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自己主張をなじる日本人。その癖はどこから来たのか?
- 自己主張を含まない哲学の文章はあり得ません。
- 哲学カテでは自己主張をすることが多く、なぜ日本人にはその癖があるのか明らかにしたい。
- 日本の文化や社会的な要因などによって、自己主張をなじることが一般的になっている可能性がある。
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こんばんは、ヒドッチでございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 以下に、参考資料を載せてございます。ご参考になれば、幸甚に存じます。 §4 経済学的研究 経済の分野でも、「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。個々の日本人は企業の中で団結し(「日本的経営」論)、企業は「系列」の中で団結し、すべての企業は政府のもとに団結している(「日本株式会社」論)、と言われてきた。 しかし、そうした議論は専らエピソードやイメージに頼っており、実証的なデータが示されることはなかった。全体像をより正確に反映する経済統計や、経済統計にもとづく実証的な研究を調べた結果、経済の分野での「日本人の集団主義」説は事実とはそぐわないことがはっきりした。 > ( a ) 小池和男の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。 戦前、戦時中は、おそらく、「終身雇用」や「年功賃金」なるものは存在していなかったと考えております。戦前は、大財閥が経済の中心的な地位を占めておりました。その際、「終身雇用」等が保証されたことは考えにくいからでございます。「株式の持ち合い」なるものも、当然、戦後からのものと考えられます。 以下に参考資料を載せておりますが、戦後、労働運動が盛んになり(かつての総評も戦後生まれ)、その結果、「戦後の労使紛争の中で両者の妥協として大企業で成立した雇用慣行なのである」というのが正しいかと考えております。 年功序列の起源 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/73e3c4eb679bde621cbd302b980b8255 > ( b ) 三輪芳朗とマーク・ラムザイヤーの共同研究は、「系列(サプライヤー・システム)」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。 以下の文章から推察致しますと、少なくとも、硬直的・一方的な「系列」は存在しなかったことが伺われます。 「サプライヤー・システムについては、いわゆる「系列 サプライヤー・システム)」と呼ばれるサプライヤー・システムはサプライヤーとアセンブラーとの長期的かつ排他的な関係であり、またサプライヤーが従属的地位にあるものと考えられてきた。 しかし、実態を見ると、サプライヤーとの関係は長期的であり、その中で情報共有が行われるものの、サプライヤーは必ずしも従属的ではなく、独自の能力を有しており、それを活かして複数のアセンブラーと取引している。アセンブラー側もこのようなサプライヤーの能力を活かすべく、仕事を「まとめて、まかせ」ており、またリスクを取る能力に応じて契約を調整している。」 参考:http://lecture.ecc.u-tokyo.ac.jp/~ctshimiz/keieiseisaku/Ch7-9.pdf p.16からでございます。 > ( c ) 「日本株式会社」論についても、三輪とラムザイヤーによる実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。 通説は、Wikipedia 日本株式会社 にもございますように、”貢献した”というものかと思われます。 ですが、ファインセラミックおよび石油化学では、「以上の2つの例は、通産省は自らの政策に対する企業行動や、その結果もたらされる産 業発展について予測ができないということを示している。」と、否定的な説が述べられております(p.10-11)。 また、「仮に、日本の経済成長のための政策の特徴を政府による中央集権的な管理、すなわち通産省による政策決定と資源配分に求めるとするならば、むしろ第二次世界大戦後のヨーロッパ諸国の国有化政策 15 のほうがより中央集権的な政策といえるのではないだろうか。国有化によって政府は直接に企業をコントロールできることを考えれば、日本の産業政策はむしろ穏健だといっても良いかもしれない。 さらに言えば、政府の権限そのものについても日本に特徴的といえるものは見出せない。 よく行政指導がその例として上がるが、行政的な行為について非公式の接触を持ち、政府の意向を伝達するということであればどの国でも起こりうることであるといってよい。」(p.12) という文章からも、決して、日本特有のものではないことが示唆されております。 参考:http://lecture.ecc.u-tokyo.ac.jp/~ctshimiz/keieiseisaku/Ch7-9.pdf > ( d ) また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。 p.41の表4をご参照くださいませ。2006年のデータだそうでございます。 参考:http://www.jubc.gr.jp/jpn/active/pdf/EPAReport-J.pdf なお、過去の経緯を示したデータは見つけられませんでしたが、悪名高いスムート・ホーリー法(1930年)等がございましたため、「日本よりアメリカの方がずっと高かった」”時期が存在した”、とも推察出来ますが、継続的であったかどうかは、推測の域は出ませんでした。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > 福島原発の発電所長は 注水の中断を要請する本社の命令に従わなかった。