2)と(3) で繰り返しているような気がします。そうであるならば(1)の纏まりの中に位置づけるべきではないでしょうか? >(2) 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか? 何をどう考えるのか これをおろそかにしてはいないか? 「何をどう考えるのか」とありますから「考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている」とはとり止めもなく考える(=考えることを目的として考える)ことかと思うのですが、上記での指摘が正しいならば「考えること」を考察することを指しているのかともとれるわけです。どちらでしょうか? >(4) まさか!? であろうか? この箇所が何を意味しているのか不明ですが、蛇足のようですので気にしないことにします。 >考え得る原因は 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》とでも見られるそのつつしみ深さでしょうか? 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》から誰かが考えたものを あたまの中に入れ込むというのは理解できますが 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》から考える行為そのものをあたまの中で思いつづけているとなると、「考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている」とはとり止めもなく考える(=考えることを目的として考える)ことではなく、「考えること」を考察することを指しているように思えてきます。 >つまり一般の人びとについてならまだ分かりますが 哲学カテにおいて何故そうなのか? 解せません。 哲学カテゆえに厳密かつ一歩づつ論を積み重ねなければ、さんざん議論したことが無意味になりやすいものだと思います。 例えば、質問者さんに補足要求しないで勝手に何十行も反論して、実は解釈間違いでしたとなるとアホでしょう・・・ 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》というよりも《自分の意見を主張するのは 安易にできるものではない》ということだと思います。 ただし、質問は気軽にすべきです。 ただし、結論ありきの質問は質問とよべませんが・・・

bragelonne
質問者

お礼

 もぐとりぷるせう゛んさん ご回答をありがとうございます。  ★ (1)で述べたコギトとコギターレを、(2)と(3) で繰り返しているような気がします。そうであるならば(1)の纏まりの中に位置づけるべきではないでしょうか?  ☆ どうもそうみたいですね。  (2)は (1)の言いかえです。はっきりと。  (3)は:  ☆☆(趣旨説明欄) (3) もちろん われが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。  ☆ といったように《コギト(われが考える)》の要素が そうは言うものの ないのではない。とさらに詳しく述べたかった。ようです。《思考ないし コギターレ》という大きな海の中で その既成の航路をたどる。そのための《われ考える》はおこなっている。枠組みの中で整理整頓することは むしろ得手でもある。  といった細かいことにも触れておきたかった。のだと思います。  番号区分が そう言われればおっしゃるように あいまいです。その意味がわかりにくい。のでした。  というわけで 後づけになるかも分かりませんが あらためて質問者の意図を考え直してみます。(へんなかたちで すみません)。  ★ ~~~~    >(2) 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか? 何をどう考えるのか これをおろそかにしてはいないか?  「何をどう考えるのか」とありますから「考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている」とはとり止めもなく考える(=考えることを目的として考える)ことかと思うのですが、上記での指摘が正しいならば「考えること」を考察することを指しているのかともとれるわけです。どちらでしょうか?  ~~~~~~  ☆ こう見直して来て思うことはですが (2)を言ったその意味は こうだと思い直しています。  すなわち たとえばブディズムを例に取ってみますが やはり《さとり》だとか《空》だとかの大きな主題がありそれとしての概念ないし観念があります。  この《さとり》なる海を泳ごうというわけですが そのとき《さとり》や《空》について  ☆☆ 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか?  ☆ こうなります。  ☆☆ 何をどう考えるのか これをおろそかにしてはいないか?  ☆ とは いちど さとりにしてもあるいはブッダなる人物じしんにしても それを疑ってみるということ。いいかえると ブッダがどのようにしてさとりを得るにいたったか。その初めから出発してみる。そこでいろんな道を自分で考えあゆもうとしてみる。  これをおろそかにしてはいないか? という意味になると思います。  ★ 「考えること」を考察することを指しているのかともとれるわけです。  ☆ これは 《人間の思考とはどういうことか?》という哲学の主題を成すとも見られますから いちおうここでは除外します。それは 成り立つ行為ですから 取り上げるのは まちがいとなるでしょうから。  ★ 「考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている」とはとり止めもなく考える(=考えることを目的として考える)ことかと思うのですが  ☆ これに近いはずです。その《とり止めもなく》という内容をさらに規定しようとしていて――つまり あとづけですが―― いま上に触れたように 何か既存の研究を前提としてそれらを精緻化しつつながらなぞってみたりすでに足を踏み入れた跡のある道をていねいにでありながらただたどるだけであったり というかたちを言おうとしています。  仮りに《とり止めもなく考える(=考えることを目的として考える)》を活かそうとしますと やはり《さとり》や《空観》 これらのようにきわめて言葉で表わしがたい主題を延々と考え続けている。というように 質問者には見えます。そのことになるかと思います。  そのつてで言えば 《ひとはすでにさとっているのだ》というようなひと言を差し挟んでおけば その思索ないし議論は ふつうの現実のものとして受け取ることができる。といったことです。そうではなく 《わたしは まださとりを得ていませんが》とことわって述べるときには まさしく《考えることを目的として考えている》と言われかねないと思います。宇宙遊泳のごとくなってしまいませんか?  《まさか!?》は  ☆☆(趣旨説明欄)  ~~~~~  (3) ・・・誰かが考えたものを あたまの中に入れ込む このことが《われが考える》だと思っていないか?  (4) まさか!?   ~~~~~~~~~~~~  ☆ というつながりです。  ★ 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》から考える行為そのものをあたまの中で思いつづけているとなると、  ☆ これは 確かにあいまいでした。言おうとしたところは    ○ 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》から 《自分の意見》をかたちづくるために《考えること》はやめにして すでに何らかの解釈としての路線が敷かれたその上においてのみ考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている  といったかたちになりましょうか。    ★ 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》というよりも《自分の意見を主張するのは 安易にできるものではない》ということだと思います。  ☆ 《安易に出来るものではない》 これは 表現の自由と言っても 勝手に意見を述べることがつねにゆるされるものではないという意味と そしてそもそも人が自分の意見を形成することじたいがむつかしく したがっておのが意見を主張するのも 安易にできるものではないという意味と ふたつあるように思います。  前者のむつかしさは その場で機会が与えられるのを俟っておこなえばよい。後者は もし意見をまだ持ち合わせていなければ 疑問点をどしどし尋ねてすすめばよい。こう考えます。  少し違った意味合いになりますが  ★ ただし、質問は気軽にすべきです。  ☆ とわたしも考えます。  ★ ただし、結論ありきの質問は質問とよべませんが・・・  ☆ これは どうでしょう? 結論ありきと言っても あくまでひとつの結論です。決定的な結論などは稀れですから やはり質問は気軽にしてよいとおもわれますが どうでしょう。  あるいは 仮りに決定的な結論を仮りに誰かが持ったとします。そのときにも 気軽に質問はしてよいとわたしは考えます。もし最良の答えを提出して質問をしているとすれば それも もしそれまでにその結論内容が 一般に常識となっていないのであれば 気軽にしてよいのであり それは 賛成の回答を得ることが 質問をした目的だとなるからです。  誰が見ても妥当な内容をもって質問している場合は その内容がまだ常識や学問における定説になっていないのなら それは自由に設問して 賛同を得ること これが目的となります。そのようにして一歩一歩あゆんでいくものと思います 哲学は。    

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