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誰とも気が合わなくなってきた
この哲学カテが好きで、興味を持つようになり、少ずつ勉強するようになりました 普段の生活でも疑問や不思議に思うこと等があれば、私の場合は紙に書き出すと頭が整理されるので、そうするコトにより大抵のコトに納得できるような癖がついてきました とても心も軽くなり生活しやすくはなったのですが、以前は熱中出来ていた他人との議論や相手を説得しようという行為などが出来なくなりました 説得というと聞こえは悪いのですが、それを通じて相手とのコミュニケーションを図るという意味合いでもあります 人間は結局は分かり合えないし、この人に分かって貰った所でそれが何だって言うんだろうか? と、とてもつまらない意見に落ち着いてしまいます 私は自己中心的なのは嫌いなので会話で人に楽しんで貰うというのも人と接する時には重要なコトだと考えています しかし、それが出来なくなり、以前は話しも好きで積極的だったのに今ではそれもわずらわしく思い相手もつまらないだろうな・・・等と気をつかうようになり、それならばと結局は一人でいる方が気楽で良くなってきてしまいました それが真理かどうかはさておき、物事のある程度の結論が自分の中で出てしまうと、積極的に人の輪に入っていくのが難しくなると私は感じたのですが、このカテの皆様はどうですか? またどうやってそれらを両立していますか?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 部分的な反応です。 ★ それが真理かどうかはさておき、物事のある程度の結論が自分の中で出てしまうと、積極的に人の輪に入っていくのが難しくなると私は感じたのですが ☆ これは ぎゃくではないでしょうか? その意味は ★ 物事のある程度の結論が自分の中で出てしまうと、積極的に人の輪に入っていくのが ☆ ふつうであり そこで互いに対話をおこなう。のだと。 ★ 積極的に人の輪に入っていくのが難しくなる ☆ というのは その自分のくだした結論が すでにマチガイのない内容であると 自分で決めた結果だと思われます。 ★ それが真理かどうかはさておき ☆ というのは ふつうの謙遜であって じつは真理だと思っているのだと思われます。 決められないでいるという場合にはもちろんですが そう決めた(真理なる結論に到った)という場合にも 勘違いやマチガイはつねにあると つねに心得ているのが ふつうではないでしょうか? ですから つねに話し合い またまた話し合い いやそれでも話し合い まだまだ話し合い・・・となるのが ふつうではないでしょうか? もし仮りにほんとうに真理に到ったとすれば たとえ ★ 誰とも気が合わなくなってきた ☆ としても それだけのことだとなるはずです。おまえたちは おれの得た真理を知らないんだから 仕方ないよな。で おしまいです。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
もし、自分の認識が一般常識からかけ離れたなら、他人を説得しようとするなど、余計なお世話です。 社会は、お金や宗教など、非本質的な原理によって動いている以上、そのまま幻影の中で生きていた方が、幸せかも知れないのだから。 (説得した方が良くなるのは、そうした拝金主義的な社会制度を改め、子供の頃から自律的生を教育する体制が整ってから) 「人と交流をしたい」なら、そうした原理的な話ではなく、方法論において、幾らでも話すべき事があるはずです。 原理的な主張がしたければ、目の前の相手に対する説得ではなく、どこかにいる自分の言う事を理解できる(&理解したい)人に向かって、不特定多数に対して発信すればいい。
あなたの気持ちはよくわかります。 ぼくも、かつては議論好きでしたが、今はキライです。 けっきょく、すべての価値観ってのは、好き嫌い。 「自分が正しい」なんて考え自体が、傲慢だと気づいたからです。 さて、それではどうするかですけど。 まず、ひとりを楽しむのもひとつです。 ひとりで自分を磨いて、ごくまれに会える話の合う人と 切磋琢磨する。 まぁ、万人受けしたいなら、みんなの話題に合せればいいのです。 たぶん、あなたの場合、「その話題になんの意味がある?」なんて 言い出しそうですけどね。(笑) コミュニケーションに興味ないなら、ムリすることはないのです。