《社畜》ではなかった。ということなのかどうか? 吉田所長でしたでしょうか。元来は《社畜》であったっかもしれません。ですが、この件につきましては、「評論家はいらない」と発言し、本社命令に背き注水したのは、公共性を重視したためだと考えております(自らの出世<公共性 と自発的に判断なされたものかと思われます)。 またもや、次の言葉を思い出しました。日本人の悪いところだけは未だに継承しているのかもしれません。 「なお日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。」 戸部良一ら著「失敗の本質」 p.68 から > わたくしは 世間のすずめ談義によりますと 狭い料簡に閉ぢ籠り ひとの意見をもその自己の秘密の部屋に引き寄せ ひとり病いを篤くしているとのことのようです。 そこまで言わせたわたしは えらい。と勝手に褒めておきたいくらいです。 お吠えにあずかりまして、光栄に存じます。ただ、愚生に発言の機会をお与えいただきまして、厚くお礼申し上げます。また、個人的にコンタクトをとらせていただくこともあろうかと存じますが、その折はよろしくお願い申し上げます。 どうもありがとうございました。 Hidotchi 拝
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 「なお日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。」 戸部良一ら著「失敗の本質」 p.68 から ☆ えぇ 以前にも出していただきました。もしこれに従えば 福島発電所所長の振る舞いは 日本人として 一般性があると或る程度言えるほどであるとも考えられます。 『私の履歴書』を読んでいると 若いときの武勇伝がたしかにあるように思います。この手記を書いているのは ほとんどすべて会社などのトップにまで成った人の場合ですが。五月は アサヒビール社長をつとめた人間が書いています。辞表を出すことを決めてそのときの上司やトップの判断に反対し批判をおこなってきたようです。 となりますと アマテラス公民の無謬性なる神話の崩壊 この話にたどり着くようです。上司と部下との関係にも そのような神話がおよんでいるかも知れません。共同自治の行為と営利事業の活動とでは 違う側面があるのでしょうけれど。 あるいは上下関係と言っても お互いさまでもあるでしょうから 《失敗の本質》も《成功の本質》としても 具体的で一般性のある事例の研究がなされればよいと思います。(すでに たぶん あるかも知れませんが)。 そうですね。いま少し開いていて 閉めることにします。
補足
けさの朝刊に岩井克彦が投稿しています。 《新しい日本へ 第2部 企業再興 難局バネに》の 《特集 震災と日本企業の20年》に寄せて 談話を要約したようなかたちのものですが 全文をかかげます。 ▲ (岩井克彦:日本型経営の再構築を) ~~~~~ バブル崩壊から20年。日本企業は目先の利益追求に追われてきた。米国発の金融危機は株主主権論の正当性を根底から覆した。東日本大震災を経た今こそ 日本型の経営モデルを再構築すべき時だ。 会社を《2階建て構造》で考えてみよう。1階は設備を所有して従業員を雇い 組織として中長期的な事業活動を行なう。対して2階は株主が株式を所有し 会社をモノとして売り買いしている図式だ。日本とドイツが1階の産業(組織)重視型で 米国が2階の金融(株主)重視型だ。 むろん株主は軽視できない。だが伝統的なもの作りや従業員重視で金融危機後も成長しているドイツを見れば 組織や中長期的な付加価値重視の経営の強さが分かる。 日本的な強みは取引先の企業や社員が協力し 信頼をベースに支え合う共同体的な組織風土ではないか。単なる契約関係ではない組織を築ければ それが新たな知恵や付加価値を生む。グーグルやフェイスブックなど米国の若い企業が組織重視の経営で好調なのは興味深い。 (日経 2011・05・30 朝刊8面) ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 社会あるいは国家との関係構造を合わせて捉えて行けば さらによいのではないかと考えます。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > (4) ここで《集団主義》考ですが もしこのように資本主義経済における行為主体を 自然人としての個人だけではなく 人びとの集団としてのひとまとまりにも人格を与えたかたちの法人もそれであると見るならば そこでは経済力の点では 法人のほうが個人よりも一層大きな役割を演じるようになるからには 人びとはそれぞれ《集団志向》である。という結果に 事実としてなるのは 当然だと考えられます。 残念ながら、人一人では、できることが限られているという社会環境を鑑みますと、当然、組織化した方が効率的かと考えられます。 > そのとき 日本人の社会では 歴史をつうじて《集団主義》なる個人としての行動形式も集団としての行動様式もがつらぬいているという見方は そのままでは飲めない。というように まだ思っています。 これは、愚見でございますが、例えば、村上ファンドの阪神買収等におきましては、「カネを借りられたから株を買った、というただそれだけで、ごく少数による人間が数十万人の人間を支配できるといった社会システムは、企業と市民社会には必ずしも益しない」ということを強く主張したかったものと考えております。つまり、“ステークホルダー”と“株主主権論者”という立場を明確化し、特に後者(基本的には“個人主義”かと思われます)のような行いを、強く批判すべく、主張したものと考えております。 従いまして、極端な“個人主義批判”と読めるのですが、いかがなものでしょうか。 > (5) それに集団志向を 経済活動をおこなうためによいとしてえらぶのは 一人ひとりの個人であるはずです。もし組織集団に属すよりは 個人として行動するほうが合っていると思う人は そのように振る舞っているはずです。 そもそも、組織を支えるのは、個人かと考えております。