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日本人はコギトではなくコギターレを思っている
- 日本人は考える行為そのものをあたまの中で思いつづけているのではないか?
- もちろんわれが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。ところが誰かが考えたものをあたまの中に入れ込むこのことが《われが考える》だと思っていないか?
- このようにうたがわれる心的現象についてくわしい方におしえを乞います。
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まず、「日本人は~」っていう命題の立て方はやめたほうがいいでしょうな。こういう言い方って、結局、自分を都合よくわきにおいた他人批判でしかないでしょ。要するに、床屋談義だってこと。 この質問も、コギトがどうこうって小難しい話のようだけど、つまるところ「自分の頭で考えない人が多い」といったことを主張されたいわけでしょ。一応マジレスしておくと、哲学は -別に哲学に限らないけど- 過去の人が行ってきた思索のうちで一応信認されたものを踏まえたうえでしか学問にならないわけで、ちゃんと引用されていれば別になんにも問題ないのではないですか。 逆に、今のこのカテの質問とか回答をあらためて見てみてくださいな。なんにも歴史的な蓄積を踏まえずに、「オレはこう思うんだけど~」っていう発言にあふれてるでしょ。質問者さん流にいうと、みんなもろコギト全開ですわ。一体なにがご不満なんです?
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- tumaritou1
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思考を深く思考した場合、思考しない時と同じになります。この意味は、意識の根底では『意識しないで思考している状態になっているからです』 深く思考或いは、本格的に悩んだり、苦悩する場合では、その内容は『言葉では尽くせなくなっている、言い方を換えるなら、言葉以外で考えている』と言う表現も可能かも知れません。 人間は言葉で考えていて、言葉の内容でしか、思考していないという誤解が在ります。 西洋では『宗教』を持たない人に対しては、人間としての品位や、常識が無いという意味合いが在るようです。はっきり言うなら『尊い人格に欠けている』と言う意味合いです。 そういう意味が、貴方の言葉『日本人は、、、』となっていると感じます。 西洋と東洋では、ものの考え方が根本的に違っていると感じます。その違いは、西洋では『我思うゆえに我あり』ですが、東洋や日本では『我がない時に本当には、働きが出来ている』或いは物事が自然と順調に流れている、と言う表現方法『無為自然や、無の思想』です。 是は言葉にするなら『没我』と言う状態において、人間は最も偉大な仕事をしている。と言う意味になるのかも知れません。例えて言うならば『オリンピック等でメダルがもらえる演技では』我(が)が出ていないという意味です。 我という意味は『自我意識』と言う意味です。我が出ていない時とは『無意識の自分に任せる事が出来た状態』と言う意味になります。 この意味は『言葉以外で考えている』と言う意味になります。 人間が本当に失意のどん底にいた場合には「もう言葉が出て来ません。」この意味は『意識と無意識が、意識の根底で、向かい合っている。』と言う意味が在ります。この意味は『仲違いしている暇がない』と言う意味です。 人間の心=人格=精神=魂と言う場合『何を指しているのでしょうか?』と言う問い掛けが西洋と東洋では形や言葉は同じでも違っています。 その答えは、意識脳である左脳の意識が考えた事しか知らないのが西洋の考え方、無意識脳と無意識脳の考え方を掛け合わせたのが東洋流と云う事になるのかも知れません。 西洋流の考え方には『矛盾』が隠せませんが、東洋流にはその矛盾を解消した姿が在ります。 この矛盾は一人の人間の脳内の矛盾にまで行く付くかも知れません。つまり『心の矛盾』です。東洋には『心の矛盾の解消方法が存在します』そのテキストが在ります。 そのテキストとは『禅問答』です。西洋流の考え方で行き詰まった場合の解消方法です。論理や、物事を分別だけで割り切るやり方の解消方法です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ひととおりお応えを書きます。 ★ 人間は言葉で考えていて、言葉の内容でしか、思考していないという誤解が在ります。 ☆ これは 誤解でもなんでもありません。そのわけは もし言葉によらずに思考したとしたなら それでもその結果(ないしその内容)は やはり言葉で表わすことになるということからです。相手にもしくは自分自身に伝えるというときには どうしても言葉で表わして伝えるのです。そのことを忘れているという意味での誤解が あなたにあります。 ★ ~~~~~~ 西洋では『宗教』を持たない人に対しては、人間としての品位や、常識が無いという意味合いが在るようです。はっきり言うなら『尊い人格に欠けている』と言う意味合いです。 そういう意味が、貴方の言葉『日本人は、、、』となっていると感じます。 ~~~~~~~~ ☆ これも誤解です。(1)すでになぜ《日本人は》と特定しているかは 回答No.1へのお応えに述べました。ほかの国の人たちが哲学するというのに対して 日本人は 哲学〔されたもの〕を学ぶという意味での哲学学しか持たないという特徴があるゆえだと。 (2) 《宗教》については 教会などなどのことですが 自己解体しなさいとわたしは言っています。そのわたしが《宗教を持たないなら 人格に欠ける》などと言うわけがありません。 ★ ~~~~~ その違いは、西洋では『我思うゆえに我あり』ですが、東洋や日本では『我がない時に本当には、働きが出来ている』或いは物事が自然と順調に流れている、と言う表現方法『無為自然や、無の思想』です。 ~~~~~~ ☆ 《我思うゆえに我あり》について どういう内容で捉えておられるのか知りませんが それは措くとして 東洋や日本でのその思想については 我があろうがなかろうが構いませんが 問題は最初の件でも触れているとおり その成果を伝えるためには 言葉をとおして表わすということが肝心であると言わざるを得ず そうであるのに そのことをお忘れになっています。 あとは端折ります。 結論: ☆☆(趣旨説明欄) (2) 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか? 何をどう考えるのか これをおろそかにしてはいないか? ★ 東洋流 ☆ で考えたならその結果は どうなるか? これが大事だというのに その《東洋流で考える》ということだけを頭の中でこだわっているのではあるまいか? これが問いです。