やはり、烏合の衆では、いくら組織化しようと無理なものは無理かと思われます。 また、個人主義という生き方を選択するというのも、もちろん、それは個人の自由でございます。 > (6) もし《集団主義》という言葉を用いるのなら 人を排除することなく互いにその生活を守り合って行こうというその考え方について言ったほうがよいかと思うのです。つまり 共生です。 共生の中で 集団志向もあれば個人志向もあるはずです。その集団志向でさえ 個人がそれをよしとしてえらぶのだと考えます。 確かに、“主義”として捉えるのは、愚生にも抵抗がございます。個人としての自由がまず存在した上での(憲 13条)、組織化(集団化)と考えております。 憲法13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 > (7) もしそれでも日本人は一般に何も考えておらず ただただ会社人間となって・その意味で集団主義的人間となって行動してきたのだと見た場合 それは お上志向の問題であると考えます。社会が二階建て構造になっていて 一階に住む人間は無力感におそわれていて 寄らば大樹の陰のもとに長い者には巻かれて行く姿をあらわしている。 これは 集団主義という規定で納得する心的現象でも社会現象でもない。こう考えます。 「ただただ会社人間となって・その意味で集団主義的人間となって行動し」、つまり、“社畜”と揶揄されるものかと思われますが、これは、“一形態”もしくは、“一現象”と解するのが妥当かと考えております。仕事よりも社内政治優先という方も数は少なくなりつつあるようですが、まだまだいるように思われます。 参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E7%95%9C > ☆ このプロセスについていくらか踏みこんでみました。 まづは 日本人は集団主義の一色ではないという確認が出来ましたなら それだけでもよしとしたいと思います。 了解致しました。 > いちゃもんをつけておいて 紹介してもらった参考資料を勝手に自分の田に水を引くかたちで利用するだけの議論に終わりますが・・・ いえいえ。(ご質問者様がある程度までは納得される)回答は回答者の義務かと思っておりますので、ご自由な発言をいただければと、そう思ってございます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 こちらからの物言いを拾って受けとめてくださった内容は そのまま全体の――《集団主義》考としての――まとめ もしくは 締めくくりになったかと思います。受けとめてくださったというのは ボールがコートに入ったかどうかそのライン上の出来ごとについての審判をきちんとおこなってくださったという意味になると思います。 〔これからも そのようなきわどい物言いを出すかとも――さらに広い社会現象についてみて心の中でくすぶるものが無きにしもあらずのように感じますので――思いますが 今回ここまで突っ込んだ捉え方ができてよかったと思っています〕。 農耕という作業にかんがみて その社会では《集団主義》になるという見方があります。 これは 個人としてもその田畑で仕事をするわけであり 水はけなどのことからほかの人びとないし田んぼとの兼ね合いを重く見るということも 個人の行動に伴なわれる。ということ。すなわち 個人志向もあれば集団志向もある しかもどちらも個人がおこなうものである。 ・・・くすぶりのひとつを取り上げました。 ★ ~~~~~~~~~ 「ただただ会社人間となって・その意味で集団主義的人間となって行動し」、つまり、“社畜”と揶揄されるものかと思われますが、これは、“一形態”もしくは、“一現象”と解するのが妥当かと考えております。仕事よりも社内政治優先という方も数は少なくなりつつあるようですが、まだまだいるように思われます。 ~~~~~~~~~~~ ☆ この主題について心に残りました。 今回の原発の事故は そこにいろんな社会現象が集中的に見られるようでもあり 考えさせるものがあるようにも思います。 福島原発の発電所長は 注水の中断を要請する本社の命令に従わなかった。《社畜》ではなかった。ということなのかどうか? あるいは古い話で 大企業が不祥事を起こすと その最高責任者が必ずしも責任を取るのではなく それほど権限のある者ではない担当の部下が 最後の手段として《自殺》します。そうして責任を取ったかたちとしました。 地位の上の者はいっさい知らず関与していなかった。つまりその一人の部下の単独犯行であるとする。だから 死んでおわびするというかたちなのだと。そういう幕引きの仕方がありました。 《会社は永遠だが 個人はそうではない。多くの人が責任を取って人材をむなしくするよりは 一人の人間が死んで世間におわびをし ゆるしてもらうかたちを取る。これが 最も合理的なのである》といった思想でしたか。 そう考えるなら むしろそのときにも《個人志向》は死んでいない。《掛け替えのない一人の人間》という存在が――この場合 どうしてもそこに行き着くという消極的なかたちでしか現われていませんが―― なかったわけではない。そういう基礎の上につくられている《集団主義》ではないか。 わたくしは 世間のすずめ談義によりますと 狭い料簡に閉ぢ籠り ひとの意見をもその自己の秘密の部屋に引き寄せ ひとり病いを篤くしているとのことのようです。 そこまで言わせたわたしは えらい。と勝手に褒めておきたいくらいです。 でも 批判を ひろくみなさんからもお待ちしたいと思います。
- littlekids
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相手の主張を詰るネガティブキャンペーン(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3)の文化は、東洋社会由来の表現技法と違いまして、欧米の伝統的な応対方法です。 これは既に常識になっています。
お礼
ご投稿をありがとうございます。 もしそうなら どうだということでしょう?
- littlekids
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言挙げを慎む「謙譲」の文化の下でのネガティブキャンペーンには、 独自性の存在が認められるのでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ネガティブキャンペーン ☆ とはどういうことですか? ★ 言挙げを慎む「謙譲」の文化 ☆ 《ゆづりあい》にもとづくやわらかさをとうとぶ人びとのあいだでも 必要に応じて言挙げをおこないます。 一般に言挙げを慎んだからと言って それが謙譲であるとか その謙譲の文化であるとかにはなりません。もしそうなら 発声の不自由な人びとが もっともへりくだる文化を持っていることになります。 また 同じくもしそうなら わざわざいちいちこのように ★ 言挙げを慎む「謙譲」の文化の下での ☆ どうのこうのと雀のさえづりみたいに 言い続けることはないでしょう。 ネガティヴもポジティヴもないはずです。おあいにくさま。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ★ ~~~~~~~ 戦時中、戦後の一時期は”集団主義”は存在していたものと思っております。 ~~~~~~~~~~ ☆ これは集団主義を通り超えて 全体主義あるいは軍国主義つまりあるいは統制経済という制度であろうかと思うのですが どうでしょう? 個人主義の対義語は、全体主義・集団主義のため、あまり言葉を厳密には選ばなかったのですが、仰る通りかと考えられます。英国はじめ、米国も戦争時は“全体主義”であったろうかと考えております。 > ★ ~~~~~~ そこで、戦後・・・ ~~~~~~~~~ ☆ たとえば野球というスポーツでは おのづとチームワークが必要であり培われていくと考えるのですが その敗戦後に国を再建するために 人びとが一致団結すること これはきわめて自然の行動であって ことさら集団主義という規定をすることも その規定と結びつけることも まだためらわなければならないとは思うのですが どうでしょう? 一時期、日本も「Japan as No.1 」と賞賛された時期があったかと記憶してございます。この際に、特に“集団主義”、”終身雇用制度”、”年功序列制度”さらには、”株式の持ち合い”が、日本の奇跡的な経済発展に寄与したことを、ヴォーゲル氏により紹介されたことが、日本での(一種の幻想としての)“集団主義”が特長付けられることになった最大の契機だったかと思われます。やはりこの部分は、(幻想の部分は多少あったにせよ)日本独自のシステム体系だったと考えております。 参考:http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1979.html > ★ ~~~~~ ”終身雇用制度”、”年功序列制度”、”株式の持ち合い”等でございます。 ~~~~~~~~~ ☆ 株式の持ち合い 今では、持ち株会社(ホールディングカンパニー、たとえば、みずほHD等でございます)は存在しておりますが、これは金融ビッグバン以降の話だったかと記憶しております(戦前の大財閥の経緯があったため、法改正が遅れたものと思われます)。ただ、上述のようなカンパニー制度と比較いたしますと、”株式の持ち合い”システムの方が、“集団主義”的要素が強かったと考えております。 > 終身雇用および年功序列のしきたりにつきましては もしおっしゃるようなことだとしますと それは・つまりそのときの《集団主義の存在》は おそらく結果として現われて来ているという側面も考え合わせて捉える必要がありはしないか。という物言いを持ちます。 仰られますように、「結果として」、“集団主義”のような行動様式が生まれてきたかもしれません。 > 日本は国民性も伝統として集団主義だから 終身雇用や年功序列の仕組みを採用したというのでは必ずしもないと考えます。 これは、史実かと存じます。“集団主義”なるものは、伝統としては持っていなかったと考えております。労組の力が巨大化したこと等による結果かと推察しております。 > その上で なぜか 結論が一致するのですが。 おそらく、プロセスの詳細が異なるのがその一因と思われるのですが..... 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん お早うございます。 ご紹介のサイトには 中身の煮詰まった見解が取り上げられています。 まづ先にむしろ 将来の展望にかかわった次の指摘をここでも掲げます。 (1) 情報通信技術の時代にあっていわゆる日本的経営は 人材の集結の仕方などにおいて合わなくなっているかも知れないという議論です。 ▲ (ときの話題と憲法:1979年 『ジャパン・アズ・ナンバーワン』 )~~~~~~ また、「終身雇用・年功序列・会社別組合を特徴とする日本的経営は、後期産業資本主義の至上命令だった機械制工場の効率的な運用に必要な組織特殊的人的資産をうまく蓄積するにためには最適な仕組みだった。これからポスト産業資本主義に変わっていくなかで、日本的経営は自らを変革することが困難になっている」との指摘もなされています(岩井克人「資本主義から市民主義へ」)。 すでに、情報などのソフト面を中心とした資本主義の時代になっているからです。個人を企業と政府・地方自治体(公共)のそれぞれがどの側面で支えるか、役割分担にも関係する、大きな課題です。