お礼
さくらずさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ☆☆(趣旨説明) (4) まさか!? であろうか? ☆ その《まさか》であるというご回答ですね。 そうですね。一つひとつその事由についてみてまいりましょう。 ★ まず、「日本人は~」っていう命題の立て方はやめたほうがいいでしょうな。こういう言い方って、結局、自分を都合よくわきにおいた他人批判でしかないでしょ。要するに、床屋談義だってこと。 ☆ 《床屋談義》というのは よく知りませんが 同意と異論と半々です。 まづ ★ こういう〔* 《「日本人は~」っていう命題の立て方》から出発する〕言い方って、結局、自分を都合よくわきにおいた他人批判でしかないでしょ。 ☆ 一般論として同意します。ただし《自分を都合よくわきにおく》かどうかは おそらくその立て方をした人によりけりでしょう。そしてそのよりけり如何によって たとえ《他人批判でしかない》場合にも 哲学としての意義はある。こう考えます。例証は これまでにも《日本人論》としての質問をいやというほどして来たというそれらのわたくしの経験を挙げます。 ★ 「日本人は~」っていう命題の立て方はやめたほうがいいでしょうな。 ☆ この立て方じたいについての評価ですが これは一概には言えない。それは 日本人の学問には 特殊な傾向がある。こう考えられるからです。 もう昔話であるかも分かりませんが その昔 経済学学という言い方をされたことがありました。経済についてのそれぞれ研究者じしんの学問ではなくて 既存の経済学についてまなぶ研究でしかないといった意味合いだったと思います。 そのつてで言えば いままで日本人の思想や哲学は まさに哲学学であって 自分で考えたところはないと言っても それほど驚くことでもない。のではないか? まぁ いまでは強く訴えようとも思いませんが 《やめたほうがいい》とまでは まだ言えない。言ってはならない。こう考えるというところから 同意できません。 * ★ この質問も、コギトがどうこうって小難しい話のようだけど、つまるところ「自分の頭で考えない人が多い」といったことを主張されたいわけでしょ。 ☆ これは 残念ながら 微妙に焦点がずれています。むろんそういう場合もありましょうから 批判をするわけではありません。質問者の意図は 違う。これを言うのみです。それは ★ 「自分の頭で考えない人が多い」 ☆ ではなく ほとんどすべての人が そうだ(自分の考えを持たない)とわたしが見ていることがひとつ。もうひとつは ですから そんなことは 日常茶飯事なのですから今更うったえても仕方がない。 そうではなく その頭の構造 これがどうなっているのか? これを解明したい。という趣旨になっています。(趣旨説明が たぶん 舌足らずだったことは認めますが)。 言いかえると どうしてそうなるのか? これです。そのいきさつというようなことが分かれば 大いに対処していくことが出来る。そういう方向での問い求めです。 * ★ 一応マジレスしておくと、哲学は -別に哲学に限らないけど- 過去の人が行ってきた思索のうちで一応信認されたものを踏まえたうえでしか学問にならないわけで、ちゃんと引用されていれば別になんにも問題ないのではないですか。 ☆ このお答えについては あえて反論するという応答の仕方をとってみましょう。 ★ 過去の人が行ってきた思索のうちで一応信認されたもの ☆ 初心者の場合は別として この《一応信認された》というところが 臭う。くさい。《一応》と言うからには それを取り上げつつ みづから検証ししかるべきは正すという姿勢であるとは認めますが どうも臭い。 ★ 一応信認されたものを踏まえたうえでしか学問にならないわけで ☆ すなわち臭いというわけは ここにありましょう。これははっきり言えば 大学における学問に限定されるでしょうね。既成の学者たちに認められなければ ほとんど研究者としての道は断たれるといった事情を反映している。すなわち 《自分の頭で考えることをしない》し それは日常茶飯事でしかない。となります。 ★ ちゃんと引用されていれば別になんにも問題ないのではないですか。 ☆ これは大事なことですね。 * ★ 逆に、今のこのカテの質問とか回答をあらためて見てみてくださいな。なんにも歴史的な蓄積を踏まえずに、「オレはこう思うんだけど~」っていう発言にあふれてるでしょ。質問者さん流にいうと、みんなもろコギト全開ですわ。一体なにがご不満なんです? ☆ 結論から行けば 《ほかの人間のおこなったコギトについてのコギターレになっている》のではないか? です。そのコギターレが たしかに追認するために自分で考えるからには その意味でコギトではありますが。 ところが そのコギトだったはずが けっきょく何を言っているのか分からないという実情も 暴き出されてくるのですから このすっとこどっこい ごらんあれとなります。 ★ 「オレはこう思うんだけど~」っていう発言にあふれてるでしょ。 ☆ これは 感想です。小学生がこれこれこのように感じましたと作文するようなものです。 ★ なんにも歴史的な蓄積を踏まえずに ☆ とさくらずさんも おっしゃっているぢゃありませんか。 ○ 一体なにが・どこが コギトなんです? 落ちがよろしいようで。