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《市民主義へ》のあゆみにおいて《個人を支える》という発想だけでは 物足りないようには思いますが。つまり個人は 共同自治の主役であるはずだと。 (2) ただしすなわち その個人が主役だという考え方の社会制度化が試みられようとしていると言います。 ▲ ~~~~~~~~ 経済社会の中心となるべきは、やはり人間です(憲法13条)。 「日本の近代化は、軍事力、経済力と進み、そして最後の壁はルールとか法です。そこに挑戦するということは、非西洋国家・日本の国家的な課題、あるいは文明的な課題だと思います。人間中心の日本型モデルの理論構成は日本だけがやれると思うのです」(上村達男・金児昭「株式会社はどこへ行くのか」 上村発言)。 ~~~~~~~~~~ (3) 上の指摘は展望のみですが その展望のためにも それでは過去はどうだったかについてもむろん取り上げています。過去を振り返りつつ 何を残し何をどう変えつつすすむか。 ▲ ~~~~~~~~ ところが、近年の投機資本主義による世界的な経済危機は、資本主義の再構築を迫っています。 (あ) 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の背景となったのは、日本独特の「法人資本主義」であるという見方が大変有力です。戦後日本においては、個人が大量の株式を保有して会社を支配するという形態よりも、企業間の株式持ち合いや所有に基礎を置かない経営者が会社を支配するという法人資本主義の形態が取られてきました(奥村宏)。 (い) 岩井克人氏は、「良心も持たず、気まぐれ心も持たない法人という抽象的な存在が企業の所有者になっている方が、はるかに効率的で成長志向的だ。資本主義のもっとも純粋な形態でさえある」と述べています。(「資本主義を語る」)。 (う) 成長を長いスパンで実現するかどうかにも関る問題でしょう。法人資本主義については、内部留保を極大化させ、複数の産業部門に渡って国境を超えて支配分野を拡大する法人資本主義は、「個人を『法人』と呼ばれる自己永続的な組織に従属させるものになる」という警告があります(都留重人「日本の資本主義」)。 ~~~~~~~~~~~~~ (4) ここで《集団主義》考ですが もしこのように資本主義経済における行為主体を 自然人としての個人だけではなく 人びとの集団としてのひとまとまりにも人格を与えたかたちの法人もそれであると見るならば そこでは経済力の点では 法人のほうが個人よりも一層大きな役割を演じるようになるからには 人びとはそれぞれ《集団志向》である。という結果に 事実としてなるのは 当然だと考えられます。 産業の米が 鉄から なんでしょうか IC でしょうか に代わって来ているなら この集団志向は それ相応の組織をさらに新たにつくって対応して行くと思われます。 そのとき 日本人の社会では 歴史をつうじて《集団主義》なる個人としての行動形式も集団としての行動様式もがつらぬいているという見方は そのままでは飲めない。というように まだ思っています。 (5) それに集団志向を 経済活動をおこなうためによいとしてえらぶのは 一人ひとりの個人であるはずです。もし組織集団に属すよりは 個人として行動するほうが合っていると思う人は そのように振る舞っているはずです。そういう個人も――たとえば芸術家などの個人的営みだけではなく たとえば何でしょう 弁護士が挙げられましょうか そういった広くみての経済人としての個人も―― 全体の中で集団志向と交じわって集団志向の動きと同じく活かされているはずです。 (6) もし《集団主義》という言葉を用いるのなら 人を排除することなく互いにその生活を守り合って行こうというその考え方について言ったほうがよいかと思うのです。つまり 共生です。 共生の中で 集団志向もあれば個人志向もあるはずです。その集団志向でさえ 個人がそれをよしとしてえらぶのだと考えます。 (7) もしそれでも日本人は一般に何も考えておらず ただただ会社人間となって・その意味で集団主義的人間となって行動してきたのだと見た場合 それは お上志向の――つまり人びとにお上志向をもたらすような社会統治の方式の――問題であると考えます。社会が二階建て構造になっていて 一階に住む人間は無力感におそわれていて 寄らば大樹の陰のもとに長い者には巻かれて行く姿をあらわしている。 これは 集団主義という規定で納得する心的現象でも社会現象でもない。こう考えます。 (8) ★ ~~~~~~~~ > その上で なぜか 結論が一致するのですが。 おそらく、プロセスの詳細が異なるのがその一因と思われるのですが..... ~~~~~~~~~~~~ ☆ このプロセスについていくらか踏みこんでみました。 まづは 日本人は集団主義の一色ではないという確認が出来ましたなら それだけでもよしとしたいと思います。 いちゃもんをつけておいて 紹介してもらった参考資料を勝手に自分の田に水を引くかたちで利用するだけの議論に終わりますが この異端の反逆児スサノヲにもおつきあいをいただき すみません ありがとうございます。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ★ 年功序列 ☆ につきましては 取り敢えず次の点を覚え書きします。 光栄に存じます。 > ★ 日本株式会社 ☆ についての議論です。ただし 以下はぶらじゅろんぬによる要約に過ぎません。 この文章をお読みの方々のために、おまとめくださいましたこと、厚くお礼申し上げます。 > 分析視角としても全体の認識としても 個人主義とそれに対する集団主義といった見方は 果たして現実をただしく捉えたものであろうか? おそらく、戦時中、戦後の一時期は”集団主義”は存在していたものと思っております。 ですが、戦時中は、食うか食われるかの世界ですので、一致団結が当然必要になろうかと推察されます。例えば、戦勝国の英国も、従来の政党政治をいったん放棄し、挙国一致内閣(チャーチル内閣)を結成したかと記憶しております。従いまして、この時期も別段、日本のみが特異的な存在であったとは考えにくいかと思われます。 そこで、戦後なのですが、ここには、確かに日本独特の集団主義が存在したかと考えております。”終身雇用制度”(従業員の会社への忠誠心を惹起させるのに成功したかと思われます)、”年功序列制度”(いつかは自分も偉いさんになって、高給取りになれるとの期待感を従業員に抱かせたかと思われます)、”株式の持ち合い”等でございます。 そもそも、焼け野原の中で、国を再建させるには、どうしても、”集団主義”的な行動は必要なものだったのかもしれません。 以上の日本独自のシステムが、一時的にせよ戦後経済の発展に寄与した可能性が高いとの評価が得られたため、”集団主義”が日本独自の特徴とみなされるようになったものと考えております。 これらを踏まえますと、日本におきましては、”個人主義”とそれに対する”集団主義”という、二元論的発想は決して正しい見方ではないものと考えております。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 今回は ドクターひどっちに疑問をぶつけてみましょう。 ★ ~~~~~~~ おそらく、戦時中、戦後の一時期は”集団主義”は存在していたものと思っております。 ですが、戦時中は、食うか食われるかの世界ですので、一致団結が当然必要になろうかと推察されます。例えば、戦勝国の英国も、従来の政党政治をいったん放棄し、挙国一致内閣(チャーチル内閣)を結成したかと記憶しております。従いまして、この時期も別段、日本のみが特異的な存在であったとは考えにくいかと思われます。 ~~~~~~~~~~ ☆ 揚げ足取りという以上にいぢ汚い疑問ですが これは集団主義を通り超えて 全体主義あるいは軍国主義つまりあるいは統制経済という制度であろうかと思うのですが どうでしょう? つまりイギリスの事例が出されているごとく 日本においてあたかも一国の国民性と結びついたかたちとして見られるような集団主義であったかと言うと そういう歴史的な伝統であるとはただちには言えない――こういう断り書きが必要であるように思うのですが どうでしょう? ★ ~~~~~~ そこで、戦後なのですが、・・・ そもそも、焼け野原の中で、国を再建させるには、どうしても、”集団主義”的な行動は必要なものだったのかもしれません。 ~~~~~~~~~ ☆ たとえば野球というスポーツでは おのづとチームワークが必要であり培われていくと考えるのですが その敗戦後に国を再建するために 人びとが一致団結すること これはきわめて自然の行動であって ことさら集団主義という規定をすることも その規定と結びつけることも まだためらわなければならないとは思うのですが どうでしょう? ★ ”集団主義”的な行動 ☆ という表現にとどめてもらっていますところを ごり押しにて。でもその内容の説明では さらにその先へと一歩をすすめておられます。 ★ ~~~~~ そこで、戦後なのですが、ここには、確かに日本独特の集団主義が存在したかと考えております。 ”終身雇用制度”(従業員の会社への忠誠心を惹起させるのに成功したかと思われます)、 ”年功序列制度”(いつかは自分も偉いさんになって、高給取りになれるとの期待感を従業員に抱かせたかと思われます)、 ”株式の持ち合い” 等でございます。 ~~~~~~~~~ ☆ 株式の持ち合いは ドイツなどでは 持ち株会社として企業グループをつくっているのに対して そのような《本社》がないかたちで日本では 企業集団をかたちづくっていると言います。つまり外国との比較ではことさら集団主義をこの事例に見ることも 行き過ぎであるかも知れないと思います。 終身雇用および年功序列のしきたりにつきましては もしおっしゃるようなことだとしますと それは・つまりそのときの《集団主義の存在》は おそらく結果として現われて来ているという側面も考え合わせて捉える必要がありはしないか。という物言いを持ちます。 どういうことか? チームワークを重視した。しかも一人ひとりがその方針で行こうと納得した。その結果なのではないかという一つの見方です。 結果として集団主義のような・個人個人の行動形式も集団としての行動様式も実現されて来ているのでしょうが チームワークの野球であるからそれは集団主義だとは言えないと思います。個人個人の質とわざとによってチームワークも培われるものと考えます。 日本は国民性も伝統として集団主義だから 終身雇用や年功序列の仕組みを採用したというのでは必ずしもないと考えます。国の再建・成長のためにその仕組みをえらび取ったという見方を捨てがたい。 その枠組みを枷のごとくはめられたと見るとしても もしそう見るのでしたらそのときには 人びとは集団主義をもともと国是としていないし 歴史的な伝統としての国民性とも思っていないらしい。となります。 すなわち 歴史と現実がすべて集団主義であったと仮りにしましょう。そうであったとしても その集団主義が 日本人一人ひとりの心においてわが人間性の一部であるとは思っていないということ。このことの確認だけで わたしはじゅうぶんだと思います。そういう物言いです。変な感じですが その確認は重要だと思います。 その上で なぜか 結論が一致するのですが。 ★ ~~~~~~ 以上の日本独自のシステムが、一時的にせよ戦後経済の発展に寄与した可能性が高いとの評価が得られたため、〔* そこでその期間に結果として実現して来たところの様相としての〕”集団主義”が日本独自の特徴と〔* まちがって・つまり歴史的伝統だと正面から唱えるならばまちがって〕みなされるようになったものと考えております。 これらを踏まえますと、日本におきましては、”個人主義”とそれに対する”集団主義”という、二元論的発想は決して正しい見方ではないものと考えております。 ~~~~~~~~
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本来の小規模な集団の中では経験を共有し得る機会が比較的に増えやすくなりますので、古来の日本社会では自己主張を謹む傾向が有った様ですから、(意図的なのか否かに関わらず)言葉を省略する文化が出来上がったのだろう、とよく指摘されていますが、御存知でいらっしゃらないですか。 こういう事情は好き嫌いの対象ではないですよね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▲ (人麻呂歌集 13巻3253番) ~~~~ 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸(さき)く ま幸くませと 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒礒波 ありても見むと 百重波 千重波しきに 言挙げす我れは ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえばこのように 《ことだま(事霊⇒言霊)のさきはふ国》ゆえに言挙げはふつうはしない。けれどもいま 外(と)つ国に行く友にはなむけの言葉を語るには 言挙げもするのだと。 すなわち ★ 御存知でいらっしゃらないですか。 ☆ とまさにおっしゃるように 言挙げは しかるべきときには するものなのです。 ★ こういう事情は好き嫌いの対象ではないですよね。 ☆ という第二弾をも用意されたようです。 もしなおも不審でいらっしゃれば この《しかるべき時》とは どういう時を言うのか。あるいは いまこのように質問者が質問しているこの時は しかるべき時に当たっているのか。こういう議論に入ろうかと思われます。 どうぞ しかるべき事案であるとおぼしめされれば しかるべく言挙げしてください。 * あたかも小学生にさとすように言っているかも知れませんが これは好き嫌いや故意の問題ではなく大事であれば 仕方のないことですから ご海容のほどをお願いいたします。
- JidousyaGaisya
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あくまでも第三者達もが利用し得るサービスである事情への諒察を自発的に必要条件へ盛り込んでいませんと、周りから誤解され兼ねない、と思われませんか? 第三者達をも含めて御互いに勿体無くなる、と思います。 因みに、此の遣り取りと関係無く、 常識として申し上げますが、此のサイトへの入力もが、 サーバの遠隔操作では御座いま【せん】でして、 クライアントソフトの画面のデータを通信回線経由で遣り取りさせているだけです。 (『拡張子』の説明で登場しました【アプリケーションソフトウェア】の画面の文字データに過ぎません。) 従いまして、サーバの機能への働き掛けを、 クライアントPCのユーザーが経験することは【不可能】です。 ※経験させない様に制御しているのは【(OSI参照モデルの)プロトコル群】です。 だからこそ、【非思考】の概念の喩えに近似しているのだろう、 と考えてみたのです。 それ程に詳しい説明が必要になるとは思っていませんでしたから、 御容赦を御願い申し上げます。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
SNSには大衆向けの応用の為の投稿が期待されている、 という本来的な目的を申し上げたいからです。 つまり、SNSはアーカイブと同じ発想に基づいています。 確かに、某資本主義国家の軍事目的の発想の都合で、 最初からインターネットには管理者が存在していませんが、 クラウド技術と同じく、多数の第三者にも読んで頂く、 という発想が投稿に盛り込まれていませんと、収集がつきません。
お礼
ぢゃあ――ご回答をありがとうございます――下種の勘繰りでしょうか。 回答を寄せてください。 これですべてに答えています。
補足
★★ ~~~~~~~~~ <哲学カテでは ほかのカテと違って たとえばこれこれの著書を書いたのは誰であるか おしえてといった質問はあり得ないと言ったほうがよいでしょう。> どうも、是は誤解の様です。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ どう誤解なのですか?
- JidousyaGaisya
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<哲学カテでは ほかのカテと違って たとえばこれこれの著書を書いたのは誰であるか おしえてといった質問はあり得ないと言ったほうがよいでしょう。> どうも、是は誤解の様です。 SNSは個人の意見の纏めの場と違います。
お礼
どう誤解なのですか?
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お礼
ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 年功序列 ☆ につきましては 取り敢えず次の点を覚え書きします。 ○ 江戸時代には 身分制(石高による序列)とそして幕末になるにつれてその身分制と併用のかたちで採用された能力主義による人材登用(足(たし)高制)とがあった。 ○ これが 明治維新ののち 官僚における身分制度や俸給制度に変わり それとともに非公式に昇給が年次によるものとなったと言います。 ▼ (年功序列の起源) ~~~~~ http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/73e3c4eb679bde621cbd302b980b8255 では日本の年功序列は、どこから生まれたのだろうか。 笠谷和比古氏によれば、徳川幕府にも年功序列はなかったという。武家の序列の基準は≫石高≪だったが、幕末には財政が苦しくなり、管理能力の高い下級武士が昇進するようになった。 たとえば勘定奉行として日米修好通商条約を結んだ川路聖謨の家は、「御家人株」を買って武士になった町人だった。勝海舟の家も、無役の最下級武士だった。 このような能力主義を可能にしたのは、徳川吉宗のつくった≫足高(たしだか)制度≪だった。 これは本来の石高とは別に、能力に応じた足高が加算され、形式上の序列(石高)とは別に、実質的な能力主義による俸給制度にするものだった。 つまり年功序列は、家柄とは別の経験や功績による序列だったのである。 ところが明治時代に官僚制度ができたとき、高等官/判任官の身分制度や15段階の俸給制度ができ、≫昇給は年次によるものと(非公式に)定められた≪。これが戦後も実質的に継承され、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 日本株式会社 ☆ についての議論です。ただし 以下はぶらじゅろんぬによる要約に過ぎません。 ▲ (《日本株式会社》論) ~~~~ http://lecture.ecc.u-tokyo.ac.jp/~ctshimiz/keieiseisaku/Ch7-9.pdf §1 政府ー企業間システム 1. 業界団体 および 審議会 を通じて 行政当局(通産省など)と連携する。 2. 審議会は 学者等の第三者の識者を交えて産業政策などを正当化し権威づけるらしい。 3. 業界団体は むろん各企業のあいだの意見や行動を調整する。 4. さらには 産業間の調整をもおこなう。ただし 三輪・ラムゼイヤーの研究によると この場合の資源配分などについて 調整がそれとして認識しうるほどに成されたかは 疑問とされている。 5. 産業の保護あるいは 競争力の向上のために国家としての産業政策そのものは どの国でもおこなっている。⇒ご回答での引用箇所( c )。 6. いわゆる《ギョーセーシドー(行政指導)》も 政府行政当局が非公式に業界と接触し その意向を伝えることとしては どの国でも起こりうると見られる。⇒同上の引用箇所( c ) 7. 政府は 詳しい情報を持ち合わせているのではなく 産業や経済の将来をただしく予測できるわけでもない。 §2 日本型企業システム 8. ステークホルダー別に 従業員(雇用システム)・債権者(金融システム)・株主(ガバナンス・システム)・サプライヤー(サプライヤー・システム)・競争相手(市場メカニズム)・政府(政府‐企業間システム)と区分した構造の中に位置づけられる。 9. 日米のあいだで差があるのは ホワイトカラーとブルーカラーとの扱いの違い(日本は扱いが同じ アメリカは違いがある) 早い選抜の有無 企業別労働組合と産業別組合の違い 後者の基盤の違いである。そのほかに雇用期間などで相対的な差が認められるというかたちだ。 10. 金融システムにおける《メインバンク制》にかんして その長期的・複合的な関係は ドイツと日本とで強い。アメリカとの差は 地方の銀行で 株式持合いなどの複合的な関係は持たないものの 長期的な融資関係は保つと見られるといったところにあるようだ。 11. ガバナンス・システムとして 株式の持ち合いが比率としてそれほど高くなく 外国において持ち株会社のもとに企業グループを構成する場合と日本において相互に利害関係をもって取引したり共同で投資したりして協調する場合との違いであるようだ。 12. 監視機能は どの国の企業でも形骸化が言われているようだ。 13. サプライヤーシステム。⇒ご回答の引用箇所( b )。 14. 市場システム。価格競争ではないが 業界標準をめぐる協調の入り混じった競争 あるいは 新製品開発をめぐり競争相手の思考の枠組みをまなび それに応じて自分の思考の枠組みを変えて行くというような対話としての競争が行なわれている。同質的な競争であるかも分からないが ほかの国と明らかな差があるとは見られない。 15. もし違いがあるとすれば 《企業間の関係の長期性》 および《それにもとづく濃密なコミュニケーションと調整》 これらが日本における相対的な意味での特徴であると言えるのではないか。あるいはまた 《対話としての競争》が取り上げられよう。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらの事情において 《集団主義》といった規定が適切であるだろうか? 分析視角としても全体の認識としても 個人主義とそれに対する集団主義といった見方は 果たして現実をただしく捉えたものであろうか?